間違へてみどりに塗つたしまうまが夏のすべてを支配してゐる
『世紀末くん!』
なかはられいこ(川柳展望・ラエティティア)
荻原さんと知り合って八年か九年になる。
知り合ってまもなく頂いた『青年霊歌』を読んで「このひとはこんなに若いのに、こんなにいろんなことが見えてしまって、この先ちゃんと生きてゆけるのだろうか」と、まだ二十代だった青年のこれからを本気で心配してしまったことであった。
そんなことやあんなことをいま、ぽぽぽぽと思い出しながら書いている。

第一歌集の『青年霊歌』からこの歌が掲載されている第四歌集の『世紀末くん!』まで、荻原裕幸の歌を通じてわたしが受け取るものは、ある種の「せつなさ」である。
「ぽぽぽ」とか「RRRRR」とか、いくらアバンギャルドに形を変えて呟こうが、超日本語を駆使して語ろうが、一首を読み終えたあとはせつない気持ちがひたひたと波打ち際の小石を濡らす。

ところで、せつないという感情はなかなか定義しがたい曖昧で高度な形容詞であると思う。ほんのり甘くて、ほんのり苦くて、しょっぱい。
悲しいと辛いと苦しいと痛いを少しずつ足してブレンドすれば多少は近くなるのだろうか。そういう一筋縄ではいかない複雑な感情を読者に手渡すこともまた、なかなか高度な技ではあると思う。

さて上記の一首。
この歌を読むたびに、わたしには村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に出てくるねじまき鳥の、ギィー、ギィーという鳴き声が聞こえてしまう。
どこかが決定的に間違った世界に生まれてしまった生の、それでも二度とやりなおしのきかない生を、憂鬱一色に塗り込めてしまわないために荻原裕幸は歌を書きつづけているのではないだろうか。
「夏」とは輝かしいもの、光り溢れるもの、瑞々しいものの喩えであろう。あるいは人生の夏そのものを表わしているのかもしれない。そういったいちばんおいしい時間のすべてを他者に支配されているという自覚。しかもライオンやトラに、ではなくて「しまうま」に、であるところにも注目したい。世界に対する違和感は歴然としてここにあるのに、正々堂々と戦おうにも相手は温厚で友好的な外見をした「しまうま」なのだ。それは穏やかな不幸とでも呼びたいようなものである。

わたしが荻原裕幸という歌人に感じるせつなさは、そういう世界のからくりを自覚してしまったひとであるにもかかわらず、いや、だからこそ、穏やかな不幸に耽溺することを自らに許さないという姿勢にある。そういう彼のささやかでまっとうな抵抗の爪跡を目にすることのせつなさなのである。

ねじまき鳥がギィーと鳴いて、わたしはスコーンと抜けるような夏空を見上げる。
青い空、白い雲、さわさわと風に揺れる木々、世界はときどきあきれるぐらい美しい。


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