この八月の街をみづいろ前線がとほる痛みのかけらがぼくだ
『世紀末くん!』
千葉聡(かばん・ラエティティア)
1 しわしわになった短歌雑誌と青空の関係

 休日の午後、友達の引っ越しを手伝った。彼は古いレコードをたくさん持っていて、朝からずっと、レコードを緩衝剤入りの箱に詰めるのに熱中していた。僕は「レコード以外」担当で、彼の指示を待たずに手当たり次第に何でも段ボールに詰めていった。夕方になって、彼のお兄さんが軽トラックを運転してきてくれたとき、レコード整理は、まだ終わっていなかった。僕は何もすることがなくなって、段ボールからはみ出しそうになっていた雑誌を何気なく手にとってみた。なぜかしわしわの角川『短歌』だった。荻原裕幸の作品を見つけて一読し、顔をあげて深呼吸してからまた読んだ。繰りかえし、繰りかえし読んだ。
「お前、短歌なんて読むんだな。でも、なんでこんなにしわしわなんだ?」
 レコード担当者は、レコードジャケットを拭きながら答えた。
「歩いていたら急に雨が降ってきて、濡れちゃったんだ」
 僕が「?」の沈黙を守っていると、彼は嬉しそうに言った。
「いい短歌を見つけると、その本をかかえて街を歩いてみたくなるんだよ」
 ああ、その気持ちはなんとなくわかる。僕はレコード整理が終わるまで、その雑誌をかかえたまま、窓から空を見ていた。


2 荻原裕幸は「ぽぽぽ」とか「▼▼▼」とは言わなかった

 その後、はじめて荻原裕幸に会った。好青年だった。口をひらくと礼儀正しくあたたかく、とろこどころ面白い言葉が出てくる。彼は決して「ぽぽぽ」などと言いだしたりはしなかった。
 僕は早速、荻原の顔写真が載っている本をいろんな人に見せて歩き「この人に会ったんだよ」と自慢した。当時仲のよかった女の子は、すぐに荻原ファンになった。
「この人は変わった人で『ぽぽぽ』とか『▼▼▼』という短歌をつくるんだ」
僕がそう説明しても、ファンは動揺しない。
「この人なら、何を言いだしても許せる」
 彼女は僕の本棚から『あるまじろん』を持ち出した。ある日、帰還した『あるまじろん』を手にとると、カバーが少ししわになっていた。


3 「みづいろ前線」を目撃したくて

 荻原裕幸の生みだす超日本語が僕の中に染み込んできた。僕は「みづいろ前線」を見たいと思うようになった。
 掲出歌中の「痛み」というのは、生きていく上でのちょっとした違和感のことだろうか。人は誰でも違和感を覚えるたびに少しずつ方向を変えてよりよく生きていく――と解説してみると、大げさでおかしくなってしまう。けれど、この「痛みのかけら」は大きくもあり、小さくもあり、読者一人ひとりのかかえうる大きさで素直に読まれる表現だ。人類全体(世界全体)がかかえる「痛み」というものがあり、その「かけら」はたしかに「僕」のものである、そんな構造にも読める。
 気になるのは「みづいろ前線」だ。実体はないが、とにかく人の想いよりもかなり大きなものなのだ。「前線」は当然、「梅雨前線」や「桜前線」のような前線である。「みずいろ」に世界を一新してしまう、巨大なエネルギー。その最初の変化を鮮やかに描写する。
 この夏は、『あるまじろん』や『世紀末くん!』をかかえて街を歩いてみよう。歌集は少し、しわしわになるだろう。僕は気づかぬうちに「みづいろ」に変えられてしまうかもしれない。(でも、きっと変えられたことには気づかないのだろう)。
 いつか「みづいろ」になったとき、僕は今までより周囲をリアルに感じるようになるだろう。そして、僕サイズの痛みを覚えたあとでは、今までよりも少し生きやすくなっているだろう。


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