触れればぼくの何かが切れるきみの手は永遠細工なのであらうか
『永遠青天症』
玲はる名(短歌21世紀、ラエティティア)
 みなさんは『ウォーリーを探せ!』という絵本を知っていますか。荻原氏がときどき「ウォーリー」に思えることがあるのです。「ウォーリー」と「荻原裕幸」このふたりの関係性を感じるのはなぜだろう。

 眼鏡と杖。赤いボーダーのシャツ。細かく描かれた民族や世界の人びとの中で、彼は決してでしゃばらず、仰々しくせず、しかし、かならず彼は、存在している。ページを開けば必ずそこに存在する不思議。

 彼が存在する楽しみ、彼が与えてくれる喜びは、二次元や三次元から催されるものではなく、<二次元プラスα>ないし<三次元プラスα>の世界観からくるものである。

 わたしたちが普段住む<日本>と、世界中の人びとが住む<世界>を繋ぐ案内役的存在が、ウォーリーということになる。

 荻原作品で言えば、<今、ここ>と、現代社会やもっと本質的であるところの<他者>との接点をわたしたちに与えてくれるのではないか。

 この歌の「永遠細工」にも、二次元でも三次元でも四次元でもない「ぼく」と「きみ」との不思議をわたしは感じ取ることができる。

 夢前案内人になるには、それないしの条件があるはずだ、ミッキーマウスも、キティーちゃんも、ウォーリーも、荻原裕幸にも。


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 ひとつには世界に対する恣意を感じない。多くの歌に感じることなのだが、一見、<受身の男>である印象を持つ。実際に「ぼく」は<受身の男>だとはまず考えられない。

 この歌においての「永遠細工」はどこからくるのか。恋人でも誰でもいいが、「きみ=他者」が触れることにより、「ぼくの何か=完全な自己(と、わたしは解釈する)」が切れる。

 この事実への答えが「永遠細工」。これを解くためには、歌の中に出てくる他のどの言葉よりも「完全な自己」という概念に対比させるのが理解しやすい。<完全×永遠>。いずれも、叶いがたくまた強烈に美しい思想的存在である。

 他者からの影響をそのまま歌に留めて、それに対する、<喜怒哀楽とは質の違う感情を言語化>し得ている。


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 <完全×永遠>。これはそのまま死生観と捉えてもいいだろう。死。無限に広がる時間と世界において、<今と自分>を点滅させる合図を、彼の言葉は持っていて、それが歌に対して新たな次元を与えている、ないしは、現在ある次元に付加価値を与えている。

 「切れる」も脅迫力のある単語だ。普通、自分のなにかが切れれば、人間なので痛いだろう。しかし、メロンやスイカが切れてうれしいように、この歌の中で使われている「切れる」は他者への大きな期待が感じられる。

 切ることによって、「完全な自己」が損傷することへの懐疑心や防衛意識。その後に、新たな自己の可能性を予期し、場合によっては歓迎するかのような心の動きがそこにはある。


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 などなどである。
 荻原作品は現実世界に小さなブラックホールを空けて、アナザーワールドを見せてくれる。

 あと、荻原氏の歌に<現場>に踏み出していないと感じるものが多くある。<受身の男>にも繋がる話なのだが、興味を持っても<現場>へ直行しないのである。自分のいるところ、存在するべき世界において、すべてが完結しているようにも思えるのだが……。

 「温度のある言葉は偽物」と全歌集『デジタル・ビスケット』の帯に書かれたひとことの真意を掴むことは、今のわたしにはできない。

 少なくとも、歌の上で、荻原裕幸その人自身の心は熱く、取り扱うテーマなどは、時代や世界に対して進撃であることに間違いはない。

 時代との失恋とでもいうべきなのか。なにかが麻痺しているようにも思える。

 言葉の選択の問題に立ち返った場合、荻原氏は自分の「存在」への意識を常に持っている。そして、自らの存在において、世界はすべて均等で、言語上での優劣を排除していると思わせるような「永遠細工」などの言葉が生まれるのではないか。

  象の気配がいつもあるから禁煙を勧める人がオフィスにゐない

              時代は猫の髭を越えて 『世紀末くん!』

 荻原氏の歌は時制の差替えはないが、場所と物の差替えが多い。それが、読み進めるのに難儀な場合もある。心の比喩や具現ではなく、抽象化。世界を平面で捉えることで、世界全体に均等の体温を認める。それが夢前案内人の条件。

 夢の世界に足を踏み入れるのは麻薬的に楽しい。

 遊びに行きたい。


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