フロリダに行く途中だといふやうな顔して眠る、どこで目覚める
『永遠青天症』
岡田幸生(ラエティティア)
掲出歌は『デジタル・ビスケット』(沖積舎)のなかの未刊歌集『永遠青天症』にある。こんな歌が好きだ。眠るような歌が好きなのだ。眠りの描写に裏打ちされて、三十一文字が陶然と眠っている。手のとどくところで眠る恋人に、しかし手がとどかない。そうして歌人は途方に暮れている。

  ふたたび日曜日が そうして
  ふたたび月曜日が
  ふたたび曇り ふたたび晴れ
  してその先に何がある?

これは谷川俊太郎『六十二のソネット』のなかの「四 今日」の一節だ。『六十二のソネット』は明晰な不在にみちている。この感覚は荻原作品に通じているだろう。そうして同じように明晰であるにしても、荻原作品はニュアンスに富んでいる。練れた修辞に三十一文字がけむっている。

やわらかい色調の優美な世界だ。ピアノが流れてくるようだ。夭逝したシューベルトの、たとえば最晩年の「楽興の時」第二番変イ長調。主部の記憶の壁を思わせる旋律が、また中間部の淡淡とした調べが、気絶するほど美しい。「楽興の時」とは「音楽的瞬間」というほどの意味である。

痛く惹かれる歌はきまって途方に暮れている。きまって陶然とさせられる。浮世で痛めた翼が慰藉されるのだろうか。ヒトの翼はたえずひかりの尾をひいている。たえずどこかにむかっている(むかわないでは落ちてしまう)。陶然として眠ってしまうような歌がいい。ひととき方向を忘れさせてくれる。そうしてひととき不在になる――それは正確に歌人の内奥に共振するということだ。優美な不在の歌に不在にさせられる。

  噴水のぐんぐんのびてはたと止む繰り返し見る、何が見させる
  カーテンを開けて雲散する何か、夢と呼びならはせば夢なり
  旅行ガイドに指を挾んだままバスの睡りの底にひろがる大和
  十代の日の海王星に棲んでゐた少女のかほを想ひ出せずに
  真つ白な雨に阻まれ、でも夏のどこへ向かつてゐる午後なのか

いずれも『永遠青天症』のなかの秀歌だ。いずれも途方に暮れている。掲出歌と同じように、ひととき方向を喪失したさびしさが記されている。このさびしさは、たとえば午睡のはてに目覚めたときのかなしさに似る。微量とはいえない量の陶酔をおびている。

  時には数え切れない程の楽器が一度に揺れ動くように鳴り出して、
  でも、それが耳の傍でかすかに響くだけだ、時には歌声が混じる、
  それを聴いていると、長いことぐっすり眠った後でも、
  またぞろ眠くなって来る――そうして、夢を見る、
  雲が二つに割れて、そこから宝物がどっさり落ちて来そうな気になって、
  そこで目が醒めてしまい、もう一度夢が見たくて泣いた事もあったっけ。

これは『あらし』第三幕第二場、怪物キャリバンのせりふ(福田恆存訳)だ。この魔術的音楽的な最後の戯曲で、シェイクスピアはミラノ公プロスペローにも「我々は夢と同じ材料で出来ていて、我々の小さな生涯は、眠りで囲まれている」(吉田健一訳)といわせている。そうして集中の荻原作品に類縁を見出して、またしても陶然とすることになる。

  カナリア株式会社と聞いて想ひ出すものの総てを想はずにゐた
  プリオシン海岸でマントを着たらぼくの誓ひの主旨がわかるよ
  不幸せではないけれどケーキ食べすばやく睡魔くるクリスマス
  恋人をときどき恋愛者と呼んでアイスキュロスの洞窟に棲む
  パスタ巻く指先を見て夏だねと告ぐいづこよりその夏は来る

作品は乾坤を離れ、しかし別の乾坤には着地しない。どこからも遊離している。この無重力の感覚は、やはり不在の所産だろう。不在が三十一文字を形成し得ているところに、えもいわれぬ魅力がある。そうしてここにはカタカナの愉悦がある。カタカナの固有名詞が周到に配されたときの、詩語としてのおそるべき輝きはどうだろう。掲出歌しかり。


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