プロコフィエフの音符を咽喉につまらせた感じだらうか三十歳は
『世紀末くん!』
佐藤弓生(かばん)

  そのときおれは三十歳だった。もはや二十九歳ではなく、まだ三

 十一歳ではなかった。要するに、純粋に若くはないがそうかといっ

 て年寄りでもなかったということだ。そういうところへ来たことで

 おれはホッとした。何か焦りのようなものが消えたような気がして

 いた。緩衝地帯、そんなふうにも思えたものだ。――だが、おれが

 踏み込んだのは、安息などといったものとは縁の遠いところだった

 のかもしれない。        岡崎祥久「孤独のみちかけ」

 荻原氏の短歌や文章には、年齢を示す語がかなりの割合で出てくる。それは老いのプロセスを嘆くためではなく、自分のいる位置を常に確認しておこうとする旅人の意図に近いように見える。〈われら二人あはせて齢(よはひ)壮年のいやはてなればこころ冷えたり〉(『青年霊歌』)では、作者個人は年齢的に壮年上限までの折り返し地点にいたのであり、〈三十代のみどり静かにみちわたり微かにぼくがゐることを識る〉(「ポケットエンジェル」)ではすでに三十路の並木道を歩いている。あたかも自分の死の日時まできっちり把握している人が「今日は一生の何日目まで来た」と日誌をつけているようだ。『世紀末くん!』はとりわけタイトルが年齢を超えた年代意識をも語っているが、加えて、固有名詞(人名)の使用もこれまで以上に目立つ集である。こちらもまた、博覧強記な大人ぶりを誇示するためではさらさらなく、古今東西の人々で周囲を固めることによって自分の立ち位置を確かにするといったニュアンス、と私には読める。
 年齢表示と人名のクロスする好例が掲出歌だ。プロコフィエフのイメージとは? どんな人物か知らなくても、日本人にとってこれはかなり変な響きの名ではなかろうか。音楽の授業で習った「ピーターと狼」の旋律を覚えている人なら言うだろう――ああ、あの滑稽な曲。エイゼンシテインの映画『アレクサンドル・ネフスキー』を観た人には、英雄が英雄たるクライマックスに腰の力の抜けるような曲を付した音楽家と認識されているかもしれない。音楽辞典を少し繙けば、人の悪そうな音楽をいたって誠実に書いていたこと、二十世紀の作曲家ながら古典主義者であったことを理解するだろう。歌人が自己投影しているかもしれないのは、そういう人である。さて三十歳。若者を自称するのは憚られ、といって大人の風格にはまだ欠ける年齢は、一定の態度に向けて腹をくくれないという点で、端的に格好悪い。この滑稽なゆきづまりを、しかし作者は「〜感じだらうか」と遠い目で測っているようすである。遠い目の人は、どこに立っているのだろうか。三十歳手前の位置にいるのは間違いない。その位置でしばらく足を止め、彼は確認する、「ああ、死はちゃんとある、三十歳のそのまた向こうに」。妙に安堵した顔で、彼はふたたび歩き始める。齢を重ねるのは、とりたてて良くも悪くもないことだというふうに。


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