スヌーピーのTシャツを着て歩くのは誰かと話すときのお守り?
『あるまじろん』
小塩卓哉(音・ラエティティア)
 荻原裕幸の一首を想起せよというならば、私などは、処女歌集『青年霊歌』の歌がいくつも列をなして脳裏に浮かぶのであるが、今この文章を書きつつ思い浮かんだのは、第三歌集『あるまじろん』の中の何首かであった。いや正確には表紙の「あるまじろん」というタイトルの「じ」の文字に腰掛けた「ストップ!!ひばりくん!」の少女(いや、ひばりくんなら男か)のキャラクターが眼前に浮かんだのである。
 これこそが、荻原流サブリミナルのなす技かと思いつつも、私にはこのキャラクターの存在が、現在の荻原裕幸を理解するのに有用な手がかりであると思われてならない。私にはマンガに代表されるサブカルチャーに短歌の門戸が開放されていることが何より印象的であった。いや門戸の開放というよりは、最初からサブカルチャーが表現者の主体の中央に何気なくおかれていたという言い方のほうが正確かもしれない。
 『あるまじろん』所収の「スヌーピー」の歌は、取り立てて名歌というわけでもないし、際だった特徴があるわけでもない。「スヌーピー」というキャラクターが主体の歌ではないのだが、やたらスヌーピーの存在感が大きな歌でもある。結句の「お守り?」というところは、多分語尾を上げて読むのだろう。人の顔の柄のついたシャツを好む子供は幼児性が抜けていないのだ、などと昔何かの本で読んだことがあるが、「誰かと話すとき」にお守りがいる、なんていうのもいかにも子供っぽい。そんな子供っぽい誰かにこの歌の発話者は話し掛けている。そもそもスヌーピーのマンガ自体が永遠に大人になることを放棄したようなところがあるが、そんなマンガの背景をまるごと背負った所で作品が成立しているのが私には不思議であり、そのようなところで短歌を成立させうる荻原裕幸という歌人が、全く新たな土壌から生まれた歌人であると思われたのである。
 もっとも『青年霊歌』の頃は違っていた。たとえば「ディズニーの服の少女を乗せて去る赤き車の行方を知らず」などという歌はいくぶんシュールではあるがわかりやすく、私自身の作歌法にも馴染む感じがする。それが、『あるまじろん』の「ライナスの毛布が出ない辞書なんて辞書ぢやないつて何のことだい」という作品となると、「何のことだい」と作品自らが言葉の意味を放棄している感じである。そのような文脈に付き合っていると、ライナス自身の言葉に対する発達不足のみならず、我々の中に潜むライナス的なものも思い浮かんできて、複雑な意味の入れ子構造の中に読者もまた回収されていく思いがするのである。相手に意味が届かないのではないかという不安感の中にあっては私は自分の歌を作れないのであるが、荻原裕幸の短歌はまさにそのような不安感を構成要素としてしまうところに特徴があると思うのだ。
 表紙を飾る少女が、本当にひばり君なのか、あるいは他の登場人物なのかも私はよく覚えていないのだが、男なのか女なのかよくわからない、さほどメジャーでもないマンガにこだわる作者の精神が、さながらこだわりの腑分け図のようにして、読者に供されるこの歌集が妙に忘れ難いのである。

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