まだ恋ぢやない左手にカナリアのゐる感覚を教へてくれた
『世紀末くん!』
秋月祐一(玲瓏・ラエティティア)
 「まだ恋ぢやない左手」ということは、右手はすでに恋をしてしまっているのだろう。彼女のことを意識しはじめている自分に気づきながらも、まだそれ以上の行動にはうつれずにいる。そんな恋愛初期の心理状態が、意表をついた修辞で、しかし感覚的には、すっと受け入れられるかたちで提示されている。
 そんなある日の雑談のなかで、彼女が、「このあいだ生まれたひなが、手に乗るようになったのよ」などと、自分の家で飼っているカナリアのことを話題にした。そして、主人公の指の上に、自分の指先で小鳥の真似をしてみせた。
 カナリアの一件は、彼女にしてみれば、単にペット自慢をしただけのことであったかもしれない。しかし主人公にとっては、意中の人とはじめて指と指がふれあったのだから、これはもう、記念日にしたいくらいの僥倖である。
 このとき、カナリアのいる感覚を教えられたのが、「左手」であったことに注目したい。
 カナリアをとまらせるのが右手であっても、なんら問題はないのだから、彼女が主人公の左手をえらんだのは、単なる偶然であろう。ところが、主人公にとって左手は、「まだ恋ぢやない」側の半身だったわけである。そこに無邪気な彼女の奇襲攻撃をくらったのだから、たまったものではない。
 ところで、主人公が左利きであることを示す情報は、この一首にも、この歌をふくむ一連にもないので、彼は右利きであると決めつけて話をすすめるが、右利きの人にとって、左手というのは意識が指の先まで行き届いていないような、ある意味で、無防備な自分を晒してしまっているところではないだろうか。
 そんな自意識の鎧をつけていない左手に、いきなり、カナリアのいる感覚を教えられたりしたら、もうメロメロになってしまいそうな気がするのは、ぼく(秋月)だけであろうか。主人公は、おそらくこれで、完全に恋に落ちてしまったのだと、信じて疑わない。
 カナリアは環境の変化に弱く、飼育のむずかしい鳥であることから、はかなさの象徴とされてきたが、この歌の場合、単なる小道具としてではなく、生まれたての恋の、こわれもののイメージと重なって効果を上げている。
 主人公は、指の上のカナリアを落とさぬように気づかうのと同様に、生まれたての恋がこわれないように、祈るような気持ちでいるのだろう。
 なお、この一首評を書くために、第二歌集『甘藍派宣言』を読み返していたら、次の歌が目にとまった。

  わが指と恋人の指ゆきかへるかたつむり見るだけの夕暮

 生き物を小道具に、恋人との指のふれあいを描く趣向が共通している。ただ、「かたつむり」には、奇抜な小道具を使おうとする意識が透けて見えてしまっているような気がして、「カナリア」のほうが完成度が高いと思われる。
 「カナリア」は、ポップでアバンギャルドな歌のならぶ『世紀末くん!』のなかでは、地味で目立たない歌かもしれない。しかしこの歌は、荻原さんが、いつもは修辞の裏に隠してしまうピュアな部分が、ものすごくストレートにでている秀歌だと思う。


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