Cyber Japanesque


 稀有な女形の先輩達の日本舞踊に関するお言葉


・坂東玉三郎 (2000/7/19 NHK 番組「スタジオパーク」より)

妖艶さを演じるこつはどこにありますか?

「お料理を作るときに、素材も重要だし、料理の過程も夫々重要だし、特にここだけがポイントであるということは無いと思います。同じように女形も、まず身体をつくり、そして、動きをつくっていきます。色々と動いてみた後、動きを削ぎ落としていきます。その後、舞台全体を考えて修正して行きます。」

最近お休みを取られているんですって?

「最近の研究では、一年中演じたり踊りつづけるよりも、70日程度まとめて休んだ方が、骨と関節にとって良いということがわかっています。そこで、6/19から休んで京都を訪れたりしています。」

−玉三郎さんを招いての生放送。1978年のNHKドキュメントで映された、初々しい玉三郎も登場。一日に10時間眠って、年に2ヶ月休み、そして49歳(?)なのに、あの美しさと好奇心の旺盛さと素直さを保っているのか・・・。


・祇園 小まめさん (「祇園に生きて」 同朋社より)

「お師匠さんから言われた事で、今もおぼえてることは、「ちゃんと腰を、おおろし」ということ。いま思うと、能の所作と同じどすな。両膝をつけ合わせて曲げ、上体は垂直に、腰をぐっと落として、おへその下に力を入れる。この姿勢が基本どす。そのためには「ちゃんと腰を、おおろし」。こればっかり言われるのどす」

−京言葉が美しい。祇園なので井上流だが、どの流派も基本の基本は同じなのですね。仕事の世界でもよく言われる、「基本を大切に」「Back to the Basic」というところでしょうか。日本舞踊にとって、腰を入れることは、永遠のテーマか・・・。


・坂東玉三郎  (2000/3/4 朝日新聞夕刊 「知りたい歌舞伎の世界 8」より)

「女形は現実の女より女性的と言われることがありますが、それは良い意味での錯覚だと思います。体つきも声も違う男が演じているのですから、女より女性的ということはありえません。

 女形というのは肉体を使って女という作品を生み出す事だろうと考えられます。歌舞伎の様式にのっとってディテールを積み上げ、女であるその役の理想を描き出してうく中で、舞台の上では現実より女らしい女という言い方が生み出せるのかもしれません。

 女形にとって大事なことは、やはり品と美しさだと思います。ただ見た目がきれいという意味ではなく、その役として見るに絶える存在である、ということが大切です。

 雰囲気を伝えるのは、体験的な知識と技術。役について自分が情感で受け止めたものを、無数の細かいテクニックを積み重ね、有機的に結びつけて表現してゆきます。情緒に頼るのではなく、科学的に役を構築するさぎょうなのです。そのためには、子供のころから踊りと義太夫、長唄など邦楽は必須。三曲(琴、胡弓、三味線)、茶道、華道などの素養も身につけなければなりません。

 日常で特に、美容に気を配ったりはしません。でもお客様が、なにか特別なことをしているだろうと思ってくださるなら、それはいい誤解です。を与える仕事ですから。」

− いやあ、明晰な頭脳とポリシーが感じられる言葉です。玉三郎の女形を「科学的に構築」するという考え方に、封建的な歌舞伎好きは反発するだろうが、私は正しい事だと思いますし、男女同権が叫ばれ男女の境目が曖昧模糊となっている現代と未来においては、このような合理的アプローチしか、芸の深さを極めるには無いと考えています。しかし、すばらしい言葉で、つい全文引用してしまいました・・・朝日新聞さんお許しください・・・問題あれば削除します・・・(笑)。


・三島由起夫 「女方」 (例えば新潮文庫では「花盛りの森・憂国」に収録)

 女形の佐野川万菊に憧れて、歌舞伎の作者部屋に合いった増山と、万菊が惚れた川崎の心の襞を描く短編。

「常が大事・・・そうだ、万菊の日常も、女の言葉と女の身のこなしが貫いていた。舞台の女方の役のほてりが、同じ仮構の延長でもある日常の女らしさの中へ、徐々に融け消えて行く汀(みぎわ)のような時、その時、もし万菊の日常が男であったら、汀は断絶して、夢と現実とは一枚の殺風景なドアで仕切られることになったであろう。仮構の日常が仮構の舞台を支えている。それこそ女方というものだと増山は考えた。女方こそ、夢と現実との不倫の交わりから生まれた子なのである。」


谷崎潤一郎 

 「・・・私は全体から言うと、東京人よりも大阪人の声(言葉)を美しく感じる。公平に見て、男は五分五分だとしても、女に関する限り、大坂の方に軍配を上げる。・・・私に云わせると、女の声の一番美しいのは大阪から播州あたりまでのようである。・・・東西の夫人の声の相違は、三味線の音色に例を取るのが一番いい。私は長唄の三味線のような冴えた音色の楽器が東京において発達したのは誠に偶然ではないと思う。東京の女の声は、良くも悪くも、あの長唄の三味線の音色であり、また実にあれとよく調和する。キレイと云えばキレイだけれども、幅が無く、厚みが無く、円みが無く、そして何よりも粘りが無い。だから会話も、明瞭で、文法的に正確であるが、余情が無く、含蓄が無い。大阪の方は、浄瑠璃ないしは地唄の三味線のようで、どんなに調子が甲高くなっても、その声の裏には必ず潤いがあり、つやがあり、あたたか味がある。・・・座談の相手には東京の女が面白く、寝物語には大阪の女が情がある、というのが私の持論であるが、つまり性的興味を離れて男に対するような気持ちで舌戦を闘わす時は、東京の女は大胆で、露骨で、皮肉や揚げ足取りを無遠慮に云うから張合いはあるけれども、「女」として見るときは、大阪の方が色気があり、魅惑的である。つまり私には東京の女は女の感じがしないのである。・・・たとえば、猥談などをしても、髪型の女はそれを品良くほのめかして云う術を知っている。東京語だとどうしても露骨になるので、良家の奥さんなどめったにそんなことを口にしないが、こちらでは必ずしもそうでない。しろうとの人でも品を落とさずに上手に持って回る。それがしろうとだけに聞いていても変に色気がある」

− 日記にも上記の文は引用しましたが、上方歌舞伎を観る際、または上方の舞踊を踊る際の心持の参考となりそうなので、記します。あのねっとりとした色気の秘密がここにもあり!


坂東玉三郎 「演劇界」演劇出版社 平成3年2月号よりもう一弾 しかしコメントは昭和45年(1970年)当時

「女形? 別に抵抗はありませんね、小さい時から女形に憧れていましたから」

「僕には、恋に死ぬ女義理に殉じる女、実感としてはわかりません。いつも”だろう”とか、”こうじゃないか”と手探りで演じているんです。でも、そんな女性像に、とてもファンタジーを感じるんです。やってみたい役もリアルな女じゃなく、古典の中のファンタジックな女」

「ぼくにとっては歌舞伎はおとぎ話ぼくは語り手。こんな女がいましたよってお話を、観客に伝えるのです」

− なんのてらいも無く、我が道を語り、進む様は、なんとなくサッカーの中田ヒデを思い出させます。彼は、ワールドカップの選手に憧れた事も無く、人が言うセオリーに盲目的に従うこともなく、自分の頭脳と身体で考えた結果の合理的な動きを行い、世界の頂点に近づいています。先輩の言う事や因習に振りまわされず、本質を頭脳と感性で捉え、世界の芸術家から求められ、さらに血肉とする玉三郎。彼の若き日のポリシーを示す言葉。 現在の彼のポリシーは、是非玉三郎のサイトをご覧有れ。しっかりとした土台の上に、すばらしい主張のあるページです。だから世界が彼を評価するのです。


.・坂東玉三郎 「演劇界」演劇出版社 平成3年2月号より (資料提供はMimiさんよりしていただきました。感謝!)

 幅の大きく広がった玉三郎という役者を、あなた自身が考えて、何を一番深く演じて行きたいと思いますか?

「そうねぇ・・・それは歌舞伎を主にしてだけれども、日本というものがやっと何か落ち着いて自分の中に入ってきた感じよ。それは一つ一つの役にも言えると思いますね。今までは古典とか日本というのをファンタジーみたいなものでつかまえていたのだけれども、もうちょっと肌にピタッとくる気持ちが自分でありますね。」

 

 道成寺を踊り、藤娘を踊り、鷺娘を踊って洋風の踊りも。すると、そういうものを通して歌舞伎舞踊がまた見えてくるんですか?

「見えてくることもありますよね、改めて。で、やっぱりなるほどみんなが目先の美しさを喜びながら、日本の和歌の世界とか諸行無常の世界へ入って行く その日本的な雰囲気が、ものすごく尊いなと思うの。」

 

あなたはやっぱり歌舞伎の役者ですよ。 

「そうねぇ」

あくまでも歌舞伎の役者ですよ。

「まあ歌舞伎の役者であり、日本の役者でいたいですねぇ。やっぱり日本って、何か素晴らしいものを持っているし・・・

− 今回初めて「演劇界」をよく読んでみたのですが、歌舞伎の新旧に留まらず、新劇、舞踊から、なんと床山さんの住所変更(!)まで載っていました。歌舞伎・演劇ファンの人にも、実際に演じる人にも重宝する雑誌であると納得。今度は購読してみようかと思いました。すごいマニアックな雑誌です。インターネットサイトも美しくまとまっています。


郡司正勝 「おどりの美学」より

「・・・女方によって完成された歌舞伎舞踊は、なによりもまず、男が女になることに、精魂の多くが傾け尽くされる。・・・たとえば、良く言われることだが、女方は両膝を離さないというのが大切な心得になっていて、つねにそれを忘れぬために、紙を挟んで歩く習練をするのだというのは、その根本的姿勢にほかならない。

 かくして「女形はとにかく所作事が根本」とされるようになる。たとえば固い男の肉体をいかに女性的にみせるかということのために、手を伸ばすのにも、すなおに伸ばさず、波をうたせて出し、足は鰐足(わにあし)にして強い腕線を衣装のやわらかな線におき換え、いかつい肩の線はことさらにため、背丈をむすんで、女性美を「色気」という理念い置き換えて表現する。そのことのために女方は全力を注ぐかにみられる。

 しかしその女性美の手本になったものは、封建社会が創り出した理想の女性、遊女であった。したがってそこに廓情緒という、一種の狭斜趣味を付属し助長したのである。こうして女方のもっとも大切なものとされる<色気>は、遊里において形成された人工美が、そのイデーであった。女方の美はそのままの女性美ではない。男性が創り出し、発見し、表現した人工美なのである。

  かぶきの女方舞踊のもつ遊蕩気分、狭斜趣味といたものが、近代の日本舞踊の進展に大きな障害となったことは、すでに日本舞踊の改革に手を染めた先覚 坪内逍遥を慨嘆させたものであり、特異な存在ではあるが、新しい舞踊のためには行く手にふさがる困難な問題をはらんでいることになる。

 かく、女方を中心に展開したかぶき舞踊が、よかれあしかれ とにかく かぶき舞踊の大きな特徴となっていることは否定できぬ事実であるし、むしろその本質を把握しなければ、ほんとうにかぶき舞踊の本質を理解したとはいえないのである。」

 − 1913年生まれ、舞踊学会会長、国立劇場理事、早稲田大教授という郡司正勝さんの言葉。(現在、生きておられるか、また要職につかれておられるかは、悪しからず、わかりません。)この方の解説は、ロジカルに分析的に舞踊を解明しようという意図が明確で、日本舞踊に関する文章としては貴重である。その「女方」と「色気」に関しての鋭い考察である。でも、私はそんな日本舞踊の「色気」が好きです。


・市川猿之助(日経新聞 夕刊 1999.9.9より):「・・・オペラを演出してみて改めてわかったのですが、歌舞伎の表現って本当に面白い。例えば女形。大きな衣装で男の身体をしなやかに変身させてしまう。・・・ストップモーションで切る見得は動の中の静。感情がカアッと激しているのに、身体ピタリと静止している。擬本はそれこそ無限。変幻自在の妙がある。」


・吉行淳之介 (「女のかたち」より):「男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男は、その円周の内側で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。」

 − 女形とは関係ありませんが、私が高校時代に好きだった短編と男と女の小説の名手 吉行淳之介の言葉より。彼は、女性は子宮を中心に思考したり感じたるするという言葉を、いくつかのエッセイに書いている。なぜか彼のこの言葉が、高校時代から私の脳裏に残っており、女性は私の理解を超えているという最終的な理由の根拠となっている。これを言われると、生身の男としては越え難い深い溝を感じざるを得ない。正確な言葉は、shitobiさんよりお教えいただきました。


・尾上梅幸(現 尾上菊五郎の父):「幕間で楽屋に戻るときにも、必ず立役が先に立っていくし、ともかく立役を立てるようにする。だから、食事のときもにおいの強い食べ物、例えばニンニクなどはいっさい口にしない。それが女形のたしなみである」

 − 梅幸自身は、「舞台に立ったときに女になればいい」という考えで、普段は女性的な振る舞いをしない人だったらしい。逆に、下記の歌右衛門は、日常でも女性的なやわらかい言葉で話し、しぐさも優雅であり、趣味も動物のぬいぐるみ集めであったらしい。舞台周辺で女になるタイプと、生活から女になるタイプと、2通りにわかれるようである。


・「どうしたらそんなに女らしくなれるのですか?」

歌右衛門:「大切なのは、女になろうとしないで、男を消していくことだ」

  − ごくノーマルの男の私が女形にトライする際に、新たな視点を提示してくれた言葉


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