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1983 昭和58年![]() |
●第二次テレビゲームブーム到来 アタリと任天堂の明暗 ![]() |
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![]() アタリ進出記者会見 (スコラ/同右) 日本法人を設立した米アタリは進出記者会見を開催。5月からの新機種発売は日本経済新聞でも紹介されました。 ![]() ファミコン新発売のCM 記念すべき第一弾コマーシャル。タレントも過度な演出も無いシンプルなものでしたが、その素晴らしさはゲーム画面だけで充分に伝わってきました。これがCMの理想かもしれません。 |
![]() ホビーパソコン、ホビーパソコンよりのゲーム機、純テレビゲームと様々な主旨のハードが入り乱れる戦国時代ですが、どんなコンセプトであろうが、要は売れればOK。高いシェアの獲得こそ、メーカーの望むところだったわけです。その各社ラインアップについては、究極テレビゲームリストをご覧下さい。 この年の大きな話題として、まずビデオゲームの巨人と言われたアタリ社の日本進出が挙げられます。 「なにせビデオ・ゲームの本場アメリカで70%のシェアを占める”カイブツ”企業だけに、迎えうつ日本のビデオゲームメーカーも戦々恐々なのだ。(中略)エポック、トミー、タカラなどもこの夏までに新機種をぶつけるという。まさに風雲急をつげるという感がある。」(スコラ/1983年5月26日号より) 確かにアタリ上陸の前後は、各社値引きや低価格機種の発売があいついたのですが、メーカーの”黒船来航”騒ぎとはうらはらに、肝心の購買側の反応は鈍いものでした。アタリのマシンは77年発売版と何も変わらないハード。新世代機種に目を奪われていた購買層の子供達にとって、そのゲームの動き、内容、サウンドはすべて物足りないものに映りました。 「ゲームはブランドで売れるものではない」とは、プレステで市場参入時に、ソニーが問屋筋に言われた言葉ですが、それはこの頃のアタリにも言えたのではないでしょうか。 そしてもう一つの”事件”が7月にリリースされた任天堂のファミリーコンピュータです。あらゆる機種を凌駕する美しいカラー、そして大人気ゲーム・ドンキーコングのほぼ完璧に近い移植度。しかも価格が14,800円という低価格なのです。何事も一線を超えないと成功しないと言われますが、この任天堂ファミコンは二線も三線も軽々と超越してみせました。 アタリの失敗と任天堂の成功は、ゲーム史を語る上で必ず触れられるイベントです。そしていつも敗者扱いされるアタリ社。しかしながら、この戦略で勝負するということは、当時そんなに非常識なことではなかったはずです。その証拠に、そんなアタリに各社「戦々恐々」としていたわけですから。むしろ任天堂=ファミコンが常識はずれに突出していたんですね。そのファミコンですら、発売当初の夏休み商戦は、思うように台数が伸びなかったと言います。 ![]() ![]() |