1977 昭和52年

 ●第一次テレビゲームブーム到来


人気過熱のテレビゲーム
外野から次々もの言い

(朝日新聞'77/10/9)


テレビゲームの記事は家庭面やレジャー面が主でしたが、これはめずらしく社会面に登場した”問題提起”。電波障害のクレームや、子供の目に悪いという医師の話に触れています。



「いったぜ!70万台」
(任天堂広告/同上/12/20)


もっとも売れた任天堂のカラーテレビゲーム6/15。販売数を公表するのは自信の表れなわけです。


76年まで、日本でテレビゲームを作っていたのは、主に小さな工場でした。欧米を中心とした海外市場向けに、前出のゲームLSIを組み込んだテレビゲームを輸出用に製造していたのです。 それが日本でもブームの兆しを見せはじめたことから、今後は国内でもブレイクするぞ、と、大手玩具、家電メーカーが、次々と市場に参入してきました。

そしてその期待通り、この77年から78年春にかけてテレビゲームは一大ヒットをとばします。

「この夏、テレビゲームが大いに売れた。(中略)当初、わが国ではあまり人気が出ないだろうといわれた。値段が高い。ゲーム内容が単純すぎる。わが国のテレビ放送時間が長いうえ、放送局の数が多くて番組の選択が自由、などがその理由だった。ところが、フタを開けてみると、値段が一万円を割ったことのほか、子供のテレビ離れ傾向が見えはじめたこと、大人の購買層が多かった、などから予想以上の売れ行きを示した。」(朝日新聞/’77年9月19日)

当初はアベックやサラリーマン層が目立った購入層も、次第におもちゃ屋やデパートの玩具売り場の子供が中心となり、特に夏休みのセールスはすごかったようです。
「『朝十時の開店と同時に、子供さんたちがソレッとばかりに四方からここに走ってくる。TVゲームの人気は想像以上のスゴサですよ。開店から閉店までずっとこんな調子ですからね。』西武百貨店池袋店の六階にある玩具売り場で、趣味雑貨部子供ホビー担当の阿部秀明係長が驚きながら、いま起こっているブームについて話す。」

その勢いはすさまじく、最初は白黒のボールゲームだけだったゲームLSIも次々と新しいものが開発され、遊べるゲームも4種類から6種類、8種類とどんどん増え、白黒から美しいカラー、テニスからカーレースや宇宙戦争、タンクゲームとどんどん強化されていきました。
LSIの種類だけゲーム機も製造され、家電、玩具メーカーから、商社、町の発明家、権利屋、ブローカーからの売り込みにより、デパート、おもちゃ屋はもちろん、日用品店や通信販売、果てはスポーツ用品店(^^;までがテレビゲームを扱うようになっていました。
この77年からの一大ブームは俗に「第一次テレビゲームブーム」と呼ばれています。


MEMO 一気に爆発したのは夏頃のようですね。

阿部氏のコメント:週刊現代/1977年9月頃の記事より転載
・第一次テレビゲームブームという呼称については、86年のファミコンブーム時の報道番組でその称が用いられたりしている。