儚き偶像の行方二〇一一
-T-
Whereabouts of transient idol 2011


儚き偶像を背負う人々は、多く存在するが一生をそれに気付かずに生きてしまう。
人間は、自分の心が既に抜け殻になるのを恐れて儚き野望の偶像を背負うのであった。
それが虚像なのか偶像なのかもわからぬまま・・・。
ただ一つの事を信じて行うは、"人は死して名を残す"、そんな歩みでありたい。
そういつも思うのではあるが現実は、偶像崇拝の毎日で悟りを得る事はそう多くはない。
仮に悟る事が出来たとしても人は、時が経つに連れて色褪せた紙のようになってしまうのは何故であろうか。
まるで古い感熱コピー用紙な人生。
 そして払拭しようとしても、掻き消そうとしてもふつふつと上がる雑念は、次から次へと途切れることのない泉と化している。
人は過ちを繰り返し、歴史も繰り返す、その輪からの脱出をする人はおそらくいないのではないか。
でも人はまた目指すのであった。
 人それぞれが持つ偶像は、それを容易く手放す事はできない。
価値観の違いは当たり前、そう言い聞かせてもなかなか納得のいく答えは見つからなかった。
今後も見つかる気配はあれども、見つからないのが現実である。


そうこうするうちに季節は流れて悪夢の春先から真夏へと移って行くのであった。
そのような人生の中のたかが趣味、その中の釣りとは言うが
しかし、しかしたかが釣りと言われども、他の事柄もそうであるように最低限の規則、ルールがまずあってから自由というものがあるもので、無秩序という事を自由と言うべきではなかろうかと思う。
自由、自由と叫べども、無秩序な自由など存在せず、そこには必ず秩序やルールは存在する。

過去の記憶と幻影
Past memory and vision


 今(2011年)から遡る事14年も15年も前の事であったと思う。
当時は、まだ企業にて釣竿の製造とやらを必死でこなしていた頃であった。
所謂しがない製造業である。
しかも現実は、殆どがアジアをはじめとする海外製品が圧倒的多数を占める時代の真っただ中であった。
(その後の2011年現在はますます拍車がかかってしまったが)
働いても、働いても区切りはつかず、残業また残業の毎日それでも終わる事はなかった。
夜中まで働いたりしたが、またその朝には出勤する。
それが当たり前の毎日。
 他業種でもそのような事は多々あったであろう。
そのような、仕事の毎日の合間を縫って計画した事があった。
所詮それも釣りではあるが。
 その当時は、現代(2011年)のようにまだジギングという釣り方が細分化していなく、バーチカルジギング、ジギングとそう単に呼ばれていたように記憶する。
もちろん、磯や丘からジグ゙を投げてはいたけれど、ショアジギなんて言葉は当然無かった。
ショアジギという以上は、他のルアーは投げてはならないのであろうか?
 実釣では、そんな事はそうはないと思ったりする。
ジギングがまだ始まったばかりのジャンルで模索していた頃であるが、当時の対象魚のメインは、カンパチやヒラマサであったりして、深場の大型カンパチやイソマグロ狙いは更にDeep Jiggingとか言われていた。
ライトクラスは当然あったが、ライトでハマチ(9kg未満)と現代のようにBay jigging とかLight jiggingとかがジギングのメインとは区別してはいなかったように記憶している。
昨今では聞くところによると、船頭さんのリップサービスもあってか7kg程度でもブリと呼ばれる事もあるらしい。
"何故聞いた話なのか?"
と聞かれれば、直接でないのという事なのだがその理由は、己自身の釣りでは決してこのクラスを恐れ多くも鰤とは呼ばないからである。
現代では、サバやサゴシ、イナダメインとかタチウオとかがジギングのメインらしい・・・と聞いた。


 それは、うちの長男がまだ保育園の頃だか入学前だったか、先輩の話に返事一つで乗り込んだ日本海の船だった。
そんなジギング黎明期であったが当時最強のスタンダップスピンロッドの30Lbクラスと50Lbクラスを引っ提げてトライしたあの初夏であった。
(現在では余計に市場で見なくなってしまったが)
 300gジグをボトム中心に攻めていた時、反対の弦にていきなりConventional(両軸)の方に掛って伸されて固まっている仲間の姿を目撃して空かさず
「それ、それ!魚だよ!!」
と叫んだものの、彼は何も出来なかった。
仕方のない事ではあったが、残念であった。
なにせ本当に奴がかかるとは思っていなかったし、その魚体からくるパワーは想定外規格だったに違いなかったからだった。
 しかし、話はそれで終わらなかった。
今度は、その当時最強のスタンダップスピンタックルにメタルジグ゙300gをボトムに入れる後輩の姿が視界に入った。
着底と同時にリールベイルを戻しジャーク。(しゃくる)
何度か繰り返して底取りしてはジャークを繰り返した後輩Mに一気に伸し込むようなアタリ。
「きっ!ぃ、キタ!!」
それからMの戦いは始まった
何度も激しい引きに耐えながら腰のバネとバランスで耐えているその姿に皆でサポートに入った。
一体この先にはどれくらいの魚が掛かっているのであろうか?
完全スタンダップスタイル。
先輩のY氏が横でサポートに入っている私に
「おい、ドラグもっと締めてみて。」
と指示した。
「もうこれ以上締められないよ!」
目一杯に締め込んだPENN8500SS だったか9500SS は、もう限界ロック状態であった。
PEもこれ以上伸びないくらいキンキンに張った弦のようになっていた。
10分が過ぎ、20分が過ぎて、それでも奴は弱らなかった。
全員の励ましにも関わらす30分が過ぎた頃、Mは弱音を吐くようになった。
それもそうだろう。
 魚の方は底知れぬパワーに満ちて?いた。
「痺れてもう手が動かない!!」
それから彼は、弱音をたびたび吐くようになっていた。
それまでの過去に彼は、20〜30kgのサットウもなんのためらいもなくサッサと上げ、ブリもこのタックルで糸もほとんど出ない状態でサッサと上げてしまう彼ではあったが今回は、少し事情が違うようだ。
35分がとっくに過ぎた頃、魚が浮き始めた。
「今だ!哲!!ガンガン上げろ!」
すこし間が空いたが何度かポンピングしてリールインして行く。
10m位は回収しただろうか?
皆がそこで浮いてくると思った。
しかし、それは甘かった。
突如反転し、一気にまた底へと戻り始めた。
ロック状態のリールにも関わらず糸は出て行った。
ふっと突然軽くなった。
ラインブレイク。


「ああ・・良かった!切れてホッとした!」
彼の第一声は、魚が逃げてしまった事よりも、寧ろ不安と限界からの解放が一番の祝福だったかもしれない。
それから、その企画の2度目はあったが不発というよりは、いつのまにか他の釣りに変わってしまった事もあり、
ロッドがひん曲がる事は、二度と無かった。
哲はそれから何年かすると釣りから遠ざかり、さらに数年が過ぎた今は他の事で頭が満タンみたいである。
時は更に流れて土佐沖、鳥羽沖、金洲沖、駿河湾、どれも完敗に終わったのである。
(それから既に10年以上も経ち、スピニングリールの性能は格段に良くなった。)


 更にそれから時が経って30kgオーバーをやっと1本釣ったのが2002年の七夕の日であった。
その日も30℃をゆうに超えて熱い夏であった。
蒸し暑い盛りで、イカ釣りに苦戦し、実釣時間はわずか2時間。
そんな中でのバイトであった。
 一流し目の投入後、しばらく経ってからの前アタリであった。
2バイトのうちやってはいけない"早合わせ"をして、1本は見事にすっぽ抜けたのであった。
長い道のりではあったが、その間それだけを狙っていたのでもなく、休眠中も他の魚を追っかけながらと
同時進行していたので純粋に"毎年ある程度の熱入れ度"の挑戦では無かった。
それでも、1サイクル以上も時は過ぎてしまった。
この10年間というものはあっと言う間に過ぎて行った。
更にそれは加速してきそうで人生はものすごく短いと感じるようになり始めた頃であった。

 

 

 

 

 

職人魂(Craftsman ship)


 しばらく、ご無沙汰であった師匠に連絡もせず、その時は突然起こった。
永眠のご連絡を聞いたのは、あの3.11震災後の5月であった。
師匠先生のブログによると・・・。


 昨年末ごろから右肩が痛み始めて、仕事はボツボツといった状態であったが、この春先から痛みが強くなり、病院通いを続けていたところ、つい先日、疼きを感じていた部分に筋断裂が炸裂音と共に突発性の激痛を伴ってやって来てしまって、このところ、右手は一切使えない状態となって、服の脱ぎ着も歯磨きも寝返りも出来ず、箸も使えず、字を書くことも出来なくなっていたが、少し痛みが和らいだのか、何とか字を書くことが出来はじめた。
 そんな訳で、現在のところ作品を注文いただいている方には、作品をお渡しすることが出来ず迷惑をかけているが、いずれ鎚が振れるまで回復したら、心をこめて鍛えたいと思っている。
 だが、元のように回復できないのではないかと心配している。ただ、これまで造りためて来た作品が少しはあるので、その内には、肩の痛みも何とかなるだろうとノーテンキに思っている。


 さて、4月に入り四万十も急に春めいて、ウグイスの鳴く声が響き渡るようになった。
 河川敷の柳も若葉を広げて青々として来た。ボケの花も満開、黄水仙の花も咲き誇ってドヤ顔をしている。
川岸の道に植えられている桜も満開である。暖かな春風が、一日も早く、東北関東に吹いてほしい。 
元気ならば、被災地に飛んでいってお手伝い出来るのに、この痛くて動かせない身がなんともいまいましい・・・・・。
(工房くろがね湧風の戯言4/2より抜粋)


 そして、師匠も数々のドラマを残されてご永眠されたのである。
後になって思えば、その2年前の秋に最後に打って頂いた大出刃を打つ時に肩が痺れるほど上がらないので
今後、このような大物はもっと長い仕事期間をください。
と聞いていたのであるがその時より師匠の体は少しずつ蝕まれていたのかと思う。


多くの教訓とドラマを与えて下さった師に深く感謝をしてこの2011年を乗り切る事にした。
そして、消えかけていた若かりし頃の私と岡田師匠との思いではまたふっと昨日の如く思われ、目の赤い魚もすぐそこにいる気がした。

 

 

 


師と師の心は永遠に。


深海の怪物
Striped Jewfish
深海の魔王


果てしなき野望の行く末には、無限地獄が潜むと誰が言ったのかは知らないが、まさに人間の欲望には終わりがないようだ。
蠢く人の群像と偶像は、常に欲望が渦巻いている。
偶像商人の心には、信心など程遠いらしく、一切の責任を負うこともない。
 心の闇はいつまでも奥深くに潜み、希望まで闇にしそうになる。
そんな深海の暗い奥底に彼らは生きている。


深海の魔王。


そこには、果てしなく広がる砂漠とその中の大いなる金の小牛。
まったくもってこの世の中は虚栄と偶像ばかりで真実はねじ曲げられてゆくばかりである。
 その昔モーゼは何を考えて荒涼とした荒地を流浪したのであろうか。
何に希望を持っていたのだろうか?
紀元前の話は、現代人には届きにくい。
今年はまさに誰もが想定していない天災に苛まれてさらに政治と経済の不安が重なり、もはや窮地の我が国であるが、混乱と混沌ではなく、復興と復活が一刻も早期に成就されるべきであると思う。


 天災から人災となったあの惨事は、ああ私の祖母達が経験したあの放射能の悪夢が蘇ってくる。
暑い2011年も7月が過ぎ七夕も過ぎて気温は毎日30℃を優に超して真夏日が続く房総の夏であった。
あの日の8月6日も猛暑であった。
悪夢であってほしいが現実は興り、また過去になる。
それでも祖母達は立ち直って我々がここに生かされている。
いつまでも悪夢を見続ける事の無いように未来はしたいのである。


おおな魚


おおな魚。春、菜の花の咲く頃から釣れはじめ、五月末までがシーズン。
標準和名オオクチイシナギ。本州南岸では和深沖の「おおな地」だけで釣れるという。
 ある冷たい冬の日。空腹と寒さで疲れきって和深の里へたどりついた貧しい旅僧が、ある漁家で一夜の宿を乞うた。
そのあたたかいもてなしに感謝した僧は「この沖一里(四キロ)、深さ百ひろ(約百五十メートル)のあたりに"おおな"という魚がいる」と言い残して旅立った。
おおな魚は、そのころから釣れはじめたのだ……と。
 和深東平見にある大師堂は、さきの旅僧が弘法大師だったと知った村人が、その功徳に感じて建立したといい、旧歴一月二十一日にモチ投げがある。
(和歌山県昭和57年刊「紀州 民話の旅」小冊子より抜粋一部改訂)


 房総小湊には、日蓮上人とマダイの話があるがこのおおな魚(オオクチイシナギ)も弘法大師とも縁がある由緒正しき魚?であるかもしれない。
硬骨魚類における大型種はそう多くはないがとりわけこのスズキ目イシナギ科に分類される。
通常は水深200〜400mの岩礁帯に生息されるとあるが、最大2.5mに達するともあるがこの多回性産卵型の最大は
 3m近いものも存在してもおかしくはなかろう。
自転車のスポークの如く鋭く硬いこの棘条は、これぞ硬骨魚類の真骨頂と勝手に称賛する。
また自国に於いては、古くは縄文の時代から利用されていた記録されているらしい。
 地元には過去イシナギ漁というものがあったらしい。


 現代の近代一本釣り漁の基本は、勝浦松部の石橋宗吉翁が基本を築いたとあり、イシナギのテンヤ釣りというのもあったそうで、餌にヤリイカを使い誘いをかけて釣ったそうである。
(これには、賛否両論があるらしいが、文章に残っているものでしか第三者は資料とすることしかできない)


 それから半世紀以上も経ってから、現代ではイシナギ漁はなかったが遊漁という形を変えて職漁まで復活するようになり小さな街に波紋がひとつ、またひとつ。
房総の夏は、やはり暑く変に熱い。


 資源管理されることが非常に少ない我が国の水産事情は、かなり遅れた感があるのは、インターナショナルアングラーを育てるには厳しい環境にあるかもしれない。
また、漁業先進国と言われるノルウェー等からはこの点は大きく遅れている事になる。
 アジアではお隣の韓国でも資源管理型漁業が一部実施される方向性にあると聞いた。
我が国の漁業衰退の原因の一つは、管理する機関がないということと、それを行使する権利がない、処罰の規定もないということも少なからずあるだろう。
 私は欧米のやり方すべてが正しいとは決して思わないがこの点については、もはやアメリカナイズされた個人主義者と個人の権利ばかり強調した現代教育の行く末の現代では、モラルとかマナーという言葉はもう歯が立たないのが現状ではなかろうか?
 その代り自由の国として名高い米国も、多くの法に則っている。
その処罰規定も日本では考えられないほど厳しく、厳格である。
勿論自由の国の闇は多くはあるが、そこは今回触れずにおこう。


 地元市場に無造作に並べられてフォークリフトに吊るされた魚体が次々に写メされて更新され、その異常さには驚愕するばかりであるがそれが、平成23年の勝浦の夏である。
皆活きた魚には関心がないのか、誰も写真を撮る人は無かった。
活きた色、生きた色は美しく、褐色と銀とグアニンっぽい光沢、ストライプを目に焼き付けた後の死体の竦んで赤茶けた茶色は死体に比例して細胞の死を意味する"死の色"である。
彼らは、ただ
もくもくと釣るだけである。
 スタイルに関しては、
 「スタンディングしかも手巻き!」って一体何なのか欧米人には理解し難い事であろう。
和製英語は日本人の得意とするところであるが、もはやカタカナ英語は日本語と言ってもよいくらいに融合している。
いくら「"スタンディング"なんて釣りは無い」と言ってみても釣具メーカーのカタログやTVのナレーションにまで記載、放映されるとあっては、もうこれで定着してしまったのだと半ば諦めてはいるものの、間違いは間違いなのである。
"立っている"釣り方であればなんでも良いということなのか未だに定義は無きに等しい。
"スタンディング電動"しかり。
G社もD社も世界進出で安定を築いた、日本の企業なのに、どうしてそうインターナショナルな 発想が国内にはまったく反映されないのだろうか?
全く疑問である。
 
 イシナギ等の大型化する多回産卵型の硬骨魚類は、何十年も生きた結果がここまで大きく成長もするのだが、
この暑さと人の熱さが比例しているかどうかはわからないが・・・・・。
無造作に並べられる死体を観て感情をあらわにする事もなく、釣り人はそれを見下ろすばかりだった。
まさに私にとっては、更に暑すぎる夏である。
そして彼ら個々人の偶像への爆発は、何時興っているのだろうか?
全く都会の能面。
 ストレスというのはどこからでもやって来る。
その答えが感情を表に出さない犠牲との相殺なのだろうかと思う。
そもそもこの大都会の人口の過半数以上は、他県からの移住組なのだから。
そのようなストレスから解放されにこの洋上へと辿り着いたのではなかったのであろうか?


おばちゃんの話


 近くに何年か暇つぶし(釣り)に通っている港の有料駐車場がある。
その管理のおばちゃんの話である。
 ここ(この港町)に嫁に来て48年になるという。
つまりそろそろおばちゃんというには厳しくなってくる感じ。
一日いても平日の稼ぎは、いくらになるのだろうか。
また、時化の日は全く収益がない。
おばちゃんは自分の取り分が幾らかご丁寧に話してくれる事もあった。
それでもおばちゃんはせっせとスクーターで来ては小屋に通い、みなさんからわずかな駐車場代金を徴集する。
 この間は脚の手術もしたと言っていたが、多少動きには脚を庇いながらの歩行ではあるが元気そうであった。
嘗てはゴミ箱も設置していたがあらゆる人が様々なゴミを捨てて行ったのだが何年か前、管理に困ったのか
大変なのか撤去された。
時には、釣り合羽や長靴、ジャンクな釣竿、紙おむつまで捨てられていた。


 台風がまだまだ今年は居座っていてなかなか通りすぎないので海の様子を確認がてら駐車場(と言ってもただの広場)に車を停めておばちゃんの小屋にいく。
最近はベッド風になっている板も敷かれていた。
おばちゃんも横になりたいのは頷ける。
「おばちゃん!」
「はい!」
「おばちゃん元気ですか?」
「はい元気です。」
「最近はどうですか?」
「うぅうんとねぇ。」
「なにか今釣れていますか?」
「あのテレビによくでてくる○○さんたちがメジナ釣ってるよ!」とおばちゃんの元気のよい声ではあったが
正直その言葉は、何度も何度も耳にたこができるくらい聞きました。(実際多く通っておられるのだろう)
「アオリもいるよ。」
しばらくの間ネタを調整しつつ。
「○○は釣れる?」
「さあ、最近は聞かないねえ。」
またしばらくのやりとり後
イシナギの話になった。
おばちゃん:「今年はなんでも異常だねぇ・・・」
「この前も、マダイが異常にここで釣れてねぇ・・・今までこんな事なかったんだけど、ずらっと並ぶくらい人が来てたよ。」
「これ見てコレ。」
そう言っておばちゃんは年代もののボロボロ宝地図みたいになった普通上紙に荒い画像でプリントされていた兄さんが持っているマダイの画像を誇らしげに見せてくれた。
(一体春から何人に見せ続けたのだろうか・・・・。)
おばちゃんも持っているその宝地図風の4つに折られた画像は、釣った本人の顔も良くは解らず、辛うじてマダイであろう。と認識できるグレード。

異常な事情に耳を傾けると、イシナギも今まで見た事がなかったが今年は何度も水揚げを見たと言っていた。
「あれ、どうして食べるのかねぇ。」
「あのなんだかとか間違えたよぉ。」
「なんだかって?クエ?」
「ああぁ・・・・・・・そうそうそう。」
おばちゃん今年も元気で頑張ってください。
今年の夏も更に暑そうですがね。
そう思いながら車を近所のお気に入りの和菓子屋に向かわせた。
そんな2011年の台風6号の夏。
それから数えて10号が沖縄に接近しているこの夏であったがそれから真夏日と言われる日が少なくなった。
 蒸し暑さには、あまり変わりはないのだが。
悪夢はまだ消えていない夏であった。

七月の小さな悪夢
Nightmare of July


 それは、F氏からの突然の携帯電話で始まった。
先日F氏らのグループがイシナギの50数キロを釣ったそうである。
 どれどれと早速サイトを確認してみると、
確かにブログ上には吊るし上げになっている大きな魚体が乱立されていた。
まさに非常事態宣言改め、異常事態。
F氏の話によれば、頭部および内臓は、その後港にれっこされたとの事を聞いた。

 ノッコミとはいえ、ここまで連発するとは、船宿さえ想定できなかったのではなかろうか。
ここ勝浦では、午前船と午後船とがある。
他地方では、午後船は無いところも多い。(もちろん他地域や釣りものによってあるとは思う)
 「明日どうですか?」
と急な話ではあったが、承諾した。


 心の憂鬱とは裏腹に、のんびりと午前10時半頃港に着く。
丁度船が帰ってきた。
 あろう事か皆クーラーというものを持ってきてはいるが、明らかに入るはずもない。
頭と尾鰭を半分以上はみ出してなお、あり余り状態でそれを納めるには、到底可能とは言えない無理な話である。
 イグロの160(クーラーボックス)でも35kgを超えると入りきらない。
イシナギは、目方の割に案外と全長が長く、最初から入らないつもりで持って来ているのかどうなのか意図も解らないが"とり敢えず無いよりは良いだろう"という考えなのかもしれない。
軽自動車の荷台一杯に毛布で包んで行く人もいた。
これはかなり危ないと思ったが、3人がかりでくるくると巻いて軽自動車に斜めに入れた。
60kg強サイズらしい。
 一歩間違えると、遺体にしか見えない。
氷も効かない状態で社内をエアコンでガンガンに冷やしてもたかが知れている。
どの程度の距離なのか解らないが、帰宅した頃は腐敗臭がしていそうだった。
 言葉を失って見学していた我々2人であったが、気を取り直し、船に乗り込んだ。
F氏と顔を見合わせて、「あれ、大丈夫なのかな?」
と言ったのであるが後の祭りという感じ。


 梅雨明け間もないという感じであったが暑い。
湿度もこれでもかというほどありそうだ。
猛暑が訪れる気配を感じながら、肌露出部分に日焼け止めを塗りまくる。
 汗は滴るも、船の進行によってもたらす風が少しだけ気持ち良い。
イシナギ釣りとは言ってもその大半は、餌であるスルメ釣りがその半分程度の釣りとなる。
そのスルメが釣れなければその時間はさらに延長される。
それでも釣れない場合も考慮して、生か冷凍のスルメを購入しておくが、余りにも釣れない場合はその
購入したスルメが餌の主力となる。
他泳がせ釣り、ライブベイトの釣りも我が国では、殆どがこのパターンとなるが、下手をすると餌釣りの時間のほうが長くなる可能性もある。
 今日もそんな雰囲気が匂ってくるが、2時間以上もかけてやっと一人数本のイカを確保した。
水温は23℃以上あり、スルメの泳層は水深120mとその水温差は10℃以上となって当然スルメに負担となる。
 「はい、ポイントに着きました、では投入してください。」
とのアナウンスを待って投入を開始する。
 フックは、孫バリを使わないネムリ針のタフムツ35号にスリーブ止めのシンプルな仕掛けである。
ハリスは、YGKのFC130Lbを2m強ほど取る。
 それぞれ餌を投入して、一流し目となる。
サミングを入れながらボトムコンタクトに集中する。
 ボトムコンタクト。
空かさずリールクラッチをいれて、ボトムから2mほど巻き上げ。
 船はゆっくりと流れる。
釣り船としては割と大型に入るこの船のローリングは小さく、安定してなかなか良い感じがした。
 投入してすぐに、棚を取るとゆっくりと船が流れる。
しばらくするとコツコツと小さな前アタリ。
 "奴だ。"
コツコツというアタリは、実際あの大口にあの魚体でどのようにつついているのであろうか?
疑問である。
心の焦りと偶像と不振と緊張とかぐるぐると回想し始め早く"合わせろ"と言う。
 コツコツは次第に重みのあるゴツゴツというアタリに変わり、緊張感は増幅して行く。
しかしヒット宣言にはまだ早い。
 ここでいつも思う事は、この大胆不敵な面構えとは異なって細かいバイト(bite)である。
手持ちのロッド(661-TUNAp)から手元まで伸すような引きこみを2度3度と耐えて逸る気持ちを抑えてみるがいつも早合わせで乗り切らない、或いはバレル事が多々あるこの釣りはここまでが一勝負一苦労となる。
同船の方々は、孫バリ仕掛けを多用しているが私の仕掛けは1本針であり、サークルフックである。
 ドラグが滑るくらいに溜め切って大きくスゥィープフッキング(アワセ)。
「乗りましたぁ!」


ヒットコールすると空かさず船長はそれが魚であると確認し、それが間違いなく魚であれば船中全員に仕掛けを回収するように皆に指示する。
 近年の釣人は、他人は他人の基本を船の上でも押し通すアーバンな香りは、どうする事もできない。
人によっては、仕方なく、あるいは関心なく、まさに東京そのものの流れとそう変わりはない感じであったりする。
ここが極最近の乗合船の辛いところでもある。
現代日本の東京という、世界有数の大都会が生み出すカラーが最大に出る瞬間である。
 船の上では、ヒットした者最優先の暗黙のルールがある。
それでも解らない人の為に船長の指示があるのである。
乗合の場合は、様々な釣り環境の人が乗り合わせるので現代に於ける乗合船のマナーは船長が通達するに限る。
それがスムーズに乗りあう基本となるのは明白だった。
 どうもやりにくい船というのは、船長の指示がないか或いは殆どないか、或いは、お客に気を使いすぎて
指示出来ない等の様々は理由がある。
 その点はこの船アーバンなお客を常日頃相手にしているのか、特別サービスが良いという訳ではないが手慣れて快適であったりする。
まさに人間精神多様性とでも名付けるべきなのであろうか?
こちらの精神も多様化しそうで怖くなる気がした。
 ドラグ設定11kgのSEALINE900H からは少しばかり滑っているがほんの数メートル程度のカクカクの出方で一気に逆回転には至らなかったがロッドはフォアグリップから曲がっているまさに満月状態。
それでも長年この竿と付き合ってきたので限界点はまだまだ上にあると確信してのファイトであった。


 このロッドは、作成して使い始めてからそろそろ10年が経つ。
当時このロッドのガイドラッピング剤は、とあるメーカーの元同僚に勧められてテストで使ったものであるが少々硬いのと黄変が気になるところだがメンテが悪くなければ今も現役である。
クラック(ひび割れ)は多く出てきてそろそろ巻きなおしても良いかと思うがそれはそれで時間の重みがあるのでそのままになっている。
 ご法度である筈のエポキシ樹脂を溶剤で薄めると言う摩訶不思議な手段を使っていれば、そうは長くは持たないだろう。

 ここ最近は己の持久力と体力がめっきり落ちてはいるものの、無酸素運動が切れるまで・・・少し切れても・・・なんとか・・持つ感じがした。
 ショートポンプでリールインしてゆくとあっと言う間に根は切れてこちらにも少し余裕がでてきた。
やはりリム径の大きなローギアは、他のスピンとは比較にならないほどパワフルな巻き上げである。


船長から
「あと40mだね。」
の声が聞こえて一安心。
「あれ、なんで解りますか?」
「そのラインの色はそうだね、魚探にも映っているから。」
なるほどイシナギクラスだと魚探にもはっきり映るであろうと即納得した。
 海の色は透明で透き通った青。
徐々に横になって光る影が見えてくる。
鰭を立ててゆっくりと円を描きながら、泡を吐き。
 浮上。
底魚ならでは、と言いたいが浮き袋は出てはいなかった。
難なくギャフをその口元に掛け、船長とメイト(中乗り)が2人がかりで船へズリ揚げる。
 全身の鰭をピンと立てて最後の抵抗を試みるイシナギ。
そして死体では決して見ることができないウリボウ風のこのカラーから放たれる活きた細胞。


40kgを切った小型のものであるが、成魚の雄であった。
ここまでに成長するまで20〜30年をかけたのであろう。
 この生きてきた長い年月を頂くには、少々気が引けたがそこは殺生という名の意味を借りて感謝して頂く事にした。
そのような概念と感覚は、日本人のDNAに刷り込まれた概念としてそう直ぐに無くなるものではないが、薄れて行くのも事実。


 それから後は2時間が経とうとして、バイトはあるものの、乗らずに皆焦りが見えてきた。
その中でアタリがまたあり、我慢したつもりがずばりすっぽ抜けた。

その辺りが名人とは言えない理由の一つであろうか。
そんな夏も盛りに移行しつつあった。
 イグロクーラーにギリギリ収まった風の雄イシナギを持ち帰り、次の早朝下ろす事にしたものの氷はものすごく少なくとても朝まで持ちこたえなさそうだった。


その夜、板氷を補充したのは言うまでもない。
一から十まで手間のかかる魚ではあったが、彼の長く生きた証に比べれば苦労という事もない。
 それからイシナギのラッシュはまだまだ終わる事は無かった。


イシナギノッコミラッシュな夏。


それは現実離れした実像で空想の中の実像に思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記録(目標の橋渡し)
RECORD


 それから一週間も経たないうちに、性懲りもなく今度は、近所の先生と出撃する事になった。
相手にとって不足はないが、己の心の余裕はそうは無かった。
心は追いつめられた手負いの野獣。
余裕という文字も、快適という言葉も、何もない。
焦りと不安は常に付きまとう。
中途半端な心で挑む。
暑い夜中。
汗が既に滴る。
房総の夏。
 相手にとって不足は無い。
と言いたいところ。
しかし、憔悴しきった己の心までは、誰も解らないのである。


 平然と平静と冷静を保って僅か 20分弱の移動。
所謂地元、ローカルフィッシング。
なのに、心は遠いところに行っている。
不思議な2011年。
 早朝3時というのに港のその場所だけはテンションが高かった。
船は前回のそれより、一回り小さい漁船である。
ありきたりの笑顔と挨拶早々に皆もくもくと準備にとりかかる。
 プレッシャーだけが高く、やはり心には良くないのであった。
この場は修羅場であって、勝手が違うと段取りは上手くは行かない。
 流す度毎に、仕掛けは絡んでくる。
舳の仕掛けまで絡んでくる。
ふと何気なくその仕掛けを見た。
PEは私の倍はあった。
ライン強度は80kg以上ものによっては120kg近くある太さ。
愕然としながらも仕方がない。
当然潮咬みも倍以上。
しかもスイベル直結には少々驚いた。
PEの直結は強度をかなり落とす。
直強度100kgでも半分以下に成りかねない。
しかしそれでも40kg強度があるので釣りには問題にならないのであろう。
 こちらはその半分の太さ。
当然ナイロンリーダ―は摩擦系結節である。
 それも今置かれている事実として受け入れまた投入する。
アーバン感覚では、その仕掛けの絡みもお互いの声掛けもあったり、無かったり終始同じ船上であっても
他人は他人、それもあかの他人である事がお互い個人の尊重なのであろうか?
 そのような事を考えていては、もはや魚との接点は無い。
全く釣りになっていない状態であったが、これもこの船に8人という詰め込みでは仕方の無い事であって
それをさらに受け入れて行かなければならなかった。


 思うには、6人が最大であろうと認識したが、それは替えられようも無かったのでそれも受け入れる事にした。
魚が魚だけに、出来れば皆が釣りになるギリギリの最大人員であって欲しいと願うのは私だけではないだろう。
釣り人なら、誰もが快適に釣りをしたいのである。
 現状の選択肢がなければ、仕方ない。で終わるしか方法はない。
しかし、いくら仕方がない事だと思ってもつらいものはやはり辛いのであった。


 そんな今日の午前、中盤戦。
それでも釣り人は投入し続けるのであった。
無論、先生も投入し続けている。
先の見えない暗闇の不安の中にあっても、釣り人は投入するのであった。
先生は私よりも、士気は高かったのかも知れなかった。
その理由は、はっきりしていた。
お隣ばかりか両舳からもお祭り(ラインタングル)の攻撃に悩まされ士気を保つのも至難の業であった。

 「アタっています。バイトです。」
と先生の声。
そう私に聞こえるように宣言してからしばらくバイトは続いている様子。
ちらりと声の主である彼の方を向き、さらに竿先を観てみると・・・・。
グングンとストリップガイド(バットガイド元)前まで竿がお辞儀をしているではないか・・。
リールレバードラグのポジションをストライクから少しバックさせてラインを送っている様子が伺われた。
私はお決まりの文句の如く、
「あわせるな!」
と言ってはみたが、逸る気持ちはそう言ったからと言って変わるはずもないのだが。
イシナギ釣りはいつもこの段階でフックアップしない事が多々あることに、バイト率に対してキャッチ率が悪い
という原因の一つがあるのであろう。


 「のりました!!(Hook up!!)」


もうこれは、必死に私の仕掛けを回収するしかない。
必死で己の仕掛けを回収するのにリールを巻き続けた。
 船長の指示がそれから少し経ってからあった。
指示の受け取り方も様々で、自分の仕掛けが絡む事を可能な限り無くす、或いは減らす事にあるのだかそれも
行動に移すアングラー次第となる。


 彼のロッド661-SU50KVGの巨力なパワーを持ってしても、とても良いカーブを描き穂先は海中を指していた。
ハーネスに体重を掛けてフルベンドでポンピングを試みる。
 案の定、彼の仕掛けには2つの仕掛けが絡んでいた。
PEラインは擦れには極端に弱くなる。
 このテンションで絡むと一瞬でラインは切れる。
手際良く、同船した超ベテランのO氏がすばやく絡んだ糸を上手く指示してくれ、なおかつ、素早い対処で
お祭り=タングルした他の仕掛けを外す事ができ、それを確認した彼が


「よし!」
と確認を入れなおしてから
11kgにレバーを設定したストライクポジションでポンピングを開始する。
そこれには伸されファイトは一切ない。
 11kgのドラグテンションを掛けられると、その先の魚は、そう糸は出せなかった。
時々ゴンゴンと元近くまで伸してくる魚信は、ある程度の大物の予感はしたがそこには、どのようなサイズが掛っているのか隣で見ている私には待ち遠しかった。
無論本人が一番待ち遠しかったに違いない。
 
 他の同船者は、今掛っているよりもはるかに小さい魚にも関わらずドラグはズルズルと滑っていた事を考えると
一体彼らは何キロ程度のドラグテンションで釣りをしているのか疑問に思えた。
しかも、彼のすばやいポンピングを観て小物が掛ったと勝手に理解しているのであるらしかった。
 5分が過ぎて8分近くになり、彼にも余裕が出てきた。
10m位下に例の影らしき魚影が目に入ってくる。
ゆっくりと円を描き、魚体が横になっているのが解った。
そして、その魚影は段々と大きくなるのであった。


「デカイ!」


その言葉以外には出てこなかった。
 ボカリと浮く。


「やったあ!!」


がっぷりと握手を交わす。
異常に我々だけのテンションが高かった。
辺りのテンションは変わらないのがものすごく滑稽に見えたが、もうそんな事はどうでもいいように感じた。
多少の周りの冷めたテンションとは事なり、感無量。
それは本当に大きかった。
一人では抱えきれないほどの胴周りであった。
 釣り人の感動はさらに抱えきれないほど至福の瞬間である。
棘状は、うどん位の太さがあった。
刺されたら死にそうだ。
 この魚がそこまでになるまで多くの苦難と環境に打ち勝ってきたであろう。
それを粗末にすることは出来ない。


 無論先生の心の中には、永遠に事実であって虚像にならないで欲しいと願うのであった。
暑い夏の午前であった。
 それでもまだまだ暑さは本番であった。
そして我々は港に帰った。


 その日の私の釣りはというと、彼の満足と至福を分けてもらったのが最大であった。
人生最大の魚を求めてまた求道者は、旅に出る。
偶像をつかむ事のないような道を見出すだろう。
それは実践のみにて打ちだされる真実なのである。


MOON 661-SU50kvg Stand up custom

後編Uに続く・・・・

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