DOGTOOH IN RYUKYU-05 
南方回帰Tその1
-For Shore Fisherman-VOL1
その始まり はもう1990年頃の事になる。
それがF先輩と師匠と私の始まりである。



それから更に15年経ってからの釣りとなった。
なんとも長いスパンでの話であろうか。
それでもつい明日の事の様に思いだされる。

 

 新緑が落ち着き始めて、虫や蛙の合唱と共に、狸やウサギ、小動物達が時々道路に出てくる。
はたまたキョン(旧行川アイランドから脱走したのが始まりと聞いた)まで出くわすこの頃、何時か再び必ず足を運びたかった南国へと渡った。


 そう思ったのが、冒頭にも述べた通り90年頃の事である。

最初に訪れたのは、93年の冬だったと思うが、空港とその周辺も寂れた感が満載であったかと思えたのだが、それから更に2005年までかなりの年数を要してしまった。


 今回は車で、、、という訳には流石には行かないので、、、途中でどうでも良くめんどくさくなる気持ちを押さえて、ネットにて格安なるチケット購入。
段取りや計画と間違ってチケットを取った為、バス、飛行機、船と乗り継いで1日で目的地にたどり着いた。
当たり前の事だが待ち時間のほうが長かったりする。

 西表にて半日過し、宿に泊まるが、、近所にコンビニ兼スーパーがあるのは確かに便利ではある。
この時期の南国はすでに梅雨に入り、真夏の台風直後のように蒸し暑く、紫外線もMAX状態。
 まさに、少々体脂肪が厚い人には辛いがこれは慣れるしかない。
驚くべきは、もう何年も行かないうちに八重山の中心都市である石垣はさらに急ピッチでリゾート化 西表も何だかその狭間で身もだえしているとか、、、、。

 ようやく辿り着くなり港の海を覗いてみると、トロピカルフィッシュ達は勝手に出迎えてくれている様子?
中には60cm以上ものも見えるし、ロウニンアジ=GTの大型も出入りすると聞く。
当たり前の事だが透明度は、すこぶるいい南国の離島である。

 ボートでの釣りは、遊漁船がないので様子観程度の半日で終了した。
魚種を選ばなければ、フエフキ類やシロダイは飽きない程度に釣れる。
それも30cmは小さい方で大きいと60cmはある。
 船頭さんの話によれば時々狙っても居ないのにカンパチも釣れる。
それでは試しにと30cm程度のハマフエフキを針に掛けてハーネスを締めなおした。
何流しか目に同船者にアタリがあった。
ぐっと竿を持って行かれてから、合わせに入る。
ヒット!そしてバレ。
その正体のわからぬまま終了した。
一体何が咥えていたのであろうか。

さてトライ
ハンドルバリエーションは多彩である。
釣方やスピンかコンベンショナル(両軸)かで大きく事なる。
そのコンベンショナルもの用途によってシート位置は大きく異なるのである。


2005年当時からするとカスタムバリエーションは大きく拡がって、コンベンショナルスタイルが圧倒的に増えた。

 

 今回は地元氏の全面的オファーもあり、氏を師として磯からのイソマグロ狙いを第一目的とした。
故に船から上がってから少しの休息の後、その夜からの強行軍でショアロッドに持ち代えていざ出陣した。
12f(1202-UM9XP BLUE FANG)と13.6f(1363-UM7P STAND UP SHORE)の2本を持って賽の河原のような岬を渡る。


これは、なかなか大変である。

汗が噴き出て来る。

肩には荷物の重さが更に増したような気がした。

 さて今回の仕掛けはと言うと・・。


今回は、師匠がすべて準備するのでその必要はないと言う事であったのでターミナルタックル(仕掛け)はお任せする事にした。
しかし、釣師にとってどのような仕掛けか解らずに現場に行くのはそれなりに不安である。
その不安を消し去るには、この仕掛けを一刻も早く伝授して自分のものにするしかないと思ったが、もう移動中の我々には次回の事とするしかない。
磯場に着くと、どっと汗また汗で風が止まるとすぐに汗が出てくる。
長袖のシャツはもうバケツで水を被ったようになっている。
まだ体が慣れていないせいもあって、いきなりくらくらとするし、竿を持つ気力を少しづつ奪い取るような錯覚だかそのものなのか判らない状態。


 しかし我々チーム勝連は臨戦態勢にて、すぐに道具をセットし始める。
足場は5m〜8m前後かなり高く、足元まで魚は近づくそうで、12f以下ではルアーの場合トレースしにくく少々苦戦しそうである。
(やるならジグか、、、。)


ドロップオフは約100mにあるそうで、そこまで魚が走ってしまえばブレイクは必至。
左右にも瀬があるらしい。
なんとも右も左も先も終わりのがんじがらめのような気がした。

 師匠の勝連氏は、久々の釣りなので島の皆に頼まれてボトムフィッシングと決め、淡々と高級魚といわれるヒメフエダイメインにてガンガンと釣り始めるが、ヒメフエダイ(ミミジャー)、ハマフエフキ、カッポレ等々・・・・フエフキ類を合わせてはフックアップ〜ごぼう抜き〜という具合で、案外良く引くバラフエダイは抜いてからライトを当てるなり「これは駄目だ、、、。」とあっさりリリースするに至った。

流石に誰しもシガテラは嫌らしい。

当然写真撮影もない。

 その日、師のまず第一に、
「これは(ラインの太さ)細すぎる。」
との意見であるが、ここで巻き換えするには少々やり辛く、そのまま35Lbメインライン(道糸)で決行する事にした。

 

 


忘れ去られていた大型ヒメフエダイ(ミミジャー)の画像を追加してみる。


 何流しかで60cmクラスのオオメカマスをぶち抜き、カッポレも1.5kgクラスもごぼう抜きする。


 それから・・・暫くしての夜半も過ぎたところで私の竿に変化があった。
我が竿 1202−UM9XPが一気に入り、とっさに合わせファイトの姿勢に入る。
一呼吸置いてライトタックルパッド(腹当て=ロッドベルト)のピンにギンバルをセット。
負荷が掛かってVS300から、ギーィーと金属クリッカー音を上げながら、ドラグが滑る。

そこ・・・・までは良かったのだが・・・・。


これもあっさり玉砕してしまったのである。
昼間の様には行かないものだ。(昼間でも駄目かも)
  日頃130LBしか使わない師には理解できないラインブレイク(糸切れ)であると言う。
再度「仕掛けが細すぎる。」
とのご指摘を再度受ける結果となってしまった。
 その後宿に帰宅してから、師匠の通常使用ラインは24号=80Lbと言う事が解った。
その日は師匠にとって、日常のおかずが手に入ったと言う事で、外道多数と底釣に関しては満足な結果となった。
 いわゆるおかず確保は完了したと言う事である。


 すっかり午前様で、午前2時を回ってから終了した。
まあ、最初はこんなもんかな。

そう思うしかなった。

実力不足も大きかったのだが。

次の日の釣りは

おきまりのアオチビキであるが あくまで外道

 翌日は師は仕事があると言うので、友人(元島人)と2人で開始。

 師匠の指導と指摘を受けて、本日は80Lbラインに巻き替えてある。
少しずつではあるが、理解度は上がってきた。


 やはり本日も夜半を回り南十字星が煌めき始める。
天の川も観えた頃、“きれいだよ”という友人の言葉に少しだけ天空を観察してみるのだった。


 高速でケミ浮きが移動して行くのが見えた。
なんの前振り無しにヒット!。
イソンボに間違い無い。

ぐっと腰を下ろしてしてフックアップ。
そして溜めに入る。
80Lbラインが出始めたころ、なんとも聞いた事もない糸の出方に戸惑う。

それからいくらもたたないうちにラインがバチンという音を立てて切れてしまった。
これには何がなんだかわからない感じで闇夜にはとてもびっくりな事であった。


またまたあっさりの・・ラインブレイク(糸切れ)。


右が1202-UM9XPとセットされたVS300リールベイルレスのフィンガーピックアップタイプのリールである。
当時最高級品であった。
これはラグサーのクラックと言うリールがそのルーツと言うのは、日本人の殆どが知らない。


ベイルアームのすぐ上でラインは切れたらしいが、まだ状況を理解していなかった。

なんの言い訳も出来ないまま ラインがベイルアームに何度も絡んでいた度に、手探りで解いていたのだが・・。
  この時はそのの傷も確認しなかったばかりか 勝負に移るやいなや1R完全予告KOにて・・・エンド。
流石にVS300リールのベイルアーム無のフィンガーピックアップ機構でこの闇夜では日頃あり得ないトラブルに見舞われた。
信頼の信頼リールと自分の技量の不甲斐なさにも少し呆れ気味であった。
悔んでも仕方がない程、こころも粉砕された。


画像は、同じフィンガーピックタイプのPENN 706Z USA製 
1996年頃購入のもので、 このような感じで絡んでいたのは全くのNGの極みだったと思う

 その後はジグに変えてキャスト&リトリーブするもヒットは無く断念した。
その日もアタリは、その1発きりだったが残念と言うには余りにも情けない話である。


 そして暫くしてから、友人の竿9Pが勢い良く曲がって溜めに入った。
ガーラらしきアタリにて、竿をかっちりと溜めると少々踏ん張ってみる。
 今度は、数分の攻防にてなんと、痛恨のフックアウトだった。

なんとも力量不足である。


 夜の磯は、なかなか思うようにはいかぬもので、結果ばかりを追い求めてもそう簡単にはいかないものだと改めて認識するしかなかった。、
当たり前だか、どこか一点でも詰が甘いだけで勝負にならない現実を突きつけられて、ただただ現実を受け入れて明日への課題としたのであった。
 受け入れ難い事もまた真実として受け入れる事が勝負の始まりになるのであろうか。
真剣勝負での負けは、即死であるが、その真剣勝負でなくて良かったと思う。

頼りないライトで引きあげる事にした。

そうこうするうち、もう最終日になってしまったのであるが。

 この日も師匠は、ボトムに徹して入れ食いモードである。
おかず釣に徹しきっている。

既ににトータル20〜30kは釣っている。

 一方私はというと、イソンボ一本に絞ってトライする事にする。

緊張の最中


やはり一気に持って行かれ、ギュンと竿が撓る。


空かさずそこはフックセットする。

溜めに移行して今度は上手くリフトアップする。
(んん、なんか違う引きである。)

師は「ああガーラだガーラ。」と一言にて、 そのまま5kg弱のGTをこれまたギャフの出番無しのゴボウ抜きにかかった。
 GTにもイソンボにも島人にはあまり関心のない魚ではあるが、私の中では今回の外道最右翼である。
サイズはGTというには申し訳なさすぎるが巨大メッキと言ったほうが適正なのは否めないのである。


 その後もオオメカマスの中大型がヒットするが、それを暫く泳がせながらゆっくりもたもたしていたら、いきなりドラグがでて外れた。
“えっ?”
仕掛けを 回収してみるがオオメカマスは、鮫かイソンボに喰われて頭から下は無い。
この喰われ方からしてサメなのは決定的なのだろうが、夢は消えていない。
 この日最後まで粘ろうとしたが風が次第に強くなり、課題を多く残して納竿し終了となった。

なかなか辛いものであるが
これも旅の趣

 ほぼ4日間2時間睡眠にて久々に釣りをした。
島は観光客が他島に比べ少ないが、それでも多くなったそうで島人は少しだけ戸惑いを隠せず商売っ気ムンムンの内地の人は、 それなりに今風の商売をしている。

 今回のガイドを務めていただいた勝連氏は島に帰島してからイソマグロにトライし始めトータル2t前後は釣ったそうで脱帽である。
その内容は次の南方回帰U Vでもも記載している。


今は仕事に追われて、年齢も積み重なり、次第にイソマグロ狙いの釣も減っていったとのこと。
 内地からはロウニン狙いで長期泊り込みの方もいて、3点式のロープワークをメインにした嘗て全盛期のあった釣りサンの「巨魚フィッシング」路線を持続しておられる方も居るそうだ。
素泊1泊2500円、隣は売店にて困る事も無い。

何時の日にかまたトライして行きたい。
望みは捨てず人はまた海に石を積んでいく。
それが捨石となって、いずれかはおおきな堤防になってゆくのかもしれないのだ。

2005年吉日

それから、何度もこの釣にトライするとは、今さらながら思いもよらなかった事である。
 11年と言うスパンはとても短いが、それでも周りの状況も釣も大きく様変わりして行った。

最重要課題でもあった仕掛けの取得は、その後少しずつ改良に改良を重ね、身内ではRYUSEIRIGU-KAI(流星仕掛け改)と勝手に命名した。
 2015年も多少の改良をしたが何といっても最初にそれを見いだした人が一番偉いと言う事には変わらない。
 最初に開拓した師匠には、尊敬の念を決して忘れてはいない。
昨今のこのリグ(仕掛け)事情も大きく様変わりして、さも1から自分で作り上げた最高傑作風に紹介するのは今後の守・破・離の3原則に反している事は明白であるが
そもそも、その理屈などどうでも良いと思っている輩には到底理解できない事かもしれないとおもった。
 その後参加しているJUNNやSYU、監督は、その先人の恩恵を多分に受けていると思う。


 なんと言っても便利になったのは、ライト(懐中電灯)である。
師匠達は、単4アルカリ電池4個入りの豆電球懐中電灯に追いこ無しのスタイルだった。
私自身も重いライトに電球がこの頃くらいまではメインだったが、20ルーメン程度のLEDも導入し始めた頃である。
2015年時点では、通常の普通クラスの少し上の280ルーメンを使用している事からすると想像を超えている。


また交通に関しては、航空事情が大きく異なってしまった事である。
これには当時からするととても悩みの種である。
それだけ911の影響も大きかった事になる。
そして2015年は、世界でも激動の年となった。

 師匠は、2015年時既に完全に磯からのイソンボ釣をリタイヤされてしまったが、その目は決して先を見ていたようであった。
釣の話となるとその皺の奥にある目を輝かせておられた。
この引き際は、言葉に言えないほど武人であると思う。
 引き際の難しさは、先輩方が良く承知の事であるのであえて割愛させて頂く事にした。


この間にも師匠のお父さんも既に故人となり、約100年の人生を全うされた。
一旦話始めると止まらない性格は、先祖代々なのか、それとも個性なのかは解らないが、師匠も師匠の父上もその妹様もとてもお話の好きな方であった。
 何時までも人は若くはない事を、若いアングラーに無駄とは解っていても話をしてしまう。
それは、彼らにはきっと将来がある筈だからである。
 一時の勝手に作り上げた名声など、ほんの灯にさえならないまま、忘れ消え去る事を知らないでいるのは、あまりにも不憫でならないと思う親心からかもしれない。
経験値に裏付けられた実践度を尊重して行かなければ、我々に明日はないと思う。

 最後になるが、この釣り紀行を続けるにあたり、10年以上も悩み続けた一番の課題は、釣りをしない人には全く理解されず、チンプンカンプンと言われて困ってはいるが、釣をする人対象なのだからまあいいかというつもりで続けて来た。
 だが、そこに落とし穴はあった。
釣をしている人と言う大きな括りでは、既に全く理解できないと言う釣り人の意見があったからである。

よくよく思えば2016年の時点では、釣専門誌、とりわけ紀行文等々メインの書籍と言うものは全く持って皆無に近くなっている上に、それを皆求めていない時代にネット上にそれに近い内容を記載してみても良く解らないと言うのがごもっともの様な気がした。

小学生の頃、無理して、釣り雑誌“フィッシング”を読んだのを思い出した。
それでも、当時の私(同世代)は、その意味が少々解らなくても、解ろうとして必死だったのかも知れない。

2016年1月4日追記
2016年1月8日追記並びに訂正

 

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