釣行記 
HOOK UP! -Bluefin 2002
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釣紀行の始まり
その始まりは2002年であるが、その後この紀行文がメインとなって続く事になろうとは思わなかったのだが


02当時のタックル。
中でもVSはまだまだ威圧感と存在感のあるリールだった。
いろんな意味でキングオブスピニングであったように感じる。
なんでも最初に手掛けた人は偉いと思う。

 

うだるような暑さが続く日本の夏も中盤に入る7月の中過ぎ、御誘いから思案の結果、兼ねてからチャレンジしたかった黒い魚雷クロマグロにターゲットを絞り西海岸に行く事となった。
 師匠が若きに多くの釣りをここで行ってきたと聞き、興味が元々あったのであるが、さてあまり日本人が行かないので周りに情報は多くない。


 一口にツナ釣と言っても、カゴメジ釣からトローリングまでその種類、大きさによって当然ながら釣り方も違う。

クロマグロは、マグロ類最大でその大きさと完璧なまでの紡錘形のボディ、最速の遊泳力と持久力を兼ね備えた筋肉、対向流システム搭載の体温維持ととどれをとっても惚れ惚れするほどすばらしい魚類の王だと一人決め付ける。
 そのクロマグロも現在ではタイセウイヨウクロマグロとタイヘイヨウクロマグロとに分れているらしい。
日本近海で獲れるものは、タイヘイヨウクロマグロであるが、今回も同じタイヘイヨウクロマグロがターゲットになる。

 長い空のエコノミークラスでの旅は、あまりにも退屈である。
LAにつく頃には時差もあってか、なんだか分からぬまま言われるままにチャーターバスに乗り込むのであった。

その間の観光とやらも折角なので良く良く見物したかったのであるが、集団行動の苦手な方もあってか楽しむ事は出来なかった記憶がある。


 それから3時間ほど揺られるとそこは、サンディエゴの港だった。
日本の港とは異なり、観光客と釣客、タックルショップ数件とバー、レストランと並びボートの数、大きさ共圧倒的にスケールが異なる。
CA式の釣を見たいのと、日本では、最近簡単に買えなくなった、50〜60Lbクラスラインを買いにタックルショップに立ち寄る。
当然なのかどうか、 スピンタックルなど無い!。
全く無い!。


 スピンなど子供の道具と見切っている白人店員の出鼻をくじきたくもなるが、ここは世界一を自負するUSA。
何を言っても日本が何処にあるのかどうでもいいと思っている連中に弾む会話は無い。
 どうやら思いっきり、なめられている様子。

さらに、なけなしの資金で調達した、DAIWA SEALINE900Hのスムースドラッグをくれと言うと・・・その回答は次のものだった。
「スタードラッグ?そんなのじゃブルーフィンは上がらないよ、、、。」

というような事を言ってるらしい,。
やはり馬鹿にされてる様子みたいだ。

 アメリカは、そもそも個人主義な国家であると言う。
更に 個性ある人々が多いと勝手に思っていたので、日本のタックルショップ以上に同じロッドが並んでいるのを見ると気持ち悪くなる。
(ほんと殆ど2社も竿で同じデザインのみ)


 海外まできて不機嫌になるのも馬鹿らしいので、ペン社インターナショナル2スピードやアキュレイトプラチナ、少し各下のプロギア、アヴェットなどをみて気を紛らわす。
(なるほど殆どのリールはステラより安かった)“うーん”
インターナショナル50よりステラ20000の方が高いとはなんとも衝撃的な事かもしれなかった。


 現地時間で午後8時を回っても辺りはまだ夕方で、日はまだ落ちていない。
時計で確認しないと何時か判らなくなる。


 其のうち暫くしてから今回乗る船、BIGGAME90に乗り込み出航となる。


日本でこのクラスの遊漁船は乗ったことが無いので少々年代を感じるほかは30人乗りの船を半分の人数でチャーターとは全く贅沢な話だ。

 今回はと言うと、日本式のスピンタックルでしかもミノーイングでブルーフィンを手中に入れるのがトリップのコンセプトらしい。
勿論 ○○さんを始め。この手の釣のエキスパート達皆さんが同船しているらしい。
皆さん個性派揃いで、よくもまあここまで個性派が揃ったものである。
その協調性は殆どない様にも思えたがそれはそれで仕方ない事で、良くあることでもあろう。
 特段気にする事でもないが、それがやはり気になった。
楽しい釣りの旅の筈なのだが・・・。

 釣竿職人としては、より幅の広いロッドバリエーションをこなすため、せっかくアメリカに来たのだから、彼らが世界一と称するCAスタンダップギアの釣を少しでも吸収し、日本でもノーウィンチスタイル、中でもスタンダップの釣法を流れに組み込みたいものだとおもったが・・・はたしてそれは如何に。

 ローカルでの釣り方は、豊富で圧倒的ともいえるフィールドの豊かさ、大きさの上に成り立っている。
ベイトとなるアンチョビー(カタクチイワシ)、サーディン(マイワシ)は絶えず活餌で容易に確保されていて、この容易に確保できるライブベイトの釣方に尽きる。
しかも、一流し毎に活きの良いライブベイトに付け替えると言う、日本では考えられない贅沢極まり無い餌の使い方であるのには多少の驚きを隠せなかった。
  メタルジグも手返しを優先する時やナブラ打ちなどには使ったりするそうだが、日本式のジギングとは幾分異なり、パターンはキャスト&フォール&ファストリトリーブに尽きる。
勿論底物にはYO−YOなどの釣り方をするが。(因みにジギング専用船というものは今のところアメリカには無いらしい)


 ロッドはブルーフィン狙いなら5〜7fまでのスタンダップロッド30〜80Lbクラスに、2スピードのレバードラグ搭載のコンベンショナルリール(両軸)にPE及びダクロンの下巻プラスモノを100〜200yd。
 ターミナルタックルは、眠り系サークルフックを直結。
リーダーはとらない。
(トップショットと言ういわばこれがリーダーになるが日本で言うロングリーダーの比ではない。)
ロッドベルトを基本的には使用し、100lbを越す大物にはハーネス等のスタンダップギアが必要となる。
老若男女タックルのクラスの差はあれど、だれも電動リールは使わない。
 シニアクラスの諸先輩の日系のかたがたもファイトの時間差はあれど30Lbクラスのビンナガやヒラマサをスタンダップで上げていた。
何れの方々もそれをゆっくりと楽しんでおられる様子だった。

 釣はこうでなくてはと思ったりもする。
リールが巻けない年になったら、大物釣など止めれば言いことだと一人勝手に悟る。


魚は何も何十キロもあるものだけが、魚じゃない。
昔の言葉にあるように“鮒に始まり鮒に終わる”ではないだろうか。
これが自然なあり方かも?知れないとおもった。
 さすがにランクルのウインチみたいなリールにボタン(レバー)を押して、ひたすら魚がポッカリ浮くの事を期待しながら、前に興奮し、何十キロもある魚を前に誇らしげにカメラの前に立つ老人をみて、冷静に観ても異常に滑稽に観えたのは私だけだろうか?
 それにしても、モーターのパワーには恐れ入るばかりである。

あっと言う間の船上での生活は
 4泊5日のロングレンジ、バハカルフォルニアの約500マイルの旅はそう多くの日本人が経験する事ではないのかもしれない。


始めてAVETを使ってみた
ロッドは601-SU30グラファイト

 勿論希望すればその現実は即目前まで来てしまう現在なのだが・・・それでもそれなりに決意はいるものなのか。

 アバコ(ビンナガマグロ)の群れにあたる確立は、日本の何倍いやひょっとすると何十倍も高いかもしれない。
初めて釣をする紳士淑女のみなさんでも容易にフックアップまで持っていける。


 リール操作は、クラッチを切ってベイトが泳ぐ程度にサミングしながらあたりがくるまで一定のラインテンションを保つのが基本である。
アタリが取れると、空かさずクラッチ(またはレバー)を入れる。
この微妙かつ、絶妙な操作が出来れば、フックアップまではそう難しいものではない。(言葉では簡単だが)
 この一連の動作が完了すれば、フックアップとなる。(合わせは追い合わせで良い)

 途中からアバコ(ビンナガ)はもう良いとの事で、その群れを避けてつつ何とかブルーフィンの群れを探す。
どうもそれなりに大変な感じだった。


ある面こんな贅沢な釣りは無いだろう。
日本では全く考えられない事である。


 しかし、ナブラは全く見えない。


ミノー(ルアー)の出番が・・・・消えつつあるのかもしれない。
 時折、洋上にちぎれて浮かぶケルプ(海藻の一種確か長いものは300mにもなるとか?)の塊に付くのはシイラではなくて、ヒラマサの群れであった。
その間、一気にに船上は沸きあがるのである。
はっきり言ってこんな状況は日本では見た事が無い。
型も大きいものは15〜17kg位あるだろうか?(アメリカではレギュラーサイズ)


ライブベイトは 一撃必殺!

ジグも襲う!

ヒラマサはスイッチが入るとイレグイモードに入っていった。

そしてそれならと、日本製シンキングミノー175mmをキャストする。
 ロッド操作は、トゥウィッチ&ジャークを繰り返す。
とヒラマサはヒットした。

久々の出番であるバンスタールVS300 BLACKが糸を吐き出す!

そして、幕を閉じてしまった。


ブルーフィンへの路は続きとなった。
 魚はまさに水物である。
いつもつれるものではないと独り悟ったトリップであった。

そしてブルーフィンはまた幻想となってしまった。

釣りは釣、されど釣。

魚と言う存在のある限り。

追う事になるのかもしれない。

海はすべて繋がっていて、そこにいる魚に差別も何もないのである。

そこには共存しかあり得ない。

吉田バンブー試作とそのリールのコンボ。
PENN SPINFISHER 9500SS+CCM POWER HANDLE

ブレイドラインは、まだSIMANOでは無い頃のPOWER PRO
当時は、これまた日本人には殆ど知られていなかったラインだった。

 


今回のトリップの釣果で水揚げではありません。


 釣った魚は、〆られる事はなく、濡れた麻袋に一旦入れられた後、クル―によって冷凍庫に押し込まれる。
今もそうかもしれないが、この後、アバコは港で待ち受けている缶詰工場のおばさん達に買われる。
そして、その場でスモークツナかツナ缶と引き替えられる。
合法的な物々交換だが、かなり小さく変わってしまう。
 それで何故か思い出したが、昭和のチリ紙交換車と同じ事か・・・と思ったが、果たして20代の人に解るだろうか。


これでも、そう多くはない釣果みたいだった。
本来ならここに100kgクラスのブルーフィンが横たわっていたのかも知れないけれど。

勿論州のレジュレーションは守ってます、、。

2002年夏

それからの14年後

記憶と言う心の中の風化は、とても早い気がする。
何故人は忘れるのだろうか。


人は、いつまでも同じ歳の様にはいかないし、そうではいられないのだが、それをついつい除外してしまっている事に気付かずにいる。
アナログ撮影をとり込んでの画像(BIGGAMEの船上にて)


2002年から14年後の2016年元気でこの船は営業されている様子であった。
人の記憶も風化して行くが、その風化を最小限にくいとめる為にも探しに探した結果トリップスケジュール表を見つける事ができた。

 この工房月のサイトを始めてから既に14年の歳月が過ぎようとしている。
当時は、今と少し事情が異なっていて、まだこの釣り紀行を始めるにあたり、デジカメの画像はその前に購入した120万画素程度だった気がする。
また私は当時、まだキャノンのアナログ防水カメラを使っていて、それを一旦、デジタルに変換してから取り込んでいた為に、多くの画像は残っていない。

このたった数分程度で読み切ってしまう釣行記に隠された話は、何せ7日間のトリップとそれに纏わる事なので本来ならば記載できるネタが沢山あった。

がしかし、当時それをそこまで書いておこうと思わなかった私がそこに居て、その事をそう深く感じる事もなかったのである。
 追記となると、既にその記憶から消え去ろうとしている部分も多いのが少し残念ではあるが、完全に無くなる前に記録してみる事も大切であると思う事に気が付いた。
なんとそれに気づかされるまでに14年近くなったのは、なんとも残念に思う。

 その当時の書こうと思っていなかった釣以外での出来事を、最近の紀行文では少し加えているが、この頃は釣の部分だけで終わる感じが何故か良いとおもったのか忘れてしまったが、今となっては単純に釣動画が楽しめる環境が整っている時代で、その部分だけを敢えて言葉にする意味も薄らいできたのではないだろうかとも考える。

 そのような中で近年の文には、道具に関してのものが多くなってはきたが、出会いやきっかけと言った内容の部分をもっと多くいれて(記載して)おけば良かったと筆者は思っている。
 いつか再びロングレンジに行こうと師匠と約束してそう思っていたが、現時点では再びCAに行く事もなくなった。

このトリップの期間の合間に、長年お会いしたかった、KENNCOR SPORTSのKENNY社長にお会いしたのが、またもやこれも最初で最後になってしまった。

 氏は、出身を同郷の呉市だったので、いわば大先輩である。(奥様は奄美の出身とお聞きした。)
その後、KENNY師とはメールで何度かやり取りしたが、数年後お亡くなりになった。
今思えば、なんとも後悔をエンドレスでしてしまうのである。
 呉の街は、DAIWA発祥の地である事は、あまり知られていない。
創業者は、呉の街で写真機の距離計を製造していたと、師匠からお聞きしたのもこの当時だった。
それから敗戦後から1ドルリールを輸出したのが同社のはじまりらしい。

ダイワ精工がこれから世界のDAIWAになって行く事を呉の街で思われていたのであろうか?

故KENNY氏は、このDAIWA USAの営業部長であったとその時お聞きしたのであった。

 それから14年後は、道具も様変わりして、好きだったCA製軽量リールのNEWELLは、その創業者が亡くなる事によってその幕を閉じた。

 また、時代の流れに負けて同じく廃業してしまったが、紀行文にも出てくるPROGEARと言う会社のREELは、そのシンプルさとデザインに惚れ込んでしまい、1990年代後半に2台買ってしまった。
その多くはバラムツとアブラソコムツに使われ、カンパチやキハダのジギングに使った。
これも残念な釣具の歴史である。
 現在も、それは売られる事もなく、3台を当方が所有している。

 後半の紀行文、南方回帰Xにも出てくるその後AVET REELは、私の主戦力となった。
また、同紀行文に関係する内容としては、ACUURETEはまさかのスピニングを本当に作ってしまった。
これも、この船乗船前に出会った人ががきっかけである。
例の鮫のデザイン画の話の中のくだりは、実は今回語ったのが最初であると思うが、これも誰がどうこうと言ってもなんの証拠も残されていないのである。
時として人の会話は、特別に記録でもしない限り残るものではないのが普通であるとおもった。


なんの巡りあわせだろうか?

偶然の必然であろうか。

偶然が必然を呼ぶのであろうか。

必然の中の偶然なのか。

卵が先で鶏が後なのか

鶏が先なのか。


鶏の前がひよこだろう。

 無機物にしか過ぎないリールと言う道具であっても、人と言う縁と円と線で繋がっているのかもしれない。
それが、人がもたらす物の力なのかもしれない。
 そう思えば、そう簡単に中古屋さんに出す訳にはいかない気になるのは私だけであろうか?
様々な事情によって流れてしまうのは致し方ないし、廃棄するよりはずっとましなお話ではあるのは重々承知しているのだが。

いろいろ思ってはみるけれども

私と言う存在は、そうメディアや業界に大きな影響を与える者ではないのでそれなりの話になってしまう。

 再びKENNY氏の話に戻るが、それでも呉でわずか数年しか存在していなかった、KENNCOR ロッド専門店は現在で言うところのアンテナショップの走りだったのかもしれない。
  当時中学一年の13歳だった私達少年にとっては、忘れられない事実であり、その影響を多分に受けたのであった。
その13~15歳頃の思いは、その後CAまで行く事になる事を一体当時の自分自身が想像する事ができたであろうか。

BIGGAMEの釣座は360度回れるようになっていて、 日本の遊魚船とは大きく事なる構造である。


 その呉の店を畳む事になった時、とても残念に思えたのを思い出してみるが、何とか記憶だけでも復活してみたいと思った。
なんとも大人の事情と言うのは、子供には当然受け入れられない現実であるのは、今も昔も同じだろう。


 これらの事柄は、当時の私には全く思いもよらない事で、想定どころか想像すらしていなかったのである。
その事は、はっきりと考え及ばずと断言できる。

自分が何をしたいかも自由に考える事もできた歳でもあった。
丁度日本と言う国が、先進国となりつつある時代でもあった。

 最後になってしまったが、ここに出てくるツナキャスティングなる釣は、当時まだ確立されてはおらず、試行錯誤の時代で幕開け後であった。
よってツナキャスティングロッドと言う専門の竿、とりわけ大型ツナ用となると殆ど無かった時代でもある。
(皆無と断言しても良かったとは思うが、一部では既に製作していたかもしれないが、もしそうならば月竿がその走りの一つだったかもしれなかった。)
 その後、日本でも多くのクロマグロがルアーで獲られるようになり、当然専用竿も多く出回り、スピニングリールの性能も格段に向上した。
耐久性も上がり、このクロマグロに必要なドラグ耐久性も2002年当時からは数段レベルアップしたのではないだろうか?
と同時に、その手の先生や名人と言う人々が多く現れて、幸か不幸か地球環境の変化により、相模湾にも沢山のキハダマグロが入るようになり一層拍車をかけたようにも思える。
 ここ房総にも震災移行、超と名の付く大型のヒラマサまでペンシルベイト等のルアーで釣られるようになった。


 今後の温暖化の影響はどうなってゆくのだろうか。

2002年頃のKENNY大先輩は
かなりご高齢になられていたが、やる気は削がれてはいなかったようにお見受した。


この時CAの会社訪問した際に頂いたチラシ
今更であるがカラーで欲しかった 。


KENCOR社最後の開発案内となったこのパンフも廃棄せず取っておいたのを思い出して探してみた。
ファイルされていたので何とか見つける事ができたのは少し嬉しかった。
 当時現物を拝見したが、なんともアメリカンな作りでグリップは、ハイパロン製であった。
ハイパロンは、日本人にはなじみの無いマテリアルであるがアメリカには多い。
EVAよりも握ると潰れて行く感じのするこの素材は、これまた日本人には全く受けそうもなかった。
 2002年当時は、シーカヤック用の竿も日本では見られなかったが、KENCORにはしっかりラインナップされていた。

CA育ちのPRO GEAR REELである。

440はこの釣行で里帰りしたが良い結果は出せなかった。

このサイズが最大機種となっていた。

シンプルで実践向きで及第点なリールだった。

90年代後半近くまで釣り雑誌でも掲載されて販売されていた。

何れにしても日本では全く振るわなかったが、日本の沖釣り市場は

電気仕掛けモーターリールに依存していたので致し方ないところだった。

その流れは益々加速していて主戦力となっていると思われる。

電動スタンディングなる釣方もあるが、筆者はそれを行った事がないので

一体どんな楽しさや夢が潜んでいるのかは解らないが電気の力と小型ハイパワー化するモーターが偉大なのは理解できる。

今更ながらこんなリールは、日本では売れないと思う。


PENNで言えばSENETOR133サイズでスタードラグ搭載で基本は殆どそのセネターであった。
ドラグはスムーズドラグ社の製品が使われていた。
ハンドルは、今の日本メーカーのリールにも影響したのかもしれない。
その後のスタードラグもステン打ちぬきの時代から、大きく変わった。


KENCOR46 MAGNAGLASS 最初で最後となったKENCOR HIROSIMA社製 グラスロッド 日本製
そのガイドは当然SICなどではない。マッチガイドと呼ばれる小さなガイドが数個付いていたが、ストリップガイドはかなり小さかった。
残念な事にカタログは捨てられてしまったがsicラインナップは無かったと思う。

 その1981年頃に購入したKENCOR RODは、その後の(1987年7月写真にはそうあるが)1989年頃に渓流にて完全無放流河川でのエゾイワナの46cmを獲る事になった。
リールはオリムピック製でこの頃はこれも日本製であった。(画像の機種は忘れたが、竿と同じ時期に呉で購入したもの)
ラインはストレーン4Lbだったか忘れてしまった。
ルアーは、当時エバンス社製であったハスルアー1/8ozブラック&プリズムであった。
 当時は、この竿の持つポテンシャルをさほど理解していなかったが、ほぼ円近くU字になる竿にとてもしびれた。
腐りかかった昔の写真を思わず引っ張り出してみる。
 当時は、アナログ時代でPCは大学の研究室にこそあったが、とても使える品物ではなかったし、関心もさほどなかった。
がそれでもワープロなどと言う化石のようなものを後生大事に使用していた時代である。
 当然写真は、すべてフィルム現像であるが、何分貧乏学生と言う立場にとってカメラは貴重品であった。
また現像とプリントで結構出費した。
従って、せいぜい今は殆ど見なくなった“うつるんです”使い捨てカメラでの撮影が殆どで、昭和生まれなら誰でも思っていた事だが、現像処理をし終わるまでその写真がどう映っているのかとても不安であった。
 この竿で、イワナ、ヤマメ、アメマスを何本とったかと思えば数えていないので不明であるが100本や200本では無かった様に思える。
この竿のレコードは上記のエゾイワナであったが、次の魚は小型のアメマスの35p程度のものである。
 周りは無放流の小河川が多かったが、アベレージは20〜25cmが多かったが30弱も案外釣れた。
その後この竿は、学生時代に不注意で折ってしまった。
この竿はもう永遠に造られる事はないのだ。

これらの全てが、点から線になりかけた頃の道具達。

その道具達のおかげで今がある。

最後の最後に
 それでも、話はしておかなければと思って追記に至っているのかもしれない。
その対象が誰かも何かも解らずに・・・・。

 2016年もあっと言う間に早12日が過ぎようとしている。
今年の流れはもっと早いのだろうかと思ったりする。

この竿は、2002年当時のボートスピンの納品前の状態で撮影したもの。

シリアルは1200番代である。

世界の激動は止まりそうもないが

皆さんに幸が訪れる年であるように祈るばかりである。

2016年1月12日追記

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