Aprile(ナンニ・モレッティのエイプリル)
チラシの『あのモレッティ、遂に父親に?』という文句はたぶんこれまで見てきたファンにとっては寝耳に水である。 彼のイメージといえば、マザコンで、靴フェチで、お菓子好きで、「赤いシュート」で娘を登場させても大多数の人が、 「僕のビアンカ」のミケーレが実像と疑い、彼は結婚できないのではないかと思ったに違いないからである。 しかし、ファンとしてはみな一様に「よかった」と思ったであろう。 「親愛なる日記」で九死に一生をえたモレッティが子供をもつようになるなんて、「彼は進歩している!」。 そんな感じを受け、彼のその後を観に、この「エイプリル」に臨んだのであった。 果たして彼は変わっていたのか? わたしの答えは、Noである。彼はわたしたちの思っていた彼であった。 間違いなくモレッティそのひとであった。 政界のことで一喜一憂し、自分の映画に情熱を注ぎ、ベスパに乗り、わざわざけんかを吹っかけ、マンマに電話をかけ、 青と白の子供の靴を揃え、「今すぐコーヒーが飲みたい!!!」とわがままをいい、歌を歌い、踊りにこだわる。 だから、あのさわやかにコップの水を飲み干す「親愛なる日記」のラストシーンの見開いたまなざしは、 「これからもナンニ・モレッティ本人でいられる」という実感のまなざしだったのだ。 わたしは、もしかしたら悟りのまなざしなのか?と疑っていた。 確かにある意味悟っていたであろうが、人生をまるっきり変えてしまうような種類のものではなかったであろう。 しかし、この映画は父親になった事実も、子育ての事実もすべて入ってはいるが、子育て映画ではない。 単なる彼自身に起こったエピソードの一部に過ぎない。 彼はいままで以上に自分じしんを語り、自分の行き着くところをまだ模索していた。 映画を撮っていくことと生きていくことが同じところに存在し、 いくつものエピソードを超えて自分を阻む事柄を取り払っていくような印象を強く受けた。 その点で言えば、彼は進歩していた。 映画作りの困難さをそのままみせてしまう、まるで「メイキング・オブ・ナンニ・モレッティ」のような映画。 見ている途中実は少し退屈な感じがした。が、それはあとから思えば彼の迷える気分が移ってしまっただけである。 ナンニ・モレッティの苦悩がにじみでる映画なのである。 前作までもそうであったが、今回も音楽が多彩である。 サルサ、マンボ、ピアノ曲、そしてモレッティのくちずさむのはイタリアンラップのジョバノッティである。 毎回彼が歌うのを楽しみにしているのはわたしだけではないはずである。 もしかするとモレッティじしんが一番楽しんでいるのに違いないであろう。 さて、彼がマントを着なかった理由はわたしにはわからないが、黒のマントは結構似合っていた。 でも、ほんとうに切抜きをやめてしまったのか?ああ惜しい、と思ってる人はたくさんいそうである。 過去を清算するのは時々必要だ、とガラクタの中で暮らすわたしは身につまされるのであった。