黙想会へ行こう(その1)1/10


 1月10日土曜日に、中野島教区の若手の女性4名で、あざみ野にあるケベック・カリタス修道院のシスター湯原を訪ね、黙想会を行いました。
 黙想会というのは、聖書を読んだり、指導して下さる方の話を聞いたりしたあと、静かに一人一人の心の内で考える時間を持つものです。忙しい日常生活からしばし離れ、自分の内面と向き合うことは、心を養う大切な経験となります。
 泊まりがけで行う黙想会も珍しくありませんが、今回の黙想会は土曜日の午後1時より,5時までの短い時間のものでした。参加者は中野島に住む未信者の女性も含めて5名のミニ黙想会でしたが、聖書の読み方から始まり、「主の洗礼」にちなんだ「洗礼」についてのお話などを伺い、充実した時間を過ごすことが出来ました。

1. 聖書の読み方その1
 シスター湯原のお薦めは、詩篇でした。「詩篇はミサ中の歌にもなっていますが、あれはきれいなところを選んで歌っているだけ。詩篇をよく読むと、いろんなことを言っています。生々しいことも言っているし、きれい事ばかりじゃない、実に変なことも言ってる。でも、それがとても面白いのよね。」と・・。
 改めて読んでみると、うーむ、なるほど・・なかなかカゲキですね。でも、自分の敵に対して、似たようなことを心の中で毒づいた経験は私にもあります。でも、それは大きな罪であり、間違っても神に向かって叫ぶようなことではないとも思っていました。「日本の祈りって、なんかきれい事すぎるような気がするの。」
 確かに、この詩篇のように、本音をぶつけるような祈りを今までしたことがあるだろうか・・?と、考えさせられたシスターのお言葉でした。

2.「洗礼」について
「『洗礼』というのはね、身を浸す、沈めるって言う意味です。身を沈めるというのは、身を低くすること、人として低く生まれたキリストと、共に生きるということなのです。」
「キリスト者の目線とは、上から下を見るものではなく、下に連なっているところにあるものです」「キリストの死と復活にあずかる、という時、私たちはともすれば復活の栄光にばかり目がいって、キリストの死が、惨めな、人として一番低い死に方だったということをあまり考えません。キリストが低いところにいらしたんだということを、忘れがちですね。」
「共に生きる」と言葉で言うのは簡単ですが、これは難しいことです。相手のすべてを認め、受け入れることが出来て、はじめてできることなのですから。
「自分の子どもすら、すべて受け入れられないのだから。」
「でも、誰を認めるより、自分の子どものすべてを認めることが、一番難しい気がする。」
 参加者の子育て真っ最中の3名は、ちょっと脱線して、うなってしまいました。

3. 自分たちでつくる黙想会
 そして、フリートークの時間。子どものこと、親のこと、シスターが今通っている施設でのこと等々。最後に修道院の聖堂をお借りして、お祈りの時間を持つことになりました。
「はい、あなたは聖書のどこを読むか選んで。あなたは聖歌を選んで、お祈りをつくって。」
シスター湯原との黙想会は、「自分たちで何をしたいか考える」のがモットーとか。次回までの宿題も「自分たちで聖書の好きなところを読んで、考えてくること」でした。かわいらしいイラストのついた付箋を一人一人に手渡しながら、「どこから読んでもいいから、読んだ所につけておくこと。次はそこから読んでいきましょう。」と、シスターはにっこり。今度来るときは、いっぱい付箋のついた聖書を持ってこられるといいですね。

今回、黙想会へ行こうと言いだしたのは20年前、シスター湯原とずっと一緒に勉強していたという山崎さんでした。
「学校を出て、就職して、結婚して子どもが出来て・・。ずっと黙想会から遠ざかっていたけれど」洗礼を受けて20年目の成人式、ということで思い立ったとか。確かに、仕事や子育てに追われて、ミサにでるのが精一杯。黙想会に行くチャンスはなかなかありません。「シスターを呼びだして、話し込んだのよ。」この行動力は尊敬です。
そして、その結果「これから月一回ぐらいのペースでやっていこう」ということになったのです。
次回は2月14日の予定です。


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