聖グレゴリオ一世教皇教会博士(9月3日)(540〜604)

ラテン教会四大教父の一人。ローマの元老院議員の息子で莫大な遺産を貧者に施し、最後にはローマの自宅を改築してベネディクト会修道院とし、自分も修道者となった。590年に修道士としては初めて教皇に選出され、教会の内外に対して絶大な指導力を発揮した。ゲルマン民族の侵入で混乱するイタリアにおいて、教会の未来は北ヨーロッパにあると考え、イングランドへベネディクト修道士を派遣し布教に努めた。またミサ典礼文を定め、典礼を根本的に改革した。グレゴリオ聖歌の生みの親で典礼の音楽的統一も企画した。

聖マタイ使徒・福音記者(9月21日)

聖マタイと天使 ・グイド・レーニマタイはカファルナウムという町で徴税人をしていた。徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマの手先で、不正を行う者も多く、ユダヤ人から罪人とみなされ忌み嫌われていた。
『マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マタイ9:9)』
そしてマタイはイエスの弟子の一人となった。
マタイは、当時のユダヤ社会で使われていたアラマイ語で福音書を分かりやすく書き記し、旧約の予言がキリストにおいて実現されたこと、キリストが真の救い主、真の神であると強調した。

聖テレーズ(テレジア・幼いイエスの)(10月1日)(1873〜1897)

テレーズは1873年、北フランスのアランソンで信仰深い家庭の11人兄弟の末っ子に生まれ、謙虚、従順に育った。9歳の時に2人の姉の後を追って修道会に入ろうとしたが年が若く許されなかった。15歳でリジューのカルメル会に入会してからは、神に全てを委ね、幼い子供のようにもっと謙遜に、もっと小さくなるように努めた。1897年、結核に冒され24歳の若さでこの世を去ったが、晩年、院長の求めに応じて書いた自叙伝『ある魂の物語』は多くの人に読まれ、その聖性はやがて世界中にとどろき、リジューは一大巡礼地となった。

アッシジの聖フランチェスコ(フランシスコ)(10月4日)(1181〜1226)

イタリアのアッシジの商人の家に生まれた彼は、裕福な青年時代を送った。19歳の時、アッシジの聖フランシスコ功名心にかられてアッシジ軍に加わり戦地に赴いたが、まもなく病床に伏し、夢うつつの中、神の声を聞き、回心し、それからは弱者の世話に明け暮れ、自分の持ち物一切を貧者に分け与えた。フランチェスコの父は息子の変わり様に驚き、教会のために家の財産が費やされるのを嫌い、勘当した。フランチェスコは着ていた衣服をも父に返し、これからは天におられる神を父とし、神に従う決意をした。そして同志とともに隠棲して清貧の生活を送った。身には褐色の粗服をまとい、腰に荒なわを締め、はだしで説教して回った。やがて周囲の人びとを感化してゆき多くの同志が集まり、教皇から許可を得て、「小さき兄弟会」、のちの「フランシスコ会」と呼ばれる修道会を創立した。 
彼の精神は、絶対的な清貧、慎み、貞潔、歓喜に包まれての神への賛歌である。神との深い交わりからわき出るフランチェスコの説教は、強く人びとの心をとらえるばかりか、小鳥、魚、羊、おおかみさえ聞き従ったという。
平和を求める祈り』はこちらです
アッシジの聖フランチェスコは百合ヶ丘教会の守護の聖人です。)

聖ルカ福音記者(10月18日)

聖ルカ福音記者ルカはキリストの時代にシリアのアンティオキアで生まれ、ギリシア人医師であった。新約聖書の中の第3福音書と使徒言行録の著者である。パウロが2度目と3度目の宣教旅行を行った際と、ローマで捕らわれていた時に行動をともにしていた。ルカ福音書は、貧者や人生の重荷に苦しむ者へのイエスの愛を強調しており、またイエスの幼少時代を詳しく書き記したり、聖母アリアや女性たちを重要視している。
また教会の伝承では、ルカは画家でもあり、聖母マリアとイエスを描いたといわれている。そのため、医師と画家の保護の聖人とされている。

聖ザカリアと聖エリザベト(11月5日)

ザカリアとエリザベトはイエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネの両親です。ザカリアは 祭司で、2人とも、主のすべてのおきてと定めとを落ち度なく踏み行い、神のみ前 に正 しい人でした。エリザベトは不妊で、2人とも年老いていたので子どもはあきら めて いたのですがある日ザカリアが聖所で香をたいているとそこに神のみ使いが現れて「あなたの妻が男の子を産むから、ヨハネと名付けなさい」と告げました。が、 ザカリアはそのことを信じなかったため口がきけなくなりました。そしてエリザベトはお告 げのとおり男の子を産みました。子どもの名前を決めるときザカリアが「その名 はヨハネ」と書くとザカリアの口が開け話せるようになりました。そして神をたたえ賛美しました。

聖セシリアおとめ殉教者(11月22日)

初代教会の迫害時代、篤い信仰をもっていたセシリアはローマの裕福な貴族の令嬢 として生まれながら質素な身なりをして貧者に施しをしたり危険をおかして殉教者を埋葬したりしていました。彼女は、父の望みの異教徒の青年と結婚しましたが、神さまに終生童貞を誓っていることそのため天使から特別守られていることを告白します。夫はその天使を見たいと願い、その結果改宗するに至りました。つ づいてその弟も改宗し、2人は殉教者の死体を埋葬していたところを告発され死刑 となってしまいます。妻であるセシリアも、信仰をけっして捨てなかったので拷問にあい、殉教します。この3人の、強い信仰に多くの人々が心を動かされ回心しまた。セシリアの遺言によって彼女の家は聖堂となり、彼女の遺体も安置されています。また、セシリアは音楽の聖人でもあり、ローマの国立音楽院の名前になっています。

聖カタリナ・ラブレ修道女(11月28日)

カタリナ・ラブレは1806年、フランスの ディジョンにほど近い小村の生まれです。9歳の時に母親を亡くし少女カタリナが父の仕事の手伝いから家事にいたるま で よく働きました。忙しいながらも信仰に篤く、カタリナの祈る姿がよく見られ ました。父は反対でしたが1830年愛徳修道女会の修道女になりました。その直後、カタリナの前に聖母マリアが2度にわたって現れます。そして2度目の出現(11月28日)の際に聖母マリアはカタリナにメダイを作る使命を与えたのです。その時のマリアさまのお姿はメダイの表側に表されており、マリアさまの周りに書かれた"O MARIA CONCUE SANS PECHE..."(原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉るわれら為のに祈り給え)という言葉もその時そのように現れたのものです。マリアさまはその際「この姿のとおりにメダイを作ってもらいなさい。そのメダイをつける人は残らず大きなお恵みを受けるでしょう。信頼する人びとには豊かな恩恵が与えられるでしょう」と、おおせになりました。そして、メダイの裏側のMの字と一本の横棒を土台にした十字架、その下に2つの心臓(1つはいばらにかこまれ、1つは剣に貫かれていた)これらを取り囲んだ12の星もカタリナの前に現れたのです。このメダイの普及に伴って数え切れないほどたくさんの病気の全快や驚くべき回心が起こったのです。今でもこのメダイは多くのカトリック信者から愛され、身につけられています。カタリナは1876年70歳で天に召されました。彼女の遺体は120年以上たった今日でも変わることなく美しいままで修道会の祭壇の下に安置されています。   (修道会 Chapelle Notre-Dame de la Medaille Miracculeuse 140,rue du Bac Paris 7e)

聖フランシスコ・ザビエル司祭(12月3日)

日本へ来た最初の宣教師です。
フランシスコは1506年スペインのナヴァラ州のザビエル城に生まれました。18歳の時からパリ大学に学び、そこで出会ったロヨラのイグナチオ(イエズス会の創始者)の感化を受け、彼と他の学生と共に清貧と貞潔を誓い、宣教師になりました。31歳で司祭に叙階されたのち、ポルトガル王の要請とイグナチオの命令により東洋布教に乗り出します。まずインドのゴア、マラッカへ行き、そこで日本人に出会い日本へ布教することになりました。1549年鹿児島に上陸。鹿児島、平戸、山口で福音を宣べ伝え数百人に洗礼を授けました。天皇に会うため京都を訪れたが会えず山口に戻り宣教に専念。そののち中国に布教へと向かったが広東港外の上川島で惜しくも病気に倒れ、亡くなりました。

聖ニコラオ司教(12月6日)

「サンタ・クロース」の名で知られ人気が高いのがこの聖ニコラオ(オランダなまりでサンタ・クロース)です。ニコラオは270年小アジアのパタラの生まれ。財産家の信心深い両親のもとで知恵のある行いの優れたものとなり、両親の死後、その遺産を貧しい人たちのために使ったといいます。なかでもある貧しい靴屋の3人の娘が売られようとされているのを知りニコラオが夜中窓からお金を投げ込んで娘たちを救った話が有名です。これがもとになり西ヨーロッパでは聖人の祝日の前夜に子供へそっとプレゼントする習慣ができ、それが広がるにつれ今の「サンタ・クロース」になったのです。ニコラオは子供、商人、質屋の守護聖人ですが、難破した船乗りを救ったことから船員の守護聖人でもあります。

聖ルチアおとめ殉教女(12月13日)

ルチアは「光をもたらす者」という意味から眼の守護聖人となっています。またナポリ民謡「サンタルチア」もあるように民衆に親しまれている聖人です。

ルチアはキリスト教迫害の時代、イタリアのシシリー島シラクサの裕福な家庭に生まれました。両親とも熱心なキリスト教徒でした。父の死後、母の健康がすぐれず聖女アガタの墓に巡礼し熱心に祈ったところ母の病気がいやされたのです。この奇跡を機会にルチアは身も心も一生神に献げたいと願い、シラクサに帰ると財産を貧しい人に配りました。この行為を求婚者の青年が知事に訴え棄教しなかったためにルチアは剣で殺され殉教しました。


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