聖マリア・ドメニカ・マザレロ(5月13日)

「扶助者聖母会」の創立者。1837年、イタリアの山村、モルネーゼの貧しい農家に生まれる。17歳のとき、「無原罪の聖母の娘たち」という信心会に入り、家族と共に生活しながら、村の娘たちと共同で信心に励み、徳をみがいた。その後、村の少女たちのために、裁縫教室を開き、子どもたちを預かる養育施設をつくった。
その働きに注目したのが、ドン・ボスコであった。彼は貧しい少年たちのための教育に生涯を捧げていた。ドン・ボスコの助けを借りて、マリア・ドメニカ・マザレロは少女たちにも教育の機会を与えた。
やがて、「無原罪の聖母の娘たち」は「扶助者聖母会」として、修道生活を始め、南米への宣教にも旅立っていった。
マリア・ドメニカ・マザレロの伝記:『いつも喜びを マリア・マザレロ』ドメニコ・アガッソ著 やなぎや けいこ訳 (定価1300円 ドン・ボスコ社)

洗礼者聖ヨハネ(6月24日)

キリスト洗礼 ヴェロッキオ聖母マリアのいとこ・エリザベトの年を取ってからの子。ヨハネは荒野で預言者として活動し、人々に悔い改めを説いていました。ヨハネの回心運動はイエスの福音宣教の下地をつくりました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりもすぐれたかたが来られる。わたしはそのかたの履き物の紐を解く値打ちもない」(ルカ3:16)といっていました。しかしイエスの望みに従って、ヨハネはヨルダン川でイエスに洗礼を授けました。

聖ペトロと聖パウロ(6月29日)

聖ペトロ・・・貧しい漁師であったペトロは、弟アンドレと漁をしているとき、イエスに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」といわれ、イエスの弟子になりました。初めシモンという名でしたが、「岩」を意味する「ペトロ」という名前をイエスからつけられました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16.18-19)。この権威をもって、初代教会を導き、最初のローマ司教となりました。後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり教皇としてペトロの使命を受け継いでいくことになり、教皇職は、ペトロの座とも呼ばれています。
 ペトロは皇帝ネロのキリスト教迫害の時、十字架に逆さまにつけられて殉教しました。

聖パウロ・・・パウロはギリシャ系のユダヤ人でファリサイ派に属し、キリスト教徒を迫害する立場にありました。ところがある日、ダマスコに行く途中、突然天からのイエスの声を聞き、地面に倒れて目が見えなくなりました。このイエスとの出会いによって、パウロは回心し、「イエス・キリストこそ神の子である」と固く信じて、熱心に宣べ伝え始めました。しかし、ネロ皇帝の迫害にあい、ローマで捕えられて殉教しました。パウロはイエスの福音がイスラエル民族のものだけでなく、それ以外の文化を持つ人々のものでもあることをのべ伝えるために、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネをまわったので、「異邦人の使徒」と呼ばれています。新約聖書の中にある、彼の書いた手紙は、彼が設立した教会にあてて書いたものです。疑り深いトマス/カール・ブロック

聖トマ使徒(7月3日)

イエスの12使徒の一人、トマはイエスが復活して弟子たちに現われたのを聞いたとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」と言った。ところがイエスの出現にあうと、「わたしの主、わたしの神よ」と叫んだ。イエスはトマに言われた「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:25〜29)

地図聖大ヤコブ使徒(7月25日)

ゼベダイの子ヤコブは弟のヨハネと共にイエスの弟子となった。2人はイエスから「雷の子」と呼ばれるほどの激情家だった。(マルコ3:17)12使徒の一人として働いたがAD40年頃パレスチナの王によって斬首刑にされた。そのヤコブの墓がスペインにあり有名な巡礼地となっている。そこをコンポステーラ(星の輝く野)というが、それは長い間不明になっていたその墓を星が示してくれたことからきている。聖ヤコブはスペインの守護の聖人となっている。

聖マルタ(7月29日)

兄のラザロが病気で死んで4日もたった後にイエスは弟子たちを連れてベタニア(マルタの住んでいた村)に来られた。マルタは村はずれまで出向かえて言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(ヨハネ11:21〜22) この厚い信頼と信仰のゆえにイエスはラザロを生き返らされた。

聖イグナチオ・ロヨラ(7月31日)(1491-1556.7.31)

スペインのバスク地方に生まれ、兵士として活躍したが戦いで重傷を負い、臥床中キリストの伝記を読み深い感銘を受けた。けがが快癒してから、彼は償いと苦行の生活を送り、そこで得られた霊的体験が有名な著書『霊操』を生み出した。今まで国家を守る兵士として働いていたように、これからは「キリストの兵士」となり、同士を集めて霊的十字軍(イエズス会)を起こし、真理の為に戦おうと決意した。そして、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルなどの同士と共に、修道会「イエスズ会」を1534年に起こした。

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭(8月14日)(1894.1.8〜1941.8.14)

コルベ神父ポーランドに生まれたコルベ神父は10歳の時、聖母マリアが白と赤の2つの冠(白は純潔、赤は殉教のしるし)を持って現われた。'どちらが欲しいか'と言われた彼は2つとも望み、この体験がコルベ神父の未来を決定づけた。1917年『聖母の騎士信心会』を創立したコルベ神父は1930年長崎に来日、月刊『聖母の騎士』を発行し、病苦と貧困の中に働き多くの人に感化を及ぼした。1941年2月ナチスに逮捕され、アウシュビッツ強制収容所で死刑を言い渡されたポーランド人元兵士の身代わりを引き受け、餓死牢で殉教した。紹介図書:ながさきのコルベ神父 小崎登明著、アウシュビッツの聖者コルベ神父 マリア・ヴィノフスカ著 聖母の騎士社発行

聖モニカ(8月27日)と聖アウグスチヌス司教(8月28日)

聖モニカ(332〜387) わが子の回心のために昼も夜もあつく祈るキリスト教的母親の典型。三人の子があり、アウグスチヌスは次男である。未信者の夫に嫁いだが、苦難にも負けず信仰を貫いて、夫や姑,放蕩にふけっていた息子をも回心へと導いた。
聖アウグスチヌス(354〜430) 若い頃放蕩にふけっていたが、生来頭がよく、回心の後には「告白録」をはじめ膨大な著作を残した。彼の説いたキリスト教の諸真理は、教会の内外に今日まで大きな影響を及ぼしている。

洗礼者聖ヨハネの殉教(8月29日)

洗礼者ヨハネの首を差し出すサロメ/A・デルサルト「誕生においても死においても,おんひとり子の先駆者」であった洗礼者ヨハネは、「王たちの前で、はばかることなく話し」「真理と正義のためにいのちを捧げた」(入祭唱)
イエスが公生活を始められた頃、ヘロデ・アンチパスがユダヤの王となった。この王は兄弟の妻を娶っていたが、洗礼者ヨハネはこれを公然と非難した。王はヨハネを牢に入れたが、殺す事が出来ずにいた。王の誕生日に継娘のサロメが舞を舞い,その褒美に母の入れ知恵でヨハネの首を所望し、王は約束の手前、ヨハネの首を跳ねサロメに与えた。


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