平和をなすために

3千年期への扉を通って、世界は、平和への新しい世紀の始まりを誰もが願い希望しました。しかしそれに続くこの3年間、相手への疑いと自国の利益のみを追求するエゴイズムの中で、相手に対して暴力でねじ伏せて自分の主張を通そうとする呪縛に世界中が捉えられているようです。

 そして、今私たちは教会の新年にあたる待降節を迎えようとしています。聖書は

「遠く地の果てまで すべての人は神の救いを見た」  

と語ります。

私たちは本当に神の救いを見ているでしょうか? この救いが人々を、世界を救うことを本当に望み、信じているでしょうか?

「平和をもたらす人は幸い。」

有名な山上の垂訓と呼ばれる一節にこうあります。平和を祈るのではなく、もたらす・・・この言葉は、私たちに重く問いかけます。

私たちは、平和をもたらすために何ができるでしょうか?

国と国、人と人の間に争いは、多くの場合、自分と他の人の利益が一致しないことが理由になります。自分の利益は他人の不利益になり、また他人の利益は自分の不利益になる。私たちは、自分たちが持っているものより、持っていないものの方に多くの気を取られてしまいがちです。
持っているから、もっと欲しくなる。持っているから、奪われるのが怖くなる。

これは、ただ単にモノやお金ばかりではありません。才能、健康、力、若さ・・・。私たちは、心のどこかで、これらのモノをたくさん持っていることが、幸せなことだと思いこんでいるのではないでしょうか。けれど、他人のモノをうらやみ、老いや病気を恐れていては、心に「平和」はありません。他国に攻め入り、奪うことや、奪われまいと闘うところに平和がないのと同じことです。

イエス・キリストは、馬小屋で産まれました。両親の家ではなく、旅先で、布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされました。救い主は何も持たずにお生まれになったのです。

私たちは、この意味を、もう少し考えなければならないかもしれません。

無力な赤ん坊が、平和の君、救い主、神の子羊と呼ばれるのは、神のご意志がそこにあるからです。

私たちが眼の色を変えて欲しがるモノは、決して私たちを幸せにするものではありません。それらを使い、どれだけの仕事を成し遂げたとしても、そこに神のご意志がなければ、それらはすぐに潰えてしまいます。逆に、私たち人間の眼から見れば、無駄なこと、意味のないように見えることでも、そこに神のご意志があれば、大きな働きとなることがあります。

「平和」を考えるとき、人の眼ではなく、神に寄り添った心の眼で考えることは、とても大事なことです。現代社会に生きる私たちは、ついそれを忘れがちになりますが、待降節のこの時期、「一人の男の子がわたしたちに与えられた」ということについて、もう一度考えてみたいと思います。


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