クリスマスは、「救い主」あるいは「救いの御子」と呼ばれるイエス・キリストがお生まれになったことを祝います。貧しい馬小屋の飼い葉桶に寝かされた、この小さな赤ん坊が、なぜ「救い」なのかを、考えてみましょう。

救いのみわざ

エルサレムのガリラヤ湖の西にナザレという町があります。今から2000年前、そこはたった2,3軒の小さな村ともいえないところでした。そこにヨゼフの許嫁のマリアがいました。

マリアは「あなたは身ごもって男の子を生むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。」という天使のお告げを受けます。「わたしは男を知らないのにどうしてそんなことになるのでしょう。」と聞くと「聖霊があなたの上にくだり、生まれる子は神の子と呼ばれます。神にはおできにならないことはありません。」と天使は答えました。

そこでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉のとおりになりますように。」と答えました。マリアから生まれた神の子イエス・キリストによって、神の救いのわざがこの地上に実現することになりました。

 イエスは謙遜で素朴な両親のもとで貧しい人として誕生しました。

 “マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。”(ルカ2・7)

 主の天使が羊飼いたちに現れて彼らに言った。大きな喜びの知らせをあなたたちに告げよう。・・・救い主が今日お生まれになった。

 登場人物は中央の幼な子に向かって、けいけんで素朴な姿で礼拝しています。それは、彼らが心の目でこの幼な子のうちに神を見ているからです。

イエスは30歳ぐらいになられると、ユダヤ(イスラエル)の村々を巡りながら、人々に教え始められました。神さまがどんなに人々を愛されているか、大切にされているかをたびたびいろいろな方法でイエスは話しました。子どもたちに対して、また病人や体の不自由な人、罪びとにふかい憐れみをお示しになりました。イエスの言われること、なさることはあまりに真理であったので人々の恨みをかい、イエスは何の罪も犯していなかったのに十字架にかけられて死なれました。

“キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分となり、人間と同じものになられました。へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(フィリピ2・6〜7)

罪のない方が私たち罪びとのために死んでくださり、神と人、人と人、また人と自然との和解をしてくださったのです。エデンの木(誘惑の木)は人に死をもたらしましたが、十字架の木は人に永遠の生命を与えたのです。

 “わたしは復活であり、いのちである。”とイエスは言われました。

なくなって三日目にイエスは復活されました。その時死は滅ぼされました。復活とは単なる肉体のよみがえりではなく、神の力によって霊的に神の光りにつつまれた体に変えられることです。

“わたしはこの世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。”(ヨハネ8・12)

ページ内の画像は、ジル・カロン神父(ケベック外国宣教会)が制作された、弘前教会聖堂にあるステンドグラスの一部を、了解をいただいて使用させていただきました。


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