宗 旨

 宗  派  浄土宗西山禅林寺派

 宗  祖  法然上人

 派  祖  西山上人 (証空上人とも呼称)

 本  尊  阿弥陀仏

 称  名  南無阿弥陀仏

 総本山  永観堂禅林寺

       顧り阿弥陀如来像(御本尊)

 経  典  浄土三部経

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宗祖法然上人と派祖証空上人  もどる

 浄土宗の宗祖である法然上人は、押領使漆間時国の子として、長承2年(1133)に美作国久米南条稲岡庄(今の岡山県)にお生まれになりました。
 上人が9歳のとき、父時国は夜討ちに遭い亡くなられましたが、それを機縁として、上人は出家されました。「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。早く俗をのがれ家を出て、我が菩提を弔い、みずからが解脱を求めよ」というのが、時国の遺言です。
 幼少より聡明であられた法然上人は、比叡山で修行を重ねられ、智恵第一といわれるまでになられました。そして西塔の黒谷報恩蔵で、『大蔵経』を数度にわたり閲覧され、ついに唐の善導大師(613−681)の著『観経疏散善義』の一節、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」の言葉を見いだされました。これ以後、法然上人は偏に善導大師を一師とされ、専修念仏の門に入られ、わが国の浄土宗の宗祖となられたのです。建暦2年(1212)、80歳のご生涯を閉じられるまで、数々の法難に遭われましたが、一貫して念仏の教えに生きられたのです。
 法然上人のご遷化(逝去)のあと、浄土宗もその弟子によっていくつかの門流に分かれましたが、その中でも、上人の高弟であられた善恵房証空上人を西山禅林寺派は派祖にいただいています。

 西山禅林寺派の派祖である西山証空上人(1177−1247)は、村上天皇より9世の孫、加賀守源親季朝臣の長子として生まれられ、9歳にして久我内大臣通親公の嫡子となられました。しかし14歳になられると、出家の道を選ばれたのです。建久元年(1190)、西山証空上人は法然上人のお弟子になられました。
 23歳のとき、西山証空上人は浄土宗立教の書といわれる法然上人の撰述『選択本願念仏集』の勘文(原文との照合)の大役を果たされました。これによっても証空上人の秀逸さが伺われます。
 また、その当時、浄土宗に対する諸宗の非難・圧力が高まり、専修念仏停止の訴えが行われました。法然上人とその弟子190名は「七箇条制誡」をもって対応されましたが、その制誡では4番目に署名されるなど、若くして法然上人の弟子のなかでも重要な位置におられたことが判明しています。そして、法然上人がご遷化になられるまで、23年という長い期間を、西山証空上人は法然上人のもとで修行されたのです。その後、法然上人が学ばれた善導大師の教えを研究され、『鎮勧用心』などの述作を残されました。一方、一般の人々へも念仏の教えを広められました。
 西山証空上人の教えは白木念仏、歓喜の念仏ともいわれ、私たちが阿弥陀仏に帰依し、そのお慈悲を深く信じ、その慈悲を受けている悦びのお念仏を称えることの大切さを説いておられます。
 宗祖に法然上人、派祖に証空上人をいただく浄土宗西山禅林寺派は、永観堂禅林寺を総本山とし、仏のみ教えをくらしの中に生かし、人々と和合し、社会の浄化にっとめる念仏の教えを広げています。

浄土宗西山禅林寺派の教え  もどる

 私たちが今生きているこの世の中は迷いの世界です。生老病死の四苦が身近に迫るまで、この世界への未練はなかなか絶ち難く、絶対安穏の理想の境地に入ることができません。苦から逃れられなくなると、私たちは死を安易に望んだり、また死後の世界が不安になったりして、往生を願うようになるのです。これは往生を単に死後の世界に求めているだけなのです。往生の本来の境地である、絶対安穏なる理想の境地へ「往いて生まれる」ことではないのです。
 自分の力で死を乗り越え、絶対安穏の理想の境地へ達することは、私たちにはできません。絶対安穏の境地へ私たちを渡して下さるのは、阿弥陀仏です。
 阿弥陀仏の〈阿弥陀〉の意味は、インドの言葉では「量ることのできない」ということです。中国では、「無量寿仏」または「無量光仏」と訳されています。無量寿とは、私たちが救われることが永遠であることと、阿弥陀仏の慈悲が量り知れないほど深いことを表わしています。また無量光には、ひとりの人間も洩らさないという心が含まれ、この無量の光が阿弥陀仏の智恵を象徴しています。阿弥陀仏の功徳が広大無辺であることは、光明で表わされています。 
 阿弥陀仏は、遠い昔、世自在王仏の浄土において発心された法蔵菩薩で、衆生を救済するために48の本願を立て、大変に永い期間の修行を経て、これらの本願をことごとく成しとげられた仏です。なお阿弥陀仏の本願とは、誓願のことです。仏の正覚(完全なる悟り)を開くうえで、「必ず仏道を修めよう、また必ず他の人々を救おう」(上求菩提・下化衆生)と、阿弥陀仏が願い誓われたことです。
 阿弥陀仏の本願は48ヶ条の願よりなり、その一つ一つに「この願を果たすことができず、衆生を往生させることができないようならば、私は決して仏とはならない」と誓われています。
 私たちを往生させるべく大誓願をお立てになり、それを成しとげられた阿弥陀仏は、その大願業力をもって衆生の往生を一身に引き受けて下さっています。阿弥陀仏の本願は、ご自身が「超世の願」と称しておられるように、自らの深い大慈悲と叡智とから生まれた衆生救済の悲願であって、本来なら私たちの側で積むべき修行までも、肩代わりして果たして下さっているのです。ちなみに、諸仏の願は、諸仏とともに歩むことのできる者のみを救いとるもので、阿弥陀仏の本願とは本質的に異なるものです。 
 また、阿弥陀仏は報身仏といわれ、本来なら、私たち人間の思いでは到底はかり知ることのできない、幽遠なる境地の仏です。しかし阿弥陀仏に限って、その本願に酬いるため、進んで私たちの前に現れて下さるのです。これを来迎といいます。
 他力往生のための大願を成就された唯一の仏が、阿弥陀仏です。『観無量寿経』に阿弥陀仏の願意が説き明かされています。そこには阿弥陀仏の大願成就の功徳を今生の人々に説き、極楽の聖衆がその人たちの浄土往生を果たすべく、極楽と娑婆の間を絶えず往来しているとあります。
 このように阿弥陀仏が今、現に仏となられたことを聞いて、私たちの往生は真実であると喜べるのです。この往生が決定した喜びの境地、これを安心(あんじん)といいます。すなわち、今の私の生活が、すでに阿弥陀仏の大慈悲に包まれていることに目覚めたことなのです。喜ぶということは、阿弥陀仏の成仏の意味を素直に心にいただき、私たちの身を全部、阿弥陀仏におまかせするということです。
 私たちが往生するのは、この阿弥陀仏のお力をおいて他にありません。この往生を喜ぶ姿、これが48願の中の第18願、いわゆる念仏往生の願でいう南無阿弥陀仏の姿なのです。  もどる
 浄土宗西山禅林寺派の教えは、心が安らぐ信仰生活を得るためにお念仏を称えることです。念仏とは、阿弥陀仏の御名、「南無阿弥陀仏」を称えることです。私たちは日常生活のなかで、往生する喜び・救われているという安堵感をもって念仏を喜び、浄土の楽しさを心に持ちましょう。念仏の安心を得た人は、この世にいながら心は浄土に住まいする想いを得て、仏の道を歩むことが白然と喜ばれるのです。また、私たちの教えは、阿弥陀仏の本願の念仏です。私自身の力で往生しようという思いで称える念仏は、自力の念仏であって、本願にかなわず、それでは往生することができません。私たちの往生は、阿弥陀仏の本願力によるものなのです。念仏とは、自力を捨てて他力に帰する姿なのです。私たちのために48の願いを立てられ、それらの願いがかなうまで、私たちが往生できないならば、仏にならないと決意された阿弥陀仏のご本願を信じましょう。阿弥陀仏の大慈悲心に触れたら、自然と手が合わされ、感謝の声が、六字の名号「南無阿弥陀仏」のお念仏となるのです。ただただ念仏を称えるのではなく、往生できることを信じ、それに感謝してお念仏を称えるのです。
 このように安心が得られたからには、歓喜と報恩の心が自然に湧き起こって日々の生活に念仏が喜ばれ、口に称えるばかりではなく、動作のなかに、言葉のなかに、心のなか(身・口・意の三業)にも念仏が実践されて、生活全体が念仏の現れとなります。
 西山上人は『鎮勧用心』に、
  はげむも悦ばし正行増進の故に。
  はげまざるも悦ばし正因円満のゆえに。
とお示しになり、私たちが念仏を励もうとも、またなまけたい(懈怠)心が出て励めずとも、阿弥陀仏の摂取の慈光に常に照らされていることに思いをなして、日々を往生決定の喜ぴにあふれた念仏の日暮らしとなるよう説き勧めておられます。
 浄土宗西山禅林寺派では、仏法の世に生きる喜びを心から感謝して、阿弥陀仏に帰依し、そのお慈悲を深く信じ、悦びのお念仏を称え、そして、仏のみ教えをうけた私たちは、くらしの中に仏の教えを生かし、それによって人々と和合し、社会の浄化につとめることを説いております。

総本山永観堂禅林寺の歴史  もどる

 浄土宗西山禅林寺派の総本山である禅林寺の創建は、仁寿3年(853)に弘法大師の孫弟子である真紹僧都(797−873)が「衆生縁の深い京洛の地に道場を建てる」ことを悲願されたのが始まりです。そして貞観5年(863)に定額寺に列され、清和天皇より禅林寺という寺名を賜りました。
 「顧りの阿弥陀さま」の奇瑞でよく知られている永観(えいかん)律師(「ようかん」ともいう。1033−1111)は、平安時代後期に禅林寺に入られて中興開山となられた方です。永観律師は文章博士源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺に入寺され剃髪された後、東大寺に登壇授戒、三論法相を学ばれました。その後、永観律師は若くして念仏信仰の道を歩み始められたのです。
 延久4年(1072)、禅林寺に帰られた永観律師は、一日6万遍の念仏という厳しい日課念仏の行を自らに課しつつ、ひたすら衆生救済のために励まれました。病気で苦しむ人々や貧しい人々のために施療院を建てるなどの福祉活動にも尽力された方です。禅林寺の通称である永観堂の名は、この永観律師に因んだものです。称名念仏の道は、永観律師の滅後、22年後にお生まれになった法然上人によって引き継がれることになります。
 鎌倉時代になると、静遍僧都(1165−1223)が、法然上人の入滅後ほどなく、その著『選択本願念仏集』を熟読され、浄土宗に回心されました。念仏に深く帰依された静遍僧都は、法然上人を禅林寺の11世と仰がれ、白らを12世とされたのです。そして、法然上人の高弟である西山証空上人に住職を譲られました。法然上人は浄土宗の宗祖であられ、西山証空上人は私たちの宗派の派祖になられる方です。
 文永年間(1264−1275)、証空上人の門弟であられた浄音上人が禅林寺に入寺され、浄土宗西山派の中心本山としての基礎が築かれました。以来、禅林寺は浄土宗西山禅林寺派の総本山として、念仏の根本道場となったのです。
 応仁の乱では禅林寺も被災し、堂宇がことごとく焼失しましたが、明応6年(1497)に後土御門天皇の勅により再興が始まり、寺観が整備されます。当時の伽藍配置が、現在に至るものです。
 約1万坪の境内には阿弥陀堂をはじめ、大殿(御影堂とも祖師堂ともいわれる)、釈迦堂(方丈ともいわれる)、多宝塔など多くの堂宇が配されています。阿弥陀堂に安置されている御本尊は、阿弥陀如来立像(鎌倉時代)で、首を左に曲げられた珍しい尊像です。「顧りの阿弥陀さま」として親しまれ、重要文化財に指定されています。

御本尊:顧り阿弥陀如来像

 禅林寺の宝物には国宝、重要文化財に指定されているものが数多くあります。なかでも国宝に指定されている絹本著色「山越阿弥陀図」は、浄土教の教えをみごとに絵画化したものといわれます。その他には「金銅蓮華文磬」(国宝)、「顧り阿弥陀如来像」(重文)、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(重文)、紙本金地墨画「波濤図」(長谷川等伯、重文)、紙本淡彩「釈迦三尊像」(狩野元信、重文)などがよく知られています。また釈迦堂では、「竹虎図」(長谷川等伯)をはじめとして、「花鳥図」「仙人図」などの狩野派の障壁画(襖絵)が見られます。


浄土三部経  もどる

 浄土思想(阿弥陀仏、極楽の教え)を説く三部の根本経典。『無量寿経』二巻(康僧鎧訳)、『観無量寿経』一巻(きょう良耶舎訳)、『阿弥陀経』一巻(鳩摩羅什訳)を総称した名称。