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music  for  Chieko  智恵子の音楽生活

 智恵子が、「恵まれた私たち」(智恵子遺文〜1923年、大正12年1月、「女性」〜病間雑記)の中で、芸術、特にベートーベンの音楽によって満たされる喜びと渇望について書いているくだりがある。このころ病気がちで郷里で過ごすことが多かった智恵子が、病苦やいろいろな悩みを抱えながら、どんな思いでベートーベンのレコードを聴いていたのだろう。智恵子記念館の生家に飾ってある当時の蓄音機を見ながら、どんな曲のどんな演奏だったのだろうと思いをめぐらせてみた。

    言及されていたベトーフェンの曲

     ○シンフォニー(第五、第九その他)  ※郷里に帰って好んで聴いていたのは第6シンフォニー「田園」

                               (記念館〜生家に行くと流れている音楽)             

      ○ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル・ソナタ」

      ○ピアノ・ソナタ第14番「ムーンライト・ソナタ」

 

 この時代の日本の洋楽事情等と智恵子の東京と二本松の生活の中での音楽とのかかわりを調べてみたい。大正時代、すでに日本はインテリや資産家を中心に、世界でも有数のクラシック・レコード愛好文化が育ちつつあった。しかし、大正時代までは電気吹き込み以前で貧弱な音だったため、歌やバイオリン曲が多かった(当時の9割)。ピアノ曲や管弦楽など、本格的な洋楽レコード時代は昭和に入ってからであり、そんな中、どのようにして音楽を聴く環境に入っていったのだろう。ラジオはまだ無く、意外に帝都に住んでいたこともあり、来日演奏家や学生等の生演奏もあたのではないかと思う。今後調査をして空白を埋めてみたい。それにしても長沼家にいつごろからあの電蓄があったのだろう。

 西暦  和暦  年齢        智 恵 子 の 生 活         国 内 洋 楽 事 情     海 外 洋 楽 事 情
1903 明治36年  18才 日本女子大学普通予科入学 小石川 東京音楽学校でオペラ「オルフェイス」初演     
1904 明治37年  19才           ※日露戦争
1905 明治38年  20才          
1906 明治39年  21才    蓄音機徐々に普及  
1907 明治40年  22才 日本女子大学家政学部卒業 油絵の勉強を継続 上野で博覧会 レコード大人気  
1908 明治41年  23才 第一楓寮に住む。            
1909 明治42年  24才 本郷駒込に移る。光太郎ヨーロッパから帰国。

 

     英オデオン管弦楽曲初録音、以降各社録音開始   
1910 明治43年  25才      東京音楽学校でレコード・コンサート      
1911 明治44年  26才

妹セキと雑司谷に移る。平塚らいちょうらの「青鞜」の表紙絵を描く。田村とし子と親しむ。

光雲邸のアトリエに光太郎を初めて訪ねる。

         
1912 明治45年

大正元年

 27才 光太郎の新しいアトリエ(駒込)を訪ねる。光太郎と恋仲になる。          
1913 大正 2年  28才 二人で上高地で過ごす。(9月)  婚約(10月)       友人の実家(沼津)に滞在(12月) 帝劇オペラ「トスカ」「魔笛」上演 ニキシュ、ベルリン・フィルと第五(運命)を初録音(DGG)、ザイドラー=ヴィンクラー、第五録音(HMV)、他にオデオン弦楽オーケストラ盤もあったが、当時、前二人意外には第五を聴くチャンスはなかった。
1914 大正 3年  29才 アトリエで光太郎との生活が始まる。

 

     ※第一次世界大戦
1915 大正 4年  30才       このころからヴァイオリン曲や声楽曲のレコードがかなり輸入される。(エルマンやカルーソー)      
1916 大正 5年  31才            
1917 大正 6年  32才            
1918 大正 7年  33才   父今朝吉没 ベートーベンの第五日本初演   
1919 大正 8年  34才 入院      
1920 大正 9年  35才   このころ病気がちで郷里(二本松)で過ごすことが多い。 このころから映画館(活動写真館)で管弦楽団の洋楽演奏が行われるようになり、レコードも作られるようになる。    
1921 大正10年  36才    エルマン(Vn)初来日   
1922 大正11年  37才     東京シンフォニーオーケストラ第1回公演

ジンバリスト(Vn)来日

  
1923 大正12年  38才 「女性」に病間雑記」発表(1月)〜「恵まれた私たち」

※関東大震災(9月)

クライスラー  (Vn)、ハイフェッツ(Vn)来日   
1924 大正13年  39才

ベートーベンの第九初演(東京音楽学校)11月29日・30日・12月6日 G・クローン指揮東京音楽学校管弦楽団合唱団

このころ、ベートーベンの交響曲全曲のレコード(輸入)が出揃う。(アコースティック)  ジンバリスト来日

電気吹き込み技術完成(アメリカ)
1925 大正14年  40才    ラジオ試験放送開始(東京放送局)

マーラーの第2番100セット輸入〜即完売

  ベルリン国立歌劇場管弦楽団:交響曲第2番(マーラー)録音 
1926 大正15年昭和元年  41才    新交響楽団(N饗の前身)設立 レコード専門誌「フォノグラフ・マンスリー」発刊(アメリカ)
1927 昭和 2年  42才 ※金融恐慌(3月) 海外洋楽(クラシック)レーベルの国内プレス開始、本格的な洋楽レコード時代に入る。

新交響楽団定期演奏会開始 

ベートーベン没後100年

  
1928 昭和 3年  43才    洋楽レコード(クラシック)専門誌発刊 「名曲」→後の「レコード音楽」   
1929 昭和 4年  44才 長沼家破産    ※世界大恐慌(アメリカ)
1930 昭和 5年  45才     洋楽レコード(クラシック)専門誌発刊 「グラモフィル」→後の「ディスク」     
1931 昭和 6年  46才 精神分裂の兆候      
1932 昭和 7年  47才 自殺未遂      
1933 昭和 8年  48才 智恵子入籍      
1934 昭和 9年  49才       レコード専門誌「デシスク」発刊(フランス)
1935 昭和10年   50才 ゼームス坂病院に入院      
1936 昭和11年   51才 紙絵を作り始める。        
1937 昭和12年  52才         
1938 昭和13年   53才 10月5日没(ゼームス坂病院)    

 あんなに聴きたがっていた第九を、その後生前智恵子は聴くことができたのだろうか。郷里には第九のレコードがあったのだろうか。「田園」のレコードは郷里に帰るとよく聴いていたようであるが、他には何があったのだろうか。東京音楽学校の奏楽堂コンサート記録や当時智恵子と親交のあった文化人たちの日記や著作を調査してみたい。光太郎はもちろん、誰かと一緒にきっとコンサートに行ったに違いないと思うのである。「漱石が聴いたベートーベン」(中公新書2004)はその意味でたいへん面白く参考になった。しかし、ここには石川啄木や宮沢賢治は取り上げられていいない。クローンという指揮者はベートーベンの6曲のシンフォニーを本邦初演を果たしているとのことである。管弦楽についてはまだレコードでは貧弱な音だったので、きっと実演に接したことが想像される。レコードでもほとんどのシンフォニー(ベートーベン)が聴ける時代ではあった。レコードコンサートも行われていたので、あるいはその機会に音楽に接していたのかもしれない。石川啄木も音楽には関心をもっていたようで、ワグナー論が地元新聞に連載されている。実際に聴いたことは考えられない。また、宮沢賢治の音楽好きもよく知られているが、調べてみたい。岩手県には銭形平次の著者で有名なレコード収集家であるあらえびす(野村胡堂)の記念館がある。ここに行けば、大正・昭和初期の洋楽事情が分かるかもしれない。是非行ってみたいものである。