はじめてのレッスン


初めてのレッスンの日が決定した。

1991年10月1日だ。

赴任したのが7月17日だったから本格的に仕事をはじめるまで、丸々二ヶ月半もかかった。

けっしてあせらず、あきらめず、ゆっくりやろうよ、協力隊

これは訓練所にいた時に聞いた協力隊のスローガンで、訓練所にいた時はなんじゃそりゃと思っていたが

私はその意味を現地で痛いほどかみしめていた。

そして、そのスローガンをこれでいいんや、これでいいんや

念仏のごとく自分に言い聞かせていた。

そうでもしなければ、精神状態をまともに保つことができなかったに違いない。

私はあせりまくっていたし、あきらめて日本に帰ろうかと何度も思ったのは事実である。

それまでの間、本当にスムーズに物事が運ばないし、

どういうことやねん、と何度叫んだか覚えていられないくらいだった。

私は呼ばれたから来てるんやんか、こんなんやってられるか、どやっちゅうねん、

何のために私はここにおるねんと自問自答を繰り返し、

ムカつき、イラだち、怒り狂う日と投げやりになる日を繰り返していた。

私はシリアにエアロビクスを導入し、

日本に帰ったとき税金を使って協力隊に行ったことを恥ない二年間にしてみせる。

外国で一人暮らしをするという子供の頃からの夢もかなえてみせる

それが私の協力隊活動の信念だった。

「途上国の人のために」なんて美しい気持ちは元々持っていなかったが

それがかえってよかったのかもしれない。

そんな気持ちを持っていたら、ここにあるのは絶望だけだ。

私がシリアに来た時、私に期待を寄せ、歓迎してくれたシリア人はひとりもいなかった。

JICA事務所で働くシリア人スタッフは歓迎してくれたが

それは彼らにとって日本人はメシの種だからにすぎない。

しかし、これから起こる様々な出来事が思い出という私の一生の宝物になっていくのである。

初レッスン当日、本当にマダムが来るのか不安で一杯だった。

とにかく私のつたない語学力で、どこまで担当者とコミニュケーションとれたか

かなり自信がなかったし、何もかもが不安だった。

とりあえず初めてのレッスンには5人のマダムが来てくれた。

しかし、彼女たちは何をするか何もわかっていなかったし、

とりあえず、行けといわれたから来たという感じで、運動できる服装の人もいなかった

これにはがっくりしたが、とりあえず5人でも来てくれた事がうれしかったし、

私も初日は自己紹介とシリア初のエアロビクスの紹介をしようと思っていた。

まったく新しい概念を語学力なしに説明するのは無謀だったが

英語で作ったテキストを事務所のシリア人スタッフにアラビア語翻訳してもらっていたので

それを配ってある程度の事を理解してもらってから、実際に指導していこうと思っていた。

そもそも日本でエアロビクスを指導していた時とは状況がまるで違うのだ。

エアロビクスがなんたるかまるで知らず、また興味もない人たちに

それを教えていこうとするんだから、最初からうまくいくはずもない

テキストは3枚程度のものだから誰にでもすぐよめるし、難しいことは何も書いてない。

そもそもエアロビクスは難しいプログラムではない。

初日のレッスンはテキストを配ってそれを読んでもらい、

基本姿勢と基本の動きを示して一緒にやってみて、

エアロビクスがどういうものかを認識してもらう事、

次のレッスン日にも来てくれると約束できればそれでいいと考えていた。

そう考えてはいたが、それすら難しい事だった。

言葉の壁だ。

この日来てくれた生徒の中に、英語を喋れる人はいなかった

しどろもどろのアラビア語で、名前と日本から来ました、と言った後

テキストを配りながら、新しい運動プログラムだと言い、

次回は一緒にやりましょうというのが精一杯だった。

どんなものかはやってみせるのが一番手っ取り早いと思ったので

前任者が残していったカセットデッキを使って日本から持ってきたテープをかけて

デモンストレーションを行った。

反応は悪くなく、来てくれた5人は友好的だった。

不安はたくさんあったが、ようやく仕事らしい仕事が出来そうな手ごたえを感じていた。

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