「今日の夜話」過去ログ'06.11〜'07.2月
「僕のなくした物」'07.2/27
日々、エッセイも書いているし、歌を作る気持ちも充分にある。
カバンを肩から下げてゆく帰り道、でも何かが足りない気がしてくるのだ。
気持ちばかりがあって、どうも実際が追いついていないような、、そんな感じ。
あの中・高校生の頃のような、しっかりとした創作感がないんだよね。
僕は何かをなくしているのだ。それは何か。。
今の僕とあの頃の僕と確実にちがうもの。。
それは、カバンの中に筆入れがないのだと気が付いた。
筆入れのないカバンは、やっぱりどこか不完全だ。
それは何よりも大事なものではなかったか。
僕は文房具をとても愛していた。まずは筆箱。そして下敷。
この世界の夜に星があるように。カバンには筆入れがなくてはならぬ。
筆入れを開ける。そこにノートがある。そこに机がある。図書館から借りた本が隣にある。
僕は友達のことを想っている。友達は隣町にいる。
隣町は夜でつながっている。夜は世界とつながっている。
よって、筆入れを開けると世界とつながっていたのだ。
「フィンガーピッキングの河」'07.2/25
ギターは、ぽろんぽろんと弾くか、指を使って弾くか、まあどちらか。
フィンガーピッキングで弾いていると、何かピックで弾くのとはちがう感覚が使われているような感じだ。
指そのものが、弾いているというかね。
それは、脳の方ではない、別の感覚ともつながっているような気がするのだ。
とくにスリーフィンガーピッキングで、コードチェンジをしてゆくと、それがわかる。
ピックで弾くのとはちがうなと。
指で弾いてゆくとき、いろいろ忙しく動いているけれど、ほとんど頭は使っていない。
コードチェンジをしてゆくのは、何か指の知っている感情移動のようなのだ。
ひとつの歌の感情の流れがあり、それに沿って指が動いてゆく。
それがすごく健康にいいような気がしてくるのだ。
指が弾いているという事実がね。
日々のいろんな事で、一定の流れでなくなっている河が、
そっとおだやかになってゆくようなのだ。
フィンガーピッキングで自然なコードチェンジをしていると、確実に。
「音慣れ」'07.2/23
この部屋では、けっこう大きな音で柱時計がカチコチと鳴っている。
でももう僕にはほとんど聞こえてこない。音が慣れてしまったのであろう。
それと同じように、いつも弾いているギターの音色がちゃんと判断できなくなってしまった。
最初の半年は、弾くたびにその音色に驚くほど感心していたのに、今では、それがどんなふうだったのか思い出せないのだ。
これはどうゆう感覚の変化なのだろう。同じ音を聞いているはずなのに。
それは自分でも信じられない。しかしかつてのギターもそうだったような記憶がある。
『音慣れ』なのだろう。こればかりは自分でもどうにもならない。
音の何かの成分に対して鈍感になってしまっているようだ。
もう一度、この部屋の柱時計のカチコチが聞こえてくるようにはならないように、
僕にはこのギターの音がもう新鮮に聞こえてこないかもしれない。
さびしいことだ。何がさびしいかって、最初の響きが思い出せないのだ。
弾くたびに驚いていた、あの感覚。
この『音慣れ』は、ギターだけの話ではないだろう。
大事なことは、最初の感覚を信じることだ。
「楽器」'07.2/20
先日、フォルクローレのコンサートに出かけた。
そこで初めて見て、聞く楽器がいくつもあった。
音だけはよく知っている楽器もあった。
形が妙な楽器。ほんとに吹きずらそうな楽器。他いろいろ。
楽器には、それぞれに出せる音色があり、それは他の楽器と比べることができない。
とてもぶかっこうな楽器であっても、その楽器にしか出せない音があるならいい。
どんなに吹きにくくても、関係がない。
何も比べられない。
その音色を聞いて、その楽器が浮かぶのならばいい。
その楽器には、ひとつの名前があるだろう。
「アラスカコートの話、再び」'07.2/18
この話は何度も書いているのだけれど、冬になるとまた思い出してしまう。
あれは僕が高校三年のときの冬、'78年かな。
学校帰りの商店街にある洋品店にて、「アラスカコート」なるものを見つけたのだ。
それも「おつとめ品」と赤い札がつけられていた。値段は激安の2980円だったかな。
全体は紺色の大きなアノラックで、フードがついていて、そのフードの先に毛皮のようなふわふわがついていたのだ。
(写真は、ちょっとちがうけれど、まあこんな感じ。もっと長くて重い)
僕は、その「アラスカコート」の前に、釘づけになった。こんなあったかそうなコートは見たことがなかったのだ。
それも「おつとめ品」の札がついていて、僕でも買える値段だった。
「よし、買おう!!」
僕の回りでは誰も持っていなかった「アラスカコート」。サイズは「L」。
そして買って帰ったのだが、妙にそのコートがでかい。どう考えてもでかい。しかし「L」なんだよな。
鏡で見て見ても確実に大きい。しかし、それがアラスカコートの特徴かもしれない。
・・きっとそうだ。。
僕は次の日から、アラスカコートを着て学校に通った。フードをかぶり、紐でまるくすぼめて。。
商店街のガラスに映るその姿は異様だ。あまりにコートが大きすぎて。
友達に何て言われても、僕はぜんぜん平気だった。
答えはこれでいい。
「切符をなくすということ」'07.2/16
きっぷ。
ふだん、それをなくすなんて想像もしていないこと。
「きっぷ? もっているよ。」
そして、ポケットやカバンのしまったところをさぐってみる。
もちろんあるはずだが、ないときもある。
きっぷ。ちょっとしたことでなくすこともある。
なくしてしまった切符については、ほとんどが見つからない。
まるで、何ももっていなかった人と同じような状態だ。
なくすなんて思ってもいない物、それが切符。
見える切符、見えない切符。
いつかもらった切符、まだ使っていない切符。
僕らは切符のことを、忘れがちだ。
「ライブハウスの時間」'07.2/13
ライブハウスの時間ってあるよね。
それはコンサートホールとはちがった、野外コンサートともちがった、ひとつの時間。
教室の続きのような、古びたバーのような、小さな演劇小屋のような。。
演劇小屋はたしかにいろんなストーリーが演じられていて、そこには無限の世界がある。
僕らは唄うたいなので、ライブハウスが、ちょうど芝居小屋みたいな存在かな。
そこにはマイクがあって、譜面台があって、スピーカーがあって、カウンターがあって、
ピアノがあって、どこかに時計があって、ライブスケジュールの紙が貼られていて、
入口のドアがあって、お客を待っているシンガーが珈琲を飲んでいて、
やがてドアが開いて、手を振るシンガーがいて、注文をとりにくる人がいて、
何か音楽が流れていて、傍らにはポスターが貼られていて、、。
そんなライブハウスの時間。そこに通い出した頃、そして唄い出した頃、
すべてがひとつの時間でつながっているような気がするのだ。
それは毎週ちがうストーリーで届けられるテレビドラマのような感覚。
いや、ミニシアターと言おうか。それは長いひとつの映画の続きのようだ。
いつでもバックグランドミュージックが流れていて。。
「楽器の魚」'07.2/10
いいギターは、泳ぐ魚のような音を出してくれる。
それは何かの偶然で、鳴りに味が作られたときだ。
70万もするギターでも、その音はなかなか出せない。
値段の高い安いはあまり関係がなく、生き生きとした深い音になるときがある。
その音はシンプルな形をしていて、まるで泳いでゆく魚のようだ。
どんな河の流れの中もうまく泳いでゆく。まるで達人のように。
・・・・
ギターの年齢は、まあ40歳とかで年寄りに入るのかもしれない。
バイオリンやチェロなんかは、100年くらい軽く生きてしまうのだろうな。
値段だって、それなりに高くはなるだろう。ギターなんて普通、高くても50万くらいなものだ。
でも、なかなか会えない音という意味では、よく鳴るギターと出会うのは難しい。
もし出会えたならば、そのギターは完全に人格を持っていて、長い旅の果ての剣客のような目をしているだろう。
そんなギターの音を聞くとき、ふるえるほど嬉しい。ギター弾きならば、同じ感覚を持つだろう。
それなりの音であるのは当然で、その上で、音色の中に流線型をした生命感があるかどうかが大事だ。
曲の中を自由に泳いでゆく魚のようなね。それはつかまえることが出来ない音色。
・・・・・
先日のこと、たぶんとても高価と思われる楽器と、そのギターは共演した。
値段はきっと、そのギターの10倍以上は軽くするであろう。楽器年齢もたぶん、半分以下かな。
しかし、僕にはわかっていた。ちがう旅をしてきた者同士であっても、もうすでに同じなのだと。
「古いたましいのうた」'07.2/8
チリの古い歌を集めたというシンガーのアルバムを持っている。
どの曲もシンプルな楽曲ではあるけれど、とても民族の響きが感じられるのだ。
何枚もアルバムを出しているが、その録音は古く、たぶん最初の方であろう。
録音のしっかりしている他のアルバムも持っているが、それにはない響きがある。
それはそれは古いたましいの唄。
民族が伝えてきた何かがある。肌の色のような、髪の色のような。
僕はそのアルバムに聞いているのは、そんな古い民族の響き。
楽曲も演奏も、とてもシンプルではあるけれど、無限の広さを感じることができる。
古くから伝わっている楽曲が持つ、独特なもの。
昔の人が唄っているのではなくて、それを求めて旅した人の声と演奏。
そこには、ひとつのベクトルがあり、古い唄とうまくミックスされている。
外国の人が僕らの古い唄や、僕らのいろんなアルバムを聴いたとき、
今の僕みたいに、古いたましいを感じるアルバムがあるだろう。
それは僕らは、たぶんわからないものだ。
「えっ、このアルバムが・・?」と、思うものかもしれない。
僕もまた、そんな響きのあるアルバムを作ってみたいものである。
「何もあきらめるな」'07.2/6
先日のあたたかかった日曜日、僕はギターと公園にいた。
ほんと久し振りに外でギターを弾いてみたのだ。
持っていったのは、昨年買った大のお気に入りのギター。
こうして外の陽の光の中でギターを見てみると、その部分部分の色もちがってみえる。
木の色がちがう。そして音色もまた輝き増して響いている。
買ってからもう10ヶ月。毎日このギターを弾いているけれど、
それでも見たこともない輝きを見せてくれたのだ。
一回も見たことのないほどの質感で。
僕はその木の色の美しさとデザインで、目が眩むほどだった。
(何もあきらめてはいけないな・・)
それはギターだけじゃない。みんなそうなんだ。
「生活とマフラー」'07.2/4
僕が二度目の東京に出てきたのは冬で、ひとり四畳半のアパートを借りた。
まだ家財道具も少なかった頃、僕はマフラーをちゃんと巻いていた。
片方を片方の肩に垂らして。。
それはなんともかっこよかったじゃないか。
しかし、今僕の生活はいろんな事に追われて、物も部屋にあふれるほどに増えてしまった。
そして長いマフラーを首にぐるぐると巻いている。あったかいほうがいいかなと。
僕はマフラー持ちで、そうとう数のマフラーを持っているが、それはもう押入の中にしまったままになっている。
片方を片方の肩に垂らすなんて、何年もしていない気がする。
そんな心を忘れてしまった。
たぶんそれはマフラーだけではないだろう。
生活のすべてからなくなっている気がするのだ。
「もう何も壊れるな」'07.2/1
今日、携帯CDプレーヤーが突然に反応しなくなった。
横断歩道を渡っている間に。。そんなことってありか、、?
このマシンだけは、寿命が長いと思っていたのに。
・・・もう、何も壊れるな。
それが僕の願い。だって、突然に壊れる理由なんてないんだから。
マシンと呼ばれるものは、最低10年はもって欲しい。
もう機械が壊れるのはこりごりだ。
古くなって、使いこんで、そして引退して欲しい。
僕は人生の中で、どれだけマシンを修理に出したことか。
そのたびに、一万二万と飛んでいった。
それでもしかたないかなと思って。。
しかし、もうそんなことはしたくない。一生分の機械修理は出したつもりだ。
ぜったいにもう何も壊れるな。心から僕は望む。
「果実」'07.1/30
見たことも行ったこともない森の奥にある、青々とした果実。
それはまるで、この部屋の裸電球くらいの大きさ。
若い頃は、生活も創作も一緒になってて、何か起こるとしばらくは歌も出来なかったりした。
止まってしまった各駅停車の電車のように。
しかし今は、どんな状況であれ、しっかりと創作できる予感がする。
それは走っている僕の列車が、ここから遠くの街を走っているようなものだ。
こちらが台風でも、向こうは晴れているはず。
もしこの部屋に、僕の果実がなっていたら、一年ももたないで、しぼんでしまうだろう。
だから僕は、ここから遠くのどこかの森の奥に自分の果実がなっていると信じている。
そこは誰も来ない。いつも朝には陽がきれいにさしてくる。
それは僕のもうひとつの心臓であるかのよう。
そこには生活というものもない。お金とか税金とかいうものもない。
家賃とかいうものもない。
そこがどこなのか、僕にもわからない。ただ、そこに果実がなっている。
青々としているか、黄色なのか、赤いのか。。
「300円のお返しです」'07.1/28
そのカレー屋さんは、絵や小物まですべて遊びこごろに満ちていた。
カレーもすごく美味しい。珈琲も。
店員さんはまだ10代と思われる大人しい感じの女性であった。
「300円のお返しです」
僕には、払った値段以上の満足感があったので、お釣りとはいえ、お金が戻ってくれるなんて不思議。
まだ若い店員さんの言葉はまるで、遊びのような響きがあった。
その「300円」と言った子供銀行のような響き。
まるで「300円あれば、何だって楽しめますよ」とでも、言っているようだ。
たしかにいろいろ楽しめるかもね。街には安売り店も多く、珈琲だって飲める。
バスにだって乗れる。電車も乗れる。キャンディーセットも買える。ソフトクリームも食べられる。
ゲームセンターでゲームもできる。露店の石焼き芋も買える。チョコレートも買える。古本なら三冊買える。
「そんなことを思い出した」'07.1/26
最近、編集のために友達の古いライブテープを聞いている。
いろいろ聞き比べて、すごく良く録れている音源があった。
それはそうだろうなぁ。僕はこのとき、最高級生録デッキをカバンに入れて録音していたのだ。
もう25年も前のこと。僕は、SONYの高級携帯生録カセットレコーダー「DENSUKE」を買った。
7万〜10万くらいしたんだよね。弁当箱くらいの大きさ。一応プロ用。
それに会わせて大きなステレオマイクも買った。
ここまで揃えたのだから、実際に友達のライブを録音してみたいと思うのは当然。
僕はその日、ライブ会場の隅の椅子に座り、そっと大きめなマイクを出して、そっと録音した。
弁当箱のようなカセットデッキをカバンに入れて。。
そのデッキとマイクで友達のライブを録音したのは、それ一回きりだった。
他のときは、小さなピンマイクで録音していたので音が違うのは当然。
よく録ったなぁと思う。そんなことを思い出した。
・・・・・
話は変わって、45分テープとかでライブを録音するのは、ひと苦労がある。
たいだいライブが45分くらいになので、全部入れるのは奇跡のようなものである。
時計を見てチェックをして、25分ぎりぎりのところで、テープをひっくり返すのだが、
ちょうどぴったりに一曲が終わってくれるのは難しい。それでもぎりぎりのところまで録音を続ける。
その曲が終わった瞬間に、テープストップにして、ひっくり返し、すぐさま最初まで巻き戻すのだ。
そして録音再開。ばっちりゆくときもあるし、失敗するもある。それは誰にもわからない。
でも、たいがいばっちり録音できる。つなぎはね。最後が切れたりすることは多いけれど。
今でもどきどきするのは、テープをひっくり返すとき、唄がぎりぎりでそこで終わるか終わらないか、、。
「育つ歌」'07.1/22
友達の歌詞ノートには、ほんとに歌詞しか書いていなかった。
僕なんかは記憶力がよくないので、歌詞ノートにはギターのコードもばっちり書いてある。
友達は、メロディーを自分の中にストックしているのだな。
見るのは歌詞だけでね。
その友達はほとんど自分のライブというのものを録音したりはしない。
僕はライブを聴きながら、メロディー自身が、友達の中で育っているのではないかなと思えた。
育つというか、自然の形に近づくというか。。
僕らはみんな、歌を作ったときは歌詞にコードも一緒に書いておいたりするけれど、
もしかして、ほっておくと、歌も育つのではないかな。
土地が肥えるにつれて。。
メロディーって、きっと生き物で、子供から大人、そしておじさんにもなるのではないか。
生き物なのだから、それはノートに書き記して「完成」としなくてもいいだろう。
すっかりその人自身が忘れていても、自分で育っているだろう。
歌詞を見て、歌い出すと、 育ったメロディーたちが泳ぐように戻ってくる。
「初雪」'07.1/20
今日は大寒。
東京では夜、初雪になる可能性があるという。
実家のある新潟ではとっくに雪が降っているだろうに。
小さい頃から冬には雪が多く降っていたので、雪には良い印象がなかった。
東京に出てきて、「わーっ、雪だ!!」という声をよくきくが、僕にはその嬉しさがわからなかった。
(雪なんて、寒いだけたよー)。なんてね。
しかし今年の冬は、まだ一度も東京で雪が降っていない。
いつもなら、一度くらいは降るのにな。
まるで、このままこの冬は降らないのではないかと思っていた。
雪の降らない冬がくるなんて、信じられないな。
今夜、雪が東京で降ったならほんとに嬉しいな。
白い東京、白い空。白い道、、、。
たぶんきっと、それは、考えるに、、
初雪が嬉しいのだな。安心するというか。冬の実感があるというか。
二度目はそんなでもないだろう。いつもどおりかな。
初雪が降ったら、何かしたいな。
「はじめからなかったもの」'07.1/17
使っているパソコンがいよいよ限界に来てかもしれない。
たぶん、明日かあさってには買いにゆくだろう。
僕は今、マッキントッシュ(Mac)の古いタイプのOS9を使っている。
もうそれは新品では売っていないんだよね。
初めて買ったのが2000年なので、もう7年目。
起動するたびに、Macの小さな笑った四角い顔のアイコンが出て、
やがて、Macのふたりの顔の合わさったイラストに変わる。
もうその起動画面は、新品では売っていないのだ。
僕が買いに行こうとしているのは、古いMacではあるけれど、
それも、あと数年の話であろう。
誰かは、もうそれは古い話と言うかもしれない。
しかし、パソコン文化は初めからなかったもので、
僕らは出会い、いろいろ格闘しながら、つきあってきたのだ。
生まれ育った土地を故郷と呼ぶならば、ふるいOSのMacは、僕にとっては育った故郷であろう。
はじめからなかったもの。それはパソコンだけではない。
携帯電話。携帯メール。留守電機能。CD。FAX。コピー。ウーロン茶。etc。。
はじめからあったもの。
ラジオ。自動車。飛行機。洗濯機。クーラー。ステレオ。テープレコーダー。サイダー。etc。。
やってきたものには、故郷がある。はじめからなかったもの。
「生活のバランス」'07.1/14
家にいるときは、よく珈琲を飲んでいる。
ずっとインスタントコーヒーだったが、ここ半年はレギャラーコーヒーを入れている。
最近はほんとレギュラーコーヒーが安いからだ。
だから僕の生活の珈琲レベルは相当に高い。。これはもう譲れない。
そしていつも弾いているギター、これもまた良い音を出してくれている。
僕の感覚では、世界レベル水準のギターだと思っている。
だからギターの生活レベルは、世界的トップにあると信じている。
僕はカレーで有名なオリエンタル社のブレゼントで当たった金のスプーンを持っている。
だからカレーを食べるときは金のスプーンを使っている。
この贅沢。こころの贅沢。
僕はなんだかそんなふうにして生活のバランスを保っている気がする。
僕は自分のことを「金持ち」ではないが、「心の贅沢者」と呼ばしてもらおう。
「世代」'07.1/11
「ソーダ水を飲みに行こう」。その言葉があった時代。そしてその世代。
この話は前にも書いたけれど、大正時代なら、この言葉はしっかりと意味を持っていただろう。
しかし、今ではその言葉の響きは、ほとんど理解されないかもしれない。
すっかり時代は変わったしね。
ただ、同じ世代同士ならば、何十年たとうとその響きは通じるだろう。
僕らにだってそんな嬉しさがある。
何だろう。。「ギター買ったよー」かな。
昭和20年〜30年代なら。
「今度、映画に行きましょう」かな。。
現代っ子ならば、「あのゲーム買ったよ」かな。
僕は思う。きっと世代の中にある言葉の嬉しい響きは、
いつまでも変わらないだろうとね。
そして、その嬉しさは、他の世代とは共有できないような気がする。
「ライブ録音機」'07.1/9
友達から、友達の古いライブの録音テープを送ってもらった。
唄っている友達自身が、古い歌の記録がもうないとの事なのだ。
そうなると、昔のライブ録音テープの存在が大きくなってくる。
テープを送ってくれた友達は、ほんと良く録音をしていたのを憶えている。
僕も友達のライブを昔から多く録っているが、ちょっと理由がちがう。
新しい録音機を買ったから、試しにとか。
新しいマイクを買ったので、試しにとか。
いい録音テープが出たので、試しにとか。
録音機を歌らしく買い替えたので、試しにとか。
ミニディスクレコーダーを買ったので、試しにとか。。
そんな理由ばかりだ。
そのたびに嬉しくなって、友達のライブを録音してきた。
昔ね。。
理由がどうであれ、音源を残せたのは良かった。
録音機も、何度も壊れてくれた。それも良かったのかもしれない。
「古い伝達」'07.1/7
時間のあるときはインターネットを見ていることが多い。
インターネットは画面というものがあり、常に映像で見ている。
この年末、部屋の整理をしていて歌集を見つけたので歌ってみた。
まるでインターネットで、面白いサイトを見つけたように。
しかしギターで歌ってみると、電池も電源も画面もいらない。
歌って、何とも古典的な生き物じゃないか。
歌詞とメロディーという、なんともシンプルな。
それは、書道の紙と筆文字みたいなもの。
お餅に砂糖醤油をつけて食べるようなもの。
今、音楽はデジタル文化の中に入り込んでいる。
CDアルバムを作るためのレコーディングや、CDそのもの、
それをかけるためのCDプレーヤーや、持ち歩くためのデジタルプレーヤーなど。。
しかし歌ってすごく歴史が古く、人が犬と仲良くなった頃よりもさかのぼるだろう。
「里帰りのライブハウス」'07.1/4
年末に高円寺グッドマンにてみんなでライブをした。
それはマスターにとっては、一日多いライブの日で、お願いして、店を開けてもらっているのだ。
グッドマンが荻窪から高円寺に移ってから、初の年末のライブ。
お店が前よりも狭くなったので、出演者だけでも、もういっぱいになってしまう感じだ。
今年も年末ライブをグッドマンでしようと決めたとき、何人もの人から、
「ほんとにやるのぅ〜?」と、言われた。
実際、僕も不安はあったけれど、今回やってみて、やっぱりグッドマンでなきゃなぁと思った。
僕らは、いろんな意味で、マスターと、そしてグッドマンの子供たちなんだよね。
地方から来る友達にとっては、年に一度の里帰りみたいなものかなぁと思えた。
そこはグッドマンという故郷。
もし、僕が地方に住んでいて、年末に帰ってくるとしたら、やっぱりグッドマンで歌いたい。
「西遊記」'07.1/2
高校時代、テレビで夏目雅子主演の「西遊記」をやっていた。
仏教的な逸話を含みながらの話の展開は、僕をとりこにした。
知ってのとおり天竺に「法典」を取りにゆくという話だ。
途中途中で起こるさまざまな出来事。
新年になって僕も、そんな旅をしている気分だ。
ギルドのギターと一緒に天竺まで。。
新年にはなったけれど、元旦になったけれど、
それはどこかの旅の途中で。。
まあ、ずっと僕はこの部屋のパソコンの前にいるわけだけれど。。
「大晦日」'06.12/31
みんなそれぞれに大晦日のイメージってあるのだろう。
僕の場合は、テレビの音と、木のにおいと、そして雪と道かな。
単純な話。僕は二階のテレビのある部屋の一番後ろの物置スペースのところから、
テレビを見ていた。そしてそこには、ガラスではない木で出来た、小さな窓があり、
そこをそっと開けては、窓の外を眺めていたのだった。
12時をすぎ、新年になると、人々が神社へと向かう。雪が降っている中を。。
僕は、そんな木の窓の外の風景を僕は印象的に大晦日に憶えている。
もう、ずーーーと前の事、まだ実家が木の家だった頃。
たぶん、それが僕が初めて大晦日を実感したときだったのだろう。
「ミスター・ボージャングルス」'06.12/29
♪ぼろ靴はいて踊る、じいさん、、俺の友達・・
髪は白、シャツはぼろ、ぶかぶかズボンで・・・ちょいとひと踊り。。
彼と会ったのはニューオルリンズの監獄、俺がぐれてた頃、、
「ミスター・ボージャングルス」(下の方に試聴あり・歌詞も画面に出ます)、ジェリー・ジェフ・ウオーカーの作った有名な歌がある。
先日、友達のライブを録音した古いカセットテープを聞いていたら、「ミスター・ボージャングルス」が歌われていた。
そういえば、お得意のナンバーだった。僕もまた「ミスター・ボージャングルス」を歌っている。
サミー・ディビス・ジュニアも歌っている。ボブ・ディランもアルバムで歌っている。他、いろんな人が歌っている。
各時代時代、いろんな国で、いろんな場所で、さまざまな人が「ミスター・ボージャングルス」を歌っている。
友達の古いテープは、今はもうなくなったライブハウスでの20年前の録音である。
大きなホールで歌われることもある。
♪そして、誰かが言った、、、「おどっておくれよ、ミスター・ボージャングルス!!」
監獄の中で、そして軽やかなステップを踏むじいさん。。
その歌が歌われる場所場所で、じいさんは踊る。何度でも。
「友達と部屋で聞いていると」'06.12/27
いつも部屋で、聞き慣れているアルバムも、
友達と一緒に部屋で聞いてみると、いつもと違うように聞こえることはよくある。
あれは、不思議だ。話をしているとき、歌がBGMもようになってしまうからかな。
先日、インド音楽をかけていたときのこと。
それが、実に自然に響いていてびっくりした。
それはライブアルバムではあるのだけれど、
編集のとき、すごく各楽器がデェフォルメされたサウンドになっているのだ。
あのインド映画のノリのように、どの箇所も盛り上がってしまっているのだ。
そんな極端なデェフォルメサウンドでも、実にの自然に部屋で聞こえていた。
友達と話しているとね。
それは、、まるではじめて聞くような、すばらしいサウンドだった。
(これだったのか・・)
インドのアルバムミキサーが、「これでいい!!」といった音。
「中央線の車窓から」'06.12/25
中央線のどこかの駅の近く。
線路沿いの場所で工事をしていて、そこに四本の足のある機械が斜めに立っているのを見た。
それが、まるでスターウォーズに出てくる「R2D2」というキャラクターのロボットのようだった。
作りかけの空地に、その機械は哀愁を持って斜めに立っていた。
(映画のシーンみたいだな)
その機械を見たのはもう、前のこと。。
それがどこの駅の近くで、どの場所だったかはまったく憶えていない。
ただ高円寺からお茶の水までの中央線のどこかの場所。
僕はそれを写真に撮りたいと思った。エッセイにも書きたいと思った。みんなにも見てもらいたいと思った。
しかし場所がわからないことにはどうにもならない。
それも工事途中だったのだから、次の日には、機械の場所も変わっているかもしれない。
中央線の車窓から見た、そんな幻のシーンよ。
それから三ヶ月以上たった、最近の事。
ぼんやり中央線から外を見ていたら、、、あった、今もあった。
新宿から来て、四ッ谷駅のホームに入る少し前あたりに、その機械は四本の足で斜めに立っている。
まるで月面に着いたアポロ11号のように。
どうして、あのままなんだろう。。僕は不思議でしかたがない。
「とんでもなく忘れていたもの」'06.12/23
パソコンのシステム入れ替えには集中力が必要だ。
データを一度すべてなくし、買ったときの状態に戻すのだ。
じーと、パソコンの画面を見つめる。
10時間ほどかけて、入れ替えが終わったあと、僕はひと休みをした。
パソコンの画面は買ったときのデスクトップの画面に戻っている。
僕はつい10時間前まで、使っていたデスクトップの画面のことを思い出そうとした。
しかし、思い出せない。おーいみんな、思い出せないんだぜ。何百時間も見てきたものが。。
これは軽い記憶喪失かもしれない。
そして設定途中で、インターネットの中の僕のパスワードを入れようとした。
入れようとしたのだけれど、これも思い出せない。
僕は昨日までの間、そのバスワードを、一年以上、毎日、打ち込んで来たのに。。
まったく思い出せない。うわーっ。。
僕の頭もシステム入れ替えが行われたのか。。
どんなに考えてもだめだ。横になってそのことを考えてみる。
まるで駅から自分の家に戻れない人のように。
記憶喪失になる人って、こんな感じなのかな。
横になって、ぼんやりとしながらそのことを思っていたら、
僕はすっかり忘れていた記憶の出来事を次々と思い出した。
とんでもなく忘れていたものだ。
僕は思った。もし記憶喪失になったとしても、また自分を思い出すためのヒントは残っているだろうと。
パソコンは、前のデータをすべて忘れてしまうけれど、
僕らはきっと、そうはならない。小さなヒントから、また復活するだろう。
あきらめてはいけないのだな。
・・・・・
なお余談だが、昨日軽い記憶喪失になってから、カンがさえまくっている。
「バッファローノート」'06.12/21
イギリスの詩人「ディラン・トマス」の詩集が10年ほど僕の鞄の中に入っていた。
「・・・ぼくはハートでものごとを判断せよと教えられた
だがハートの指導は頭と同じように当てにはならぬ
・・・公園で遊んでいて ぼくが投げたボールは
まだ地面に落ちていない」(『ランタンに灯をともせば』詩集・二十五編の詩より・松浦直巳訳・)
僕の中のディラン・トマスは、やけどするような燃える言葉をノートにつづった詩人という印象がある。
初期の有名な詩集は「十八編の詩」(1934年)、「二十五編の詩」(1936年)、「愛の地図」(1939年)など。
1914年生まれ、酔いどれ詩人としても有名で、39才の若さでなくなっている人。
最初のふたつの詩集には名作と呼ばれる詩が多く入っていて、若くして名をなした詩人ともいえるだろう。
そんな彼には年代順に四冊の創作ノートが残されていて、ニューヨークのバッファロー市の記念図書館に所蔵されている。
通称「バッファローノート」。僕はかんちがいしていて、ディラン・トマス自身が、
「バッファローノート」をタイトルをノートにつけていたとずっと思っていた。
それはバッファロー市の図書館にあるからなんだな。
調べながらこのエッセイを書いてて、今、知った。
それはそれとして、僕はこの「バッファローノート」という言葉が好きだ。
僕の中のディラン・トマスの象徴のようにもなっている。
僕もそんなノートを作り、燃える言葉を書きつづってみたい。
先日の事、新しいノートに「バッファローノート」と、筆ペンで書いてみた。
「未来ノート」'06.12/18
僕はノートが好きだ。
部屋じゅうのどこを探しても未来は見つからないとしても、
新しいノートに、今日や明日の日付を書いてみれば、そこに未来があるからだ。
まだ書いていない白いページ。
その白いページには確実に、未来が書かれてゆく。
僕は予定をずっと書いてゆくのが好きだ。
そこが時間の最先端であり、そこから未来が来るような気がするのだ。
未来ノート。
未来にはスーパー・ジェッターがいた。鉄腕アトムがいた。宇宙人ピピがいた。
あの彼らだってきっと、未来ノートからやって来たにちがいない。
僕はノートが好きだ。
「新曲」'06.12/15
昨日はライブであった。
新曲も歌った。前日の夜くらいから作り始めた歌。
作り続けていたけれど、店に着いたときは、まだまとまってはいなかった。
それから、リハで、とりあえず歌ってみる。
とりあえず歌ってみて、歌がどんな感じか、自分で聞いてみる。
羽根はあるか。
歌になっているか。
それが大事だ。
まだ途中ではあるけれど、もうちょっとがんばれば、なんとか歌になる予感。
よし!!
今回はとりあえず、これで歌ってみて、もうひと直しして、完成するだろう。
新鮮で生きのいい歌のまま。
僕の場合、作りすぎないにようにする事が、一番、気をつけているところだ。
はまりすぎてしまうんだよね。歌が歌に。
「歌う電話」'06.12/12
電話器が突然に新曲を歌い出したら可笑しいよね。
そんなことあるのかなぁと思う。
・・・・
今朝、自転車で走っているときのこと。
なんだか、新曲のアイデアが浮かんだので、
携帯電話のメモ録に入れようと思ったらメモ録がいっぱいだった。どうしよう。。
(そうだ。。自宅の留守録に入れよう)
その昔、友だちもそうやってアイデアを録音していたのを思い出したのだ。
電話ボックスに入り、自分の家に電話してみる。
一人暮らしだけれど、誰か出たりしてね。
「メッセージをどうぞ!!」
そして、僕は歌う。 メロディーを忘れないうちに。たった今、電話器は部屋で歌っていることだろう。
もしや泥棒でも入っていたら、驚いているかな。
浮かんだメロディーを受話器で歌っていると、だんだんのってきて、サビまで歌えそうな気がしてきた。
うわっ、サビまで歌えた。やった。
それは今朝の事。
夕方になったら、そのメロディーも留守録に入れたことも忘れてしまっていた。
自宅に帰ってみると、留守電が入っている。巻き戻しながら僕はいう。
「誰だよ、こんな長いメッセージ入れたのはー!!」
「部屋のバランス」'06.12/9
部屋に、いろいろお気に入りものを貼ったりする。
そのときは想いもたっぷりで、眺めたりするのだけれど、いつのまにか忘れてしまう。
そのうちまるで壁の一部のようになってしまうけれど、視界には入っているんだよね。
そこに貼りたいとか、置きたいと思った気持ちは何かしら部屋のバランスをとっている。
部屋と僕のバランスね。
先日の事、いつも見ているポストカードが、妙に目に入ってくるのがわかった。
何かを訴えてくるとか、話しかけてくるとかではなくて。
僕が感じたのは、僕自身と部屋のバランスの中で、そこがうまくつながっていないのではないかということ。
そのポストカードを貼ったときの想いがね、欠けてしまっているというか。
うまく壁の一部のようにならなくなってしまっている。
そんなふうに思えたんだ。確かに心あたりもある。
知らず知らずのうちに、僕はこの部屋とバランスをとっているのだろうな。
「からっぽの財布理論」'06.12/7
今日、書こうと思っていたエッセイをパスしてしまった。
すると、どうだろう。まったくアイデアが出てこない。
毎日、何とかひとつのアイデアを見つけて部屋に帰ってくる。
朝は、いつでもノーアイデアだ。
いうなれば、からっぽの財布。
町を歩く、路地を歩く、お店に寄る、友だちと会う、etc。
(おっ、みっけ!!)
アイデアを見つけると、すっと、からっぽの財布に入れる。
拾いものだ。拾いもの人生。
ときには、おもいもがけず、ふたつみっつと見つけることもある。
そんなときは幸せな気分。
今夜、ノーアイデアになって、銭湯でシャンプーしながらひらめいた事。
それは、、財布がいつもからっぽだから、探すんだな。探すんだよ。
そして朝はいつも、からっぽ。
「ギター運び」'06.12/4
大事なギターがある。ずっと使いたいギターだ。
壊したりすることはまずないのだが、この手からなくなってしまう可能性がある。
それは、忘れてしまうことだ。
昨日も練習帰りに食事をしたりしたのだけれど、帰り道、自分がギターケースを背負っていてラッキーだった。
ギターは持っていたけれど、ギターを持って帰るという確実な意識がないのだ。
ちょっと、まちがえてしまえば、お店にギターを置いてきてしまいそうだ。
持って帰るかどうかは、僕の記憶にかかっている。
ギターは絶対に忘れたりしないと思っているから、当たり前のように背負ってしまうけれど、
その無意識さが問題だ。
いつかギターが背中にないこともあるだろう。
考えたただけでもぞっとする。
駅の切符を買うときとか要注意だ。
何かいい方法はないものか。一緒にいる人は常に僕のことをこう呼んで欲しい。
「FOLK TUNE」'06.12/1
札幌の友人から教えてもらった、無印良品のBGMシリーズの「8」をよく聞いている。
安い値段とはいえ、オリジナル録音であり、内容はしっかりしているアルバムだ。
シリーズ「8」はスウェーデンの伝統音楽のメロディーをシンプルな楽器で演奏しているものだが、
実に、馴染みのいいメロディーが多い。数回聞けば、みんな憶えられそうなくらい。
スウェーデンでは、どの曲もきっと有名で、知らない人はいないのではないかと思う。
何か楽器を渡されれば、そのどれかのメロディーを小学生でも弾き出しそうだ。
まさに、心の宝物といえるだろう。
そのメロディーは「フォーク・チューン」とも呼ばれる。
誰でも知っているメロディーライン。
そんなフォーク・チューンがあって、みんながセッションできるだんよね。
さて、僕らの日本には、そんなふうに誰もが知っているという「フォーク・チューン」はあるだろうか。
楽器を持ったとき、さっと出てくるメロデイー。
・・・ないかも。
いや、きっとあるのだろうけれど、気が付かないのかもしれない。
「禁じられた遊び」?
それじゃ、さびしいよなー。
父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん、じいちゃん、みんな知ってる日本のフォーク・チューンはないものか。
「ずっとCOFFEE」'06.11/29
最近、特に珈琲をよく飲んでいる。
部屋で。
それもレギュラーコーヒー。
今、安いんだよね。一杯10円くらいかな。
朝、起きて珈琲。パソコンを見るために一杯。ホームページのエッセイを書くために一杯。
エッセイを書いたので一杯。その一杯を飲み終えたので一杯。。
まあ、こんな調子だ。
そしてバイトから帰ってきてからも、ほぼずっと珈琲を飲み続けている。
珈琲を飲む理由は簡単。
飲んでるカップに珈琲がなくなるからだ。
そのたびにお湯を湧かしてレギュラー珈琲を作っている。
今度、一日に何杯飲んでいるか数えてみようかな。
珈琲を飲むと眠れないっていうけれど、いつも熟睡だ。
前にも書いたけれど、いろんな祭日を作るといいと思う。
お米感謝の日、みそ汁感謝の日、にんじん感謝の日、珈琲感謝の日、、etc。。
まあ、僕にとっては毎日が珈琲の日だが。
「iPod とハクキンカイロ」'06.11/27
説明から入ると、iPodは携帯型デシタルオーディオプレーヤーだ。
発売当初から、薄い手帳型であり、裏がシルバーに輝いているのが、一般的な目印だ。
あれ、、、「ハクキンカイロ」にすごく似ているんだよね。
ハクキンカイロは、シルバーの手帳型のカイロで、ベンジンを使って、暖かくなる物だ。
僕は雪国の生まれなので、小さい頃からカイロを持っていた。
今、売られている揉むタイプではなくて、ちゃんと金属製で中に炭が入っているタイプね。
炭を使うタイプは金属の回りにざらざらが付いていた。
炭を使うタイプと、ベンジンを使う「ハンキンカイロ」が、一般的に「カイロ」と呼ばれていた。
ハンキンカイロは、とにかくシルバーに光り、うすっぺらくて、高級感たっぷりだ。
憧れたものだった。高校の時に確か手に入れた記憶がある。
ふところに、シルバーのハクキンカイロ。
現代では、それがiPodに変わったようだ。
僕と同世代か、上の人はみんな思っているんじゃないかな。雪国の人は特に。
iPodとハクキンカイロは似すぎていると。。
そこでアイデアだけど、、スティーブよ。
「アルバムの良さ」'06.11/25
久し振りに友だちのアルバムを聴いたら、曲順がいいなと思った。
そんな事、今頃言われてもと、思う人もいるかもしれないけれど、
アルバムには曲順があり、レコード時代はその曲順は変えられなかった。
今日は曲順プログラムや、シャッフル機能についての話じゃないんだ。
アルバムの良さって、入っている曲の数だけの楽しみもあると思うけれど、
曲順の良さってあるよな。。今さらながら、自分が言うのも可笑しいのだが。。
曲順って、無形なんだよね。曲順の国宝とかあってもいいのにな。
無形文化財?
曲順は、今まで、ちゃんとした言葉を与えられていないものだと思う。
その価値を、どんなふうに表せば良いのか。
もしかして、アルバムって、曲順の楽しみなんじゃないかな。
今日、友だちのアルバムを聴いてて、そんなふうに思った。
名料理人と呼ばれる人たちは、きっと料理の順番も名人なのだろう。
10曲入りのアルバムは、テーブルに10品ずらりと並んだ料理とも言えるが。。
ベスト盤と呼ばれるものもある。それがベストなのかは別として。
「旅」'06.11/23
小さい頃、僕はいつか日本中の旅に出るものだと思っていた。
テレビ文化や学校、そして友だち、漫画本生活、ファンタ、チョコレート、etc...
現代生活というものが自分の回りにあって、僕もそれに沿って年をとって親友もいて、通信簿ももらって、、。
でも、僕はいつか日本中の旅に出るものだと思っていた。
日本地図を作った伊能忠敬や、俳句の芭蕉や蕪村のように、、。
自分の心だけが知っていたことだが。
自分は8才や10才ではあるけれど、それは今の年齢なんだと。。
生まれ変わりとかそういう感じではなく、いずれ旅に出るときのために、今若いのだと、、そう思っていた。
みんなと同じように笑って、写真を撮って、修学旅行にも行ったけれど、僕はいつか旅に住むだろうと。。
が、、未だに僕は、日本中の旅には出ていない。
電化製品も部屋にいっぱいあって、現代生活にまみれている。
架空の時間にいるような気もずっとしている。
ただエッセイを毎日書いているときは、ちょっとだけ本来の時間にいるようだ。
「足りなかった、こんな時間」'06.11/21
最近はあまりコンビニエンスストアーに帰り道に寄らなくなった。
いろいろと節約しようと思っていたら、必然的にスナック菓子を買わなくなったのだ。
考えてみれば、スナック菓子とのつき合いは長い。
小さい頃のお店屋通いから始まって、レコード店員時代のナイロン袋いっぱい買ってきていた寮生活時代。
生活に余裕があれば、いくらでも買ったものだった。
スナック菓子を次々と食べる、そんな時間。
久し振りに買ってくると、そんな時間に自分が住んでいるような気がしたのだ。
もう、いい年の大人、それもおじさんなんだけどなぁ。
自分の父の思い出してみても、スナック菓子を次々とは食べたりはしてなかった。
世代が違うのか、それとも僕にまだ子供癖が残っているからか。
スナック菓子を買ってきて食べる幸せは、僕にとっては代え難い時間ではある。
自分が戻ってくるというのか。。
しかし節約生活には、そんな時間がない。最近、何かが足りないと思っていた。
「背筋の伸びた音」'06.11/19
もともとの一本の弦の音はだいたい決まっているものだろう。
ギターの場合、それをボディで増幅するわけだけれど、元音と変わってくる。
それがそれぞれのギターの個性になる。
安い、ほんとに安いギターだと、弦の音がそのままする感じだ。
しかし良いギターになると、そのギターの音の特徴が出てきて、元音に味付けされてくる。
信じられないような音に変わって。
どうしてなんだろう?、、と、思えるほど、良い音になって。。
どういうしくみなのかはわからないが、音の背筋が伸びているのだ。
それも心に届く個性のある音になって。。
・・・・・
バイトから帰って来るとすぐに、いつもギターを弾く。
どんなに僕自身が疲れていても、僕のギターは背筋の伸びた音を出してくれる。
それはほっぺたの落ちそうなお菓子のようであり、名産のご飯のようであり、
名店のシェフの作る一品のようであり、美味しいお好み焼きのようでもある。
僕もこんな仕事がしたいものだ。そして良いギターはいつも、良い仕事をしている。
ギターは壊れない限り、朝昼晩と元気だ。
僕はバイトから帰ってきて、背筋の伸びたギターの音に波長を合わせる。
「こんなギターを持っていたっけ」'06.11/17
忙しいときは、朝8時すぎから夜5時まで、ぎゅうぎゅうにバイトをしたりしている。
ほとんど休むことなく、体と頭をフル回転で。
まあ、休みも多いので、それはしかたがないのだけれど。。
朝起きて、僕はちょっとだけギターを弾く。
今年の5月に買ったギルドのギター。
まだ買って半年のギターであるけれど、十分に弾いてきたつもりだ。
へとへとになって、バイトから帰って来て、そのギルドのギターを弾くと、あれ、、不思議。。
まるで、一週間ぶりに弾くような感覚になっているのだ。
おなじ、ひざの上に乗っているギターの同じ時間。
その間に僕に起こったいろいろなこと。
朝弾いたばかりなのに、僕は「こんなギターを持っていたっけ」って気持ちになる。
なぜだろうな。。
まだ半年のギターだからかな。
もし、、僕が新しい街に引越をしたら、いつも「そうだ、この街に住んでいたっけ」っ気分になるのかもしれない。
「ひきこまれ」'06.11/14
先日、テレビ映画にて、俳優の西田敏行さんが出ていた。
( ははん、「釣りバカ日誌」かな?)
ストーリーを少し見てゆくと、どうもちがう。工場長の役であった。
僕は作業をしていたので、映画「釣りバカ日誌」なら、今度また観ようかなと思っていた。
しかし、タイトルもわからないその工場長の映画に、僕の目はすいつけられた。
ストーリーも良かったのだけれど、西田敏行さんの演技が、ほんとの工場長のようであったのだ。
(どーするんだろ?)
みんなも知っている、ビデオデッキが売り出された頃の「VHS」誕生の話だ。
ソニーの出したビテオのベータ方式が公式の基準に選ばれかけたときに、勝負をかけて完成した「VHS」。
工場長はVHSデッキを持って、ナショナルの松下幸之助氏に直談判にゆくのだ。
ここが最大の盛り上がり。
(工場長がんばったな)
僕は作業が中断したまま、テレビの映画を見続けた。
こんなふうに、ふいと観たテレビ映画にひきこまれる時が、とても嬉しい。
現代の映画といえば、CGを使ったスペースものや、スペクタクルものも多いけれど、
地味ながらも、つい観てしまう映画もある。
「くしゃみの研究」'06.11/12
日本語で、くしゃみは「ハックション!!」
犬の吠え声は「ワン!!」。猫は「ニャー」
にわとりは「コケコッコー」
僕らは、しらずしらずのうちに、くしゃみのときに「ハックション!!」と言っていないか。
そんなふうに世界中には、くしゃみの擬音語があり、
それぞれの国の人たちは、それに沿ったくしゃみをしているのではないか。
カタカナのようなくしゃみの日本人。
北京では、「ほぇっくしょ〜ん!!」かもしれない。
フランスでは「ふわっくしゃん!!」かもしれない。
英語圏では「フェックシャーン!!」かもしれない。
同じ現象のくしゃみなのにね。
世界中の赤ちゃんのくしゃみは同じかもしれない。
大人になると、変わってくるのかもね。
「頭の中の人」'06.11/9
人間の脳って、パソコンより、もっとずっと優秀だよね。
だから、感情のようなものを、言葉にするのは、お手のものなんだ。
僕の頭の中で、仕事中にずっと喋ったりしている人がいるのだけれど、
僕はそれを自分の言葉だと思わないことにしている。
たぶん、脳が勝手に喋っているんだよね。
だから、それは僕が言っている言葉ではなくて、頭の中の人の言葉なのだ。
感情のようなものを、どんどん言葉にしているんだよね。
「感情」ではなく「感情のようなもの」ね。
頭の中の人の言葉を、まともに受け取ってしまうと、
「感情のようなもの」が、ホントの「感情」になってしまう。
「感情」になってしまうと、今度はその事が記憶されてしまう。
記憶された感情はいつか何かの形で、外に出なくてはいけない。
もし外に出ないで我慢したりすると、、。
人の脳の能力はすごいものだと思う。夢とか作ったりするし。
言葉を作るなんて、お茶の子さいさいだ。
これでもかってこれでもかって喋る。
「朝の記憶」'06.11/6
僕らの街の朝はなんとも、味気ない。。
あまり人の歩いていない路地。工事現場の人たちはもう作業を始めている。
同じ朝なのに、インドでは角々にチャイ屋が出て、ざわざわとした街の響きがいつもある。
ちょっとしたものが食べられる屋台もある。
僕らの街で言うところのモーニングかな。
いや、チャイ屋の雰囲気とはちがうなぁ。
「ハロー」と声をかけ、木の板の椅子に座る。そして、ガラスコップに入れられた熱いチャイをすする。
無言の人もいる。話している人もいる。
旅人の僕らがいても、それは自然だ。
「どこから来た? どこへ行く?」。そんな言葉と一緒で。。
江戸の街の朝も、そうではなかったか。
あのインドの朝のざわめきは、しっかりと憶えていてよい、風景だ。
海外旅行をするなら、インドとは限らないが、アジアの朝のざわめきを心にとめて欲しい。
そして、熱いチャイを一杯。
僕の記憶の中には、インドの朝がしっかりと残っている。
僕らの街にも実は朝にチャイ屋が出ている。
「ボクサーみたいなシンガー」'06.11/4
ステージに立つ、ボクサーなんていないのかな。
いや、いる。リングに立つシンガーのように。
曲数分のラウンド。どんな試合になるかは、自分でも予測はつかない。
歌うことが、戦いになるとき。
1・2ラウンドは、軽快なフットワークで攻めてゆく。もちろん、そのままで行ければ良いのだけれど、そうはいかない。
パンチを出して、その痛みが帰ってくるのは自分自身。ふらふらになりながらも、試合は進んでゆく。
客席からはブーイング。ボクサーは、わかっている。わかっていて出来るものなら、最初からやっている。
これは戦いなのだ。
最終ラウンドが近くなると、これで終わるものかと、また足に軽やかさが戻ってくる。
打たれても打つ。そんなボクサー。
そして、そんなシンガーがいたっておかしくない。
ステージに立つことは、リングに立つこと。
途中にダウンあり。。
フルラウンドの戦い。ジャッジをきくときには、もうへとへと。
「ほら、おまえ、勝ったってよ。。」「あっ、そう。。」
「盗作さわぎについての僕の想い」'06.11/1
とある有名な漫画家が、とある有名な歌手の歌詞のフレーズが自分の作品に似ていると、
抗議しているとニュースであった。
・・・・
それについて、僕なりの想いを書いておこう。
その似ているというフレーズは、とても味がありポエジーの感じられるものだったのかな。
だいたい、そんなふうに永遠性が感じられるワンフレーズというものは、強さがあって、生き生きとしているものだ。
生き生きとしているというより、もう、生き物だと言っていい。
どこかの時空を飛び抜けてくる生き物。ちゃんと、服も着ている。
どんな服かは知らない。それは謎だ。
その生き物が、さっと目の前の時空を通り抜けたとき、まあ、ちらっと、見たんだな。
フレーズという服も一緒に。
一瞬だけ、やって来て、また、遠くに行ってしまう。捕まえることなんかできない。
何百年も越えて、国も越えて、部屋の壁も越えて、やって来る。
それを一瞬、「ひらめき見た」ということなのだ。
人それぞれの記憶のちがいがあっても、同じ生き物を見たのであろう。