青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「今日の夜話」過去ログ'05.8〜10月


「弾き語りシンガー」'05.10/30

 生ギターと共に、ステージに登場する弾き語りシンガー。

 それは自作自演歌手のことだ。

 みんなそれぞれに生ギターを持って歌い出す。

 生ギターは単純に伴奏楽器であるが、その音色もまた、

 聞かせどころということだろう。

 世界中にそんな弾き語りシンガーは山ほどいる。

 生ギターもその数だけあるのだろう。

 (もちろん、生ギターだけとは限らないが・・)

 ステージに居る存在は、自分と唄と、そしてギターだ。

 ギターは相棒と呼んでもいいだろう。

 歌の存在は、もちろん声ではあるけれど、

 生ギターの音もまた「声」であると言ってもいい。

 ふたつにの声のステージであるのだ。そこには相性もある。

 弾き語りシンガーたちは、「バンドでもやってますが、今日は生ギター一本で・・」とか言わないで欲しい。

 動物たちが大地を走るとき、車やバイクは使わない。ソロであるから、その走りは美しいのだ。

 みんなそれぞれのギターを持って登場する。

 まるで、それがひとりの生き物であるかのように。

 その姿は人類百科事典に、登録されてもいい。

 「弾き語りシンガー」・・実はふたりだが、ソロと言ってステージに立つシンガーの事。


「ゴング」'05.10/26

 そろそろかなとは、思っていた。

 誰だってそうだろうけど、なかなか腰を上げることができない。

 今日こそはと思っていても、また明日となってしまう。

 明日はまた今日になってしまう。

 計画帖だけが、いつも日付どおりだ。

 ・・・・

 僕は下町の路地裏を歩いていた。

 お知らせを届けに、とある一軒のポストを開けた。

 それは上ブタが厚い金属製になっていて、投入と同時に良い音がした。

 「カーン!!」

 まるでゴングだ。

 たぶん僕の人生の中で、今、ゴングが鳴らされたのだ。

 始まった。

 それは試合ではないかもれない。

 「これからは本気ですよ」というサインかもしれない。

 思い返せば、ずいぶんと休んできた人生だった。

 今、僕のゴングが鳴らされた。

 君のゴングはいつどこで聞くのだろう。


「古い中華屋」'05.10/24

 今夜は、ししゃもを焼いて食べた。安いんだよね。今、、。

 キムチもひと瓶買ってね。そんな自炊の日々。

 ・・・

 思い返してみれば、18〜25才のときが一番、生活に余裕があった。

 毎日、どこかの中華屋に行っては食事をしたものだった。

 欲しいものはなんでも買えた。まあ、家賃が18000円くらいだったせいもあるけれど。

 それが今ではいろいろと出費もあり、外食も毎日のようには出来なくなった。

 立ち食いそばとかはよく食べるんだけれど。

 ・・・・

 いつも通る商店街の終わりに、一軒の古い中華屋さんがある。

 20年前、この街に引越して来てからも、まったく変わっていない。

 大きな看板はちょっとさびたかな。

 ずっと忙しくて、なんだか目に入らなかったけれど、ここはゆっくりできるな。

 新しい店が、どんどんオープンする中、古い中華屋を愛するのはいい事だ。

 やっと古い中華屋の良さがわかってきたよ。

 しかし、今は自炊の日々が続く、、。

 なんてこったい、今こそ、毎日のように寄ってみたいのに。

 あの古いいつものテーブルに座りたいのに。


「風呂屋さん」'05.10/21

 午後すぎに、お風呂屋さんを訪ねることがある。

 用があり行くので、裏の勝手口より声をかける。

 風呂屋さんの裏口には、たいがい大きな湯だめがあり、

 その上には厚い木のふたが、並んでのせてある。

 その木の隙間からかすかにもれている、湯気。。

 何軒もの風呂屋さんに寄るけれど、その木のふたの上はすばらしい物置になっている。

 新聞、雑誌、お茶のみセット。。

 そして、そこで横になっているご主人がある。

 たぶん一日の内で、ひとやすみの時間なのであろう。

 「ごめんくださーい」

 「おぅ、、来たかぁ」

 ひと仕事終えて、うとうととしている時間なのだ。

 湯だめの木のふたの上は、あたたかくなんとも気持ちが良いのだろう。

 誰だって、その木の上で休みたいと思う。僕だって思う。最高のスペースだ。

 午後に勝手口から訪ねるとき、お風呂屋さんのご主人は、その木の上で子供のようだ。

 午後の時間、そこでいつも楽しんでいるのだろう。

 もう長い間。。きっと子どもの頃から。そんな気がする。

 まるでそこで暮らす人のように。


「唄本生活」'05.10/17

 ギターを弾き始めた頃、いつでもそばにあったのが「唄本」だ。

 それも好きなシンガーの唄本。

 '70年代は、フォークブームだったこともあり、マイナーなシンガーの唄本も数多く出ていた。

 実家から持ってきた唄本は、どれもボロボロになっている。

 唄本はいいな。いつでも開けばコードと歌詞があって、テープレコーダーに歌を入れたり出来るし。。

 大フォークブームはとうの昔に終わってしまい、今や好きなマイナーシンガーの唄本が出る事はまずないようだ。

 そんなこんなで、あの唄本生活は遠くなってしまった。

 CDラックには、友達のCDが山ほど増えたけれど、本棚には唄本が新しく増えることはない。

 ああ、みんなみんな自分の唄本を出せばいいのに。

 きっとアルバムの聴き方も変わってくるだろう。

 日々の生活の隣にあったはずの唄本。

 いつでも手の届くところに置きたいな。

 その手から先にあるはずの唄本は、未来のいつからやってくるのだろう。


「中華屋カレー」'05.10/13

 小さな古い中華屋さんが下町にある。

 そこにある本棚には、1972年頃の漫画単行本が、今も並んでいる。

 すっかり本の背が茶色になって、まるで木の壁の一部のよう。。

 ・・あれは壁なんだな。

 そんな中華屋さんで、出てくるカレーもまた古い感じのカレーだ。

 アーモンド型になったご飯に、とろーんとしたカレーが半分。

 もしかしたら、水のコップにスプーンが入っていたかもしれない。

 今日、その中華屋さんの前を通ったとき、無性にあのカレーが食べたくなった。

 いまでは、もうあまり見かけなくなった、アーモンド型ご飯とカレー。

 それは中華屋カレーだ。

 カレーに新しいも古いもないのかもしれないけれど。。

 時代をはるばる越えて残り続けた、あの古いカレー。

 登場した頃は、なんともオシャレだったにちがいない。

 実はすばらしいアイデアカレーだったのかもしれない。

 現代の若者は、このカレーに首をひねるだろう。

 しかし堂々とせよ。

 君の味方は多い。


「マスターの子供たち」'05.10/11

 友達が、とうとうパパになった。

 どんな子育てになるのかなぁと、ふと考えてみた。

 子育ての事を考えてみたら、お世話になっているライブハウスのマスターが思い浮かんだ。

 マスターの子どもが小さかった頃から、僕らはよく知っていて、その子どもとの接し方がとても身近にあったのだ。

 そんなマスターの子育ての事を思っていたら、なんだか僕らも、マスターの子どものような気がしてきた。

 マスター自身はまったく意識はしていないだろうけれど。。僕らもまた意識はしていないだろうけれど。。

 知らないあいだにね。

 そのライブハウスに初めて出てから、もう20年はたっている。

 僕の身長は、それから1センチも伸びていないけれど、たしかにマスターに育てられたという気がする。

 そして、もう大人になったのか。まだ子どもなのか。

 たぶん、まだ子ども。。いや、20年なので二十歳かな。


「お菓子渡しのタイミング」'05.10/9

 そのお菓子屋さんに用があり訪ねると、必ず帰りに何かくれる。

 飴とか、、おせんべいとか。。

 「あっ、それ問屋さんからいっぱいもらったものだから、、」

 と、何かひと言いって。。

 まあ、この年にもなって飴玉というのも、まるで子供のようなのだけれど、

 それでも、嬉しい。

 用が済み、帰ろうとすると、おじさんはさっと手を出して、僕にお菓子を渡す。

 それは握った拳のままだ。

 僕も知っているので、その拳の下に手を出して、飴玉をキャッチする。

 そのタイミングが難しい。あうんの呼吸が必要だ。

 もし、そのタイミングを失敗すると、おじさんは、握り拳を見せたままになってしまう。

 それは恥ずかしいはずだ。それだけは避けたい。

 だから僕もさっと手を出して、受け止める。

 「あ〜あ、いいですよ〜。こんなぁ〜・・・」とか、言いながら。。


「グッド・ジョブ」'05.10/5

 それは、元製図道具セットが入っていたケースだった。

 まあ、コンパスとかが型抜きで入っていた。

 その黒い堅いケースを僕はもらった。中身は外してケースだけにしてみた。何かに使えると思ったのだ。

 と、思ったのがもう5年くらい前。そして2年ほど前に思い出して、仕事カバンの中に入れてみた。

 ぴったりと合うケースは、小さなボタンで開閉する。閉めると隙間もできない。

 ちょうどハガキ大の大きさの用紙が入るので、とても便利に使える。

 二年間、毎日使い続けているが、今も壊れそうにない。

 製図用具の入っていたケースなんだけどね。

 そういえば、小学生の頃、鉛筆の1ダース入りプラスチックケースがとても丈夫で、そのまま筆箱に使えた。

 消しゴムも付いていたよね。

 ケースにまでこだわった文化があった。きっと、今もあるだろう。

 万年筆を買うときについてくるプラスチックケース。あれもメガネケースになるかもしれない。

 それもずっと壊れない。


「夜明け前」'05.10/3

 午前四時半にいつも新聞配達の兄さんが来る。

 アパートの鉄階段を踏んで二階へと届ける。

 僕の部屋は一階にあり、鉄階段のそばなので、走る音でよく起きてしまう。

 まだ、夜明け前だ。

 鉄階段がガタガタとなる音は、暗い夜を響かせる。

 ・・・

 夜明け前にドアを閉め、出かける日がある。

 まだ暗い静かな道をゆくのは、独特の感じだ。

 いつか、ネパールの夜明け前の道を、リュックを背負って歩いた事がある。

 あの日と同じ夜明け前が、いまも毎日すぐそばにあるのだ。

 鉄階段が響くたびに、僕はあのネパールでの道に戻るようだ。

 夜明け前はきっと遠くネパールにもつながっている。

 きっと世界中につながっている。

 そんな不思議な時間が毎日ある暮らし。


「人生のこと」'05.10/1

 昨今、電気店にはDVDレコーダーが列んでいる。

 記憶できる映像の量は、150ギガとか250ギガとかと表示。

 僕も実際持っているが、これが多いようで、あっというまにいっぱいになってしまう。

 人の脳の記憶力の量は限界がないというけれど、なんだか僕の脳の情報の処理能力は250ギガくらいのようだ。

 一度にいろんなことがあると、すぐに一杯になってしまう。

 それはまるで、DVDレコーダーのメモリーがかなり一杯になった状態と近い。

 「必要なメモリーが足りません。どれか削除してください」と表示が出るようだ。

 どれか削除と言われても、それを決めるのもまたひと苦労だ。

 最近の僕の脳は、もうハードディスクが一杯。。

 何か考えようとしても、処理能力も極端に遅くなってしまった。

 10ギガも余裕のないメモリーでやってるみたい。

 そんな状態では、脳がパンクしてしまうだろう。

 昔から「餅は餅屋」と言うけれど、もう「人生」の事は「人生」に任せてみようと思うのだ。

 たぶん「人生」のハードディスクメモリーは、無限大に近いほど余裕があるだろう。

 僕らはみんな「人生」という外付けのハードディスクをきっと一緒に持っているのだ。

 脳だけでは、きっと限界がある。


「柱時計」'05.9/26

 昨日から歌を作っている。

 やっぱり歌を作る時間は特別な感じがするな。

 テレビをつけてみると、とんでもない電波を感じる。

 インターネットのHPは、自分で選べるし、静かさはこわれない。

 横になって考え事をしてみる。

 部屋には柱時計があり、ちょうど良い時間を刻んでいる。

 僕は、いったいいくつ時計を持っているのだろうかと思う。

 電子時計は、突然に遅れたりするので、ときどきはとても困る。

 目覚ましに使っている時計は、いつも一年もたないで、また買ってしまう。

 それに比べて、柱時計の壊れないこと。昭和30年から動いているらしい。

 全然壊れそうにないし、、。遅れや進みについては、振り子のネジで調節できるし。

 もしかしたら、電子時計よりも進化しているのじゃないの?

 柱時計は、やっぱり時計の王様だな。

 そうそう歌作りの話だった。

 歌はテレビからも流れてくるけれど、柱時計からも流れてくるような気がする。

 ♪「青木さんちの古時計」とかではなくてね。


「インドの時間」'05.9/23

 高円寺、南口をずっと降りていったところに、インドレストランを見つけた。

 ランチは500円ちょっと。チキンカレー、ナン、サラダ、そしてコーヒー付きだ。

 安いよなぁ、、。この感覚が好きだ。

 地下一階に降りてゆくと、休日というのに人もそれなりに入っている。

 厨房に二人、そしてウエイターが一人。みなインド人だ。

 僕はカウンターに座る。それもカウンターの角。

 角が斜めに削られてあり、そこに席をひとつ作ってある。さすが。

 店内には、僕の知っている歌がなんと流れていた。

 厨房にいる二人を前にして、僕はインドに居た頃を思い出してみる。

 そういえば、インドのレストランはみな忙しそうではあるけれど、

 厨房の人は、静かに仕事を進めているような気がする。

 日本の昼休みの食堂と言ったら、これまた慌ただしさの象徴のようだ。

 しかし、レストランは慌ただしくて、いいものなのかな。

 みんなのんびりしに来ているのではないか。

 インドのコックさんを見てると、基本的にペースを変えないで静かに進めている。

 インドの人はきっと定時で仕事が終わりという事はなく、

 疲れないように、長い時間を働いているのだろう。

 ・・・半分はきっと、心を休めながら。。

 日本人は普通、仕事とフリータイムを分けているけれど、さて、それは僕らの観念ではなかったか。

 疲れるように仕事をしているのではないか。

 店内にかかっている、知っている曲は7分〜8分の曲であった。

 僕が思い事をしている間じゅう、ずっとかかっていた。

 そんなインド時間。


「アルバムの家族」'05.9/21

 ジャケットは大切だ。

 僕の持っているCDラジカセは取っ手を持ち上げると、

 うまくCDケースが乗せられるようになっていて、ジャケットが立てられるのだ。

 偶然かもしれないが、やっぱりそうでなくちゃなと思う。

 ここ数日、ジョン・レノンのアルバム「ジョンの魂」を聞いている。

 「マザー」「ラブ」他、ヒットした歌も入っているけれど、

 どの歌もみんな、ひとつのアルバムという家に住む、家族のような気がするのだ。

 最近は音楽配信も流行りつつあり、一曲一曲で買ったりできる時代になってはいるけれど、

 (なんかいやだなぁ・・)と、アルバムの家族たちはつぶやいているにちがいない。

 ジャケットは大事だ。ジャケットは家なのだ。

 そしてアルバムタイトルもまた家であるのだろう。

 どの曲もみな大事であり、短い曲もまた同じ家族だ。

 ジャケットの中に住んでいる。そして出かけたり、帰ってきたり。。


「マジシャンの集中〜9/15の話(4)〜'05.9/19

 「ほら、あの虹の下にキリンが見えてるよ」

 「えっ、どこどこ?」

 ・・・・

 その日僕は、とあるベテランの弾き語りシンガーのライブを聴きにいった。

 300人ほどのお客さんの前で、余裕ながらも集中した演奏と歌であった。

 一曲一曲がまるで一編の小説のようでもある。

 その人は年間、相当数のライブをしているはずである。

 それでも、一曲一曲に対する集中力はさすがだ。

 日々、いろんな事もあるだろうに。。

 どうやったら、あんなふうに歌と演奏に入り込むことが出来るのか。。

 その人は演奏が終わると、なんだかとても嬉しそうだ。

 ほんのちょっと前までは、とりつかれたような声を出しているというのに。

 どの曲もラストには、とんでもない状況の風景に持っていかれてしまう。

 その声と演奏の演出はさすがだった。

 けっして力で押し切っているのではない。

 そしてある程度、その曲が満ちてくると、こちらもわかるし、歌い手もわかる。

 だいたいそこで、歌は終わりへと向かう。

 それは空間に何か得体のしれないものを、描き出しているようだ。

 まるで弾き語りのマジシャンのように。

 ・・・・

 きっとちょっとでも気を許せば、空間に何かを描き出すことはできないであろう。

 歌にそうとう集中しないと、それは難しいはずだ。

 僕も歌っているので、よくわかる。

 それぞれの曲に、それぞれの何かを描く。

 そう思うとき、ほとんどの場合が集中できるのだろう。

 ないような、あるような、ないような話ですが。


「拍手という手応え〜9/15の話(2)〜'05.9/17

 とあるベテランのシンガーソングライターの公開録音に出かけた。

 会場には300人ほどの観客。FM局の公開録音であり、もちろん無料。

 メインはもうひとつのロックバンドだったのであろうか、若い人が多く来ていた。

 最初はベテランのシンガーソングライターの彼であった。

 名前だけは知っているが、初めて聞く人も多かったはず。

 僕は何度も彼のライブは聞いた事があったが、それでも5年ぶりくらいであった。

 さて、どんなライブにするのかな。

 彼は登場して、エレキをマイナーな感じで弾き鳴らす。声はロックというよりも演歌に近いであろう。

 印象的には、パンク的ジャパンフォークという感じか。

 一曲目が始まる。みごとにお客さんをつかんでいるのがわかる。

 声色の豊かさ、そしてアバンギャルドなギター奏法。

 曲が終わったときに、誰もかれもが大きな拍手をし、彼もまた嬉しそうであった。

 つづけざまに入る二曲目。

 ・・・・

 彼が生ギターからエレキギターに持ち替えてから、もう15年以上はたっている。

 長い時間と、多くのライブを通り、エレキ弾き語りをここまで極めたのだ。

 一曲目を歌い終わって大きな拍手をもらったときの、彼の嬉しそうな表情。

 初めて聞いたであろうお客さんからの大きな拍手。

 僕はそのとき、ある事をイメージした。

 彼はきっとその拍手に「手応え」を感じていたのだろうと。。

 普通、「手応え」と言えば、綱をひくときのような、自分自身の手の感触の事であろう。

 しかし、拍手という「手応え」もあるのでははないか。

 僕もいい年ではあるが、そんなふうに一度もイメージした事はなかった。

 これは言葉の発見だった。拍手とはそう「手応え」だったのだ。

 ぜひ来年から国語辞典に加えて欲しい。


「夜の始めのうた」'05.9/14

 今日は長い帰り道だった。

 仕事中、自転車がパンクしてしまい、ちょっとはなれた自転車屋さんに、

 手で引きながら届けてきた。駅までの道が、また遠くなった。

 暑かった昼間、そして少しは涼しい夜。足は歩き過ぎてガクカクになっている。

 (今日は夏のようだったね・・)。

 自販機の前で、コインを入れ、そして150円のポットボトルタイプのドリンクを押そうと思った。

 すると、自販機の明かりが今夜は妙にきれいだったのだ。

 夜の始めの路地を眺めみれば、外灯の明かりもお店やさんの明かりもとてもきれいだ。

 疲れすぎると、こんなふうに見えるものなのか。。

 僕の体じゅうに力が入らないように、夜もまたふわふわとしているように感じられる。

 そして、なんだか、今夜の明かりはみんな楽しげに見える。

 僕は思い出していた。20才くらいの頃、よく、夕暮れの街を歩いたことを。

 やがては夜。夜になり始めの街も、よく歩いた。それは本当に楽しかった。

 今夜の明かりには、あの頃の明かりの街が戻ってきている。

 僕はあれからどこに行っていたのだ。。

 歩いても、まだまだ駅には着かなかった。


「金のスプーン」'05.9/11

 僕には自慢できる宝物がある。

 それはオリエンタルカレーからプレゼントされた金のスプーンだ。

 毎日のようなカレー生活であっても、金のスプーンは僕を豊かにしてくれた。

 宝物とは、このことだ。

 ほぼ二年使っていても、金のスプーンはそのまま。

 僕はできれば、一生、この金のスプーンを使うつもり。

 ・・・だった。

 金のスプーンのはずだったのに、今日、気がついてみれば、だんだんと銀になりつつあった。

 おかしいなぁ、、。金メッキじゃないの?

 使用頻度が高すぎたかな。

 がっかりだ。。僕の人生の宝物が。。

 オリエンタルカレーがプレゼントしててくれた、人生の宝物が。。

 あああ、夢が銀色に、、。これは夢のスプーンだったのではないのか。

 また銀の次に金が出てこないかな。


「魔法のようなもの」'05.9/8

 先日、コインランドリーの中にアゲハ蝶が舞い込んでいた。

 とても出られそうにないので、外に逃がしてあげようと思い、手を伸ばしてみた。

 天井はそんなに高くなく、ゆっくりと飛んでいたので、簡単につかまえられると思った。

 しかし、これが、なんとも、まったく触りもしないのだ。

 これではしかたがない。急いでいたこともあり、あきらめて僕は外に出た。

 (すごいな、、。)

 思い出すのは、劇画「巨人の星」の中でのダイリーグボール第三号「消える魔球」。

 アンダースローで投げられるその超スローなボールは、当てようと思ってもボールがよけてというものだ。

 まさに、さっきのアゲハ蝶はそのままだった。「消える魔球」はホントだったのだ。

 これも進化のひとつの形なのであろう。何か素晴らしい秘密がそこにはあるはずだ。

 しかし、それは語られて来なかったな。調べた人もいるのだろうに。。

 ◇◇◇

 敵から身を守る必要性があるとき、きっとほとんどの動植物は、

 「魔法」のようなものを使っているのではないか。

 猿の尻が赤く腫れているのも、後ろ向きに逃げるときの威嚇だ。

 僕ら人類も、生き残るために、きっと何か魔法のようなものが使えるはずだ。

 しかし、それって何だ? 

 石を投げるって事か? 不明だ。

 原始の暮らしをしている人たち、ジャングルに暮らす人たちにきくとわかるかもしれない。

 僕らの魔法について。


「今、僕らが失いかけてる素晴らしかったもの」'05.9/2

 何度も言おう。それは、A面のラストとB面の一曲目だ。

 それだけではない、A面のラストから二曲目も、B面の二曲目も失いかけている。

 「また、青木さん、その事言ってる!!」

 いや、何度でも言おう!!

 僕らが今、失いかけているものは大きい。

 レコード文化もなくなりつつあり、カセットテープ文化も同じ運命だ。

 なぜ、なぜCDプレーヤーを最初に作ったとき、「A」「B」ボタンを作らなかったんだ。

 まだ間に合う。間に合うんだ。

 間に合えーー。

 A面のラストから二曲目には、お昼前の給食室のいいにおいがする。

 A面のラストの曲には、午前の授業の終わりのチャイムの響きがある。

 B面の一曲目には、昼休みにやってくるパン屋さんの嬉しさがある。

 B面の二曲目には、昼休みの教室の窓から眺める景色がある。

 それはどうしても必要なものだ。

 せめてレコード時代のものは、A・B面を残そうよ。

 A面ボタンは「赤」、B面ボタンは「青」。

 おかえり。


「遅く来る八百屋さん・市場編」'05.8/31

 先日、プラムの一種「ソルダム」を、久し振りに食べた。

 久し振りと言っても、もう15年以上はたっている。

 僕は若い頃、青果市場に4年ほど働いていたのだ。

 八百屋さんや果物やさんが買い付けにくる「仲卸」の店にいた。

 季節季節の果物を毎日食べていた。

 「おいしいから食ってみろよ!!」と先輩が、お得意の八百屋さんに声をかける。

 「ほんとかよ〜。。ほんとだ。。うめえ、、」

 「だろう。三箱どうだい。安くしとくよ」と、ひととおりの会話のあと、残りが僕らに回ってくるのだ。

 それもまず先輩から、そのあとで「青ちゃん、食え」と声がかかる。

 (おっ、うめえなぁ・・なるほど、、)と、それなりの勉強になる。

 「ソルダム」を食べながら、そんな事をいろいろ思い出していたら、

 お得意の八百屋さんたち、果物やさんたちの事も思い出してしまった。

 みな8時くらいから徐々にやって来るのだが、店をしまいかける1時くらいにやってくる人もいた。

 「おう、、!!」「おっ、やっと来たね。待ってたよ」

 「これ全部、持ってかね?」「いやぁ、こんなにぁ、いらんなぁ」

 「これが、甘くてうめんだよ。青ちゃん、これ切って切って」

 そして味見のための、果物が切られる。いつも切られる。

 「ほんとだなぁ。。」「安くしとくからさ。全部よろしく!!」

 「しょうがねえなぁ、じゃあ、全部積め!!」

 「はい、8576さん、全部積んでちょうだーい」

 働いていた頃は、遅くくる八百屋さんは、なんて寝坊なんだろうなぁとずっと思っていた。

 終わり際にいつも来てさぁ。1時だぜ。。

 でも、今思い返してみれば、いろいろお得に買っていったんだよな。

 そして僕らも助かっていた。

 「たのむよ、たのむ!!」「わかったよ、積め!!」

 それも商売のやり方だ。今頃気が付いたよ。



「遠くなったLee」
'05.8/28

 ♪♪これこそーはとしんじられるものが〜、このよにあるだろうか〜

 よしだたくろうの「イメージの詩」だ。

 小さい頃からいろんな出会いがあったが、「これこそは〜」と言えるものが確実にひとつある。

 それは「Lee」のジーンズ。それもブラックタイプ。

 初めてはいたのは22才の頃かな。それまでは、「リーバイス」を愛用していた。

 「リーバイスこそジーンズだ!!」と、誰かが言ったような、言わなかったような。。

 「Lee」もまた歴史が古く、二大ジーンズメーカーである。

 じょうろのようなポケットの形、そしてそこにある波をうったステッチ。

 それは僕の気に入るデザインであった。ベルトにあるパッチの「Lee」のゆれた文字もいい。

 「今回はLeeを買ってみるかな」

 たしか7〜8000円くらいだったと思う。

 同じストレートでも、リーバイスよりも少しだけ、はばに余裕があるかな〜という感じだ。

 生地はリーバイスよりも少しだけ、ふわっとしてて微妙に毛羽ばっている。

 しかし、この少しの差がLeeの大きな魅力だった。

 ぴったりとしているわけではないが、なんとも安心感がある。

 逆にリーバイスのジーンズは、ぴったり感が似合っている。

 そしてリーバイスの愛用者のみんなは、Leeの生地の感じを知っているのであろうか。。

 ごわごわっとしていながも、やわらかい感じ。

 それからの約10年間、僕はLeeのジーンズをはいていた。

 しかし、しかしだ。。どうにも、新品ジーンズが高くて買えなくなってしまった。

 買えないという理由はないだけれど。。ついつい古着屋で、2〜3000円で買ってしまう。

 古着屋はリーバイス天国だった。そして今は、安いメーカーの新品ジーンズをはいている。

 先日、ジーンズショップに、半額の文字が見えたので寄ってみたが、Leeの値段はそのままであった。

 欲しいブラックのLeeのは12000円だった。

 僕は今度いつLeeのジーンズを新品で買うのだろう。

 ・・遠くなったLee。

 今はいてる安いジーンズはすでに、ひざがすれてきている。

 「次こそLeeだよ」と僕が言った。


「Don't Think Twice,It's All Right・考」'05.8/25

 ボブ・ディランの初期の歌に「くよくよするなよ」がある。

 フィンガーピッキングで語られる旅立ちの歌である。

 原題は「Don't Think Twice,It's All Right」。

 高校時代、この長い英語タイトルがなぜ、「くよくよするなよ」なのか疑問だった。

 「くよくよするなよ」は、多くのミュージシャンに唄われ、このタイトルは実に魅力的だ。

 歌の内容は、自分にそう言い聞かせている歌詞ではあるが、実はその逆、迷いや情けなさを歌っているのだ。

 このタイトルには、どこかふっきれない、そんな気持ちが良く出ている。

 そして原題の「Don't Think Twice,It's All Right」は英語の慣用句で「くよくよするなよ」という意味だと信じていた。

 ホントにそうなのか?「くよくよするなよ」の一言で、意味が伝わるのか?

 ディランの歌では、各番のラストに、この「Don't Think Twice,It's All Right」が唄われる。

 単純に訳せば、「思い返すな、それで良かったんだ!!」となるだろう。

 まあ大きく考えて、「くよくよするなよ」と言えないこともないが・・。

 そして、何度もこのフレーズが出てくるところが、この歌の魅力でもある。

 僕も20才くらいの頃、この歌を訳して歌っていた。最初は「♪くーよくーよするなーよー」と歌っていた。

 しかしやっぱりそれでは意味が伝わらず、やがては「♪おーもいかえーすなー、これでよかったーんだー」に変えた。

 それで良かったんだ・・。

 最近、思うことは、この「Don't Think Twice,It's All Right」が、

 うまく日本語になっていないのが、残念なのだ。

 「我が道を行け」でもないし、「振り返れば、そこにはただ風があるだけ」ではおかしいし。。

 自分がくよくよしてしまうとき、この「Don't Think Twice,It's All Right」の言葉が響いてくる。

 だから「くよくよするなよ」では、やっぱり不十分だ。歌のタイトルとしては、ベストではあるが・・。

 僕自身、そして友達に対しても、こり言葉を伝えたいと思うときがあるが、うまい日本語がない。

 「それはドンド・シンク・トゥワイス、イッツ・オール・ライトだよ!!」

 この一行が、ひとつの言葉にならないものか。。

 中国語ならなりそうだ。「不再考既良今」かな。


「26.5の船」'05.8/23

 久し振りに靴を買った。サイズは26.5。

 「ご自由に、おはき下さい」と、書かれてある。

 僕は26.5のサイズを探す。

 「26.5」って、カッコよくないか?

 理由はよくわからないが。。

 気が付いたときからは、もうずっと26.5の靴を買い続けている。

 27の人もいるだろう。26の人もいるだろう。もちろん。25.5の人もいる。

 25の人もいる。24.5の人もねいる。23の人もいる。22.5の人もいる。

 もしかして、みんな自分の靴のサイズが、一番カッコいいと思っていないだろうか?

 アンケートとってみないとわからないが・・。

 港には大きな船が列んでいる。僕はきっと「26.5」という船を探し、そして乗り込むような気がする。

 ・・・・

 さて、ここ三回、26.5の靴を買っているが三回とも、サイズ少し大きい。おかしい。。

 僕の足のサイズが変わったのか? いやいや、ずっとはき続けている国産のメーカーの靴はぴったりだ。

 もしかして中国製の26.5は、少し大きいのか? そう思ってしまう。

 買うまえには、ちゃんと試しばきをしている。26.5でぴったりと思って買うのだが、

 実際にはき出してみると、少し大きい気がする。

 みんなも、そう思っていないか? 僕だけか・・?

 サイズ「26」の靴を今度は、試しばきしないとなぁ。。

 それはなんとなくさびしい。。

 まるで、隣の船に乗ってしまうようで。。


「ライブ・フォーク弦」'05.8/21

 ライブのときは基本的に生ギターの弦は替える。

 いい音になるというより、弦が切れることを防ぐためだ。

 一週間ほど前に替えておくのがベストかな。

 本当は張りっぱなしの弦の方が、自然な音であることは多い。

 それはわかっているけれど、切れる方がつらい。

 ライブ中に弦が切れるのは、とても困る。

 いくつか理由がそこにはある。

 ひとつは、ステージで普段よりも強めに弾いているため。

 ひうひとつは、曲を伝えようとする気持ちから、思わずピークを越えて弾いてしまうため。

 そのどちらもライブでは大事な要素である。2レベルあがってしまうのだ。

 僕も以前は、よく弦を切ったものだった。しかしそれはさけることもできる。

 2レベル下げればいいのだ。

 ひとつは、普段より少しだけ、サウンドホール側で弾くということ。

 だいたい弦が切れるのは、ブリッジの部分なので、サウンドホール側で弾くことによって、ピークが押さえられるのだ。

 ふたつ目は、ギターをマイクに近づけるというアクションによって、感情による音量変化を表現するということ。

 (ピックアップマイクで音を拾っている場合は、それは無理ではあるが・・)

 そして基本的には、新しい弦を張ることによって、多少は切れにくくなる。音量もあがるせいもあるのだろう。

 まあ、このみっつを心得ていれば、ステージでの弦の切れはあまりしなくなる。

 だが、これは自分で弾く場合であり、友達にギターを貸す場合は、弦を張り替えるくらいしかできない。

 ◇◇◇

 先日も、大事なステージで友達にギターを貸すことがあった。

 数ヶ月前の弦が張ってあったのだけれど、これが実に自然でいい音になっていたのだった。

 気候やギターのいろんな条件がぴったりと合って、ときどきこうなる。

 僕は困った。古い弦であれば、音量もこもりがちになり、ついつい強く弾いてしまう可能性も高い。

 古い弦のギターの弾き方もあるのだが、友だちはいつもどおりに弾くであろう。

 弦が切れる可能性は高いが、僕はギターに運をかけてみた。ラッキーにもその日は静かめな曲が多かった。

 ステージで生ギターは、一時間半ほど弾かれたが、弦は切れなかった。

 自然ないい音で鳴ってくれていた。僕は嬉しかった。

 きっとギターも僕の気持ちを悟って、がんばってくれたのだろう。


「三度みどり亀の出てくる話」'05.8/18

 明日はお休みであり、僕には大きな仕事が待っていた。

 それは、、みどり亀探しである。

 気付かないうちに、大きくなっていた一匹のみどり亀が石から背伸びして、外に出てしまった。

 奥の部屋のどこかに行ってしまって、もう三日たった。

 明日は休みなので、どんなことがあっても、探さねばならない。

 さて、見つかるかな。僕はひどく心配だった。奥の部屋は荷物が多い。

 もう一匹一緒に飼っているのだが、ショックなのか餌を食べてくれない。

 みどり亀がいなくなったのは、これが初めてではない。

 数年に一回は、亀の上に乗るなどして外に出てしまった。

 バイト先から帰ってくる。「あっ、いない!!」

 いったいどこに行ったのだろうと、心のままに、手をどこかに伸ばすと、そこにいる。

 それはホントの話。まあ、偶然だったのかもしれない。

 そしてまた数年後にも一度、逃げてしまった。

 そのときも一回で、手を伸ばした先に、みどり亀はいた。

 亀は何か、電波でも出しているのだなぁと思った。それは有り得る話だ。

 「敵が来たときに甲羅の中に隠れてしまう亀は、

 何か超音波か何か出して、外を感じているのではないか」とね。

 もしそうだとしても、それを受けとるにはこちら側のアンテナが必要だ。

 最近の僕は、勘も鈍り、アンテナは、それこそ土だらけのようだ。

 こんなんで、いなくなったみどり亀が明日、見つかるだろうか。

 それも三日も何も食べてないはずなのだ。急がねば。。

 そんな今夜、カップラーメンにお湯を入れて待っている間、少しだけ、みどり亀を探してみた。

 奥の部屋で見つけだすのはかなり困難だろう。

 僕はまた心の思うままに、手を伸ばしてみた。いない。いない。

 やっぱり、そうはうまくはいかないよ。こうやって手を伸ばしたところにいるだなんて。。

 「あっ、いた」

 みどり亀くんは、軍手にかみついていた。

 結局、今夜、カップラーメンを待っている間に、みどり亀は見つかってしまった。

 もう一匹は、急に元気になった。不思議なものだ。亀には何かある。



「探しもの」
'05.8/15

 郵便ポストに、一通のハガキが着いていた。

 「お宅さまからのモデムがまだこちらに送られておりません」

 (えーっ!!)

 ぎりぎりだったとはいえ、僕は一週間ほどまえに郵便局の「ゆうパック」で送ったはずだ。

 もちろん、その受け取りもある。

 その受け取りを証拠に、電話しないとと思った。

 財布の中かな? 財布の中を探してみたけれどない。

 たしかテーブルの上に置いたような記憶もある。探してみるが、

 ない。部屋のありそうなところもすべてない。

 そうだ。。ポケットかもしれない。

 ズボンのポケット、シャツのポケット探すけれどない。

 (まさかゴミと一緒に。。)

 運悪く、燃えるゴミは昨日出したばかりだった。

 アウトか。。

 僕は失敗を悔やみながらも、送り先に電話をした。

 「あのう〜、たしかに送ったはずなんですが、受け取りを失くしてしまって。。」

 「ああ、そうなんですか。一週間前なら、もう届いているはずですけどねえ。ではきっと届いているんですね。。

 もし届かなかったら、またご連絡します」「あ、はい。。」

 いったい、ゆうパックの受け取りはどこにあるんだ。。

 ぜったいなくすはずがなんいんだけどなぁ。。

 そしてぼんやり、目の前をみれば、パソコンの下のところに受け取りがあるではないか。。

 たぶん大事だと思って、目立つようにそこに置いたのであろう。

 夜はほとんど、この椅子に座っているのに。。なぜ気が付かなかったのか。

 なさけない。。ほんと。パソコンもと暗しじゃないか。

 探し続けて数時間。。まずそこを見るべきだった。


「10年の予感」'05.8/12

 最近、iriver社のデジタルオーディオプレーヤーを買った。

 小さなボディーにCDアルバムが20枚分が入っていて、買ってから使い倒している。

 いろんなメーカーから、いろんな種類が出ているのだけれど、この機種はほんとに手になじみがいい。

 右側にあるボタンひとつで、ボリューム他、何でも変えられるのだが、

 紐で首からさげていると、ちょうどいい感じで指にはまる。

 おまけに単三電池一本使用で約50時間聞けるので、

 使い勝手が良い。充電式でないところも気に入っている。

 まだ買って、ひと月ちょっとではあるけれど、体の一部のようでもある。

 いままで、いろんな携帯プレーヤーを使ってきたけれど、

 もうこれで満足している。そして壊れそうにないのだ。

 帰り道、聞きながら歩いていると、10年くらい使えそうな予感がしてくる。

 オーディオ製品で10年使えればかなりラッキーだ。

 しかし、この機種には予感がする。名機と呼ばれるかもしれないと思っている。

 この先も、いろんなデジタルオーディオプレーヤーが出てくるのはわかっている。

 昨日、売り場に寄ってみたら、イヤホンだけというのが発売されていた。

 さて数年後、僕はまだこの機種を首から下げている。きっと長持ちしているだろう。

 そして10年使いたいな。


「iPod女子」'05.8/10

 このことはぜひ書いておこう。

 今年は携帯オーディオプレーヤーの流行年となった。電気量販店の売り場には山ほど並んでいる。

 携帯オーデイオプレーヤーととても小さく、アルバムが5枚・10枚・20枚と入る。機種によっては20000曲も持ち運べるのだ。

 その先駆けだったのがご存じApple社の「iPod」だ。

 そしてさらに小さくなった機種がいろんなメーカーから登場した。

 iPodのようにハードディスクでメモリーするのではなく、フラッシュメモリーという方式によるものだ。

 僕もまた電気量販店に行き、どれにしようか悩んだ一人である。

 個人的には、iPodに憧れがあるものの、ハードディスク内蔵ということで、どうしても落としたときの事を考えてしまった。

 メモリーは少ないが、軽く小さく、耐久性もあるフラッシュメモリータイプを選ぶ事にした。

 実は値段は、iPodの方が割安なのだ。メモリーも4 Gで2万円。フラッシュメモリーの方は1Gでだいたい二万五千円ほどする。

 スタイリッシュな形ということでもiPodは群を抜いているけれど、落とした事を考えて僕はあきらめたのだ。

 フラッシュメモリータイプのものは首から下げられて、それなりに遊び心もあり、かなり楽しめる。

 そんな音楽ライフ。。

 しかし、ここに来てある現象が起きている。電車に乗っていると、iPodを愛用している女性が多くいるのだ。

 白いイヤホンの紐がするすると長く、バックの中につながっていれば、ほぼそうであろう。

 男どもはフラッシュメモリータイプを首から下げている人が目立つ。

 そして女性たちは、みんな手提げカバンの中にiPod本体を入れている。ボリュームを変えるときなど、取り出してはまたしまう。

 それがなんとも似合っているのだ。またそのシーンを見て、買う女性も増えているのかもしれない。

 フラッシュメモリータイプはどこかオモチャの続きのようであるが、ハードディスクタイプのiPodは高級オーディオである。

 電車の中で、女性たちの愛用iPodを見ると、電気量販店であきらめた自分が思い出されてしまう。

 考えてみれば、落とすのが怖いといっても、MDプレーヤーやCDプレーヤーも同じだったはずだ。

 そしてipodの方が経済的なのは確かだ。

 たぶん女子のみんなは「iPod」を大事に使えるのだな。胸ポケットに入れたりしないのだろう。

 ・・・長い話になってしまった。

 こんな展開になるとは、想像もつかなかった。iPodはマニアのものになると思っていたのだ。

 素晴らしい今年の出来事だと思う。



「一日眠る」
'05.8/7

 週末の今日、一日横になっていた。

 疲れがたまっていたせいもあるのだろう。

 僕の部屋は、明かりを消してしまうと昼でも暗い。

 まるで留守のようだが、僕はここで眠っている。

 夏の一日、起きてるような眠っているような時間を過ごす。

 どのくらい横になっていただろう。朝から昼そして夕方から夜。。

 次々といままでの事がいろいろ思い返された。

 そのどれもがすっかり忘れてしまっていたような事ばかりであった。

 本当なら今日は出かけ、暑い街の中、どこかで缶ジュースを飲んでいただろう。

 でも、こうして一人そっと留守であるはずの部屋で横になっていると、

 普通なら思い出すこともないようなささいな事柄が、次々とめぐってくる。

 パソコンで言えば、それは「なんとなくとっておくフォルダ」の中のようである。

 そうやって一日つれづれと思い出しながら横になって、僕は復活していった。

 思い出した記憶はどれもやさしかった。


「まだ会ってない人」'05.8/2

 夏の日差しの暑い中、外仕事で下町を歩いていたら、

 道の向こうから、白髪まじりのおじさんが、のっしのっしと歩いてきた。

 何か首から下げている。

 僕にはそれが、今流行のデジタルオーディオプレーヤーに見えた。

 「おおっ!!」

 実際は携帯電話であった。

 しかし、もしそれがデジタルオーディオプレーヤーだったなら、

 すごくカッコよかったはすだ。

 まあ、パソコンが使えれば無理な話ではない。

 デジタルオーディオプレーヤーは若者のものと言われるけれど、

 そんなきまりはどこにもないはずだ。

 ないはずなのに、まだ出会っていない。

 デジタルオーディオプレーヤーは、とても便利な発明なので、

 その楽しみはみんなで分かちあわなければと思う。

 好きな歌を全部入れたっていいんだ。

 あなたに、いつ会えるだろう。その日は近い。

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