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過去ログ「大震災に寄せて」'2011.3月〜4月
(東日本大震災のあとのひと月)

「鐘」'11.3/13

 今回の地震を、予想できなかったものか。

 誰ひとりとして。

 そういう地震が来るかもしれないと、それだけでも。

 停電となり、津波は来た。

 ラジオをつけられた人はどれだけいるのか。

 ニュースでは、4Mとか、7Mとか言うけれど、

 それがどんな状況になるかは、うまく伝わっていない。

 映像で観たが、家が流されるほどなので、

 なにもかも置いていかねばならない。

 見れば、雪も降っていて足元も悪い。

 それでも逃げねばならない。

 海岸沿いの町はみんなそうなる可能性がある。

 地デジ化を伝えるよりも、もっと大切なこと。

 電気もなく、ラジオもなく、それでも、伝わるもの。

 それは鐘とかではないか。

 鐘が鳴ったら外に出よ。


「歌はある」'11.3/14

 大地震が来てから二日がたった。

 テレビはずっとニュースをやっているので、ミュージックが遠く感じられる。

 駅前に髪を切りに行き、そこでラジオを聞いたが、音楽が話と話の間に入っていた。

 リクエストに答えてということだったが、僕にはどうにも、リズムが合わなかった。

 何曲が流れた。歌詞の内容は元気を出そうというものだったが、リズムも元気であった。

 そんな気分ではないのだが。

 こんな状況では歌なんてと思うかもしれないが、それでも歌はある。

 ちゃんと歌はある。しっかりと歌はあるのだが、それは流れない。

 どの歌とは、僕にも浮かばないのだが、ギターを持てば、リズムは出てくる。

 1960年代、70年代、80年代、90年代、そして2000年代から2011年。

 山ほど歌は作られて来た。なにかしらの歌はある。 

 ここで何も出来ないなら、歌うたいはいったい何なのか。


「僕らは笑顔を持っている」'11.3/15

 東京でも大きな地震があった翌週の月曜日、

 仕事先の事務所に次々と、知っている顔がやって来た。

 ひとりひとり、いい顔で。

 こんなときに笑顔とはと思うかもしれないが、そこには嬉しさがあるからだ。

 つらいのはわかっている。

 でも、あなたとわたしと話すとき、そこには距離はない。

 あなたが笑顔なら、わたしも笑顔で。


「演奏者がんぱれ」'11.3/16

 今回の大きな災害について、いろんな発言をするには、

 多少の時間がかかる。即座に答えることはなかなかできない。

 しかし、それが演奏者であったなら、やってくる想いを音にしてゆくことが出来るだろう。

 計画的な楽曲でなく、自分の先の音も予測できないような、

 そんな即興演奏。拍手のためでなく、表現のためでなく、

 地球の地図のそこにいて、感じられる響きを音に現してゆく。

 自分の波長と合わせることにより、それがメッセージともなるだろう。

 それは、10分でもいい。ピアニストならピアニストで、

 即興演奏を、ラジオやテレビで流したらどうだろう。

 バイオリニストでもいい。ギター演奏者でもいい。

 名前のためでなく、その時間のために。

 今、みんな必死である。今、演奏者に出来ることは多いのではないか。

 日本に今、そんな文化はないが、

 やってみたらどうだろう。こんなニュース、ニュースの合間、合間に。

 演奏者たちの即興演奏を。流してみたらどうだろう。

 必ずや、何か伝わるはずだろう。


「ノートとペンを」'11.3/17

 大津波が来ると聞いて、着の身着のままで家を出た人たちも多いであろう。

 財布と携帯電話くらいを持って。

 今、避難所にいるみんなは、いろんな物資に困っているとニュースが伝えている。

 僕は思うのだが、ひとりひとりにノートとペンはあるだろうか。

 食べ物や水はもちろん大事だ。着るものも、そして毛布も。

 そして、もし可能であるならば、全員にノートとペンを渡してもらいたい。

 そこに書くといい。今日しようと思うことを。

 そこに書くといい。何が必要なのかを。

 そこに書くといい。生まれてくるアイデアを。

 そこに書くといい。忘れたくないものを。

 そこに書くといい。明日しようと思うことを。

 ここまでのことを。思い出したことを。

 今、ないものを、あんまり考え過ぎないように。。

 ノートに書いておくといい。ないもののページに。必要なもののページに。

 そしたら、気持ちは少しだけ次に進む。

 ノートとペン、それは僕らのとても古い友達。

 きっと君の味方となるだろう。


「ライブハウスと川の話」'11.3/19

 大地震から一週間。

 昨日、ライブを聞きに行ってきたが、心配していた重みもなく、

 音楽は音楽であった。

 あるバンドは岡林信康の「今日をこえて」をロックアレンジで歌っていた。

 それは、もともとのレパートリーであったのかもしれないが、

 そのボーカルの彼のかたわらをひとつの川が流れているような気がした。

 それはどんな川であるとは表現はしがたいのだが、たぶん幅1メートル位ではないか。

 わかっているんだ。わかっているんだな。

 その川はライブハウスまで、ずっと遠くから流れて来ているようだ。

 そしてまた遠くまで流れ続いている。大きな川に合流しているかもしれない。

 森のような街を南へ歩けば、そこにも川があるだろう。

 北に行っても、川があるだろう。こんなところにあったかと思う川が。

 日本中の川が、そこからきっと歩いていけるところにも流れている。

 次の出演はピアノの弾き語りであったが、

 その彼のうしろにも川が流れているようであった。

 大地震から一週間。心配していた重みはなく、音楽は音楽であった。

 表現者よ安心していい。すぐそばの川を感じられるならば。


「タコのボンボン」'11.3/20

 この10日、余震も多く、部屋もかなり揺れた。

 地震かなと思うとき、すぐにわかるものが、この部屋にはある。

 それは、物干しハンガーのクリップ群だ。

 ほんのちょっと揺れでも、ハンガーのクリップが微妙に揺れる。

 意外なものが、地震にすばやく反応してくれていた。

 たぶん、みんなそれぞれに部屋にいて、揺れる何かをすぐに見るようになっているだろう。

 新潟県の海沿い、柏崎に実家があり、そのすぐそばに小さな水族館があった。

 そこの売店に、たこの頭にパネのついた、揺れるボンボンが売られていた。

 足もバネだったような記憶がある。

 それを、テレビのある部屋の天井に吊して、実家では地震の揺れを判断していた。

 定期的に、そのタコのボンボンを買っていた。

 それはただの面白く揺れるタコのぶらさげものだったかもしれないが。

 やがて近くの水族館もなくなり、頭にバネのついたタコのボンボンは、 

 買うことはできなくなった。

 あれは良かった。どんな小さな揺れにもタコは反応して揺れた。

 実家近くの水族館がなくなってから、40年以上はたった。

 あれから僕はずっとタコのボンボンを探している。

 部屋の天井にあの赤いタコを下げていたい。

 家と命の守り蛸として。


「ポケットと外に出よ」'11.3/21

 もう前のこと、一年の海外旅行で、

 インドを一人旅してたとき、小さなギターを買った。

 中学のときからギターを弾き続けていたのに、

 旅に出て三ヶ月半、ギターに触らなかったのだ。

 宿でギターをポロポロと弾いていると、ある効果があることがわかった。

 一人旅で、かなり孤独感もあったのだが、だんだんと落ち着いて来た。

 他、いろいろな満たされぬ気持ちも。

 それはなんというか、ギターで感情が中和されるというか、

 波長が波長でチューニングされるというかな。

 なだらかな波長に変わるようであった。

 ・・・・・・・・・

 大地震から10日。今、被災地では避難生活も続き、

 いろいろなストレスや不安も大きくなって来ているだろう。

 ハーモニカ一本、笛ひとつ、タンバリンひとつそこにあり、音が出せないということであるなら、

 ポケットと一緒に外に出るといい。少し遠くでひとり座り、思うままに演奏するといい。

 楽器でなくてもいいんだ。思うままに歌ってもいい。


「若い頃、そして今」'11.3/22

 今回の震災は、東京でも大きく揺れたということもあり、

 とても身近に感じられた。

 他人事ではなく、明日は我が身だなと。

 大地震のあった日、路地を若者が大きな笑い声とともに通っていった。

 ニュースを観ていないのか、今を楽しんでいるのか。

 しかし思い出してみれば、僕だって若い頃は各地で震災があっても、

 まるでテレビの中で起こっているような感じであった。

 たぶん、今の中学生、高校生たちもそんな感覚の中にいるみんなが多いのではないか。

 「明日は我が身」。そんなふうに自分が今、他人事ではないように思えるのは、

 この年齢にもなると、いくつもの命びろいのような体験もあり、

 そろそろアンラッキーなことも、起こるのではないかと思っている。

 若い頃は生命力が強いというか、人生というものがまだまだ未知数のままにあるというか、

 漠々ととした生命の大きな流れをいつも感じているのではないか。

 もっと小さい頃なら、もっと。

 思い出せば、自分自身がそうだった気がする。

 そして今は、ほんと自分のことのように感じる。

 何かしないでは、いられない。


「何か連ドラをやっているか」'11.3/23

 被災した避難所にはもう電気は来ているか。

 そこにはテレビがあるか。

 そのテレビでは、毎日連続ドラマをやっているか。

 月曜から金曜まで。ちょっと夢中になるくらいの展開で。

 どうしても観てしまうような、そんな毎日。

 明日が待ち遠しい感じ。毎日観られる嬉しさ。

 金曜で終わり、月曜が待ち遠しい感じ。

 そんな連続ドラマが観られているか。

 僕らも、いろんな言葉や作品で伝えることはできるのだが、

 明日への、待ち遠しさがそこには、たぶん足りないだろう。

 そんな気分ではないのかもしれないが、、。

 そんな気分があって欲しい。何か連ドラをやっているか。


「しっかり繋ぎ止めよ、そこにあるリズムを」'11.3/25

 いくら映像で、震災の状況が観られるとしても、

 やっぱりそれは、テレビ越しのことになってしまう。

 応援する気持ちは強いのだが、どこか離れている気持ちは残る。

 僕も歌を作ろうと思っているが、東北の歌うたいさんたちにしか、

 出来ないことが多くなってくるのではないか。

 強い想いとともに、今、がんばっていると思う。

 もし、歌を作ろうと思うなら、ひとつお願いがある。

 今、感じていること、そのリズムをしっかりと繋ぎ止めて欲しい。

 土地の言葉の響きを持つ、歌い手さんたちよ。

 いままで聞いてきた歌、自分のレパートリーの歌、

 テレビで流れる歌、お兄さん、父さん、友達が聞いている歌、

 そのメロディーとリズムを持ってくる前に、始めの一行を書く前に、

 次々と起こる事態を身近に感じながら、そのやるせなさを、

 わきあがる土地の想いを、しっかり伝わるリズムを探して欲しい。

 そのリズムは、かつて書かれた歌のどこにもないはず。

 土地の言葉の響きが世界じゅうのどこにもないように。

 今、自分の中に流れ感じるリズムを見つけて欲しい。

 心配なく、言葉も一緒についてくるだろう。


「手紙」'11.3/26

 小学校時代の友人より、先日、留守番電話が入っていた。

 「何か送って欲しいものがあれば言って下さい」と。

 ここは東京なので、一応、なんとかなってはいるが、

 もう友達は、言葉を送ってくれたことは本当だ。

 そのメッセージは、この先もずっと留守番電話に残っている気がした。

 ありがとう。

 ・・・・・・・

 先日、歌の友達の「手紙」という歌の動画をYou Tubeにアップさせてもらった。 

 二年前のライブ映像で、バンドでの演奏のアンコールとしてソロで一曲歌ったものだ。

 大震災のあった今のこの状況で、この「手紙」の映像を観ると、

 まるで今回のことを心に想いながら、歌っているようにも思えてくる。

 ひと月前にアップしていたら、また違った印象に思えていただろう。

 ひとつのアップした動画がある。その動画が変わることはないが、

 いつか、リンクすることがある。

 動画が語り出すときがあるんだな。


「わかったのだ」'11.3/27

 3月11日の午後3時前のこと、

 東京も大きく揺れた。震度5強であったともいう。

 僕はアパートの部屋にいたので、すぐに出てみんなと細い路地の真ん中に立った。

 近所の猫も一緒にそばにいた。

 だんだんと揺れは大きくなり、街全体がごうごうと言い出した。

 僕の住んでいるモルタル造りのアパートも、ガダガタと揺れた。

 まるでオモチャの家のように。。

 電線は揺れ、路地はガガガガと鳴った。

 街に巨人でもやって来たのではないかと思えた。怪獣映画の世界がそこにあった。

 街がごうごうと揺れて鳴り始めたとき、近所の人たちと僕らは道の真ん中にかたまっていた。

 眼鏡のおばさんは「なにこれー!!」と声をあげた。

 僕は、日本昔ばなしのような世界を感じていた。今はコンピューターの時代であったとしても、

 そんなのは地球には関係がない。その昔もこうして大地震はやって来たのであろう。

 街がおもちゃのように揺れたとき、僕はもうだめだと思えた。だんだん揺れは大きくなりそのうち、

 地割れがするように思えた。関東にも大地震がとうとう来たのだと。

 幸運にも揺れはそこでおさまった。

 ニュースを見れば、震源は東北のほうであった。それはそれで大変だ。

 関東にもいずれ本当の大地震が来ると言われて久しい。

 明日は我が身かもしれない。まさにそう思えた。


「ひとつしか持っていけない」'11.3/28

 大津波が、家という家をなぎ倒して、跡形もなく奪ってしまった。

 今、避難している被災者のみなさんは、着の身着のままで逃げて来たのであろう。

 家はもうないのかもしれない。津波はおそろしい。

 一刻をあらそって逃げるとき、あれもこれもと、持っては行けないであろう。

 たぶんひとつしか持っていけない。

 それが自分の命だと思えば、それがひとつ。

 それが隣の人だと思えば、それがひとつ。

 両手につなぐ子供であるなら、それもひとつ。

 通帳や現金であるならば、それもひとつ。

 大事な楽器であるならば、それもひとつ。

 思い出の品であるならば、それもひとつ。

 ふたつ、みっつはきっと無理なのだ。

 そして、ひとつだから持っていけたのだろう。

 津波から命からがら逃れた人たちは、みんな同じだったはず。

 僕らだって、同じ。


「言葉は戻ってきている」'11.3.29

 今、僕の頭の中は歌のことでいっぱいになっている。

 震災のあった直後は、言葉さえも失うほどのショックであった。

 歌の無力さを感じるほどで、こんなときは演奏の方が伝わると実感した。

 そして徐々に、言葉が戻ってきた。

 歌もまた、同じように戻ってきた。

 僕の中の歌へのベクトルも、かなり強くなってきて、いろんな想いがわきあがって来ている。

 どんな歌が出来るのかは、まだ自分にもわからないのだが、

 出来るなら、送る歌でないほうがいいなと思っている。

 どのみんなも歌える歌にしたい。僕は歌の力を信じている。

 でも無理しても、歌は出来ない。

 歌はそこに落ちていて、ひろうようなものかもしれない。

 そのために僕と心は歩く。歌を見つけたいために。

 もう言葉は戻ってきている。


「友よ、それはきっと現地の言葉の中にある」'11.3/30

 今回は東北地方に大きな震災のダメージがあり、

 ニュースでも、東北の訛りを耳にすることがほとんどだった。

 現地では地元の言葉が話され、その響きの中に安らぎや力づけがあるだろう。

 それが心に添っているのが、よくわかる。

 ニュースでは「がんばろう、がんばろう」と言うが、

 現地の言葉の中に、この状況の中、力になる響きがあるのではないかと思う。

 それはきっと、そこにしかない言葉。そして次に向かう言葉。

 負けない力も、現地の言葉の中にあると信じている。

 その言葉とともにいつもいたのだから。


「小さな歌でよい」'11.3.31

 今、歌を作っているところ。

 それはとても小さな歌である。

 特に、がんばろうと訴えるような内容にはなっていない。

 ほんと普通の歌。

 届けたいのは、CDのような形でなく、

 食べられる果物のような歌がいい。

 何度も何度も食べられる果物やお菓子。

 そんな歌がいい。

 宅配便で届くような形でなく、

 紙飛行機や伝書鳩にも乗せられる歌がいい。

 フレーズがひとつ、ふたつ。それでもいい。


「長い歴史のあいだには、友達になることも」'11.4/1

 杉並区と南相馬市は交流があり、災害時相互援助協定があると知った。

 そんなふうに市と市に縁が生まれ、助け合うということが、日本にもあるなんて少し驚いた。

 日本とトルコ共和国には、同じような親愛感もあると聞いている。

 世界中の市と市が交流するということも聞いたことがある。

 姉妹都市という言葉も聞いたことがある。

 今回の震災で、被災されたみなさんに、郵便の荷物が個人的に届くようにもなって、

 あるひとりの女性が、その荷物を受け取り、インタビューに答えていた。

 「大学時代の友達からなの」と。親戚もありがたいが、友達もありがたい。

 日本も長い歴史の間には、市と市に縁が生まれ、土地と土地に縁が生まれ、

 お互いが困ったときに、親身になって助け合うということが多くあってもよいのではないか。

 友達は大切だ。とても。


「小さな梅酒がいいんじゃないか」'11.4/2

 避難所では、いろんな物資も来ているはずだと思うが、

 アルコール類はなかなかないのではないか。

 しかし、日頃から晩酌にお酒を飲んできたみなさんも多いであろう。

 ここは日本だが、場所が変わればきっと支援物資にお酒が届けられる国も多いであろう。

 せめて、お酒でもと。

 酔って大きな声を出したりしてしまうのは、あまり好ましくはないと思うが、

 多少のアルコールはこんなとき、気持ちを和らげる効果がかなりあると思う。

 からまった糸をほどくような、、。

 思うに、小さな梅酒がいいんじゃないか。

 健康のためにも。心も体もあたたまるだろう。


「大震災、今、私の思っていること」'11.4/3

 海に囲まれたこの国がひとつの体であるならば、

 今回の大震災が、自分の肌のように感じられたであろう。

 僕は今回、東京の古いアパートにいて、自分の記憶の限りで一番の大きな揺れを経験した。

 一瞬ではあったが、もうだめかもと思えた。

 今回の大地震で、大きな危険を感じた人と、そうでなかった人もいる。

 僕には今もなお、自分のつながりのどこかで今回の震災が今も続いている感覚がある。

 他人事には、まったく思えないというのが本当のところ。

 三週間ほどたち、それからの僕が感じたことを書いてみようと思う。

 ・・・・・・・・・

 それはつい昨日のことだが、ライブハウスに出かけた。

 ライブ前のBGMで、'70年代のアメリカのソウルミュージックがかかっていた。

 50代と思われるひとりが、「これ最高だよ」と言った。

 (そうか、、最高なのか、、)

 心ふるわせる最高なものが外国の音楽にあると言うのだが、

 さて、僕らのソウルミュージックって、こんなリズムなんだろうか、、。

 小さい頃から音楽を聞き、耳と心が探しに探してそこに辿り着いたのだろう。

 でも、きっとそれは僕らが聞いてきた音楽なのだ。

 ・・・・・・・・・

 今回の大地震で僕らの大地が大きく揺れ地面も割れ、

 今まで築き上げてきた町も家も、津波によって流され、そして大きくえぐられた。

 地割れもし、土地をおおっていたものは、むき出しになってしまった。

 ここに住んでいた僕らがいる。土地の上にかぶせたものは、みなはがれてしまった。

 体ひとつでそこから避難した人たちがいる。

 原始の人に戻ったとは言えないが、たぶんみんな自分自身、

 そして土地そのもののありのままと、向かいあっているであろう。

 内側のエネルギーで壊されたものは、同じように内側のエネルギーがきっと復活の鍵となるだろう。

 一人の人はひとつの土地と同じではないか。

 ・・・・・・・・・

 人と町が復活する底力というものがあるなら、それは一番内側に大きくあるだろう。

 今回の大震災で、僕の中でつながっている地表が割れてしまった。

 ひりひりと痛い。その痛みが歌を呼ぶ。

 耳を澄まそう、底にあるリズムとメロディー、そして言葉に。


「今は夢の外かもしれないが」'11.4/5

 東北では寒い日がまだ続いている。

 寒いとリアルな夢を見るんだよね。

 今、避難所にいるみなさんは、どんな夢を見ているのだろう。

 家の夢だろうか、町の夢だろうか、、。

 どちらも今はもうないかもしれない。

 起きたとき、まるで夢の外にいるような気持ちにもなるだろう。

 そばにあった何もかもがなくなっているとしても、

 僕は思う。

 それでもきっと、今年の祭りはあるだろうと。

 御輿はないかもしれない。舞いの舞台もないかもしれない。

 それでも、きっと祭りは続くであろう。

 だって、土地のみんながいるのだもの。


「まず、立ち喰いそば屋」'11.4/6

 何年かぶりに、古い街を訪ねたら、

 駅前が再開発されていて、改札口をまちがえたかと思った。

 街もだんだんと変わるのだな。

 帰りに、立ち喰いそばが食べたくなり、駅の回りを探してみたが、

 立ち喰いそば屋は見つけることはできなかった。

 駅から離れれば、いつもの古い街並があるのに、

 駅前に立ち喰いそば屋がないなんて、大事なものが足りない気がする。

 ・・・・・・・

 今、東北の被災地は根こそぎ津波で町が奪われてしまった。

 これから徐々に復興してゆくと思うのだが、

 まず最初に、立ち喰いそば屋が出来て欲しい。

 ほったて小屋でもよいので。

 はじめに立ち喰いそば屋あり。


「ラジオとのかかわり」'11.4/9

 ここ最近、余震も多いということもあり、

 AMラジオをひとつ買った。

 AMラジオを聴くなんて、とても久し振り。

 中学・高校時代は深夜放送をよく聞いたものだが。

 それからAMラジオは遠くなってしまった。

 音楽を聴くためにFMは今もよく聞いている。

 さて、AMラジオ。35年ぶりくらいにちゃんと聞いてみて感じたことがある。

 現代の感覚だと、ラジオはテレビから映像をなくしたような感覚だが、

 実は、、。

 実は、僕らの日常の会話というものは、ほぼラジオとも一緒なのだと知った。

 誰と話しても、そこには顔はあるが、再現映像があるわけではない。

 考え方によっては、ラジオみたいなものだ。

 テレビが普及するまでは、ラジオが主体であった。

 ラジオの中に喜怒哀楽があり話題があった。今はそれがテレビになってはいるが。。

 目を閉じてみると、それはもう全部ラジオですね。


「ベートーベンの聞いたもの」'11.4/13

 大震災から発生からひと月、今でも毎日、被災地のニュースが流れている。

 大津波によって流された土地の映像を観ていると胸が痛くなるほど、元の姿を留めてはいない。

 あの土地を前にして、現地の人たちは大きな喪失感を抱えているであろう。

 そしてどう復興していこうかとも。。

 こんなとき、僕は作曲家、ベートーベ ンの有名な話を思い出す。

 20代の後半、ベートーベンは、耳があまり聞こえなくなった現実に絶望し、

 とうとうある夜、遺書まで書いたという。

 もうこれまでかと思えたとき、ベートーベンは耳の奥より聞こえてくる、

 湧きあがるメロディーを聴いたという。

 この話の大事なところは、音楽のことで絶望したベートーベンが、

 音楽によってまた救われたということであろう。

 今、大津波で被災した土地は、元の景色を見せてはいない。

 失ったものは大きい。

 でも、きっとその土地から声が聞こえてきているのではないか。

 復活の大切な力は、同じ土地からもらえるだろう。

 ベートーベンがあの夜に聞いた音楽のように。

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