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過去ログ「私的解釈・・カミングズとスティーヴンズ」'04.6月〜'05.10月

  vol.1「一冊の本から」'04.6/27

 隠れた名作本がある。

 昭和40年代に新潮社から出版された「世界詩人全集(全24巻)」の21巻目、「現代詩集2(アメリカ・イギリス」編だ。

 全集とは言ってもハードカバーの小型本で、当時は500円という値段であり、誰でも手に入れられたであろう。外国詩を読み始めた20才の頃、僕もまた古本屋にて300円で見つけた。

  本の内容は1900年代からのアメリカとイギリスの詩人たちの作品群で、当時はまだ日本では一般的には知られていない詩人たちが(と、言ってもかなり有名 ではあるのだが・・)、集められていた。その頃、文庫本になっている外国の詩人くらいしか知らなかった僕には、かなり新鮮だった。

 13人ほどの詩人が紹介されていたが、誰でもがすぐに、その短い詩の特徴から目に入ってく作品があった。それは「ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ」のページだ。

 ウィリアムズはアメリカの現代詩人の父とも呼ばれている人で、わかりやすい言葉で、短く、センチメンタルさをまるで排除したような詩に特徴がぁった。

 「詩」 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ 

猫が
ジャム入れ
の上に

のぼった
まず 右の
前足を

そっと
それから後足
でおりて

空の植木鉢
の穴に入りこんだ

    ・・・poem 

(鍵谷幸信 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より

 この作品を見ればわかるように、言葉が短く切れてはいるけれど、実に効果的なリズム感を出しているのはあきらかである。作品名もそのまま「poem」でもある。

 ウィリアムズの詩が、一般的に認められたのは、その生涯の最後であり、それまでの長い間は実験詩人として扱われ詩壇からも無視され続けていたという。

 この一冊のハードカバーの詩集の中には、多くの現代詩人が紹介されており、それまで情緒性豊かな有名詩人しかしらなかった僕にとっては衝撃であった。衝撃というよりも、目が覚める思いであったのだ。

 まず、ウィリアムズの現代詩の洗礼を受けた僕は、この詩集の持ってる豊かさを次々と発見することとなった。その中に、e・e・カミングズ(1894〜1962)とウォレス・スティーヴンズ(1879〜1955)のふたりもいた。

 僕のお気に入りのふたりのアメリカの詩人。

 e・e・カミングズは、ウィリアムズの詩と印象的にかなり似てはいるが、リリック(情緒)さが前面に出て、音楽的なリズムがあり、なおかつ実験性にあふれていた。

 少しだけ紹介するとこんな感じだ。

 「はい は楽しい いなかです」 e・e・カミングズ

はい は楽しい いなかです
もし は冷たい 冬なのです
(ぼくの大好きな きみ)
一年をあけてみましょう

 ・・以下続く・・

(鍵谷幸信 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より

 e・ e・カミングズの詩は親しみやすく、遊びこごろに満ちていると言ってもいいだろう。日本語に訳すとそのリズム感はうまく出ないことはあきらかだ。僕はすっ かりカミングズの詩のファンになってしまった。そうやって十年・十五年。日本のほとんどの人は知らないであろう、このアメリカの詩人は、僕を夢中にさせて くれた。

 そしてもう一人、ウォレス・スティーヴンズもまたこの同じ本の中でやがてゆっくりと出会うことになるのだった。


 vol.2「カミングズとスティーヴンズ」'04.7/1

 僕は最近、インターネットにて一冊の本を注文した。

 山口書店から出ている、新倉俊一編著による「ウォレス・スティーヴンズ」という厚みのある本だ。

 日本で出ている本で「ウォレス・スティーヴンズ」に書かれた本は、この2004年。それ一冊くらいしか見つからなかったのだ。

 届いた本は、80パーセントが英語だった。こんなこともある。はじめに解説らしきものがあり、その最初に興味深い一文を見つけた。

  〜イギリス批評家G.S.Fraser は、アメリカの詩人のうち、とくにE.E.Cummingsとスティーヴンズの二人をあげて、イギリスの詩人に全くみられない言語の特徴があると指摘して いる。つまり、「カミングズには現代のイギリス詩人には真似できない生な逞しい直接性があり、スティーヴンズにはこれまた同じくらい真似できない意識的な 洗練がある」〜

 僕が驚いたのは、ここにe.e.カミングズと、スティーヴンズの二人の名前が出てきたことだった。この二人のアメリカの詩人が僕にとっては、大好き以上にお気に入りなのだった。

 まったく関係がないと思っていた二人の詩人を結びつけるものがあったなんて、、。

 考えてみれば、僕がこの二人が好きなこともまた、何か心に響くものがあったのだろう。

 それは何か? これからゆっくりここで探してみようと思っている。自分自分への旅かもしれない。

 これを機会に、二人の詩人のことを知る人が少しでも増えればとも思っている。

 僕もまた、これから探ってゆく事になるだろう。

 紹介が遅くなったけれど、ウォレス・スティーヴンズの詩を少し書いておこう。また後でゆっくり紹介しようと思う。

 「雪だるま」(スノーマン) ウォレス・スティーヴンズ

人は冬の心をもたなくてはならない
雪で固りついた松の
大枝や霜をじっとみるためには。

 ・・以下続く・・  (鍵谷幸信 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より 


 vol.3「1923年の三冊」'04.7/1

    ・・・わたしはエレキを発する肉体をうたう。・・

 1860年代に登場したワルト・ホイットマンは、こんなふうに肉感的な表現を詩の中で使った。それは、アメリカの現代詩の夜明けとも言ってもいいもので、古典的な詩のイメージにこだわらず、自分の言葉で語り出したのだ。

 そんなアメリカ詩の言葉の旅は、日常的な会話のリズムを軸にして、イマジストたちを迎えながら時を進み、そして1920年代にやって来た。

 1923年。この年に、僕の好きな三冊の詩集が出版された。それは完成されつつあったアメリカの詩の言葉づかいを一度壊し、新しいリズムとともに登場した詩集たちだ。

 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「春とすべて」(1923年)。

 e・e・カミングズ「チューリップと煙突」(1923年)。

 ウォレス・スティーヴンズ「足踏みオルガン」(1923年)。

 そのどの詩集も正式出版では第一詩集であり、ほぼ完成したそれぞれの詩の形式と、新しい言葉のイメージを持って発表された。

 僕はこの三冊の詩集をぜひ、ちゃんとした形でそれぞれ、もう一度現代に再出版できないものかとずっと思っていた。そしてその三冊とも、同じ年に出たことは、今回初めて知ることとなった。

 1923年のこの三冊を、なんとかボックスの三冊組で出したい。実に本気で。。

 この三冊の詩集はどれも、今でも充分に新鮮である。第一詩集ということもあり、なにか傑作性を持っていて、シンプルでわかりやすい。

 そして、三冊ともにタイトルがいい。

 「春とすべて」・・「SPRING AND ALL」

 「チューリップと煙突」・・「TULIPS AND CHIMNEYS」

 「足踏みオルガン」・・「HARMONIUM」

 当時は、この三冊ともに大胆な言葉づかいにより、実験的ともされたが、現代では普通に読めるだろう。そして、特にカミングズとウィリアムズの詩集は、懐かしくもある古典的なリリック(情緒性)もふまえていて、心にすんなりと入ってくる作品ばかりだ。

 最後に、この三冊の印象的なフレーズを書いて続きとしよう。

  死について
  床屋が
  床屋が
  わたしに話しかけた
・・・ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ・詩集「春とすべて」より(河野一郎訳)

  髪の毛をおどらせて
      きんぽうげを摘むひと
    
               ここにすみれ

  あすこにたんぽぽ
・・・e・e・カミングズ・詩集「チューリップと煙突」より(河野一郎訳)

  なあ、フェルナンド、あの日
  心は蛾のようにさまよった、
・・・ウォレス・スティーヴンズ・詩集「足踏みオルガン」より(福田陸太郎訳)


vol.4「TULIPS AND CHIMNEYS」'04.7/13

 ・・チューリップス・アンド・チムニーズ

 e・e・カミングズの最初の詩集は「チューリップと煙突」(TULIPS AND CHIMNEYS)である。

 僕はこのタイトルですでに、カミングズの詩の世界に連れていかれる自分がいるのがわかる。

 日本語タイトルの「チューリップと煙突」というのも字面(じずら)がよいけれど、「チューリップたちと煙突たち」というのが正しいのだろう。

 ぱっと見ると、まるで言葉遊びのように思えるタイトルではあるけれど、それならば「コーン・アンド・ゴーン」でも同じかというと、これではやっぱり詩集のタイトルにはなりにくい。

 「TULIPS AND CHIMNEYS」には言葉遊び以上に、とても音楽的な響きがあり、なおかつ詩を感じさせるタイトルになっている。詩を感じると書いたけれど、「チューリップ」と「煙突」の絵的なイメージの組み合わせということではない。

 むしろ、このふたつのつながりに映像的な意味がないところこそ、このタイトルの良さだと思う。

 では、どの辺につながりがあるのだろうか。

 それは「チューリップ」という言葉の響きの存在場所と、「煙突」(チムニー)いう言葉の響きの存在場所が、どこか共通のものがあると思えるのだ。それはカミングズの辞書の中で、しっかりと同じくくりの中にあるような気がするのだ。

 それは、カミングズのヘポエジーへと続く小さな道。

 それが「TULIPS AND CHIMNEYS」のANDの部分なのだろう。

 日本語のタイトル「チューリップと煙突」は、言葉の響きとしては訳しきれてないと思えるが、偶然にもカミングズの世界を伝えることに成功している。

 そこに生まれる「なぜ?」、その「なぜ?」からつながる道。

 しかし、音楽的に響きが伝わらないのはとても残念だ。それは、その響きとリズムに乗って、すっとページの中に入っていけるからだ。


  vol.5「春 な んだ よ」'04.7/17

 カミングズの詩の中で、たぶん一番わかりやすいのは、この『春 の』という作品だろう。僕も大好きだ。

 「春 の」      e・e・カミングズ

 さなか
 になって あたりが泥の
 豊かな香りを放つ頃 小さい
 びっこの風船売りのおじさんは
 
 遠くの方までちいさく笛をふく

 すると エディとビル が
 マーブル遊びや鬼ごっこをやめて
 走ってやって来る
 春なんだよ

 あたりが水たまりのすばらしい時

 この奇妙な
 風船売りのおじさんは
 遠くの方まで    ちいさく笛をふく
 すると ベテイとイザベル が踊りながらやって来る

 石けりも縄とびもやめて

 春
 な
 んだ
 よ

  と 山羊のような足をした

 例の風船売りのおじさんは
 大きく笛をふく
 遠くまで
 ちいさく  
   (藤富保男訳・・大和書房「世界の名詞」より)

 最初の詩集「チューリップと煙突」(1923年)からの作品である。

 文字を見ただけでも、独特のリズムがそこにあることが伝わってくる。説明もいらないくらいだ。

 世の中に童謡風な詩は多い。しかし、僕にはこの詩のどの行にも、言葉が宝石のように並んでいるように見える。

 無駄がなくて、無駄があって、言葉がリズムに乗りながら、遊ぶように転がるように繰り返しやってくる。声に出しても出さなくても、文字を見ているだけでも楽しい。

 この「春 の」の詩は、いろんな人が訳している。その中で、藤富保男氏の訳を選んだのは、「遠くの方まで  ちいさく笛をふく」のフレーズが気に入っているからだ。

  原文だと「whistles farand wee」となっている。「遠くの方までピイイイと口笛をならす」と訳してあるもの、「遠くで ピイと 笛を吹く」と訳されたものもあった。そのどちらも、 情景は同じではあるが、僕は藤富保男氏の「遠くの方まで  ちいさく笛をふく」の訳を選んだ。

 この詩に登場する風船売りおじさんはどこか魔法の国から来た人のような役である。「遠くの方まで  ちいさく笛をふく」は、そのへんがうまく伝わっていると思えるのだ。そんな不思議さをもって笛を吹くおじさん。。

 カミングズの詩に登場する物や人物設定はどこか、共通する言葉の響きの波長を感じることが出来る。絵の色のトーンという感じかもしれないが。

 「水たまり」「笛」「風船売り」「マーブル遊び」etc・・。

 僕はこの「春 の」の詩を、世界中の誰もが知っててもおかしくないと思う。そう、遠くまで、ちいさく。。

 ・・・・

 最後に原文の詩も載せておきます。「eddieandbill」「bettyandisabel」の人物表記がとても素敵である。

 in Just-
spring when the world is mud-
luscious the little
lame balloonman

whistles far and wee

and eddieandbill come
running from marbles and
piracies and it's
spring

when the world is puddle-wonderful

the queer
old balloonman whistles
far and wee
and bettyandisabel come dancing

from hop-scotch and jump-rope and

it's
spring
and
 the
 goat-footed

balloonMan whistles
far
and
wee


 vol.6「あなたの指は はやく花を咲かせる」'04.7/24                                  

 最初の詩集「チューリップと煙突」のトップは、散文のような詩ではじまる。 

 それは序文としての性格ももっていて、カミングズの詩集への道標でもあるのだろう。そしてその次に出てくるのが「あなたの指は はやく花を咲かせる」の詩である。

 「あなたの指は はやく花を咲かせる・・」  e・e・カミングズ

 あなたの指は はやく花を咲かせる
 どんな物でも
 あなたの髪を大てい時間は愛している
 そのなめらかさが歌っている
 (愛するのは一日かも知れないけど)
 と言いながら
 恐れなくてもよいから さんざし取りに行こうよ

 ・・・・

 この作品は三つに分かれていて、そのひとつめである。ここまで読んで来ると、四つほど謎掛けのようなフレーズが出てきて、うまく意味がつながらないかもしれない。そこが実にカミングズらしい詩の進め方と言える。

 (あなたって、なんだろう?)

 ここまででも、しっかりと「あなた」についての答えは含まれている。この8行でも、詩としては充分に味わえるが、詩は後半へと続いてゆく。

 ・・・・

 あなたの真白な足はかたくなって迷っている
 いつも
 あなたの濡れた眼はキスでたわむれている
 その奇妙さが歌っている
 (愛するのは一日かも知れないけど)
 と言いながら
 どの女の子にあなたは花をあげるというの

 あなたの唇にあるものは甘くて
 小さい
 死よ わたしはあなた様をお呼びしたい程です
 もしほかの物を捕らえそこねても
 あなた様がこの人を捕らえるなら
 (愛するのは一日かも知れないし
 生きているのはむなしいが キスだけをつづけて下さい)
 

 (藤富保男 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より 

 カミングズの詩としては、かなりよく説明されていて、ほとんどの人に、詩の内容がほぼ伝わるであろう。名作にはちがいないが、教科書に載るには、ちょっとテーマが重いかもしれない。

 テーマは重いのかもしれないが、カミングズのユーモアあふれる鮮やかなフレーズによってバランスがとれ、詩全体の重さは軽く仕上がっている。そこが素晴らしい。

 この詩には、とても重要なフレーズがいくつも効果的に訳されている。藤富保男氏の訳のみごとさもあるのだろう。

 ・・・あなたの指は はやく花を咲かせる

 ・・・(愛するのは一日かも知れないけど)

 ・・・恐れなくてもよいから さんざし取りに行こうよ

 ・・・あなたの唇にあるものは甘くて
    小さい

 とくに「恐れなくてもよいから さんざし取りに行こうよ」の訳は、全体の流れの中で、いいリズムを作っている。

 カミングズの詩には、他にも死の使い手をあつかった作品があるが、僕が驚くのは、その言葉のユーモアとアイデアによって、ちゃんと死の使い手を「説得」しているということだ。実際に会ってもそう言うのだろう。

 その辺に、カミングズの詩のリアルさと強さがあると思う。


 vol.7「髪の毛をおどらせて」'04.7/30

 カミングズの作品は、まるでパズルのようである。

 それゆえに、わかりにくいとも言われるが、そのぶん謎解きのような面白さもあり、読み手をとらえてしまう。そしてその詩の展開こそが、カミングズの響きと言ってもいいだろう。

 その響きの行き先は、とてもシンプルな昔ながらのリリックが主題であることが多い。

 「髪の毛をおどらせて・・」   e・e・カミングズ


 髪の毛をおどらせて
     きんぽうげを摘むひと
 
               ここにすみれ

 あすこにたんぽぽ

 そして大きないばりくさった雛菊

            すてきな野を越え

 ちょっとばかし哀しい眼つきで
 またひとりやってくる

          花をつみながら
    

 (河野一郎訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より 

 1920年代最初の頃の作品であるが、80年たっても新鮮である。それは、このシンプルな10行ほどの詩の中に、難しい言葉はひとつも出てこないからであろう。

  ここには、ふたりの主人公が場面の中に登場してくる。花を摘み、やってくる人と、それを見ているカミングズの二人だ。そして詩の行と文字は、見た目にも野原の道となっている。

 この詩を読んでゆくとき、読み手は最初、もちろん花を摘んでくる人である。そして最後の行で、カミングズの目と入れ替わってしまう。シンプルな展開のあと、そこに残るリリックは誰もが経験するものだ。

 同じ題材を、多くの人が詩に残すことは可能ではあるが、僕にはカミングズの作品で完成形であると思える。言葉の配置の突飛さもここでは自然であり、それが音楽的なリズムを作り出している。

 カミングズは、シンプルな情景を、もう一度あらためて、僕らに言葉で広げて見せてくれた人だ。

 河野一郎氏の訳もすばらしく、原文の響きのリズムを失っていないことがありがたい。

 最後に原文の方も載せておきます。

Tumbling-hair
    picker of buttercups
           violets
dandelions
And the big bullying daisies
        through the field wonderful
with eyes a little sorry
Another comes
    also picking flowers


 vol.8「もちろん 神様の次はアメリカ・・」'04.8/7

 もしそれが象の仕業だとしたら、その出来事には象の足跡があり、たぶん細かい説明はいらないであろう。

 たった一本の細路地が目の前にあるならば、その国について、ある程度語れるであろう。

 そんなふうに、物事は、ほんの小さなことから全体とつながっていて、全体もまた自分自身である。お互いの会話の微妙なニュアンスは、まるで鏡に話しかけているようなものだ。

 「もちろん 神さまの次はアメリカ  e・e・カミングズ

 「もちろん 神さまの次はアメリカ 汝をわたしは
 愛します 清教徒の国をそしてなどなど おや
 夜明けのはやくに 汝がひらめいているのが見える 何世紀もが暮れたり来たり
 そしてわたしどもとして何ら心配することやあらん です
 あらゆる言葉で オシやツンボであっても
 汝の子孫たちが うへっ とか べらぼうめ とか ありゃ とか ぎょっ とか この野郎め とか
 言って汝の栄光ある名前に拍手します
 どうして美しさを語るのですかい
 これらの英雄的幸わせな死者より
 美しいものがありましょうか
 その人たちは咆
(ほ)え狂う殺りくにライオンのように出かけ
 その人たちに死ぬのだと考えるのをやめなかったんです
 それだから解放の声は聞かれないのでしょうかね」

 と彼はしゃべった そしていそいで一杯の水をのんだのです

 (富藤保男 訳) 海外詩文庫8 カミングズ詩集より 思潮社刊より

 カミングズ自身がアメリカの詩人であるからこそ、この作品を書けたのであろう。内容については、それぞれの見解があるので、ここではパスすることとして、ひとつの詩の作品として紹介してみたい。

 この作品でも、やはりカミングズならではの詩の展開があり、それが実に効果的だ。まず詩の書き出しから、成功していると言えるだろう。(えっ、これがカミングズの言葉?・・)と、思わせておいて、ラスト一行でのひっくり返し。。

 この詩は、ふた通りにとれる。発言はわざとかもしれないし、そのままの意味なのかもしれない。どちらに解釈してもいいだろう。いくつかキーワードがあり、なにげにこっそりと入れてあるところが良い。話という形が場面のリアルさを、みごとに伝えている。

 僕が何よりも、この詩で驚くことは、タイトルにもなっているこの言葉を、作品として消化しているということだ。「ウイットとユーモア」とは言うけれど、カミングズの伝え方には知恵があり、ついつい読み進んでしまう。

 そして今回も、日本語訳が大変に素晴らしい。


 vol.9「バファロウ・ビルは・・」'04.8/21

 カミングズの作品の中で、特に印象的な一編の詩がある。

 初期の作品ではあるが、カミングズの詩の紹介のときには、必ずと言っていいほど選ばれているもので、代表作の一編と呼んでもいいだろう。

 詩のスタイルも独特ではあるが、詩の出だしとラストの余韻が映画のような空気を持っている。

 「バファロウ・ビルは・・」  e・e・カミングズ

 バファロウ・ビルは
 死んだ
    いつも
    水のなめらかな銀色
             種馬にのって
 さて と いちにさんしご まるでイエス様のように鳩を
                 くだいた

 粋な人だったんだ
       きみはどうしてこの青い眼をした若者が好きだったのかね
 それが知りたいだ
 ね 死の神よ

 (藤富保男訳) 世界詩人全集 第24巻 新潮社刊より

 訳としては、かなりわかりにくい表現にはなっているが、原詩のイメージのリズムを大事にしている結果であろう。

 原詩はこうである。

 Buffalo Bill's
 defunct
   who used to
   ride a watersmooth-silver
          stallion
 and break onetwothreefourfive pigeonsjustlikethat
               Jesus

 he was a handsome man
        and what i want to know is
 how do you like you blueeyed boy
 Mister Death

 そして、たぶん最初に訳されたものでは、こんなふうに訳されていた。こちらは意味を重視したものであろう。

 パッファロー・ビルは
 この世を去った。
   あいつはいつも
   みずみたいにすべすべしたぎんいろの
            馬にまたがり
 いちにいさんしいご羽ぐらいの はとをぱっぱとけちらしたものだ
            いやまったく
 あいつは水もしたたる色男だった
   それでぼくの知りたいのはーー
 この青い眼の若者はお気に召しましたかね
 死神さん?

(河野一郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より  

 このふたつの訳を比べてみると、面白い発見も多く、たいへん興味深い。

 藤富氏の訳は、原詩のリズムを大切にしてあり、多少の謎掛けを残すことにより、それが効果的に、短い一編の詩に時間的な幅を持たせているようである。そしてカミングズの語り口をうまく伝えている。

 河野氏の方は、詩の意味合いが通じているぶん、わかりやすく、これもまた大事なところである。

 さて、この作品はなぜ、こんなにも印象的なのであろうか。僕が思うに、この一編の作品で、すでに映画が一本撮れるほどのストーリーを含んでいるのだと思う。

 昔よりある、勇ましく、美形の若者の突然の死。語り継げられているその話は、日本で言うならば「天草四郎」という感じであろうか。たぶん、どの国にもあるそれらの話には、ひとつの共通性があるようだ。

 まるでそれは、ひとつの運命に沿って、この世を離れていったようである。カミングズは、そこに「死の神」の存在を登場させている。

 ぶつぎれのようにも思える、言葉のリズムが、馬に乗っているそのリズムと、物語の伝説的な要素を、うまく現すことに成功している。

 たぶんカミングズの作品の中で、何番目かに有名な詩であろう。どの小さな作品集の中にも出てくる一編だ。

 いつか、きっとこの詩を目にすることがあるだろう。僕もまた最初に読んだ、カミングズの作品だ。


 vol.10「春は漠然の手のようである」'04.9/26

 春の季節をテーマにした作品は多い。

 しかし、春そのものをうたったものとなると、かなり数は少なくなるだろう。考えるに、春自身を語るとは勇気のいることなのだ。形のないものを言葉にするとすれば、それは種あかしをするようなもので、できれば、謎のままにしておきたいところだろう。

 僕が、すぐに思い浮かぶ作品は、萩原朔太郎の「春の実体」。

 そして、このカミングズの作品だ。

 「春は漠然の手のようである」  e・e・カミングズ

 春は漠然の手のようである
 (どこでもない所から
 そうっと やってくる)人人がのぞいている
 窓をととのえ(人人がにらんでいるすきに
 そうっと そこの不思議な
 物とここの分り切っている物を
 ととのえたり変えたり置いたりする)そして
 そうっと すべてを変える

 春は漠然の
 窓の中の手のようである
 (そうっとあちら
 こちら珍しい物や
 くだらない物を動かし 人人が
 そうっと にらんでいる間に
 漠然の
 ここの花の一片を動かして
 そこに長さ一インチ程度の空気を置い)て

 何もこわさないで

 (藤富保男 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より

 「春は漠然の手のようである」。この一行でも、カミングズらしい言葉のならびがあり、そして二行目の「どこでもない所から そうっと やってくる」に、つながれてゆく。

 キーワードとしては「人人がにらんでいるすきに・・」という言葉であろう。全体的には、まあ、シンプルな構成になっていて、イメージもわかりやすいものであろう。

 最後は一行離れて、カミングズらしい「何もこわさないで」という言葉でしめられている。僕には、そのひと言こそ、この詩のテーマであるようにも思える。

 ・・・・

 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の中にある、「春の実体」「陽春」の両作品も、明確なイメージを言葉で伝えている。カミングズのこの作品にも言えることだが、春のとらえ方がたいへんにユニークだ。共通するイメージも多く、興味深い。


vol.11「? の 男」'04.11/1

 カミングズの詩は物事を、さいころのように、ひっくり返して見せてくれる事が多い。

 さいころでなければ、絵柄のパズルを入れ替えて何か違う絵柄を作ってしまうようだ。

 カミングズに『?の男』という作品があり、僕はかなり気に入っている。かなり気に入ってはいるのだけれど、何度読んでも、よくわからないのだ。「彼」「わたし」「?の男」と出てくるのだが、それぞれどういう関係になっているのか、もうひとつはっきりしない。

 「? の 男」       e・e・カミングズ

 この若い?の男

 ?は消化不良に
 かかっているけど
 疑問符氏はおびただしく
 魅力的な人物である

 個人的に人々が

 わたしのことをわたしに
 話してくれるけれ
 ど
 わたしは彼の絵が売れる

 まで
 のことしか知らない

 例のセザンヌ氏の描いた
 何ともしめっぽい夢の男

 (藤富保男 訳・・大和書房「世界の名詩」より)

 日本語訳を読んだだけでも、かなり訳すのが難しそうなのがわかる。だいたいこんな感じかなという位しか僕も理解してないだろう。しかし、この詩には普遍的な要素があるのはわかる。

 個人的に人々が

 わたしのことをわたしに
 話してくれるけれ
 ど

 この数行だけでも、もう充分にカミングズの世界が出ている。物事のパズルが並べ替えられていて、さいころの面がまるで変わっているようだ。

 印象的なこの詩は、何か不思議なトリックによって、僕をいつまでもひきつけている。


 vol.12「はい は楽しい いなかです」'04.11/21

 詩には、それぞれに向かう場所というものがあると思うが、さて、カミングズの作品はどこになるのだろう。

 もちろん、その入口はタイトルであり、それはひとつの扉でもあるし、船でもある。

 カミングズの作品の中でも、とてもわかりやすく、その世界にすっと入っていける作品があるので紹介したい。

「はい は楽しい いなかです」    e・e・カミングズ

 はい は楽しい いなかです
 もし は冷たい 冬なのです
 (ぼくの大好きな きみ)
 一年をあけてみましょう

 二人 はまさに 天気です
 (どちらか一人 ではなく)
 ぼくのかわいいひと
 すみれ があらわれる頃

 恋いは知性よりも
 一つの深深とした 季節です
 ぼくの可愛いきみ
 (そして四月は ぼくたちのいる 所です)

(藤富保男 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より

  作品としては、大人向けの詩である。というか、大人の向けた作品と僕は思う。内容はもちろん「恋の言葉」ではあるけれど、カミングズの世界観への扉とも言えるだろう。

 遊園地のメリーゴーランドの前に来た人は、まずその木馬に乗りたいなと思わなければ、乗り場に向かうことはない。この作品は、まるでメリーゴーランドのようである。

 一行目の「はい は楽しい いなかです」の言葉に始まり、 (「い」の音の効果の訳が大変にすばらしい)。 メリーゴーランドは、カミングズの世界をめぐるように進んでゆく。

 そして、この物語はひとり言ではなくて会話になっていると思う。その言葉は楽しさに満ちていて、いくつかの素晴らしい表現が、なにげない言葉で使われている。

 「どうして、『はい』は楽しい田舎なの?」と、尋ねる人もいるだろう。しかし、この一行の響きは、内容を越えて明るい。よく訳したものだ。


 vol.13「このせわしなく短い 人生の中へ」'04.12/19

 一応、今回でカミングズの作品はひとくぎりにしようと思う。ラストの一編を紹介になったけれど、本当はまだまだ知ってほしい作品は多い。

  紹介してきた9編の詩は、どれもわかりやすく、教科書の載っても良さそうなものばかりだ。しかしカミングズの詩編には、おおらかに性をうたったものや、言 葉の実験的な作品も多い。それも含めカミングズの詩であるが、あえて紹介せずに残しておこうと思う。そこからは、本屋さんに寄って欲しい。

 さて、ラストはテーマが人生の作品。いつもながらカミングズらしいリズムで書かれている。

 「このせわしなく短い 人生の中へ」   e・e・カミングズ

 このせわしなく短い
 人生の中へー
 手廻し風琴とか四月とか
 暗がりとか友だちとかの中へー

 笑いをふりまき
 薄くなった髪のような
 黄色い夜明けの色合いや
 女たちの色をした たそがれの中へー

 わたしは微笑みながら
 すべりこんでゆく。わたしは
 大きな朱色の別れの中へ
 泳いでゆくのだ、例えてみればー
 
 (きみも思うかしら?)
 思うように、世界は
 たぶんバラの花と
 こんちわとで出来ているんだとー

 (それから じゃまたと 灰とで)

 (河野一郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より 

 この作品は、いろんな見方ももちろんできるのだが、僕は説明もいらないくらいシンプルだと思う。

 人生80年とは言われるけれど、それは長いのか短いのか。。

 僕もその半分まで来ているけれど、あっというまだったように思う。それはたぶん、楽しかったことが多かったからだろう。もしつらいことばかりなら、とても長く感じていただろう。

 ・・(きみも思うかしら?)

こんなふうに問いかけるカミングズの言葉は、とても中性的だ。訳の仕方もあるのだろうけれど、それはとても似合っている。

 カミングズのこの言葉の響きが出てくるとき、天秤ばかりの針はいつも少しだけ、どちらかに傾く。それは、ほんの少し。ほんの少しだけ・・。 


vol.14「土くさいアネクドウト」'04.12/23

 さて、いよいよ後半は、ウォレス・スティーヴンズの登場となります。

 まず、一番のお気に入りの詩を紹介します。

 「土くさいアネクドウト」    ウォレス・スティーヴンズ

 オクラホマを
 雄じかがポコポコ歩いてゆくたびに
 火猫が途中で毛を逆立てた。

 雄じかはどこへいっても
 ポコポコ足音をさせ、
 しまいに急速な円を描いて
 右手の方へ
 向きを変えた。
 それは火猫のためだ。

 又はしまいに急速な円を描いて
 左手の方へ
 向きを変えた。
 それは火猫のためだ。

 雄じかはポコポコ足音をさせた。
 火猫はとんでいった、
 右手へ、そして左手へと。
 そして
 途中で毛を逆立てた。

 あとで、火猫は輝く目をとじ
 そして眠った。

 (福田陸太郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より

 まず、この2004年、日本ではウォレス・ステイーヴンズの詩は、探さなければ読むことがないという状況で、ほとんどの人は、はじめて作品を読むことになると思う。

 そして、この詩を読んで数行目ですぐに、良い作品だと気付いた人も多いでしょう。おおげさではなく、僕が知っているすべての外国詩の中でも何番目かに好きな作品である。

  それは「土くさいアネクドウト」というタイトルのせいだ。「アネクドウト」とは、逸話という意味であり、この詩の場合は「土地の話」というイメージだろ う。もちろんこのタイトルでなくても作品は素晴らしいのだが、テーマをそこに持ってきたところに、スティーヴンズの感性が光っている。

  たぶんこの詩に書かれていることは、大昔にもあったことだろう。大昔の作品だと言っても、信じる人もいるはずだ。そこにある永遠性。登場人物の出てこな い、なんだか懐かしい風景。そう思わせる、言葉の流れのテクニックもすばらしいが、「土くさいアネクドウト」のタイトルが、未来までこの詩を響かせてい る。

 ちょっとむずかしく書いたけれど、簡単に言えば、惚れてしまうほどタイトルが良いという事です。

 この詩には人が登場しない。誰も見ていない物語。その物語は人がこの土地にやっくる前からあった。なぜ、火猫は毛を逆立てるのか。

 ・・・・・

  最後に、どうしても書き記さねばならないことは、この詩を訳した福田陸太郎氏の言葉選びの感性の素晴らしさだ。福田氏は本の中で、「音調が効果的に用いら れた作品が多いので、スティーヴンズの詩は最も翻訳の困難な部類に入ると考えられる・・」と書いている。この作品でも「土くさい」「雄じか」「火猫」「ポ コポコ」等、言葉選びには苦労したのであろう。

 福田氏以外の人が訳したら、さて、この作品の良さが伝わっていただろうか。みごとな訳に感謝。

  ウォ レス・スティーヴンズ(1879〜1955)・アメリカ生まれ、ハーバード 大学に学び、弁護士となる。1914年、「ポエトリ」誌に詩を発表。1923年、43才のとき第一詩集「Harmonium」(足踏みオルガン)を発表。 百数十部しか売れなかったが、詩人マリアンムーア等に絶賛される。洗練された表現と、効果的な音調により、多くの心ある評論家たちにその天分を認められ た。


vol.15「SNOW MAN」'05.1/11

 スティーヴンズは、あっというまに風景をひっくり返してしまう。

 何か袋のような、それは内側であり、風景はもう一度そこで作られる。

 言葉の無い感情は、たぶん世界のどこともつながっていて、光の早さで果てまでも包んでゆく。

 「THE SNOW MAN」(雪だるま)    ウォレス・スティーヴンズ

 人は冬の心をもたねばならない。
 雪でおおわれた松の木々の
 枝や 霜を見つめるためには。

 また人は永く寒さにさらされねばならない、
 氷でケバ立った杜松を見たり、遠く一月の太陽に光る
 ザラザラの針モミを見たりして、しかも
 風の音や、少しの葉ずれの音に
 何のみじめさをも感じないためには。

 それは同じ風の吹きまくる
 土地につきまとう音だ。
 その風は同じく赤裸の場所に吹いている、

 聴く人にとっても、彼は雪の中で耳傾ける。
 無に等しいその身をもって彼が見るのは
 そこにあるだけのもの、そこにある無。

 (福田陸太郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より
 ※「THE SNOW MAN」のタイトルはここでは「雪男」と訳されてます。

 この詩を読んだことがない人でも、最初の三行は、一度読んだらもう忘れることはないだろう。

 寒さの感覚が、この詩の世界に行き届いていて、「冬」そして「雪だるま」と、一番良い題材が選ばれている。

 「SNOW MAN」は、雪から生まれ、冬の風景と一緒になってしまっている。

 スティーヴンズの感覚は、風景の中の心、そして心の中の風景へと展開される。その心はどのものとも一体化してしまう。まるで雪を描いた水墨画の境地のようでもある。

 「彼は雪の中で耳傾ける。」そのフレーズの中に、スティーヴンズの詩の豊かさがあるようだ。

 この詩の訳は、かなり難しいかもしれないが、とてもシンプルでいい作品だと思う。どの中学校の教科書にも載っていてもおかしくないだろう。そこにあるユーモアが、うまく伝えられれば・・。 

 (なお、福田陸太郎氏は「THE SNOW MAN」の題を「雪男」とつけられてます。しかし現代、「雪男」にはいろんなイメージが重なっているので、あえて「THE SNOW MAN」(雪だるま)と、掲載させていただきました。しかし、福田氏は「雪女」に対する「雪男」のイメージで訳されていたかもしれません。)  


vol.16「ひとりトランプをする場所」'05.1/22

 僕がスティーヴンズの詩の中で、個人的に最も気に入っているのがこの作品だ。

 「ひとりトランプをする場所」    ウォレス・スティーヴンズ

 ひとりトランプをする場所を
 絶えずうねりのある場所にせよ。

 それが海の真中であろうと
 暗い緑の水車の上であろうと、
 あるいは浜辺であろうと、
 動きの中絶や、動きの物音の
 中絶があってはならない。
 物音がくり返し起り
 多方面につづいてゆかねばならない。

 ひとりトランプをする場所では。
 そこには絶えずうねりがなければならない。

 (福田陸太郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より

 内容は、とてもわかりやすい。最初の二行そのままだ。しかし、この詩が語っていることは、直感での理解を要するだろう。

 静かな場所でひとりするトランプには、何か踏み込んではいけないものがありそうだ。そう思わせるものがあるが、なぜか? と、きかれてもうまく説明はできない。

 たとえば、寝言に答えてはいけないとか、ひとりでピラミッドの中に入ってはいけないとか、そんなことと似ているかもしれない。運命のブーメランを投げてはいけないということか。。

 スティーヴンズは、このテーマにあって、これ以上ない題材のシーンを選んでいる。一番わかりやすく、体感的だ。

 そして謎が残るくらいでちょうどいい。


vol.17「壺の逸話」'05.1/31

 本の中には文字があり、それが物事を伝えてゆく。

 映像ならばフィルム、音ならば録音物ということになるだろう。しかし、生まれ行く空気のメッセージは、記録することは難しい。

 それはいつでもゼロであり、また100でもあるからだ。始まりが終点であり、その重さは変わらない。

 何かが起こったようでもあり、起こらなかったようでもある。

 「壺の逸話」       ウォレス・スティーヴンズ

 私はテネシー州に一つの壺を置いたのだ、
 丘の上でそれは丸かった。
 それは薄汚い荒廃に
 丘の上を囲ませた。

 荒廃はそこまでのぼって、
 まわりに這いつくばり、もはや荒れてはいなかった。
 壺は地面で丸かった。
 背が高かった、空中にそれとなく風采があった。

 それはあらゆるところを支配した。
 壺は灰色で裸だった。
 それは鳥や灌木の気配も示さず、
 それはテネシー州にあるどんなものとも違っていた。

 (鍵谷幸信 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より

 考えてみれば、壺はユニークで、それでいて完璧な形を持っているようだ。

 突然に壺が現れたならば、みんなびっくりしてしまうだろう。未来から来た物のようだ。

 この作品はいろんなテーマを含んではいるけれど、そのどれもが壺の持つイメージと共鳴している。

 「テネシー州に置いた一つの壺」という大胆な表現と空気感が、最後の行まで生きているのも素晴らしい。

 この詩の中に出てくる壺は、最初のひとつの壺であったのだろうか。

 そう思うと、大変にわかりやすい詩である。しかしそれは書かれてはいない。


vol.18「陽気に巡行する楽しみ」'05.2/12

 薬箱の中の薬を覚えているだろうか。

 僕らは体調が悪かったとき、薬箱の薬の中から効果のありそうなものを選んだ。そう「頓服薬」など。。

 それが実際、僕らの体調や病気を治してくれたかは不明ではあるが、効き目がありそうだと思って選んだことにはまちがいがない。とりあえず試してみるという、そんな勇気があった。

 何にでも効く薬なんて、きっとなかったはずだけれど。。

 詩のテーマというのも、そんな万能薬と似ていて、何に効果があるかは読んでみないとわからない。

 「陽気に巡行する楽しみ」      ウォレス・スティーヴンズ

 庭は天使と共にとび廻った
 天使は雲と共にとび廻った
 雲はとび廻り 雲はとび廻り
 雲は雲ととび廻った

 頭蓋骨の中に何か秘密があるか
 森の牛の頭蓋骨の中に?
 黒頭巾の鼓手たちは
 かれらの太鼓から何をころがし出すか?

 アンダスン夫人のスエーデンの赤ん坊は
 ドイツ人でもスペイン人でもよかったのだ
 しかし物がぐるぐる廻るということは
 ちょっと古典的なひびきがする

  (福田陸太郎 訳・・大和書房「世界の名詩」より)

 まるで、西遊記に登場する孫悟空が、空を飛び廻るような描写である。

 小さなテレビカメラをその頭に付けて撮影すれば、空の方が廻っているように映るだろう。

 僕がこの詩で感心するのは、そのタイトルと最後の二行だ。そこには特別のセンスがある。普通では、ちょっと想像つかない。

 神話の時代、日本でも外国でも、そのストーリーと出来事はいつもダイナミックだった。龍が空を自由に飛んでいたのだ。そこには神話の持つ独特の感覚がある。

 そんな神話の小さな薬があれば、現代病も治ってしまうかもしれない。


vol.19「眠る浜辺のムクゲの花」'05.2/23

 胸の中の気持ちというものは、さてどの位の容量があるのだろう。

 それは水彩画で使うときの、水入れくらいかもしれない。

 その水入れににじんでゆく、ひとつのやりきれない気持ち。また水が澄んでくるまでには、どの位の時間が必要だろう。昼になり、夜になってもいっこうに澄んではこない。落ち着かず動く廻っているのでそれはしかたがない。

 「眠る浜辺のムクゲの花」      ウォレス・スティーヴンズ

 なあ、フェルナンド、あの日
 心は蛾のようにさまよった、
 開けた砂地の向うの花の間を。

 そして波の動きが海藻や隠れた石の上に
 どんな物音をたてたにせよ それは
 一番ひまな耳にもひびいてこなかった。

 それから物うい海の青と鮮かな
 紫に向って羽根をたたんで臥していた
 怪物めいた蛾が、

 水のたわごとに耳をかさずに、
 骨みたいな浜辺にまどろんでいたあとで、
 まき散らされたように舞い上がり、黄色い花粉の

 はねかかっている焔のような赤を求めたーーその赤は
 古いカフェの屋根の上の旗のような赤だーー
 それからその午後中おろかにもそこをさまよった。

 (福田陸太郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より

 ・・・なあ、フェルナンド、あの日 心は蛾のようにさまよった、開けた砂地の向うの花の間を。

 フェルナンドが誰であるかは知らない。しかし、この呼びかけでの入り方が、実にやるせない感情をうまく現している。僕らはいつも誰かに向かって心は、声を遠く飛ばしていないだろうか。

 海岸沿いの町で生まれた僕は、さまよう主人公の気持ちがよくわかる。浜辺はまるで、さまようためにあるかのようだ。

 僕は今、街に住んでいるが、毎日、浜辺を歩いて帰りたい気持ちがある。


vol.20「海の女王」'05.3/12

 夕暮れすぎの海の上に流れ行く雲。どこまでも広く薄暗いその空。

 誰もがそこに何か大きな生き物がうめいているように見えるだろう。

 「海の女王」        ウォレス・スティーヴンズ

 彼女のテラスは 砂と
 棕櫚
(しゅろ)と夕やみであった。

 彼女は手首の動作で
 彼女の思考の
 大げさな身振りをした。

 この夕ぐれの生き物の
 羽根は皺よって
 海の上を走る
 帆の橇
(そり)になった。

 こうして彼女はさすらった
 彼女の扇のさすらいのまにまに、
 海や夕ぐれを
 共にしながら

 海や夕ぐれがまわりを流れ
 凪いでゆく音を立てるときに。

 
(福田陸太郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より

 夕やみの海にはなんともいえない雲のうねりがある。

 そこに海の女王が住んでいるというイメージならば、どこかの小学生でも作れるかもしれない。

 しかし、「海」と「女王」いう存在の大きさを まとめあげるのは大変だろう。

 スティーヴンズは、言葉のちょっとしたイメージで、感情をうまく定着できている。

 僕らが夕暮れの海の向こうに見ているもの。それは縁のないキャンバスだ。

 景色が流れ来て、またどこかへと向かう。そのスピードがこの作品にはある。


 vol.21「アイスクリームの皇帝」'05.5/17

 もし皇帝に精神的な定義があるとしたら、

 きっとアイスクリームは一番遠いところにあるだろう。

 「アイスクリームの皇帝」        ウォレス・スティーヴンズ

 大きな葉巻を巻く人を呼びなさい。
 筋肉のたくましい人を、そして台所の茶碗の中に
 邪淫なる凝乳
(ぎょうにゅう)を泡立てるよう彼に言え。
 女中たちにはいつも着ているままの恰好で
 のらりくらりとさせておけ、ボーイたちには
 先月の新聞紙に花をくるんで来させよ。
 あるものを、ありそうに見えるものの終局にせよ
 唯一の皇帝がアイスクリームの皇帝なんだ。

 ガラスの把手
(とって)が三つ足りない。
 モミ材の化粧ダンスからのあのシーツをとり出せ。
 彼女は昔それに孔雀鳩を刺繍した
 そして彼女の顔を覆うためにそれを拡げたのだ。
 もし彼女のごつごつした足がつき出るなら
 どんなに彼女が冷たさのあまり、黙ってしまったかを示している。
 ランプに光を貼りつけなさい。
 唯一の皇帝はアイスクリームの皇帝なんだ。

  (鍵谷幸信 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より

 いままで紹介してきた作品にくらべて、この詩はちょっと意味がとらえづらいかもしれない。

 しかし有名な詩でもあり、どうしても載せておきたい。

 全体の詩の口調からもわかるように、ある事柄に対してのスティーヴンズの大きな願いがここにはあるようだ。

 あえてその言葉を使わずに表現されているが、ある事柄とは「死」すなわち「弔い」の事である。

 一番では「いつも通りにせよ」と言い、二番では「弔いはあるがままに、生の続きとしてそこにとらえよ」と訴える。

 つづく「アイスクリームの皇帝」については、みっつくらい意味がとれる。

 僕のページでは「一瞬のみに存在するものが一番強い」としておきたい。

 ランプとそこにある光の関係のように。僕らもまた、同じである。


 vol.22「六つの重要な風景」'05.8/29

 ウォレス・スティーヴンズの初期の詩のタイトル付け方には、独特なユニークさがある。

 「土くさいアクネドウト」「ひとりトランプをする場所」他、まるで科学者の分析結果の発表ようだ。

 それは、よくある「詩」のタイトルとは少し離れた棚に、タイトルを置いたようなもので、広々とした世界ともつながっている。

 「六つの重要な風景」というタイトルもまた、大胆でとてもユニークだ。最初にこのタイトがあることによって、無理なく読み進むことができる。ボブ・ディランの歌に「フォース・タイム・アラウンド」(四つの時のまわり)という歌があるが、それもまた同じ効果であろう。

 「六つの重要な風景」        ウォレス・スティーヴンズ

      ・
 一人の老人が座っている
 シナで
 一本の松の木の蔭に。
 彼は青や白の
 ヒエンソウが、
 木蔭のはしで、
 風に動くのを見る。
 彼のヒゲは風に動く。
 松の木は風に動く。
 こうして水は流れる。
 雑草の上を。

      ・
 夜は女の腕の
 色をしている。
 夜は、女性、
 うすぐらく、
 良い香りがし、しなやかで、
 自分をかくす。
 水たまりが輝く、
 ダンスでゆれる
 腕環のように。

      ・
 私は高い木によりかかって
 自分の背をはかる。
 私の方がずっと高いことがわかる。
 私は私の目で、
 ずっと上の太陽までとどくから。
 また私の耳で、
 海の岸までとどくから。
 でも、私はきらいだ。
 私にの影を出たり入ったりして
 蟻の這いまわる様子が、

      ・
 私の夢が月の近くにあったとき、
 そのガウンの白いひだが
 黄色い光でみたされた。
 その足のうらが
 赤くなった。
 その髪の毛が
 あまり遠くない
 星から生じた
 ある結晶でみたされた。

      ・
 どんなナイフのような電信柱も、
 またノミのような長い街路も、
 また木槌
(きづち)のような円(まる)屋根も、
 また聳
(そび)える塔も、
 ブドーの葉の間に輝く
 ただ一つの星が彫刻できるものをさえ、
 彫刻できないのだ。

      ・
 純理論者は、四角い帽子をかむり、
 四角い部屋で、思考する、
 床を見ながら、
 天井を見ながら。
 かれらは自分を閉じこめる、
 直角三角形の中に。
 もし純理論者が長斜方形や円錐や
 波線や楕円──例えば
 半月の楕円──を試みたとすれば
 かれらは広縁
(ひろぶち)のフェルト帽をかむるだろう。

 (福田陸太郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より

 読んできてみると、それぞれの風景は、そのどれもが6番目につながっているようだ。そう思えば、わかりやすい詩なのかもしれない。単純に言えば「四角い頭で考えるな」と言う事か。そしてフェルト帽をラスト出したことで、イメージが身近でわかりやすいものに戻ってきている。

 たぶんこの詩は内容的には5番でもう終わっているのではないかと思う。しかしそれでは、鼻の高い詩になってしまったであろう。


 vol.23「ツグミの十三態」'05.9/4

 さて、ウォレス・スティーヴンズの作品の紹介は、ここでひとくぎりになります。

 ひとくぎりの一編は、すこし長いのですが、第一詩集より選んだ「ツグミの十三態」。僕はこの作品の中に流れる隙間とリズム、そして爽やかな空気感が気に入っています。

「ツグミの十三態」    ウォレス・スティーヴンズ

    ・
 二十の雪山の中で、
 ただ一つ動くものといったら
 ツグミの眼だけだった。

    ・
 私は三つの心をもっていた、
 三羽のツグミがとまっている
 一本の木のように

    ・
 ツグミは秋の風にのって舞った。
 それはパントマイムの端役だった。

    ・
 一人の男と一人女は
 一つである。
 一人り男と一人の女と一羽のツグミは
 一つである。

    ・
 私はどっちをとっていいのかわからない、
 声が変化する美しさか
 暗示の美しさか
 囀っているツグミか
 囀るのをピタリと止めたときのツグミか。

    ・
 つららが長い窓を
 やたらと ゴテゴテしたガラスで一杯にした。
 ツグミの影が
 それをあちこち横切った。
 わからない原因を
 影の中に
 写した
 ような気がした。

    ・
 おおハダムの痩せた男たちよ
 どうして金色の鳥を想像するのか?
 お前たちの周りにいる女たちの
 足もとを歩いているツグミが
 みえないのか?

    ・
 私は気高い帽子や
 はっキリとしたた逃げられない旋律を知っている。
 しかしツグミが私の知っているもの
 に含まれているということも
 また知っている。

    ・
 ツグミが飛び去ってみえなくなった時
 それは沢山の円の一つの
 端を印した。

    ・
 みどり色の光の中を飛んでいる
 ツグミの群をみたなら
 口のうまい女衒でも
 鋭い叫び声をあげるだろう

    ・
 彼はミネティカットを
 ガラスの馬車で乗っていった。
 一瞬恐怖が彼を襲った
 彼は馬車全体の影を
 ツグミと
 見まちがえた。

    ・
 河は流れる
 ツグミは飛んでいるにちがいない。

    ・
 午後はずっと夕方だった。
 雪が降っていた
 また雪が降ろうとしてた。
 ツグミは ヒマラヤ杉の大枝に
 とまっていた。

 (鍵谷幸信 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊よ

 二十の雪山とツグミの小さな眼の描写から始まるこの作品は、十三態に分けることで、なんともとらえがいスピード感を出している。

 一枚の写真や映画のシーンがそこにあっても、ツグミはその中を飛び抜けてゆく。時計の秒針の存在が、実は時間そのものであるかのように。

 一瞬、ほんの一瞬、そこにとどまり、また移動してゆく。僕らがきっと目を向けたときに。

 大雪の向こう側のことは、ほとんど知られていない。


 vol.24「カミングズとスティーヴンズ〜ユーモア感〜」'05.9/29

 さて、この連載の最初のテーマに戻ってみたいと思う。

 カミングズとスティーヴンズ、二人の作品についての共通点とはなんぞや?

 この二人の作品は、ずっと未来までいっそうに輝きを増してゆくように思えるのだ。

 まずユーモアがある。これが読み進めてゆく上ではとても大事だ。

 カミングズとスティーヴンズは、どんなときもユーモアを忘れない。笑うというよりも、どこか微笑ましいといった方が近い。

 「春 の」      e・e・カミングズ

 さなか
 になって あたりが泥の
 豊かな香りを放つ頃 小さい
 びっこの風船売りのおじさんは
 
 遠くの方までちいさく笛をふく

 ・・・・

 >遠くの方まで小さく笛を吹く・・この表現は美しい。難しい言葉ではなくシンプル。カミングズらしい言葉遊びも入っている。

 すると エディとビル が
 マーブル遊びや鬼ごっこをやめて

 ・・・・

 >すると エディとビル が・・・「エディとビル」のオリジナル表記は「eddieandbill 」である。ふたりはひとつという事だろう。

「春は漠然の手のようである」  e・e・カミングズ

 ・・・・
 春は漠然の
 窓の中の手のようである
 (そうっとあちら
 こちら珍しい物や
 くだらない物を動かし 人人が
 そうっと にらんでいる間に
 漠然の
 ここの花の一片を動かして
 そこに長さ一インチ程度の空気を置い)て

 >こちら珍しい物や
  くだらない物を動かし・・この言葉の流れは、とても響きがいい。感覚がこっちに来たり向こうにいったり。

「はい は楽しい いなかです」    e・e・カミングズ

 はい は楽しい いなかです
 もし は冷たい 冬なのです

 >はい は楽しい いなかです
  もし は冷たい 冬なのです・・カミングズの言葉は楽しい。パズルのようでもある。

 ・・・・・

 そして、スティーヴンズの詩を見てみよう。

 「土くさいアネクドウト」    ウォレス・スティーヴンズ

 オクラホマを
 雄じかがポコポコ歩いてゆくたびに
 火猫が途中で毛を逆立てた。

 >オクラホマを
  雄じかがポコポコ歩いてゆくたびに
  火猫が途中で毛を逆立てた。・・誰かが見ているような、見ていないような、そんな風景のひとつ。愛らしくユーモラスである。

 「THE SNOW MAN」(雪だるま)    ウォレス・スティーヴンズ

 人は冬の心をもたねばならない。
 雪でおおわれた松の木々の
 枝や 霜を見つめるためには。

 >人は冬の心をもたねばならない。・・「THE SNOW MAN」のタイトルの次に来る、この一行。おおげさであるが、小気味よい響きがすがすがしい。

 「ひとりトランプをする場所」    ウォレス・スティーヴンズ

 ひとりトランプをする場所を
 絶えずうねりのある場所にせよ。

 >ひとりトランプをする場所を・・これはいつの時代の詩なのだろうと思う言葉だ。今日のようであり、50年前のようであり、10年先のようでもある。とても身近だ。身近すぎるほど。

 ◇◇◇

  カミングズとスティーヴンズ。その言葉の表現は楽しく進んでゆき、どこか絵本のワンシーンのようだ。カミングズの方はクレヨン画のようであり、スティーヴ ンズの方は水彩画のよう。そしてなるべくシンプルにわかりやすく、伝えようとしていることがよくわかる。そのユーモアは、決して笑いを生むものではない が、絵本の次のページをめくりたくなるような、楽しみに満ちている。

 むかしむかしあるところのすぐ近くに、二人の言葉が生まれてくるようだ。 


vol.25「カミングズとスティーヴンズ〜俳句的情緒感〜」'05.10/16

 日本人は好きな情緒感というものが、確かにあると思う。

 温泉やお祭り、そして風鈴など。。畳の肌触りや、そよ吹く風も好きであろう。

 そんなふうに、詩の世界でも日本人が好きな世界はある。それは多かれ少なかれ、俳句の世界観とつながっている。

 仏教思想の影響だろうか。

 「ひとつのつぼみの咲くためには、全世界が必要である」「自分は世界とひとつであり、世界もまた自分である」

 そんな、自然とのつながりを、僕らはいつも求めているようだ。

 萩原朔太郎の初期の詩に「泳ぐひと」という作品がある。

 「およぐひと」 萩原朔太郎

 およぐひとのからだはななめにのびる、
 二本の手はながくそろへてひきのばされる、
 およぐひとの心臓
(こころ)はくらげのやうにすきとほる、
 およぐひとの瞳
(め)はつりがねのひびきをききつつ、
 およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。

 この詩は情緒感たっぷりだ。たぶんこの辺に、日本的情緒感がある。

 それと同じように、アメリカにもきっと、アメリカ的と言われる情緒性があるはずだ。私には、よくわからないものだが。。

 ・・・・

 さて、カミングスとスティーヴンズ。二人の作品の情緒性は、日本人の心にも通じる響きがあると思える。

 「春 の」      e・e・カミングズ

 さなか
 になって あたりが泥の
 豊かな香りを放つ頃 小さい
 びっこの風船売りのおじさんは
 
 遠くの方までちいさく笛をふく

 前回と同じ作品の例ではあるけれど、一番わかりやすい。

 この数行を見るだけで、カミングズの感性の目が辺り全体を包んでいる事がわかる。特に「遠くの方までちいさく笛をふく」の表現は、俳句の名作と呼んでもいいほどのいいほどの一行だ。前回とも重なるが、小さなユーモアがそれに加わっている。

 そしてスティーヴンズの感性もまた、回りとの一体感がある。また前回と同じ例である。

 「THE SNOW MAN」(雪だるま)    ウォレス・スティーヴンズ

 人は冬の心をもたねばならない。
 雪でおおわれた松の木々の
 枝や 霜を見つめるためには。

 ・・・

 他のいくつかの作品。スティーヴンズの感性は自然というより宇宙的、空間的である。そして距離や大きさの観念を飛び越えているところに特徴があるようだ。

 「壺の逸話」       ウォレス・スティーヴンズ

 私はテネシー州に一つの壺を置いたのだ、
 丘の上でそれは丸かった。
 それは薄汚い荒廃に
 丘の上を囲ませた。

 ・・・

「ツグミの十三態」    ウォレス・スティーヴンズ

    ・
 二十の雪山の中で、
 ただ一つ動くものといったら
 ツグミの眼だけだった。

 ・・・
    ・
 ツグミが飛び去ってみえなくなった時
 それは沢山の円の一つの
 端を印した。

 ・・・

 人は物を見るとき、いつも自分と比べてどうかという基準がある。しかし考えてみれば、風鈴は自分で鳴っているわけではないのも事実であろう。

 カミングズとスティーウンズの詩の作品は、国は違えども、俳句的情緒感がある。僕らにとっても親しみやすい。それと同時に異国の扉も逆に僕らに開かれているのだ。それは宝とも言えるだろう。


vol.26「カミングズとスティーヴンズ〜童話的傑作性〜」'05.10/22

 カミングズは、象の置物と子どもが大好きだったという。

 子ども向けの小さな本も出していることからもそれはわかる。詩の作品もまた、多くはわかりやすい言葉で書かれている。

 もちろん内容やテーマは大人向けではあるが、ユーモラスな表現は、子どもたちもまた読んでいて楽しめる。子どもたちは子どもたちなりに、僕らは僕らなりに詩をとらえるだろう。

 「髪の毛をおどらせて・・」   e・e・カミングズ


 髪の毛をおどらせて
     きんぽうげを摘むひと
 
               ここにすみれ

 あすこにたんぽぽ

 そして大きないばりくさった雛菊

            すてきな野を越え

 ちょっとばかし哀しい眼つきで
 またひとりやってくる

          花をつみながら
    

 (河野一郎訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より 

 難しい言葉はなく、シンプルな詩である。昔ながらの情緒感があり、誰しもがわかるであろう。同じ内容の詩がまだ他にあるにちがいないが、その中でもカミングズのこの作品は洗練され、何度読んでも、あきないように作られてある。

 またスティーヴンズにも、どこか絵本的な描写が感じられる。

 「土くさいアネクドウト」    ウォレス・スティーヴンズ

 オクラホマを
 雄じかがポコポコ歩いてゆくたびに
 火猫が途中で毛を逆立てた。

 雄じかはどこへいっても
 ポコポコ足音をさせ、
 しまいに急速な円を描いて
 右手の方へ
 向きを変えた。
 それは火猫のためだ。

 又はしまいに急速な円を描いて
 左手の方へ
 向きを変えた。
 それは火猫のためだ。

 雄じかはポコポコ足音をさせた。
 火猫はとんでいった、
 右手へ、そして左手へと。
 そして
 途中で毛を逆立てた。

 あとで、火猫は輝く目をとじ
 そして眠った。

 (福田陸太郎 訳) 世界名詩集大成 第11巻 平凡社刊より

 「アネクドウト」とは「土地の逸話」という意味である。この作品もまた、子どもから大人まで楽しめる。不思議な時間の流れを感じる詩だ。スティーヴンズの詩はどこかみな不思議な時間と空気感がある。それは古代から変わっていないもののようだ。

 複雑な社会の中、現代詩はますます複雑になってゆく傾向にあるのかもしれない。そんな中、カミングズとスティーヴンズの見つけた「小さな話」は、ひとつの古い逸話のように、僕らのそばで語られてゆくであろう。

 古くて新しくて飽きない傑作なチョコレートやビスケットのように。


 vol.27 最終章「カミングズとスティーヴンズ〜まとめとして〜」'05.10/29

 この2005年10月、詩集売り場に寄ってみて嬉しい本を発見した。

 それは思潮社の海外詩文庫のシリーズとしてこの7月に「ウィリアムズ詩集」が最新刊として発売されていたのだった。

 W.C.ウィリアムズは、現代アメリカを代表する詩人のひとりであり、このエッセイの最初にも出てくるのだが、まさにアメリカ現代詩の父と呼んでもよい存在で。'65年以降、長い事、身近な本が出てなかったのだ。

 どうして長い間、文庫本にならなかったのか、僕にはとても不思議であった。こんな詩を書くウイリアムズ。

  「ちょっとね」 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ 

 僕は
 アイスボックス
 にあった桃
 を全部食べてしまった

 で それは
 きっとお前が
 朝食のために
 とっておいたんだろう

 すまない
 桃は甘く
 すごくうまく
 すごく冷たかったよ

(鍵谷幸信 訳) 世界詩人全集 第21巻 新潮社刊より

 まるで小学生の作文のようでもある。難しい表現はないが、起こった出来事と感情は十分にこの12行の中に表されている。

 「詩ってわかりにくい・・」って思えてる人にも、この作品はならすんなりと読めるであろう。

 「この人の作品なら読みたい・・」と、思えるかもしれない。

 たぶん、この先50年たっても、この作品は同じ位置にあるだろう。扉が大きく開いているのだ。

 まず、ユーモアがある。そしてシンプルだ。日常の会話がポエジーと共に、生き生きともう一度よみがえっているのがわかる。

 僕なら国語の教科書にまず載せたい作品のひとつだ。「面白い詩もあるんだな」ってまず思うことは大事だ。

 ウィリアムズだけではない。カミングズもステイーヴンズの作品も、どうしてもみんなに紹介したい。

 僕の夢はこのエッセイの最初にも書いてる事だが、1923年に出版された次の三冊の詩集をそのまま日本語の本で出したいのだ。

 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「春とすべて」(1923年)。

 e・e・カミングズ「チューリップと煙突」(1923年)。

 ウォレス・スティーヴンズ「足踏みオルガン」(1923年)。

 できれば三冊組ボックスセットで。。

 思潮社の同じ海外詩文庫シリーズにて、'97年にやっと「カミングズ詩集」は発売された。この時はとても嬉しかった。ウォレス・スティーヴンズ詩集は、このシリーズでまだ発売されてはいないが、僕は必ず出ると信じている。

 2005年以降でやっとだなんて、遅すぎるんだけど。。

 一冊の詩集はレコードで言えば、一枚のアルバムと同じであろう。そんなふうに一冊の詩集づつが愛されるのは良いことだ。

 「私的解釈・・カミングズとスティーヴンズ」のシリーズも、今回でもう終わってしまうが、このエッセイが何かのきっかけになり、詩が好きになった人が少しでもいてくれれば幸いです。それぞれの詩に興味を持たれた方はぜひ、図書館なり本屋さんにて探されてみて下さい。

 いつも思うことは、「好きなものがないのではなく、まだ好きなものに出会っていないだけ」ということ。

 主な詩の掲載の本はこちらです。
           
「世界詩人全集 第21巻」現代詩集2 ・アメリカ・イギリス編 新潮社刊
       
「世界名詩集大成」第11巻 平凡社刊
       「世界の名詩」 大和書房刊
       「海外詩文庫8 カミングズ詩集」 思潮社刊 

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