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過去ログ「 もう一度、蕪村」'04.2月〜'04.5月vol.1「春雨やものがたりゆく簑と傘」2/17
こんな旅もしてみよう。
僕は俳句については、まったく語るほどの知識はないとは知っている。しかし僕は蕪村が好きだ。
好きだと言っても、本をよく読んだというくらいなもので、蕪村初心者の域はまったく出てはいない。
そんな僕であることも含めて、この連載をすることで蕪村についてあらためてより知ってゆこうと思う。
蕪村の作り出す俳句の風景には、どれも独特な空気感がある。絵描きでもあったせいもあるのだろう。
もう一度、各作品を読み直して、少しばかりだけれど紹介してみようと思う。
*******(青木訳)
春雨が降っているよ。
その中を簑と傘が行く、物語りながら。
********
(一般訳)・・本の解説によれば、この句は「二人の人が春雨の中を歩いてゆく姿が、まるで簑と傘が話してゆくようで、なんとも可笑しい」というふうにどれも書かれている。でも僕のイメージでは、やっぱり、「ものがたる」は「話してゆく」よりも「物語」の響きを持っているように思う。
二人の人を簑と傘と表現した面白みというけれど、僕はその姿の中に、「簑」と「傘」の古い縁(えにし)が、からんでいるように見える。雨が降り、そして簑と傘の友達話はどこまでも続くのだと。
もしこれが大雨の日だったら、自分の役目として簑と傘も話す余裕もないだろう。「春雨やものがたりゆく簑と傘」
vol.2「春うたた犬君(いぬき)が膝の犬張子」2/21
僕がこの句を見つけたのは、山本健吉氏編による「最新俳句歳時記・春」(文藝春秋刊)の中だった。
持っている他のどの有名な蕪村句集にも、入りもれているひとつの春の句ではあるけれど、僕には素直にいいと思えた。
犬好きだというせいもあるのだろう。
しかし、解説付きの本のどれにも載ってはいないので、この句をここで伝えるのはかなりむずかしい。
「春うたた」。これはわかる。春なので、うとうととしてしまうという意味だ。
「犬君が」。これは教えてもらったのだが、源氏物語に出てくる若紫につかえる、そそっかしい「犬君」(いぬき)という小さな女の子とのこと。
現代で言えば、おちゃめな女の子という感じか。
そして「犬張子」。「犬張子」は昔からある郷土玩具。 江戸時代からあった紙で出来たかわいらしい犬の置物だ。
安産のお守りの意味合いがあるという。
この句を一枚の絵として僕がイメージすると、春もあたたかい日、おちゃめな犬君(女の子)が、うとうとと膝のところで眠ってしまった。
その愛らしい表情を見ていると、まるでその名前のごとく犬の張子のようだ。
いろいろとそそっかしい犬君ではあるが、犬張子のようにお守りの役目も知らず知らずのうちに、持っているのかもしれない。
******(青木訳)
春の日はみんな眠たい。
犬君(おちゃめな女の子)は、うとうとと私の膝で眠ってしまった。
その名のごとく、まるで張り子の犬のようだ。なんとも愛おしい。
*******
ちがうかもしれない。のちの一茶の句「鳴く猫に赤ん目をして手まりかな」と同じように、童話的でユーモラスな情景だ。
蕪村の描くイラストに出てくる人たちはどの人もひょうきんに描かれていて、そんな絵心の一面からも自然と生まれてきた句だと思える。
※(以前は犬君を、ほんとうの犬と解釈していましたが、源氏物語に登場する一人と教えていただきました。感謝です。2013.11)
vol.3「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」2/24
凧はその空を昇る姿から、昔は「いかのぼり」と呼んだのだろう。それは今もどこかで、そのまま呼ばれているかもしれない。
「凧」は春の季語だとはいうけれど、この句には寒々とした青空がよく似合っている。今で言う「新春」という感じか。
この句はシンプルな訳でいこう。
*****(青木訳)
凧があがっているよ。昨日の空と同じところに。
******
思い浮かぶ情景はとてもシンプルだ。そして、蕪村の「空のありどころ」という言葉の響きが実にうまく、空に立体的な空気感を与えている。なおかつ語呂が良く、凧が空に止まっているようにも見える。みごとな描写だ。
さて、「昨日と同じ場所にある」ということを伝えるなら、現代風に言えば、「昨日と同じ駅のホームに立っている」と言い換えることもできるだろう。しかし、どうもしっくりこない。
この句には、ふたつのテーマが見えてくるように思う。ひとつは時間の流れの不思議さ。そしてもうひとつは、凧がまるで生き物のように、空にある自分の居るべき場所に落ち着きにゆくということ。
そのどちらとしても、空と時間を立体的にとらえ、今で言う「次元」の感覚がそこにはある。普段見えない部分にひそむ神秘を体感した一瞬のようだ。
句の意味はそんなふうであったとしても、実に面白みがあり、小さな子供でもよくわかる情景の句になっている。
「なんか不思議だね。。」
それはまるで、空の昇る凧を眺めているくらいな軽さでちょうどいい。
vol.4「公達(きんだち)に狐化けたり宵の春」2/27
公達とは貴族の子弟、貴公子のことである。
この句に出てくる貴公子には、まず現代では出会うことはないだろう。しかし想像はできる。映画や時代劇では登場するからだ。
******(通訳)*1
貴公子に狐が化けていることよ。春の夕暮れ時に。
*******
みんなはそれぞれにどんな情景を思い浮かべるだろう。僕には、ぼんやりとしてあたたかな虹色の光の中、画面のちょっと左側に後ろ向きで歩いてゆく公達の姿が映ってくる。
この句の鑑賞として、貴公子が春の夕暮れ時をひとり歩いてゆく姿の、なんとも言えないあでやかさが描かれているとするのが、まあ、一般的だとは思う。そして蕪村の生きた江戸時代もそうだったろう。今のどこかの教科書等ではそうなっていると思える。
しかし、この2004年。僕は狐の方をメインにして、この句をとらえてみたい。読めば、この句自身そう言っているわけだし。やっぱり、狐が公達に化けていると解釈したい。
この句の僕が好きなところは、狐が公達に化けて、春の宵を楽しんでいると思われるところだ。通りかかる人たちは、普通に公達が歩いていると思うだろう。狐もすっかりみんなをだましていると思っている。しかし蕪村には見破られているというわけだ。
僕はそういうふうに、この句をとらえてしまう。今ならアニメ文化もあり、自然にそう思う人も多いだろう。
そして、思い浮かぶ情景は同じだ。(狐の尻尾が、一緒に見える人も多いだろう・・)
この句に流れている「心」を感じるとき、僕は公達に化けてる狐の心を感じたい。歩いてゆく貴公子は夜の始まりともに、自然とどこかの空気の中に消えてゆくだろう。そして狐はどこかに走り去ってゆく。春の夕暮れのいっとき、幻が散歩していたのだ。
(その消えゆく一瞬がいいな。)
この句の中に流れている狐のユーモラスな行動が、つかめそうでつかめない春の空気をよく出していると思う。
(*1)中道館発行「俳句・俳文・俳論」中にある、田中善信さんによる訳。シンプルでわかりやすい訳なので、使わせていただきました。
vol.5「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」3/1
蕪村の春の句の代表作といえば、この句をあげる人が多いだろう。蕪村自身も認める秀作だったらしい。
「平淡にして逸」と賞賛され有名になったという話も聞いている。
*****(青木訳)
春の海は、一日のたりのたりとしているよ。
*******
どの解説にも、「のたりのたり」という擬態語がみごとに春の海ののどかさを現していると書かれている。それは誰もが認めるところだろう。
僕の目の前に、この句の情景として広がってくるのは、あたたかい日の夕暮れ前のキラキラとした海の景色だ。そこに蕪村がいる。たぶん夕方前のいっときだけそこに来て「終日のたりのたり・・」と感じたのだろう。
朝に来て、昼に来たわけではないだろう。何千、何万回となく、ゆっくりと波は打ち寄せている。そのいっときと、永遠性が重なったとき、時間は色鮮やかに留められるのかもしれない。
・・・・・
この句には「終日」(ひねもす)という、古い表現がある。しかし、その見えてくる情景は、今も変わらず誰しもが見かけるものである。春の海岸に見えてくる、道に止まっている自転車。打ち上げられている昨年の夏のサンダル。散歩途中の犬と人の姿・・。
その時代時代の絵が見えてくるところが素晴らしい。
「ひねもす」という言葉の響きがたとえ古くとも、それはこの句の中で自然に伝わってくる。春の空気にすっと溶けてゆくようだ。
vol.6「菜の花や鯨もよらず海暮れぬ」3/5
今もときどき鯨が海岸に来るというニュースがテレビで流れるが、江戸時代、紀州のあたりでは鯨がよく海岸までやって来たらしい。
*****(青木訳)
海岸沿いに静かに咲く菜の花。
今日は鯨も沖にいるらしい。
そして海にも日が暮れようとしている。
******
鯨はきっと、沖にいたり海岸に来たりしていたのだろう。そして鯨の来た日にはみんな騒いだのだ。当然そうなれば、海岸の主役は鯨になる。しかしその日はそんなニュースもなく、菜の花の映る海岸にも静かに夜がくる。
詩人の萩原朔太郎はこの句の情景について、海の向こうで鯨が遠く潮を吹いていると書いている。まるで西洋の油絵のようだとも言う。
鯨が見える見えない、どちらにしても、この句の中の主役は、黄色い菜の花のその淡い光景であろう。菜の花の静けさと、海の静けさが一緒の一日。そしてもうすぐ暮れてゆく薄暗闇の海岸のいっとき。
この句を読んでゆくとき、最初に菜の花が目に浮かび、そして沖にいる鯨にイメージが移る。それから一緒に暮れてゆく広い海と海岸の光景。この三つの流れがなんともうまく時間の流れを表現している。
僕はこの句が好きだ。その頃鯨は、日本の季節の中に溶けていたものだったのだろう。なにげなく詠まれたこの句に憧れてしまう。そんな鯨への想いも、もうひとつこの句の魅力に現代ではなっているようだ。
なお、蕪村の句で「菜の花」の出てくる句としては、「菜の花や月は東に日は西に」がもっとも有名である。
vol.7「橋なくて日暮れんとする春の水」3/8
蕪村には、春の名句が多いと言われるが、たしかにそうだ。
それは蕪村の持つファンタジーと、春のなんともいえない空気感がつりあいよくなじむからだろう。
*****(青木訳)
春、橋のない川が暮れてゆく。
******
この句はシンプルに、自由律俳句ふうに訳してみた。特別な解説もいらないだろう。そのままだ。まるで西洋絵画のように風景が見えてくる。
橋のない川が暮れてゆくのは、春だけではなく、夏も秋も冬でもそうだ。夏の川であれば、夕焼けとの対比で、色彩がメインに感じられ
、秋ならば、紅葉のにぎわいに目がとられるだろう。冬ならば寒さがいっそう浮かび立つ。
春の川は生命感に満ち、どこか生き物のように流れてゆく。その川面は背中のようだ。その背中を包むように触ってゆく夕焼けの立体感。
川の橋もまた、詩(うた)を感じる良き題材である。もしも僕が画家ならば、絵の真ん中に橋をもってくるかもしれない。どこか人の意識の中には、川と橋は一緒になっているのかもしれない。
日が暮れてきた春の川。その川面の背中は、どこかくすぐったさを感じる。そんな生命感が、一枚の絵を動画のように生き生きと描いている。
vol.8「高麗船(こまぶね)のよらで過ぎゆく霞かな」3/12
江戸時代にも怪奇趣味というものはあったとは思うが、この句なんかは、現代の恐怖映画の始まりのシーンを見るようだ。
*****(青木訳)
その昔、高麗の国から船が来た。
そして寄らずに過ぎたこともあった。霞の向こう。
*****
いろいろ解説を読んでゆくと、蕪村は古代高句麗の船のロマンを思い浮かべたということだ。僕もそう思う。まだ謎の多いままの国の船というイメージが句から見えてくる。
この霞の向こう、高麗船はうっすら見えているのか、見えていないのか。どちらも味わい深いが、船が見えない方がよりロマンがあり、なおかつ神秘的だ。
他の蕪村の句にも言えることだが、鮮明に映像が浮かび、日本画というよりはカラーの映画のようだ。それは現代だからそう思うのか。江戸時代ならぱ、やはり水墨画のイメージになるのだろうか。
僕はこの句は、まさに怪奇映画の始まりのようなイメージが、テーマだと思う。始まりの向こうにある物語の続き、予想も出来ない展開、謎が謎を呼ぶ終わり。
高麗船から見える霞の向こうに、そして蕪村がいる。
vol.9「行春や撰者をうらむ歌の主」3/16
現代では、普通に和歌や俳句を発表する機会があり、新聞もそれなりにぎわっている。
常連の人たちもいるだろうし、なかなか活字にならない人もいるだろう。
その昔にも、王朝貴族の間で優れた歌を集めた和歌集が作られていて、蕪村のこの句は、そんな貴族の人たちのことを歌ったものであるという。
*****(青木訳)
(くやしい。どうして私の歌を選んでくれなかったんだ・・)
そして春が行こうとしている。
******
単純に、現代の話に置き換えてみても、それなりによくわかる句になっているけれど、蕪村のイメージでは、歌にかけた王朝貴族の悔しがる姿と、そのかたわらをそっと過ぎてゆく春を映しているのだろう。
歌が選ばれなかった悔しさが強いといえば、そのことに喜びを何よりも感じていた方となる。
朝起きて、そして昼、それから夜。自分の作った和歌を眺めては、選ばれなかったことにとらわれる一人。
この歌の回りには、たしかに広々とした春の景色が見えてこないといけないのかもしれない。しかし、僕はあえて現代の歌として、この句をとらえたい。
庭の縁側に腰掛け、新聞の短歌、俳句の欄を見てはくやしがる投稿マニアのおじさん。。
わかりやすくて、これはこれでいいじゃないか。
vol.10「ゆく春やおもたき琵琶の抱きごころ」3/19
数ある蕪村の春の句の最後に、この有名な句を載せよう。蕪村最晩年の作と言われているものだ。
琵琶とは、四弦の木製の古い演奏楽器である。
****(青木訳)
もうすぐ行ってしまう春よ。
琵琶を弾いていると、いつもよりも重く感じられる。その抱きごころ。
******
なんと言っても、「抱きごころ」と表現したところに、名作たるゆえんがあると思われる。「抱きごころ」という字面も含めて、その響きが琵琶を抱いている心具合をよく伝えている。
現代なら「ゆく春やおもたきギターの抱きごころ」というだろうか。
僕自身もよくギターを弾くけれど、ギターがいつもよりも重く感じられるということはまずない。琵琶という楽器は、弦が空気に震えるように伸びてゆく音がする楽器である。ギターよりも、季節季節の空気が感じられる楽器だと思う。
惜春の想いというものが現代では、いろんな季節感のミックスにより、それほどリアルに感じられなくなってきている。これも情報の氾濫による弊害であろう。
僕自身もそうだ。春の日にしみじみとギターを弾くという喜びを見つけないままで、こうして年をとってきたようだ。
その昔の琵琶弾きのこころは、その昔に行ってみないとなかなかわからないだろう。
vol.11「閻王の口や牡丹を吐かんとす」3/22
声にするだけで、スピード感の伝わってくる、この句は、閻魔大王の怒りの激しさをよく伝えている。
みんなそれぞれに、映像が目に浮かぶだろう。文句なしのスリリングさを生んでいる。
僕個人的には、閻魔大王の描写としての素晴らしさをこの句に認めたい。しかし解説書によれば、今まさに全開しようとしている牡丹の勢いを閻魔大王の舌になぞらえているという。
・・なるほど。その方が詩的イメージが深い。そうかもしれない。そうだ。
****(青木訳)
閻魔大王がどやしつけている。
今まさに全開しようとしている牡丹。
*****
さて蕪村は、どうだったのだろう。やっぱり牡丹のことをうたったのかな。ほぼそうにちがいない。
しかし、この句は、はるばると旅をして、きっと閻魔大王をうたった句として落ち着くだろう。13文字の奇跡のような表現力。その間に流れるリズムの早さは、どんなドラマーのビートよりも早いようだ。
vol.12「水桶にうなずきあふや瓜茄子(うりなすび)」3/26
この句の前書きには、「初めてあった青飯法師と、まるで旧友のように、語り合った・・」との意が書かれている。
当時二人とも、僧侶の姿をしていて、出会いの嬉しさの表現がこうなったのであろう。
****(青木訳)
まるで古くからの知り合いのように、
水桶の中で瓜と茄子が、うなずきあっている。
*****
はじめて会う人と、意気投合する出会いは、なかなか現代でもむずかしいことだ。しかし、たとえ初めてでも、懐かしき友に会ったような気持ちがあふれることもあるだろう。
その嬉しさは体から生まれてくるもので、何がそうさせているのかは、本人にもわからないものだ。そして、この句はそれをよく伝えている。
水桶の中の瓜と茄子。人もまた同じような状況がある。
それにしても、色鮮やかにいつまでも、動き続ける映像を作り出している蕪村の言葉のマジックは、ここにも生きている。
vol.13「学問は尻から抜けるほたる哉(かな)」3/26
「尻から抜ける」とは、故事で「聞くそばから忘れる」という意味だという。
*****(青木訳)
学問はまるで尻から抜けるホタルのようだ。
******
現代ではたぶん「尻から抜ける」の意味合いが少し変わり、学問は身になり、輝けるホタルに生まれ変わるというようにとらえられるかもしれない。
僕もその方が面白いかなとは思うけれど、蕪村の言うところはやっぱり、「学問」は実践的ではなく、身にならないとの意味合いが強いだろう。
たしかに。。
「すぐに忘れる」ということわざは、「右の耳から聞いたものが左に抜ける」という表現があるので、現代ならば「学問は耳から抜けるほたる哉」の方が近いかもしれない。
どちらの意味になるとしても、「尻から蛍が抜ける」という表現がとてもユーモラスだ。真夜中、勉強をしながらも、その人の尻から蛍が飛んでゆく姿は、滑稽ながらも美しい。
蕪村の句はどれも映像がきれいに浮かんでくるが、そのイマジネーションが実に豊かなことに驚かされる。江戸時代であれば、かなり斬新な句であったろう。
この句はこの先、たぶん「学問は体を通り、蛍になって生まれ変わる」という風にとらえそうだ。蕪村の意図するところとは異なるかもしれないが、説得力があるのでそれも良しとしたい。
vol.14「夕立や草場を掴む群雀(むらすずめ)」4/2
****(青木訳)
夕立が来た。
雀らは草をつかみ、飛ぼうにも飛び立てないでいる。
*****
この句に関しては、解説もいらないだろう。まさにそのままだ。
蕪村は画家とても大成した人であり、さすがにその描写力は的確で、一瞬が生き生きと描かれている。
夏、強い夕立が来た。みな自分のことで精一杯になるであろう。なかなかそんな時は、回りの景色も見えなくなるものだ。
雀は現代でも都心に普通にいて、この句の状況はよく見かけることはある。蕪村のいた江戸時代では、自然の中のワンシーンだっただろう。
時代は変わり、高層ビルの見える都会になった。雀らも、掴むものは草ではなくて、電線になっているかもしれない。しかし、蕪村のこの句はまだ充分に生きている。
雀らは強い。そして賢い。何か人の関われない時間の中に住んでいるような気がする。そんな雀時間がこの句には感じられる。
vol.15「負くまじき角力(すまひ)を寝ものがたり哉」4/5
角力とは、相撲のことである。
****(青木訳)
負けるはずのなかった今日の相撲の一番。
そのくやしさを力士が寝床で妻とかたっている。
*****
相撲の勝負は一瞬のものであり、負けたときの気持ちはなんとも言えないものがあるだろう。惜しい勝負のときには悔しさも人一倍だ。仲間もまたなぐさめる言葉もなく、ただ挨拶を交わすだけかもしれない。
しかし相撲取りといえど、いろいろと悔しさを語りたいときもあるだろう。秋の夜、あれやこれやと寝床で妻に今日の一番を話す力士。
明日にはまた、力士は勝ってくるぞと出かけてゆくのだ。どこにいっても力士を演じなくてはいけないだろう。
そんな一日の夜のすきまに、力士もひとりの普通の男にもどる。その空気の柔らかさ。秋の夜のひろがり。
僕はこの句をそっと大事にしまっておきたい気分だ。
vol.16「名月にゑのころ捨る(すつる)下部哉」4/10
「ゑのころ」とは、今で言うところの「犬っころ」の事である。
子犬を現す「ゑのころ」という言葉が江戸時代からあったとは発見だった。現代語かと思っていた。
****(青木訳)
「犬っころを捨てて来なさい」
そう主人に命じられた若い使いが、夜道を子犬と歩いてゆく。
空には素晴らしい月が出ていて、無邪気な影が道に映っている。
いっそう辛いだろう。
*****
この句は名月が出てくることもあり、明るい光に満ちてはいるが、それゆえに悲しみも強い。
小犬を捨てるために、どんどん淋しい町はずれへと向かう若い使いとそして小犬。
月の光は夜をどこまでも切れることもなく包んでゆく。こんな夜に、小犬を捨ててくるなんて出来るだろうか。その先の小犬の運命。。
明るい月の下で、青年は小犬との一体化を感じるであろう。
やがては時が来て、青年は綱を放し走り帰ってくる。月はまだ明るいままで、そのすべてを映したままだ。
悲しみは涙の粒となり、月の光はその涙の中までも包んでいるであろう。
そのへんの描写までも感じさせるところは、さすがに画家蕪村のなせる技だ。
vol.17「月天心貧しき町を通りけり」4/13
勘違いもときにもいいものだ。
僕は蕪村の数多い名句の中でも、特にこの「月天心〜」の句が一番好きだ。
夜中、歩きながら空を見上げると綺麗な満月が出ている。そんなとき必ず僕はこの句を思い出す。
きっと今、貧しい町の上に月が出ているのだろうと。。
しかし、この解釈は実は僕の勘違いで、貧しい町を通るのは月ではなくて、村を歩き抜ける人のことだった。
****(青木訳)
こうこうとした満月。
寝静まった貧しい町を通ってゆく。
****
どちらともとれる曖昧な訳にしてしまった。貧しい町を通ってゆくのが人だとしても、その真上に出ているのはこうこうと月であり、月もまた一緒だと思ったからだ。
真夜中に一人、貧しき町を通るとき、すっかりともうみんな寝静まってしまい誰も起きてはいない。みな生活のことで精一杯であり、明日にそなえぐっすりと 眠っているのであろう。そんな中、なんとも素晴らしい満月が村を照らし続けている。そこを通ってゆく蕪村。見上げる月は夜空の真ん中にあり、今が盛りと光 輝いている。
ずっと、遠い時代のこちらで僕は同じように、現代の町の細路地を真夜中に歩いてゆく。蕪村の見た同じ月は、その 空の真ん中で輝いている。きっと、たった今、貧しい町の真上にあるのであろう。夜空の真ん中と、貧しき町はまるで釣り合っているかのように同じ時間の中で ぴったりと止まる。
・・一番美しい月は、貧しき町の真上にあり。
そんなふうにいつも思ってしまう。
vol.18「秋の暮辻の地蔵に油さす」4/17
蕪村は36才より京都に住み始めた。その昔、京都は辻地蔵が多いことが名物だったという。
・・今もそうかもしれない。
****(青木訳)
秋、もう日が暮れた。
辻の地蔵さんにも早々と灯りの油がさされる。
長い夜をよろしく、と。
*****
さっきまで明るい思っていたのに、今はもうすっかりと日が暮れてしまった。秋の夜は長い。辻道の地蔵さんの灯りがやわらく揺れる。昼間は普通に通り過ぎた地蔵さんも、夜ともなれば、その存在がひとつの標となり道を守ることになるだろう。
お地蔵さんの回りから広がってゆく秋の夜。いくつもの物語が生まれては消えてゆくような、そんな時間が辻道を包んでゆく。それは、もうひとつの時間の始まりのようだ。
今も辻の地蔵さんは、京都には多いままだろうか。テレビの音が響く現代の夜、まだ小さな灯りが揺れているだろうか。
スイッチひとつの明かりは、風に揺れたりはしないだろう。
vol.19「秋の燈やゆかしき奈良の道具市」4/20
*****(青木訳)
とっぷりと暮れた秋の日。
灯りの下で、古道具市が続いている。
奈良はさすがに古い都だけあり、どの品にも趣が感じられ、いつまでも立ち去りがたい。
*****
その昔の道具市は、骨董市とは少しちがったイメージのものかもしれない。もっと普通に生活感のあるものだっただろう。しかしながら奈良の町ともなれば、ちょっとした仏具でも時代を感じられる物が多いだろう。
秋の夜の灯りに照らされている古道具の数々。奈良の町に人にとっては何げない物でも、よく見れば、そのどれにも言われがあるようである。
古道具の中につながる、また古い秋のつづき。今が昔であるように、昔もまた今であったろう。渡りきってしまえない橋がある。
並べられた道具たちの新しい行き先。それを売る老人たちよりも齢を重ねている道具たち。
ひとつひとつの古道具に身の上を語らせたら、ひと晩は軽くたってしまうだろう。
それは、秋の夜の灯りの中に続く時間のない道のようだ。
vol.20「泊る気でひとり来ませり十三夜」4/23
十五夜は八月。そして十三夜は九月とはいえ、夜はかなり寒いだろう。
****(青木訳)
秋の十三夜。
初老のあなたは、
今夜は泊まるつもりで、一人やって来られたのですね。
*****
「では、次は十三夜のまた会いましょう」
そう言って、夏の十五夜に会いに来られた初老の客人は、ひと月後の今日は、泊まり仕度であった。
・・・・
さて、この客人は、なぜ十三夜に泊まろうと訪ねて来たのだろうか。
理由はまずふたつ考えられる。
秋の夜の帰り道は寒く、そして遠い。さすがに初老の身にそれは辛く、泊まり仕度で来たという事がひとつ。
そしてもうひとつの理由。
秋の夜は長く、しんみりと話すには、この上ない良い夜という事がふたつめ。
客人は泊まる事を途中で決めるのではなく、最初からそのつもりで来たのであろう。それは何とも年を重ねた人の知恵を感じさせるエピソードだ。
それにしても、この句は声にしてみると、実に品のいい響きがある。なんともウキウキとした感情も伝わってくる。
vol.21「みのむしの得たりかしこし初時雨(はつしぐれ)」4/26
****(青木訳)
初時雨が降っている。
みのむしは「どうだ」と言わんばかりに、
得意げに揺れている。
******
現代でもときどきは使われる「得たりかしこし」は、広辞苑によれば「物事がうまくいって、得意になったとき発する語」となっている。まあ「ここぞとばかり」ということだ。ちょっと前までは暑い日もあり、みのむしも大変だった日もあったことだろう。
特に難しい説明もいらない。みのむしの持っているユーモラスさをうまく描ききっている作品だ。
「得たりかしこし」の響きが、揺れているように感じるのは僕だけだろうか。
・・・・
僕の持っている解説書に、簑の出てくる俳句が紹介されていた。蕪村の先人でもある、芭蕉と其角の作品である。ついでなので紹介しておこう。
「初しぐれ猿も小簑をほしげ也」芭蕉
「簑を着て鷺こそ進め夕しぐれ」其角
芭蕉の句も味があるけれど、其角の句もなかなかだと思う。其角はいつもそうだが着想がすばらしい。
僕も簑の出てくる作品をひとつ残したい。
vol.22「しぐるるや鼠のわたる琴の上」4/30
テレビやラジオそして映画の中で、いろんな効果音が使われているが、予想外の音もときにはとても自然に聞こえてくるものだ。
****(青木訳)
時々、わっと降る雨。
誰もいない部屋の、琴の上をねずみが走った。
*****
雨の音に驚いて、琴の上をねずみが走ったという状況なのであろう。実際はそんなことはなかったのかもしれない。しかし、降り出した時雨と、琴とねずむの組み合わせがなんとも自然であること。
なぜかはわからない。
素晴らしい効果音による演出。その主は一匹のねずみの仕業。
この句の良さは、この状況を嫌みなく、さらりと詠っていることだと思う。それも実際になかった出来事かもしれない。
もし本当だとしたら、この句の作者の半分はねずみということになるだろう。
vol.23「うずみ火や終(つい)には煮( にゆ)る鍋のもの」5/3
いまではもう、炭火でものを煮るという生活は珍しくなってしまった。
しかし誰でも何度かは、炭火のあたたかさを実感したことがあるだろう。
*****(青木訳)
炭が埋められている灰の上に、なにかしら鍋がかけてある。
いつ煮えるともわからないが、さすがに老人は落ち着いたもので、のんびりと本なんか読んでいる。
ほら、いつしか鍋が煮えだした。
******
僕も若い頃、初老のおじさんの家によく遊びに出かけたことがあった。そのおじさんはキセルで煙草をすい、実にのんびりとした時間を送っていた。狭いアパートに住んでいて、ドアを開けるといつも鍋がかけてあり、その鍋の匂いの立ちこめる中、のんびりと話をしたものだった。
現在では、24時間のコンビニエンスストアーがあったりして、便利さと時間の節約が一体化しつつあるが、すべてが早いほうがいいとは言えないだろう。
そんな豊かな時間の流れとともに、この句では、一人暮らし老人の生活ぶりがうかがえる。自分ひとりの食事であるために誰に急がされるわけではない。
「おっ、煮えたかな」
たっぷりと時間の沁みた味がするだろう。
vol.24「裾に置(おき)て心に遠き火桶かな」5/7
普段、生活をしていて、心までの距離を意識するというはあまりないだろう。
****(青木訳)
今夜は特に冷える。
手元に火桶を置いていても、心まで温まるには遠いようだ。
*****
僕の住んでるこの部屋も、すきま風が吹き、冬はストーブをつけていても、なかなか温まらない。
江戸時代ならば、もっとすきま風はあったであろう。
この句の良さはやっぱり、手から心までの距離を認識したとことにあると思う。だいたい70センチくらいだろうか。寒々とした気持ちとはよく言うけれど、僕はこの句は、底冷えの寒さの実感と思いたい。
体が温まるというのは、やっぱり手だけではだめなのだ。
vol.25「待人の足音遠き落葉哉(かな)」5/10
アサヒ酒造より「BUSON」という大麦焼酎が発売されていて、以前、ジョージ秋山のイラスト付きの絵皿がプレゼントでついてきた。
そこに描かれてあったのが、この「待人の〜」の句である。(もっと有名な句もあるのになぁ・・)と、もらったときには思ったものだった。
****(青木訳)
待っている人が来たような遠い足音の気配がする。
いや、やっぱり落ち葉だろうか。
*****
この句の訳にはもうひとつあり、「待ち人が落ち葉を踏んでやってきたので、その足音が遠く感じられる。」ともとれる。この訳のほうが、味わいとしては深いだろう。しかし、ここはあえてシンプルに、実際はやって来ているのに、それは落ち葉だろうと思う心の句としたい。
あまりに人を待ちすぎてみると、ちょっとしたもの音にも反応してしまうものだろう。(猫か・・、それとも。いやきっと猫だ・・)。猫だと信じることで、本当はちがって欲しいのだ。
いや、それとも落ち葉で、足音が遠く感じられるという意味合いのほうか。。どちらも選びがたい。
****(青木訳)
やっと待ち人がきたようだ。
落ち葉のせいで、その足音がとても遠く感じられる。
*****
プレゼントのお皿は、なかなかいい句を選んだものだ。
vol.26「飛騨山の質屋とざしぬ夜半(よは)の冬」5/13
質屋さんというと、それは最後の望みというふうに思えてくる。
そんなお客さんを待って、質屋さんは夜遅くまで戸をあけておくのだろう。
コンコン、、。そして戸を叩く人がいる。
****(青木訳)
しんしんと冷える飛騨山の夜。
ちいさな町の質屋も今夜はもう閉めてしまった。
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飛騨山の冬、寒い夜ともなればしんしんと冷え、マイナス何十度ともなるだろう。外には誰も歩いてはいない。そして質屋も門を閉ざしてしまう。後に残る外には、冷たく透明な空気が山向こうまで広く続いているだろう。
なんて寒々しいのか。
遠くはなれた京都の地で蕪村はこの情景を思ったのだろう。そこにははっきりと質屋の門の閉まる音が響いている。
訪ねる人もない夜を蕪村は訪ね帰ってくる。
vol.27「こがらしやひたとつまづく戻り馬」5/16
現代では、馬を使って出かけたり、作業をするというはほとんどなくなってしまったが、江戸時代にはそれが当然であり、生活の風景の一部になっていたことだろう。
****(青木訳)
冬の一日、疲れきって帰ってくる馬と主人。
突然の木枯らしが吹き起こったとき、馬は前のめりにつまづいてしまった。
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僕自身にもそういうことがある。寝不足や疲れていると、帰り道ふとつまづいたりしてしまうのだ。ぼやっとしてしまうのだろう。
そしてこの句の場合は冬であり北風もあり、その寒さの中、馬の頭の中もなおいっそう真っ白になってしまったのだろう。歩くのが仕事であるのに、つまづいてしまう帰り道の疲れ馬。
疲れて何も考られない帰り道は遠いものである。馬も人も同じだろう。蕪村は自分の年齢のことも馬にかさねてみたのだろう。
僕がこの句で好きなのは、もう現代では見られない帰り道の馬の景色だ。一日働いた馬。ゆっくりと進む馬。
自転車も車もオートバイもあまり疲れたようには見えないだろう。いつも人ばかりが疲れている。
vol.28「水仙に狐あそぶや宵月夜」5/19
この句はそんなには有名ではなく、蕪村遺稿集の中から見つけてきたものである。
でも、なんともかわいい風景ではないか。
****(青木訳)
何か物語でも始まりそうな、澄んだ月の今宵。
水仙に狐があそんでいるよ。
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まあ、シンプルにそのままの句であろう。水仙の回りをくるくると回るようにして遊んでいる狐の姿がよく写し出されている。
その風景を、もちろん蕪村は目撃しているわけではないだろう。想像の句だと思える。だからこそ、この句は生きてくると思うのだが、江戸時代ならば、作りすぎと言われるかもしれない。今でいうところのメルヘンチックな句なのかもしれない。
蕪村のきびしい創作姿勢は、この句を自分の句集の中には選ばなかったが、現代ならば、充分にひとり歩きできる句になっていると思う。
今も、水仙の出る頃には、この情景は実際に起こっているだろう。
vol.29「雪沓(ゆきぐつ)をはかんとすれば鼠ゆく」5/23
これもまた、蕪村遺稿集から見つけた一句である。
僕の持っている本には、この句について解説がついてないので、ねずみのいた場所についての状況がわからない。
いったいどこをねずみが走っていったのか。
部屋の中か、家の外か。
雪の中をねずみが走ってゆくことがあるのだろうか。ありそうな気もする。
しかし、靴をはこうとしているところだから、まだ外ではないのであろう。
****(青木訳)
雪靴をはこうとすれば、
時を待っていたかのように、ねずみが走ってゆく。
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これでは、訳が中途半端ではないか。しかし、特定されてないところがまた良しとしよう。
ねずみがどれだけ賢いかは、いろいろと不明ではあるが、常に場所の隙間をぬって移動してゆくことは確かだ。
場所の隙間。そして時の隙間。ねずみは隙間移動の達人であるといえよう。
人には思いがけない隙が出来るものである。雪靴をはいたとなれば、ねずみを追いかけることもできない。
勝ち負けで言えば、蕪村の負けであり、ねずみの勝ちだ。自分が出かけたあとの家は、ねずみの天国となるだろう。
いっ匹のねずみに負ける蕪村。そこに味わいがある。
vol.30( 最終回)「葱(ねぶか)買うて枯木の中を帰りけり」5/26
郊外に住み、枯れ木の中を抜けてゆく生活。
世俗を離れた暮らしの中にも葱の煮える食事がある。
****(青木訳)
一束の葱をさげて枯木の中を帰ってきた。
今夜の夕餉が楽しみだ。
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数書の解説によると、郊外に住む生活のささやかな楽しみを描いた句であるという。最後の「帰りけり」がとても軽快で楽しそうだという。
俳句を読み慣れている人には、この句の楽しさが伝わってきているのだろう。残念ながら、僕にはまだそのへんの感覚まで届いていない。
僕には、この句にとても静かな時間が流れているように思える。寒林の茶色い景色の中、青々として匂いたつ葱の一束を下げてゆく人。その色あいの対照。せまりくる生命感。同じ状況であれば誰でもそんな感覚におそわれるだろう。
また蕪村は、帰り道にわざと寒林の方を寄って帰ったのかもしれない。
蕪村の句はいつも色彩が鮮やかで、どの句も一枚の絵画としてもなりたっている。
何百年たっても、色あせることなく浮かぶその情景。
現代風に言えば、15秒ほど動く一枚のカラー動画のようだ。