ABBA SURVIVAL FAN CLUB 輝かしきニュースレター第1号! | |
発行日 | ’84年12月1日 |
編集人 | 浩子 |
発行人 | ディスコメイトレコード 宮治 川上 |
“DANCING QUEEN”をアグネタと歌うフリーダをひさしぶりにビデオで見ました。フリーダもアグネタも前髪たらした女学生風ヘアー,ボディーにピッタリ フィットするコステュームに身を包み,腰をふりふり歌っています。月日は流れた…
ピンクと黄色(照明のせいでしょう。実際は黄緑だと思います)のこぶしでガッツ・ポーズを決めたフリーダのLP“SHINE”のジャケットも見慣れたこの頃ですが,“SHINE”にたどりつくまでのフリーダの歩みをたどってみたい気がします。
1945年ノルウェーに生まれ,スウェーデンのエスキルストゥーナー市(ストックホルムの西の方にあります)に移りそこで育ったアンニフリッド・リングスタッド(フリーダ)は,13歳のときにはもう地元のダンス・バンドで歌っていました。1967年,人気テレビ番組への出演がきっかけとなって本格的なデビューを飾った彼女でしたが,そのときすでに夫と2人の子供がいました。彼女は音楽活動と家庭生活を両立させていましたが,1967年ベニー・アンダースンとの出会いにより彼女はそれまでの家庭生活と新しい愛のどちらかを選ばなければなりませんでした。彼女はベニーとの愛を選びました。これにより,彼女の音楽活動にも大きな変化が訪れます。
ヘップ・スターズのキーボード奏者だったベニーは,フーテナニー・シンガーズのビョルン・ウルバースと意気投合したことから,一緒に曲を作ろうということになり,ビョルン&ベニーのコンビとして“木枯しの少女”をヒットさせました。最初彼らのバック・コーラスとして働いていたのが,フリーダと,ビョルンの婚約者であったアグネタ・フォルツコッグでした。2人の女性コーラスを前面に出す方が良いと感じたビョルンとベニーは彼女達を加えた4人の頭文字をとり,ABBAと名のるようになりました。これがアバ・ストーリーの始まりです。
1974年,英国ブライトン市で開催されたユーロビジョン・ソング・コンテストにおいて“WATERLOO”で優勝したアバのその後の活躍については皆さんご存じの通りです。全世界で2億枚(!)以上のレコードを売ったというのが全てを物語っています。
10年間の曲作りとツアーの活動の経て今,アバはお休みの状態ですが,1つにはビョルンとベニーが長年の夢であったミュージカルを作ることにじっくり取り組みたかったということがあります。アバのアルバムにおいても彼らのミュージカル指向を感じさせる曲はありましたが,とくに最も新しい“THE VISITORS”などにはそれが顕著です。そしてもう1つ,フリーダとアグネタはソロ・アルバムを作りたかったこともアバ一時休業の理由です。
さて,フリーダにとってアバの一員としての生活は非常に動きの激しいものでした。音楽的には絶妙のコンビネーションを誇っていたアバの4人でしたが,私生活のハーモニーはいつしか乱れるようになり,ビョルンとアグネタが離婚したのに続き,ベニーとフリーダの結婚も破局を迎えてしまいます。フリーダには,それでも充実した音楽生活と子供達の励ましもありましたが,やはり離婚の苦悩と孤独感はそうやすやすと乗り越えられるものではありませんでした。そんなとき,彼女が心の支えのように愛聴していたのがフィル・コリンズ(ジェネシス)のソロ・アルバムでした。フィル・コリンズはフリーダと同じ時期にやはり離婚の苦悩を体験しており,それが色濃く彼のレコードにも反映されていました。彼女が全世界に向けてのソロ・アルバム第1作のプロデュースをフィル・コリンズに頼んだのには,そんな訳があったのです。
フィル・コリンズのドラムとプロデュースの腕前は相当なものです。アバ・サウンドとは全く異なる,かなりロック色の濃いアルバムとなった“SOMETHING’S GOING ON”はみごと,フリーダをソロ・アーティストとしても超一級であると世界の音楽ファンに印象づけました。アルバムは100万枚近い売上げを記録し,シングル・カットされた同名シングル(邦題“予感”) 注1 はアメリカのヒット・チャートに半年以上もランクされ続けました。この成功で勇気づけられたフリーダは,休む間もなく次のソロ・アルバムのための曲やアイデアを探しましたが,彼女はあせらずそれに1年以上の期間をかけました。その彼女が2作目のプロデュースを依頼したのがスティーヴ・リリーホワイトです。
スティーヴ・リリーホワイトは,U2,ビッグ・カントリーなどのプロデューサーとして有名ですが,イギリスが生んだ最も傑出したプロデューサーの1人と言って良いでしょう。まだ20代であるにもかかわらず12年のキャリアをもつ彼は,フィル・スペクター・サウンドとパンク・ロックの洗礼を受け,自分のサウンド作りのセンスを磨いてきました。しかし,彼は自分の考えをアーティストに押しつけるようなことはしません。アーティストの持味をいかに引き出すかに彼は精力をそそぎます。だからこそ非常に個性の強いアーティスト達のレコードを作ってこれたのです。フリーダはスティーヴのプロデュースしたアーティスト達のレコードを愛聴していましたが,彼にプロデュースを依頼することを強くすすめたのは,フリーダの息子でした。
フリーダのレコードはスティーヴにとっても新鮮な体験でした。というのは,それまで彼がプロデュースしてきたアーティスト達はほとんど自作自演だったからです。フリーダのレコードの場合は,曲目とミュージシャンの選択から始めなければなりませんでした。彼はフリーダとともにそれに熱心に取り組みました。
サイモン・クリミー (K),マーク・ブレゼジッキー (d),ピーター・グレニスター (G),トニー・レヴィン (B)などがガッチリサウンドを固め,サイモンとカースティー・マッコールがバック・コーラスをつけ,それをハワード・グレイがミキシングしてこのアルバムが出来上がりましたが,彼らはみなスティーヴ・リリーホワイトの仲間達と呼べる人達です。
彼らのうち,何人かは曲も提供し,特にカースティー・マッコール(スティーヴの奥さん)は3曲にクレジットされていますが,ほかの曲提供者にもステュアート・アダムスン(ビッグ・カントリー)のようにスティーヴがプロデューサーとして関わってきた人達の名前が見えます。
ビョルンとベニーも“SLOWLY”という曲を提供していますが,ほかの曲と違和感がなく,フリーダ自身も大変気に入っている曲だという話です。
“DON’T DO IT”はフリーダ自身が曲を書いていますが,彼女は曲作りの面白さに目ざめており,今後ますますその才能を発揮するものと思われます。なお,シングル“SHINE”のB面でLP未収録の“THAT’S TOUGH”は彼女と息子の共作です。 「この音楽は100%私です」と言ったフリーダですが,“SHINE”はその自信が十分に伝わってくるアルバムではないでしょうか。
「もう次のアルバムにとりかかりたいと思っています。表現したいことが沢山あるのです」1人の女性,1人のアーティストとして力強い歩みを続けるフリーダです。
ファンクラブメンバー全員の名前がフルネームで記載されていますが,割愛します。
まず感謝感謝レター
来たるべくして来た,ABBA F.C.再結成のとき!!
−ABBAのFANは永遠に不滅です−
バクテリア菌の如き異常な繁殖力とゴキブリの如き強い生命力をもっていまだなお全国にはびこっている我々同志よ!!
立ち上がれ! ABBAのもとに!!
湧き上がれ! 熱い情熱!!容子
ABBA F.C.の復活,卒倒する程うれしいです。私,風邪をひいていたのですが,復活のニュースを聞いたとたん治ってしまったような気がします。奈々子
そしてもっともだレター
情報がないからこそ,ファンクラブの意味があると思う。靖彦
1人1人が会報を作るんだという意気込みでやった方がいいと思う。各地区ごとに集いや催しなどを行ったり,また年に1,2度,全員が集まって親交を深めたりするのもいい。恒雄
最後に質問レター
フリーダの“SHINE”のロングバージョンを聞きましたが,日本での発売はありますか?正則
“MUSIC SHOW3”や“ABBA THE MOVIE”等のビデオ・ソフトはリリースされないのでしょうか?克哉
ABBA F.C.再結成の手紙がどうして私の所には来なかったのですか?靖子
フリーダの“SHINE”スウェーデン盤12inchシングル(リミックス違い)。なんとホワイト・ワックス(白いレコード)を3名にプレゼント!
ASFCと明記の上,ディスコメイトレコードまで。
この会報を一緒に作ってくれるABBAフリークを募集しています。なるべく東京近郊の方よろしく。
その他ABBA情報をお寄せ下さい。どんな事でも結構です。(うちの猫はABBAの曲をかけると眠ってしまうとか)。
なお旧ABBA O.F.C.のサインプレゼントの当選者の発表は発送をもって代えさせていただきます(大変,遅くなりました)。
40名の皆様から入会希望のお便りを頂きまして,返答率は約63%(本当は100%を期待していました)。
とにかく,私達41名とディスコメイトレコードの宮治氏,川上氏(とても優しい方達です)がABBA SURVIVAL FAN CLUB(ASFC)の名誉ある第1期会員なのであります。一致団結して頑張りましょう! 皆様からのお便りを待ってます。
注1: 厳密に言えば,アルバムタイトルは『Something's Going On』ですが,シングルカットされたアルバム6曲目のタイトルは「I Know There's Something Going On」です。
Special thanks to Masanori, Reiko and Nana.
published: 1984-12-01
by ABBA Survival Fan Club
reconstructed: 2001-03-18
by
MURAKAMI Chifumi