転校生の少女がいるペントハウスの、ちょうど真下のフロア。雑然とし机や椅子が散
乱した、今はもう使用されていない教室。数学の……いや、もう担当している教科なぞ、
どうでもいい。ただ一個の、教師という生き物である小原はそこにいた。
「ヘ、ヘ、ヒヒ、フヒヒヒヒ」
 白目を向き、虚空と無機質な天井を見上げた彼は、視線を動かさぬままに鼻にストロ
ーを差し込み、コカインを一度に大量に吸入した。
 もうすでに彼の脳髄は、麻薬によって爛れきっていた。もう何年も昔から、彼は腐っ
ていた。戦争よりもさらに前、権力によって貶められた事を同じ権力によって復讐する
ために教師になったその時に……。
 小原は手に入れた権力に酔っていた。酒に例えれば、明らかに悪酔いだ。だが、この
酔いは一見してもわからない。授業をしている時の小原は、存外、素面である。だが、
酔っている。
 恐ろしく酒に強い人間がいたとしよう。その人間が、おびただしい量の魔酒を飲んだ
とする。見たところ、酔っているようには見えない。だが、たとえ立ち居振る舞いが自
然であっても、その人間は酔っている。酒によって脳味噌は爛れ、腐り、崩れ、一点出
血して膿んでいる。
 権力という酒に酔った者が、その酔っぱらいのごとき本性を見せる時……それは、自
分の権力に楯突く者が現れた時だ。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
 そうだ、今こそ、あのガキ、あの女に、思い知らせてやる……。小原の全身を無数の
青い蜘蛛が這い回り、彼の皮膚を蝕みながら囁く。もう銃は怖くない、あの女はたった
一人だ、暮井の奴はただの腰抜けだ、もうこの学校におまえに逆らえる奴はいない、女
にじっくりと生活指導してやれ!
 ペントハウスのテラスの上、正面の窓ガラスを、"狙撃者"は大きなコンパスで円形に
くりぬいた。抜いたガラスは床に置く。長大なライフルの銃身を、雨の降り続ける外に
向けて突き出す。
「距離を出せ」
 横に座っていた"監視者"は、その言葉に従い、床に腹ばいになって双眼鏡をのぞき込
んだ。
「1600m」
 暗視スコープの中の距離計のデジタル表示が、一番小さくなった時の数字を口にする。
この程度なら、ぎりぎり銃の射程内だろう。だが、当たるかどうかは別問題だ。
 "狙撃者"は、無言で照準を調整している。
「気が進まない」
「なぜだ?」
 不安が不意に少女の口を突いて出たのを、"狙撃者"は聞き返した。
「あの時みたいで……」
 彼女の言うあの時とは、無論、前回の任務の時の事だ。あの時、"狙撃者"は撃たなか
った。任務は失敗した。
「関係ない」
 まるで自分に言い聞かせるように、青年は吐き捨てた。
「過去はもう忘れた」
「どうして……?」
 床に座りなおして"監視者"は尋ねた。
「なぜ撃てるの?」
 本当はこう聞きたかった。なぜあの時は撃たなかったのか、そして今度は撃てるのか、
と。
「どうだっていい」
 なげやりな口調で青年は呟いた。が、すぐに首を振った。
「さあな」
 青年は目を伏せた。
「わからない」
「私達……」
 と、"監視者"が言いかけた時、不意に青年は顔を上げ、ライフルの引き金を引いた。
まるで、自分の迷いを振り払うかのように。轟くような銃声と共に、銃弾が遥か彼方の
ハイウェイの、道路を照らしている街灯を粉々に打ち砕いた。
「……!」
 少女は怒りで顔を紅潮させると、立ち上がって青年を見下ろした。青年は、目を合わ
せようとはしなかった。ただ、どこか自嘲的な笑みを浮かべているだけだった。
 身を翻すと、少女は階段を駆け下り、ペントハウスの外へ走り出ていった。
 "狙撃者"のバックアップ要員としての訓練を全て終了し、最初の任務を命ぜられた時、
訓練を担当した教官は、上層部から回ってきた任務についての資料を見て、少女にこう
言った。
「おまえは運がいい。初めての任務で、組織最強の"狙撃者"と組めるんだからな」
 その言葉から、どんな相手を想像したのか、もう"監視者"は覚えていなかった。現地
であった相手が、たぶん想像とかけ離れた人物だったからだ。
 第一地点に現れたのは、少女よりせいぜい五つか六つ上の、背の高い無口な青年だっ
た。青年は少女を一瞥した後、作戦が始まるまでろくに口をきかなかった。必要最低限
な事を口にするだけで、それすらもどこかけだるげだった。仕事がら嫌われても当然だ
と思っていたので、それは別に構わなかったのだが、しかし訓練でやった事を思い出し
ながら、ぎこちない手付きで狙撃の準備をしている、どう見ても経験不足の相棒の事を
気にもとめないのは、いささか妙だった。
 "狙撃者"は、どこか任務に乗り気ではなかった。そして、撃たなかった。任務は失敗
だった。
 脱出するとなると、"狙撃者"は急に熱心になったように見えた。少女にも気を配り、
また、躊躇い無く行く手を塞ぐ教師を撃った。
 そして今は……。"狙撃者"は迷っている。少女はそう感じていた。だが、彼は何をし
ているのか、何をしようとしているのか、語ろうとはしない。自分が傍らにいても、何
も関係ない。その事が、なぜか無性に腹立たしかった。
 フロアの隅にあるトイレに入ると、少女は洗面台で汚れた手を洗った。あまり使われ
ていないからだろうか、水の出は良くない。トイレの中は個室が三つと洗面台が同じく
三つあるだけで、芳香剤も何も置いていないので、水道の黴臭い匂いで充満している。
ふと顔を上げ、目の前の汚れた鏡を見た少女は、思わず息を飲んだ。背後の個室のド
アが、いつの間にか開いていたのだ。そして、そこにあの小原が立っていた。
 少女が狼狽しながら振り返ると、小原は含み笑いをもらして歩み寄って来た。
「また会えるっていっただろう?」
 嫌らしげな視線が少女の制服の胸元や、スカートの裾の下の膝頭を這う。
「俺の相棒が、心配してたぜ」
「そうですか」
 落ち着きを取り戻そうと、少女は洗面台にもたれ、わざと冷淡に言った。
「私が感謝してたと、暮井先生に伝えて下さい」
 小原は視線を泳がせると、なおも歩み寄って来た。なれなれしくも腰に手を回そうと
してくる。
「俺も、心配だったぞ」
 いい加減に少女は腹が立ってきた。"狙撃者"には無視されるのに、このげす野郎のく
ず教師にはつきまとわれる。ならば、ここでこの馬鹿を少し痛めつけてうさを晴らそう。
 タイミングを見計らって、少女は小原の股間を膝で蹴り上げた。身長差がだいぶんあ
るので完全には決まらなかったが、小原はうめき、よろめいた。そこを素早く首筋の頚
動脈をつかみ、体勢を入れ換えて鏡の方に押し付ける。
「苦しいかしら?」
 が、小原はしばらく息が詰まって悶えていたが、不意に恐ろしい力を発揮し、少女の
手を振り解いた。その勢いで、彼女の頬を張り飛ばす。
「あっ」
 少女はよろめくと、個室の壁にもたれかかって姿勢を立て直した。反射的にベルトの
銃を抜き、構える。視線に入った小原の腹をめがけて引き金を引く。
「うおおおっ!」
 至近距離から弾を撃ち込まれ、小原は腹をおさえてよろめいた。
「おお?」
 が、すぐにいつもの嫌らしい笑いを取り戻すと、ダメージを感じさせない動きで、少
女の手から拳銃を叩き落とした。
「そ、そんな!?」
 呆然とする少女の頬を、もう一撃平手打ちする。
「Fuck you very much」
 小原はジャージの前をはだけると、下に着込んでいた防弾チョッキを脱ぎ捨てた。チ
ョッキには今の銃弾が半ばまでめりこんで止まっていた。
「くうっ」
 近づいてくる小原の防弾着の無くなった腹を、少女は蹴り上げた。ぐらついたところ
を素手で殴りかかる。だが小原は彼女の拳をやすやすと受け止め、逆に腹に膝をたたき
込んだ。少女が息がつまってうずくまりかけたところを、胸ぐらをつかんで顔を上げさ
せ、そこに今度は拳を見舞う。
「あああっ!」
 少女の軽い身体は1m程吹き飛んで、便所の床に無様に這いつくばった。
「フヒヒヒヒヒヒヒヒ」
 教師小原は不気味に笑うと、ふらつきながら立ち上がった少女の顔面をなおも殴った。
一発、二発。
「ひいいっ!」
 悲鳴をあげて少女が目をつむったところで、三発目をわざと寸止めする。
「……?」
 おそるおそる目を開けた瞬間、今度は鼻っ柱に一撃。少女は鼻血を吹いて床に崩れ落
ちた。
 息も絶え絶えになって横たわっている少女の髪をつかむと、小原は強引に彼女を引き
ずり起こした。洗面台にうつ伏せにさせ、背後からのしかかる。
「服装検査だ。先生のいう事をきかない奴は、服装も乱れてるもんだ」
 荒々しい動きで、小原の手が少女の胸を乱暴に鷲掴みにする。
「その点、先生はこのとおりだ。せがれに挨拶するんだ」
小原は少女の手をつかむと、強引に自分の股間に押し付けた。少女は必死で振り解こ
うとするが、背後から体重を預けられているので逃れられない。
「おっと、おっと、そう慌てるな。いくら先生でも、これはつけないとな」
 そう言うと、小原はポケットからコンドームを取り出し、少女の目の前で振ってみせ
る。「い、いや、助けて!」
「誰も来やしない。俺がこの学校で一番偉いんだ。俺に楯突く奴なんぞ、いないんだよ」
 小原はズボンのジッパーを下ろすと、その間に少女の手をねじ込んだ。この先にある
事を一瞬、想像し、少女は悲鳴をあげた。
 その間に、小原の手が少女の制服のスカートをまくりあげる。
「ヒャハハハハハ、ようやく見つけたぞ。この色は違反だ! 没収!」
 脂ぎった不快な手が下着にかかる。
「服装が乱れてる者は、心も乱れてるんだ! こんな色のをはいてるから、先生に逆ら
うんだよ!」
 感極まってきたのか、小原の声には泣きが入り始めた。と思うと、不意に冷酷な声を
発する。
「さあ、おまえはどっちがいい? ソフトなのか、それともこっちの……」
 スカートが強引に引き裂かれ、半ばちぎり取られる。
「ハード・プレイか!?」
 続いてブラウスが引き裂かれる。正面のひびの入った鏡に、腫れ上がり恐怖に引き歪
んだ顔をした少女と、すでに充分悦楽を感じている教師とが映っていた。
「どっちにする?」
 小原は生徒を思う様に蹂躙する歓びに震え、高らかに笑おうとした。その時、
「ハードだ」
 不意に、背筋が寒くなるような冷たい声が響いた。小原が声がした方を振り向くと、
トイレの入り口に、ランニングシャツ姿の、長身の青年が立っていた。銃を構え、その
銃口をまっすぐ彼の方向に突きつけている。
「な……!」
 教師は慌てて身を起こすと、腰から自分の銃を抜き、少女の頭に突きつけた。同時に
彼女の身体を引き起こし、盾にする。
「だ、誰だ、てめえ!」
「誰だと思う」
 青年は呟くと、冷たい笑みを浮かべた。
 小原はその冷静な声音に気押され、視線を下に向けた。青年のはいているズボンが目
に入った。アルゴンキン・ハイスクールの制服のものだ。
「どいつもこいつも、生徒のくせに俺に逆らいやがって……!」
 人質にされている少女の耳元で、小原は絶叫した。
「誰でもいい! 死人になりやがれ!」
 目の前の青年に銃を向ける。
「どうだ、撃ってみろ!」
 小原の長身は、完全には少女の身体の陰に入ってはいないが、この至近距離からでも
狙い撃つのは難しい。小原は身悶えする少女の身体を引きずって、青年を避けてトイレ
の入り口の方へ移動し始めた。
「ヒャハハハハ、てめえには撃てねえ!」
 だが、青年は銃口を突きつけられても動じた様子もなく、距離を空けずにトイレから
廊下に出た小原達についてくる。
「おまえが撃ったらどうだ」
「うるせえ!」
 明らかに挑発だったが、小原はそれに乗った。教師である以上、小原も銃の扱いは知
っている。距離は2m程、外すはずがなかった。狙いをつけ、引き金を引く。
 が、弾が飛び出る一瞬前に、青年は一歩右に動いた。銃弾は外れ、空しく廊下の壁に
めり込む。
「なに?」
 興奮に水を差すかのように現れた邪魔者のおかげで、小原は暴力的衝動と麻薬による
酔いから醒め、素面に近い状態に戻っていた。かつて、生活指導しても何の役得もない
ような男子学生を殺す時、小原はいつもこんな精神状態だった。そして、何人もの学生
を手にかけてきた。外すはずがなかった。自分は冷静なのだ。こんな距離で外す訳がな
い……!
 小原はもう一発、撃った。だが、やはり当たらない。いや、当たらないのではない。
かわされている……!?
「……!」
 なおも近づいてくる青年に、小原は恐慌し、銃を少女の頭に再び突きつけると、廊下
をエレベーターの方向に後ずさった。
「来るな、来るんじゃねえ! 女を殺すぞ!」
 青年が足を止めると、素早くエレベーターの扉を押し上げ、中に乗り込む。扉を閉め
ると、昇降レバーを下に向けて押し下げた。
「ヒャーハハハハハハハハハハハ!」
 エレベーターが動き出すと、小原は哄笑した。これでもうあの野郎も、追いかけてこ
れねえ……。
 しかし、暗いシャフト内を覗いて、3m程下に降りたエレベーターを見おろした青年
は、躊躇いなく眼下へ身を躍らせた。金網状のエレベーターの天井に、音をたてて着地
する。
「や、野郎!」
 小原は真上の青年に向けて、銃を乱射した。金網のせいでまともに当たらないが、青
年も抵抗はできない。ただかわすのみだ。
「そこで踊ってやがれ!」
 その間もエレベーターは下降し、最上階から下へ、フロア四つ程を通り過ぎた。
 小原が天井の"狙撃者"に気を取られている間、"監視者"は上体は捕まえられていたが、
両足は比較的自由になっていた。フロアを通り過ぎかけたタイミングを見計らって、昇
降レバーを蹴り上げる。
 急にエレベーターは停止し、天井の青年はバランスを崩した。手から銃がこぼれ、シ
ャフトの下に落ちていく。
 半ばパニックになっていた小原は、それには気付かなかった。エレベーターが止まる
と、反射的にドアを開け、少女を捕らえたままそのフロアに這い出る。
 停止したフロアは、倉庫になっている階だった。電球や灯油などの消耗品、使用して
いない体育用具、跳び箱やマット、ラケットなどが積み上げられている。
 小原は少女を引きずって柱の陰に身を潜めた。エレベーターの方を見ると、追ってき
た青年がエレベーターの扉を下ろし、わずかに出来た隙間からフロアに転がり込んでく
るのが見えた。
「しつこい奴だ……!」
 小原は声をたてようとする少女を、柱にたたきつけて黙らせた。柱の陰から顔をのぞ
かせ、銃を構える。
 慎重に狙いをつけ、周囲をうかがいながら近づいてきた青年の、側を通っているパイ
プを撃った。汽笛のような音とともに、パイプから高熱の蒸気が吹き出る。不意をつか
れた青年は、顔をかばって身を伏せた。小原は声も無く笑うと、足もとにあった、灯油
の入ったタンクを倒した。流れ出た油は、床をつたって青年のところまで到達する。油
の匂いに顔を上げた青年は、目の前の灯油に向けて小原が銃を向けているのに気付き、
逃れようとした。
「死ねやあ!」
 しかし、間に合わなかった。小原は後ろに下がり柱の陰に隠れながら、銃を撃った。
跳弾によって起こった火花が油に引火し、一瞬にして燃え上がる。さらにその炎はパイ
プから吹き出る何かの蒸気ガスに反応した。
 轟音と共に爆発が起こり、爆風と爆煙によって一瞬にして青年の姿はかき消された。
周囲の跳び箱やハードルが吹き飛び、黒こげになる。
「ヒャーハハハハハハハハハッハッハハハッハッハッハッハッハハハハハ!」
 高笑いする小原の頭上で、スプリンクラーが作動した。あっと言う間に火災は鎮火し、
後は煙と水蒸気が立ちこめるだけになる。だが、今の爆発だけで、倉庫のほぼ半分が
外壁と床のみを残して吹き飛んでいた。
 小原は半ば意識を失っている少女を、倉庫の無事な残り半分の方に引きずっていった。
倉庫の一部は床がなく、下の階と吹き抜けになっており、柵で区切られている。小原
は手錠(教師の必須アイテムだ)を取り出すと、少女の右手首をその柵に固定した。
「フヒ、さて、フヒ、やりまくるか」
 そう言って、無惨に引き裂かれた少女の制服に手をかけようとした、その時。
背後から、足音が聞こえた。
「な……!?」
 爆発によって焼き尽くされ、きれいに吹き飛んだはずの方角から、何者かがゆっくり
と歩み寄ってくる。
「そ、そんな、馬鹿な……」
 確かに小原は、そいつが爆発を避けられなかったのを見た。ほぼ爆発の中心に、そい
つはいたはずなのだ。そして、鋼鉄製のハードルがねじまがって黒こげになり、木製の
跳び箱が粉微塵になるほどの爆発だったのだ。生きているはずがない!
 だが、たちこめる爆煙と蒸気の中から、その青年は姿を現した。
「ふ、不死身か……!?」
 青年の着ている服はあちこち焼け焦げ、身体の方もいくらか火傷を負っているように
見えた。だが、傷などまったく無いかのような確かな足取りで、こちらに向かって進ん
でくる。
 小原は、自分が震えているのに気付いた。膝が笑っている。歯が音を立てている。全
身に鳥肌が立っている。手が震えて、持っていた銃を取り落とす。
「こ、こんな、こんなはずがない。こ、この俺が、生徒ごときにおびえるはずがない!」
 このアルゴンキン・ハイスクールにおいて、彼は絶対者ではなかったのか。いや、そ
もそも教師というのは学校にいるかぎり、絶対の存在ではなかったのか? 
「お、俺は……」
 学生は教師に逆らってはいけないし、逆らう奴は許さない。事実、戦時中も、小原は
自分に逆らった学生をことごとく服従させてきた。逆らい続ける者は殺した。彼にかな
う者はいなかった。彼は無敵だったはずなのだ。その常識が、自尊心が、権力が、小原
の中で鈍い音をたてて崩れ落ちていった。一瞬、小原の身体そのものも床に崩れ落ちか
け、だがしかし、辛うじて踏みとどまった。そして叫んだ。
「俺は教師なんだぞ!」
 次の瞬間、青年の拳が彼の鳩尾で炸裂し、鞭のように跳ね上がった右足が、青年の左
足を軸に旋風のごとく回転して飛来し、よだれのつたう顎を粉々に打ち砕いた。
 小原の長身は軽く数m吹き飛び、吹き抜けの側にあった八段ほど積み上げられた跳び
箱に、激突した。
「しまった!」
 終始無言だった"狙撃者"は、その時思わず声をもらした。小原がぶつかった跳び箱が、
柵に手錠でつながれた"監視者"に向けて倒れかかったからだ。
「きゃあっ!」
 意識を取り戻しかけていた"監視者"は、跳び箱を身をよじってさけた。が、彼女の身
体には当たらなかった跳び箱は、柵に激突し、固定されていた場所を破壊した。柵の一
部が外れ、つながれていた"監視者"は吹き抜けに引きずられ、宙にぶら下がった。
「待ってろ、今、助ける!」
 "狙撃者"は駆け寄ると、ねじ曲がった柵を引き寄せ、"監視者"の手をつかんだ。
「危ない、後ろ!」
 "監視者"の声に振り向きかけた青年の背後に、不意に組み付いた者がいる。手が伸び
て来て、青年の髪をつかむ。
「この髪型は校則違反だ……」
 まるでゾンビの様に、血塗れの小原が立ち上がって来ていた。が、青年は舌打ちを一
つすると、その顔に立て続けに裏拳を喰らわせた。
「あへ」
 よろめいて手を離した小原の、手入れしていない髪の毛を逆につかむ。
「おまえも違反だ」
 そう言いながら"狙撃者"は、手元の柵に教師の顔面を叩きつけた。
 トイレに戻った"監視者"は、小原に叩き落とされて床に落ちていた銃を、後からつい
てきている"狙撃者"に気取られぬように拾った。すぐに服の下に隠す。
「ヒ、ヒヒ」
 "狙撃者"は、ぶちのめされて半死半生になった小原を、便所の個室に引きずり込むと、
教師自身の持っていた手錠で、汚い洋式の便器につないだ。血を流している口元へ、
同じく小原の持っていた通信機を突きつける。
「こちら一階警備ブース」
 モニターの前で新聞を読んでいた暮井は、通信機の呼び出しに応答した。
「こちらペントハウス」
 妙にしゃがれた小原の声が聞こえる。
「どうかしたか?」
「そこを動くな」
「何か問題でも?」
 しばらく間をおいて、かすれた声がした。
「今からいただく。アヘ」
 通信は切れた。暮井はやれやれとばかりに首を振ると、新聞に目を戻した。
 無線を切ると"狙撃者"は、これまた小原の持っていた銃を、教師自身の脳天に突きつ
けた。表情が判別できない程に腫れ上がった小原の顔に、恐怖らしき色が浮かぶ。
「少々、知りすぎたな」
 冷徹に呟いて、"狙撃者"は安全装置を外した。一瞬、引き金に力をこめかけ、しかし、
続いてこう言った。
「悪運の強い奴だ」
 青年は銃を持ち直すと、台尻の部分で小原の額を殴りつけた。小原はその勢いで便器
の角にも頭をぶつけ、失神した。
 "狙撃者"がペントハウスに戻った時、"監視者"はテラスの上、窓際のライフルの側に
たたずんでいた。
 破れた制服はすでに脱ぎ、任務のために用意していたのか、タンクトップとスパッツ
という軽装に着替えている。
 青年がテラスに上がっても、少女は彼の方を見ようとはしなかった。じっと雨の降り
続ける外の景色を見ていた。
「大丈夫か?」
 声をかけても振り向こうとはしない。
 鞄からタオルを取り出すと、"狙撃者"は自分の顔の傷に押し当てた。わずかに流れて
いた血を拭う。爆発はまともに受けたが、大した傷は負っていなかった。少々、火傷が
ある程度である。ダメージだけなら、"監視者"の方が大きいだろう。傷もそうだが、教
師にいいようにされかかったのだから……。
「俺は邪魔か」
 気をきかせた風に言ったが、少女はかぶりを振った。そして、振り返った。
「質問させて」
 不意に少女はまっすぐに青年を見つめ、彼の側に歩み寄った。
「仕事のためなんでしょう?」
「何がだ」
 尋ね返す青年を見上げ、少女は続けた。
「私を助けたこと……」
「そんなことか」
 青年は少女から離れ、窓際に向かった。
「どうでもいい」
 少女はその背中に向けて言った。
「知りたいの」
 "狙撃者"は答えなかった。先ほどの少女のように、窓の外だけを見つめ続けた。少女
はさらに問うた。
「……どういう人なの?」
「……?」
「明日、私達が殺す人……」
 窓の外、狙撃予定地点となっている橋を見て、青年は首を振った。
「人じゃない。標的だ」
 橋から視線を反らし、自分の足元に目を落とす。
「名前も、経歴も、顔もない。ただのターゲットだ」
「気にも留めないの?」
「気にしていたら、こっちが殺される」
 青年は少し声を荒げた。少女の方を見ぬまま振り返り、ガラスに背を預けてその場に
座り込んだ。自分の血のついた、手元のタオルを見つめる。
 少女も、その傍らに腰を落とした。青年の横顔に目を向ける。
「……助けたかったから、助けた」
 少しして、青年は呟いた。聞き取れないぐらい、かすかな声だった。
 何か言いかけて、急に少女はペントハウスの戸口の方を見た。
「どうかしたか?」
 顔を上げて尋ねた青年に、少女は首をかしげて見せた。
「物音がしたと思ったけど……」
「風だろう」
 タオルを放り出すと、青年は言った。
「風には詳しいんだ」
「戦争で?」
「ああ」
 全ての学生と教師を巻き込んだ、「スクール・ウォーズ」。
「今とは、標的が違うね」
「……そうだ」
「どう違うの?」
 姿勢を崩し、身を寄せる少女を見て、青年は答えた。
「あの時は、敵がはっきりしてた。教師とそれに味方する奴ら……。俺は、自分の身を
守るためだけに戦ってた」
 一度、言葉を切り、青年は少女から顔をそむけた。
「だが、いつか戦争は終わった。その後も、俺は人を殺し続けた。組織に入り、敵でも
何でもない人間を、殺すようになった」
 青年は、立てた自分の膝に目を落とした。
「いつだったか、疑問を感じた。相手の事を見るようになった。標的の目を、顔を見た」
 少女の手が伸び、青年の腕に触れた。青年は呟いた。
「俺の顔だった」
柔らかな手が頬に触れる。青年はその手を取り、握りしめた。
「俺の銃口の向こうに、俺の顔があった」
 青年の唇が、それ以上言葉を紡ぐ事はなかった。彼の唇に少女は、自分のそれをそっ
と重ねた。少しの間、されるがままになっていた青年は、やがて少女を自分の腕の中に
引き寄せた。
 二人の衣服が床に散らばり、繚乱とした褥を創りだした。二つの裸身が、その上でゆ
っくりと絡み合った。薄闇の中で、高まる吐息と喘ぎだけが室内を満たしていった。
続きへ。