ペントハウスから、"狙撃者"が出て行ったのを見届けると、"監視者"はテラスから下
り、壁にあるスイッチで、落としていた天井のスポットライトを、再び点灯させた。薄
暗かった内部は、すぐに眩しいばかりの輝きに満たされる。
 "監視者"は膝を突くと、床の金網が外れているところから、床下に手を差し入れた。
コンクリートの床の裏を手探りすると、探していた物はすぐに見つかった。ビニール袋
に包まれ、ガムテープで床の裏に張り付けられていた物を、引っ張りだす。
 包みを解くと、やや大ぶりな拳銃が姿を現した。先ほど"狙撃者"に取りあげられた物
よりも一回り口径も大きく、銃身も長い。すでに"監視者"は何日か前から、この学校に
通っていたので、有事に備えて予備の銃を隠しておいたのである。最大の任務が、不能
になった"狙撃者"の抹殺である以上、こういった用心は当然といえる。
 ゆっくりと周囲に狙いをつけてみると、銃口の下から赤外線の光がのび、目標をなめ
ていく。"監視者"は満足気にうなずくと、その銃を腰の後ろ、スカートのベルトに見え
ないように突っ込んだ。
 一方、"狙撃者"はペントハウスを出た後、屋上に続く階段の方に向かった。校舎の中
に侵入した時は、外壁の内側にある鋼鉄製の非常階段を上ってきたのだが、屋上につな
がっている階段はそれとは独立している。
 エレベーターの向かい側、狭い通路の先のドアを開けると、コンクリートの階段が屋
上に続く扉に通じている。階段の上、天井はペントハウスと同じくガラス張りになって
おり、降り続ける雨が蛍光灯の鈍い光とガラスによって屈折され、無機質な壁に波打っ
ている。
 "狙撃者"は階段を上ると、屋上への扉を開けた。雨が降りこみ、青年の面を打つ。
 警備ブースで新聞を広げていた暮井は、監視装置の屋上を示すランプが、点灯してい
るのに気付いた。気付いた瞬間、警戒を促すアラームも鳴り始める。屋上には赤外線が
通っており、扉を開ければ反応するようになっている。ペントハウスにいるはずの女生
徒か、あるいはどこかに行ってしまった小原が開けたに違いない。どちらにも屋上なぞ
に行く理由はなさそうだが、小原などはコカインで頭がおかしくなっている。何をする
かわからない。
 一応、確認しておく必要がある、と判断した暮井は立ち上がるとエレベーターの方に
向かった。
 屋上といっても、高さはペントハウスの中途程度までで、校舎のてっぺんという訳で
はない。当然、目立つような物は何もなく、水道用のクーリングタワーと、エレベータ
ーの動力部のあるブロックがあるだけである。"狙撃者"は雨から頭をかばいつつ、動力
部のブロックに向かった。
 雨のかかりにくい物陰まで移動すると、"狙撃者"はブレザーのポケットから双眼鏡を
取りだした。"監視者"が使った物よりも小さいが、赤外線装備で深夜でも使用可能であ
る。
 ペントハウスの窓と同じ方向を見る。当然、視界には狙撃予定地点である、高速
道路が入ってくる。ライフルのスコープから見たのと同じ風景、ゴミの浮いた大きな川
と、その川に架かった高速道路、それを照らす無数の灯火、何も異常は見当たらない。
 双眼鏡を下ろしかけた"狙撃者"は、ふと思いとどまって、もう少し上の方を見た。川
を隔てて向こう側には、この「アルゴンキン・ハイスクール」と同じくらいの大きさの
ビルが、幾つか立ち並んでいる。今、使用している双眼鏡には、距離計が付いていない
のではっきりとはわからないが、ここからおおよそ2==ほど離れているだろう。もっと
も距離の近いビルの屋上で、この雨の中、二つの人影が動いているのが見えた。
 ポケットに双眼鏡をしまうと、"狙撃者"はエレベーターの動力があるブロックの、外
壁についた梯子をよじ登った。動力部は正面に入り口がないので、上から回り込まねば
ならない。屋上より一段高いそこに上がると、ようやくペントハウスの屋根に近い位置
まで上がった事になる。
 屋根の上にはテレビ用などのアンテナが立ち並んでおり、その側の床に、動力部に通
じている蓋がある。"狙撃者"はその蓋を開けると、梯子を使って中に降りた。
 小さな部屋の中を、蛍光灯の暗い光が照らしている。動力部はちょうどエレベーター
・シャフトの真上にある。今まさに誰かがエレベーターを動かしているらしく、太い鋼
鉄のワイヤーを固定した車輪が、力強く回転している。方向から見て、エレベーターが
上って来ているらしい。
 ここの床にも蓋があり、開けるとシャフトに通じている。その手前に"狙撃者"は膝を
付いた。一瞬ためらった後、ブレザーのポケットから、何か機械の部品のような物を取
りだした。何本かコードの飛び出た、握りこぶし大の機械で、何か白い紙にくるまれた
物が固定されている。耳を澄ますと、時を刻むような正確な間隔の電子音が、中から聞
こえている。
 "狙撃者"はさらに、小さな部品を取り出すと、機械に取り付けた。付けると同時に、
何かスイッチが入ったのか、機械本体にランプが点き、明滅し始めた。その機械をズボ
ンのポケットに入れると、上着を脱ぎ捨てる。シャフトに通じる蓋を開けて、中をのぞ
きこんだ。 作業用のエレベーターが一台通っているだけの割には、シャフトの中は広
い。おそらく将来的には、二台のエレベーターを通す予定だったのだろう。かなり余分
な空間がある。内部は配管や鉄骨が剥きだしで、その無機質な光景が遥か下まで続いて
いる。校舎の高さは、おおよそ七十m程ある。暗い事もあって、下の方まではよく見え
ない。
 エレベーターが、最上階まで上がって来て、止まった。人影が出るのが見える。おそ
らく宿直の教師のどちらかだろう。考えている暇はなかった。エレベーターが最上階に
来ている今が、青年の目的のためには好都合だった。
 最上階に上がって来た暮井は、ペントハウスの方を窺った。先ほどまでは真っ暗だっ
たはずだが、今は明かりが点いている。
 屋上への階段に続く扉は、閉まっていた。慎重にそちらに近づき、開けてみる。階段
の先の戸も、閉まっている。が、誰かが開けなければ、警備システムが反応するはずも
ない。暮井は階段をゆっくりと上り、ドアノブに手をかけた。
「私に用ですか?」
 不意に声がして、暮井は驚いて振り返った。見ると、階段の下から、女生徒が見上げ
ていた。
「脅かすな。私を尾けてたのか?」
 女生徒は首を振った。
「屋上でなにをしてた?」
「屋上?」
 暮井の問いに、女生徒は何も知らないという風に、聞き返してきた。
「ここのドアを開けてないか?」
「何のためにですか? 私は部活動をしてましたが」
 確かに警備システムは、誰かが屋上に出た事を示した。が、この女生徒ではないらし
い。となると、小原だろうか? 
「アラームが鳴った」
「故障してるんじゃないですか?」
 無表情にそういう女生徒に、暮井もうなずいた。
「かもしれんな」
 突然、女生徒は含み笑いをもらした。
「暮井先生も、刺激的なお友達のせいで、興奮気味なんでしょ」
 そう言って片目をつぶって見せる。お友達とは、むろん小原の事を指している。
「彼は、友達じゃない」
 暮井が嫌そうな顔をして否定すると、少女も冷めた顔になった。
「もういいですか? 続きをしたいんですけど」
 一度、暮井は背後屋上への扉を振り返ったが、
「わかった。もういい」
 階段を下り始めた。
 慎重に、"狙撃者"はシャフトの中に入った。入ったと言っても、足場があるわけでは
ない。コンクリートに手をかけ、懸垂の要領でシャフトの中にぶら下がったのである。
今、ぶら下がっている位置はエレベーターの真上なので、落ちたところでさして問題は
ない。が、それでもまだ5m程の高さがあるので、危険な事は危険である。
 体重を支えている青年の腕の筋肉が、膨れ上がる。ぶら下がったまま、"狙撃者"は前
後に身体を揺すった。そのまま反動をつけて、真正面のエレベーターを固定したワイヤ
ーに飛びつく。それをつたってエレベーターの上に下りると、ポケットから先ほどの機
械を取り出し、シャフトの中、エレベーターを固定している柱と、とエレベーターの金
網の箱本体の接点の辺りに、金具で固定した。
 足音がした。誰かがこちらに向かって歩いてきている。"狙撃者"は立ち上がると、死
角になりそうな場所に立った。
 暮井がエレベーターに乗り込むのを、見届けようとしてついてきた"監視者"は、何気
なくエレベーターの上、シャフトの方を見て、自分の目を疑った。屋上を調べに行くと
言って出て行った"狙撃者"が、エレベーターの屋根に立っているのが、金網越しに見え
るのである。青年が目配せを送ってくる。パラノイアというのは、こんな所まで調べな
いと気がすまないのか?
「どうかしたか?」
 青ざめた少女を見て、暮井がいぶかしげに尋ねてくる。
「何でもないです。あまり邪魔しないでくださいね」
 動揺を隠してわざと冷たく言うと、暮井は鼻を鳴らしてエレベーターの戸を閉じた。
レバーを操作すると、ゆっくりと下の階に向かって動き出す。"監視者"はそれを見送る
間もなく走りだした。
 エレベーターが動き出すと、"狙撃者"は反射的に、エレベーターを固定しているのと
は反対側のワイヤーに飛びついた。もともとは同じ一本のワイヤーなので、エレベータ
ーが下がれば、当然もう片方は動力部の車輪に巻き込まれて上がって行く。"狙撃者"の
身体は、労せずして上に向かって行く……確かに上に向かっている。が、このままでは、
彼の身体も、天井に激突し、動力部に巻き込まれてしまう。
 そうなる寸前、間一髪、"狙撃者"はワイヤーから手を離し、横に飛んだ。最初にシャ
フトに入った入り口、その近くに天井と水平に細い配管が通っていた。そのパイプに飛
びつく。
 が、飛びついた瞬間、パイプを固定していたボルトの一つが弾け飛び、"狙撃者"の身
体は大きく揺れた。もともと、ほとんど強度が無かったらしい。青年の体重を支えきれ
そうにない。パイプ自体も大きく歪む。
 すでにエレベーターは見えなくなり、真下にはただ空間のみがある。落ちたら、真っ
赤なトマトが一丁あがりだろう。
 入ってきた入り口には、まだ手が届かない。"狙撃者"は慎重に、そちらに移動しよう
とした。が、少し手を動かすと、またボルトが弾け飛んだ。パイプが歪み、斜めになる。
距離的には入り口に近づいたが、今度は高さが足りなくなった。青年の頬を冷や汗がつ
たった。エレベーターは見えなくなったが、ワイヤーはまだ動いている。そちらの方に
は戻れない。 パイプが、大きくきしんだ。おそらくあと数秒で、真ん中辺りから折れ
てまっ逆さま、"狙撃者"もまっ逆さま。エレベーターの真上に落ちて、乗っている教師
はさぞ驚くであろう。そして後悔する。歩いたほうが良かった、と。エレベーターなん
て、乗るものじゃない。
 もう手を伸ばしても、入り口には届かない。あと数==のところなのだが、届かないも
のは届かない。自分の、汗のつたうたくましい腕を見ながら、もう何もかもどうでも良
くなってしまった"狙撃者"は考える。どうして俺の腕はもう少し長くないんだろう……。
「何やってんの!? つかまって!」
 気がつくと、入り口の方から細い手が差しのべられていた。"監視者"の悲鳴に近い声
が、"狙撃者"を正気に戻した。慌てて少女の手をつかむ。
 "監視者"は両手で、"狙撃者"の大きな手をつかむと、引っ張り上げてコンクリートに
かけさせた。"狙撃者"はようやく、しっかりと安定した所をつかむと、片手懸垂で身体
を持ち上げた。上腕筋が悲鳴を上げ、脂汗がその上を流れる。充分に身体を引きつける
と、素早くもう片方の手もかけ、上半身に入り口をくぐらせる。"監視者"も青年の脇の
辺りを引っ張る。
 奮闘すること一分、とうとう"狙撃者"はシャフトから、もといた動力ブロックに戻り、
力つきて座り込んだ。筋肉は疲労しきり、身体は汗まみれである。心臓は激しく動悸を
打ち、呼吸も整わない。
「被害妄想の具合はどう?」
 恨みがましい視線を向ける少女と、青年の目があった。
「問題ない」
 "監視者"の問いには、ここで何をしていたのか、という、言外の意味も含まれていた
が。青年はそれには答えなかった。"監視者"も、答えが返ってくるとは思っていなかっ
たのだろう。目を反らすと、立ち上がった。
「あまり、油断しないでね」
 背を向けて、屋上の方に出ようとする。
「おい」
「なによ」
 振り返った少女の、声が険しい。
「……ありがとう。助かった」
 素直な謝意が意外だったか、"監視者"は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。が、
すぐに眉をひそめ、屋上に出ながら言い捨てた。
「気にしないで。あなたを守るのも、仕事なの」
 外に出た後、顔だけを中に突っ込んで、付け加える。
「今回はね」
 憮然とした顔が再び屋上の方に消えると、"狙撃者"は苦笑して、疲れた筋肉をさすり
ながら立ち上がった。
 振り続く雨の中、「アルゴンキン・ハイスクール」の屋上を走る少女の姿を、追い続
ける視線があった。中心にターゲットサイト(照準)のある赤外線スコープの中に、水
溜まりを蹴り立てながら、校舎の中に飛び込む少女の姿が映っている。
 少女の姿が見えなくなると、照準は移動し、同じ屋上で雨の中に空を見て立ち尽くす、
長身の青年の姿を捕捉した。雨に打たれながらも、青年は天を仰いでいた。
続きへ。