5
「驚いたか」
 薄笑いを引っ込め、"狙撃者"は"監視者"を柱に押さえつけたまま、囁いた。
「もう……驚かないわ」
 強がりだった。驚いた。五ヶ月前、前回の任務での時と同じくらいに。いや、強がれ
る分くらいは、今の方が冷静かもしれない。
「歴史は繰り返す」
「あの時とは違うのよ」
 が、青年はその虚勢を見すかすように、再び薄く笑った。
「何も、変わっちゃいない」
 目を反らす"監視者"に、再び問いかける。
「なぜ、君が来た?」
「誰とでも、相性がいいの」
 いい加減に答えたが、"狙撃者"は顔をしかめた。素早くナイフを取り出し、再び少女
の首元に突きつける。
「自慢にならないな。俺は相性の悪い方がいい」
 ナイフを引っ込めるように"監視者"が言おうとした時、エレベーターの駆動音がペン
トハウスにまで響いてきた。それが聞こえなくなった後、靴音が響いてくる。
「誰か来る」
「邪魔なら……」
 "狙撃者"は少女の目の前で、ナイフをちらつかせた。
「殺せばすむことだ」
 扉の摺りガラスの向こうに人影が映る。黒い帽子の長身の男。
「開けな、嬢ちゃん」
 戸を開けようとしてノブを捻るが、鍵が掛かっている。
「くそ、開けやがれ!」
 数学教師、小原の声だ。"狙撃者"はナイフを突きつけたまま、"監視者"に答えるよう
顎をしゃくる。
「今はダメ。プログラムの、敏感な部分を組んでるの」
 戸の向こうから、乾いた笑い声がする。
「俺の敏感な部分も、やってくれないか」
「……用は何なの?」
「さっきの事を謝りに来た」
「そう」
「悪気は無かった」
 "狙撃者"の視線が、摺りガラスの向こうの小原と"監視者"を行き来する。
「もうわかったわ」
 少女の目が、青年の視線と合う。
「消えなよ」
「むかつく事、言ってんじゃねえ!」
 小原は扉を蹴飛ばし、強引にノブを引いた。が、そんな事で鍵が開くわけでもない。
「いいさいいさ、俺は気にしない。俺はな」
 摺りガラスを小原の指が這いまわる。
「激しく、おまえを抱きたいんだ」
 "監視者"はもう、答えようとはしなかった。ただ目の前のナイフを見つめる。
「もう銃なんて、怖くないぜ」
 "狙撃者"の眉が動く。それだけを捨てぜりふに、小原は去っていった。
 エレベーターの降りていく音が聞こえなくなった後、"狙撃者"は右手でナイフを構え
たまま膝をつくと、左手で少女の身体を、脚の方から探り始めた。
「ナイフをしまって」
 無駄だと思いつつも言ってみたが、"狙撃者"は無視した。
「組織で、自分の資料を見たか」
 関係の無い事を聞いて、ごまかそうというのだろうか。
「機密扱いよ」
「答えろ」
 再びナイフが、喉元近くまで上がってくる。
「ないわ」
 少女は組織の一員だったが、組織についてそれほど詳しい事を、知っている訳ではな
かった。構成員はどれくらいなのか。何人の幹部がいるのか。どの国にどれだけの支部
があるのか。入ってまだ日が浅いせいもあるが、ほとんど把握していない。自分が組織
の中でどういった存在なのかも、知らなかった。
「俺は見た事がある」
 手を止めて、"狙撃者"は立ち上がった。
「被害妄想とか、パラノイアとか書いてあった」
 かなり身長差があるため、少女の目をほとんど真上からのぞきこむ。
「そう見えるか」
 "監視者"も、自分が信用されているとは思っていない。役割が役割だし、前回の任務
の時の事もあった。が、ナイフを突きつけられっぱなしなのは、心外である。そんな事
をしなくても、抵抗などしない。
「どうかしらね」
 答には出さなかったが、顔には出たかもしれない。肩をつかまれ、強引に後ろを向か
された。腰の辺りを手が探る。
「この仕事を、長くやりすぎたせいでしょう」
 そう言ってみたが、あらがう間もなく、スカートのベルトに突っ込んであった拳銃が
引き抜かれた。
「いいぞ」
 弾が入っているのを確認して、"狙撃者"はその銃を自分の制服のポケットにしまった。
「被害妄想も、身を助けるな」
 ようやく"監視者"を放すと、青年はペントハウスの隅に置いてあった荷物を抱えて、
正面の内側に張りだしたテラスに向かって歩きだした。
「ちょっと待ってよ」
 "監視者"も荷物を拾い上げ、階段を上る"狙撃者"を追った。
「任務に銃は必要なのよ。あなたを見張るだけが、"監視者"の仕事じゃないわ」
「だから、取りあげたんだ。そいつは忘れろ」
 テラスに上がると、"狙撃者"は窓際に荷物を下ろし、外の景色を見やった。先ほどよ
り雨足が激しくなり、時折、稲光が輝く。
「私はもう、新入生じゃないの。あなたの指図は受けない」
「どうかな」
「……知らなかったのよ」
 少女は青年の後ろに来ると、自分も荷物を下ろした。
「あなたがパートナーだったのなら、断ったらよかった」
 "狙撃者"は怪訝な顔つきで、振り返った。
「"管理者"から……「0」から何も聞いてなかったのか?」
 普通は、知っているものなのだろうか?
「何も。知らない」
 何か、得心がいったように、青年はうなずいた。
「面識さえ無いもの」
「それは当然だ」
 "狙撃者"は灰色のブレザーを脱いで、荷物の上に放り出した。
「"管理者"「0」は暗殺部門を司る、組織の最高幹部の一人。俺以外にも何人も"狙撃者"
はいるが、誰も会った事がない。顔を見た時は、死ぬ時だからだ」
 少女は、あの無線機の向こうから聞こえた、「0」の声を思い出した。感情を感じさ
せない、あの冷たい声を。その声の持ち主に会った時、自分は死ぬ……。あまり想像が
つかなかった。
「被害妄想らしい、せりふね」
「光栄だね」
 彼女があまり本気にしていないのが伝わったか、青年はまた背を向けてしまった。彼
の後ろ姿の向こう、窓の外には雨が一晩中やみそうもなく、降り続けていた。
「だめだな。全然だめだ」
 警備ブースの隅で、座り込んでタバコをふかしている小原に向けて、暮井は聞こえよ
がしに言ってみせた。
「あきれたぜ」
「何がだめなんだ」
 小原は吸殻を床に捨てると、手元のクリップボードの書類に何か書き込んでいる暮井
に向けて、聞き返した。
「俺たちはここのサツだぜ?」
 おそらく宿直状況の報告であろう書類から、暮井は顔もあげようとせずに答えた。
「それだ。そのサツが、巡回もしないでさぼってやがる」
「さっき回っただろう」
「女生徒のところだけだ。おまえの代わりに働いても、私の給料は増えない」
「いいじゃねえか」
「……報告する」
 暮井に取り合おうとせずに、二本目のタバコに火をつけようとしていた小原は、突如、
血相を変えて立ち上がった。猛然と歩み寄り、暮井からクリップボードを奪い取ろうと
して、片手をかける。が、暮井も両手でしっかりと持って、離そうとしない。
「なんだと、てめえ」
「教頭に報告するんだよ」
 そのままの姿勢で、二人はしばらくにらみあった。
「覚えてろ」
 先に小原が根負けし、手を離した。
「くそったれが」
 小原はうなった。
「てめえも、あのガキも、教頭も……全部fuckしやがれ!」
 再びブースの隅に戻って、タバコを……いや、今度はコカインの粉を出して、吸い始
めた。暮井は鼻で笑うと、書類に何か書き込んだ。
 ペントハウスの照明を消すと、"狙撃者"は自分の荷物を空けた。鞄の中からケースを
取り出し、フタを開ける。中には、前回の任務でも狙撃に使用した銃、「AMAC 5
0口径 狙撃ライフル」がいくつものパーツに分解されて収納されている。このライフ
ルは、最初から一発必中の長距離狙撃のために作られたライフルである。九百mを軽く
越える射程をもち、すでにバトルプルーフ済み(戦場で実際に使用され、性能が照明さ
れた)の狙撃銃で、「スクール・ウォーズ」では中東の学生が使用し、素晴らしい性能
を発揮した。
 "監視者"も、鞄を開き、プロペラの付いた風力計を取り出して、窓際に設置した。
「予習しとくか」
 "狙撃者"は部品を取り出し、念入りに調整しながら組み立て始めた。銃本体に、部品
を銃身、銃口の順で取り付ける。
「必要ないわ。完璧よ」
「本当か?」
 どうも、さっきから子供扱いされているようで、それが少女には気にいらない。確か
に前回の任務の時は、ほとんど何も出来なかったが、今は違うのだ。年齢も、同じ高校
生なのだから、そう変わらないはずなのに……。と、そこまで考えたところで、ふと少
女は青年の横顔を振り返った。そうなのだ。どう見ても、二十歳は越えている。子供ら
しさなんてものが、欠片もない横顔だ。
「ね、あなたも転校手続きはしてるの?」
 そうでなければ、わざわざ制服を着ているはずがないのだが、少女は尋ねた。青年は
突然の質問に、少し面食らったようだったが、うなずいた。
「学生証、持ってる?」
 カッターシャツの胸ポケットから、青年は定期入れを取り出すと、少女に向けて放っ
た。写真付きの、アルゴンキン・ハイスクールの学生証が入っている。名前と年齢もそ
こに書いてあった。村瀬雅司、十八才。
「なにこれ、大嘘じゃない! バレバレって感じ? その顔で、村瀬雅司、十八才? 
なに考えてんの?」
「うるさいぞ。どうせ偽名だ。何だってかまわんだろう」
「それはいいけどさ。十八ってのはメチャクチャだよね。ホントは、二十一ぐらいって
感じ? ブレザー、さっさと脱いで正解。全然、似合ってないもん」
「やかましい! そのしゃべり方、やめろ!」
 どうも図星をさされたらしく、青年は怒ってしまったようだ。学生証を取り返すと、
向こうを向いてしまった。変な言葉遣いでからかった事を、少女は少し反省した。
「じゃあ、高校は出てるの?」
「いや」
 背を向けたまま、少女の問いに青年は首を振った。
「十二歳の時に、戦争が始まった。中学も卒業してない」
 振り返って、"狙撃者"は自嘲気味に吐き捨てた。
「教師どもを殺してる内に、「お勉強」もしないままこんなに年を喰った。それなのに、
今だに学校に関わってる。何でだろうな」
「……ごめん」
 しばらく、二人は手元の道具に目を落とすと、それぞれの作業を続けた。
「ここのネタは?」
「……宿直の教師が二人よ。新任の国語教師と、さっきの馬鹿の数学教師」
「……」
 沈黙が流れた。"狙撃者"は無表情にライフルを組み立て、"監視者"の言葉にも反応を
見せなくなっていた。
「これを知ってるか」
 人にはそれぞれの事情というものがある。戦争の時は特にそうだった。それをちゃか
した事を後悔していた"監視者"に、気を取り直したかのように"狙撃者"が声をかけた。
長大な銃弾を手渡してよこす。受け取りながら、"監視者"は答えた。
「タングステン・カーバイド製の五十口径弾。破壊力が強くて、対重装甲用。もともと
は戦車、装甲車両、航空機に搭載されていた、重機関銃M2ブローニングに使用されて
いる12.7==弾を長距離狙撃用のライフルに転用したもの……合ってる?」
「正解だ。撃ってみるか」
「私は"監視者"よ」
 少女の差し出した弾を受け取って、"狙撃者"は首を振った。
「それは忘れた」
 今夜、何度目かの見回りに入ろうとして、校舎の外に出た暮井は、空を見上げた。今
だに雷光が閃き、大粒の雨が降り続けている。その威容を誇る「アルゴンキン・ハイス
クール」の校舎は、雨に打たれる骸骨のようである。
「骸骨か」
 そんな事をつぶやいていた暮井は、校舎のてっぺん、女生徒がいるはずのペントハウ
スが、明かりが消えて真っ暗になっている事に気付いた。
パソコンを、真っ暗な中でやる事はない。暮井は、レインコートを翻して、ビルの中
に戻った。
「小原、ペントハウスが真っ暗だ」
 が、警備ブースの前まで来て、足を止めた。
 小原が座っていた。ブースの中ではなく、その手前、玄関ロビーの空間、その真ん中
に椅子を引っ張り出し、入り口、暮井が立っている位置に背を向けて座っていた。
「……なにやってる?」
 困惑気味の暮井の質問に、小原はこう答えた。
「あいつらが来た」
「誰だって?」
 振り返らないまま、小原は宙に向けて言った。
「俺のダチだ」
 しゃっくりをしながら、ゆっくりと立ち上がる。息が荒い。
「この学校で、勝手な真似はさせねえ。野郎ども、新入りに挨拶しな」
着ていた青のジャージを脱ぎ捨てる。その下には何も着ていない。が、日焼けしてい
ない不健康そうな肌の上で、蠢いている物があった。
 蜘蛛が、無数の青一色の蜘蛛が、小原の背中を這い回っていた。人の拳ほどもあるよ
うな巨大な物から、豆粒のような小さな物まで、大きさも千差万別、それらが獲物を狙
うような紅い目で、一斉に暮井を睨んだ。小原が振り返ると、蜘蛛どもはそこにもいた。
青白い胸板、腹に、背中とほぼ同じだけの数が息づいていた。小原はそいつらを、さも
いとおしげに撫でまわしながら、暮井に歩み寄って来た。
「……本物みたいだな」
 冷めた声を暮井が発した途端、その場に出現していた幻影は破られた。蠢いたかのよ
うに見えていたそれは、小原の肌に彫り込まれた入れ墨だった。確かに真に迫る出来で、
間近で見ると、青一色で彫られた蜘蛛本体にそれぞれ、八つの紅い目も彫られている。
「こいつらが、女を一人にするなと言ってる」
 何かに憑かれたような目で、小原はそれだけ言うと、ブースの方へ歩きだした。
「女生徒を調べた方がいい」
「俺が調べた」
 不気味に笑いながら、隅に置いてあるロッカーを開ける。
「ガキだが、俺の好みだ」
 中から防弾チョッキを取り出しながら、小原は暮井に向けて、また笑った。先ほどま
でもそうだったが、今はさらにハイになっているようだ。コカインのせいだろう。時折、
目の焦点が合わず、虚ろな表情をする。
「おめかししなきゃな」
「防弾着なんか着て、いったい何をやらかすつもりだ?」
「ヒヒヒヒヒ」
 小原は素肌にじかに防弾チョッキを着込むと、その上にさっき脱いだジャージを羽織
った。
「護身用さ。引っかかれると、困るだろ?」
 帽子を取り、礼をして見せる。
「楽しんでくるぜ。喜ぶぞ」
 そう言い捨てて、小原はエレベーターの方へ向かった。暮井はそれを目で追うと、側
の柱にもたれかかり、難しい顔で腕を組んだ。
「ようし」
 狙撃用ライフルが組み上がり、窓際に設置された側で、カッターシャツも脱いでカー
キ色のランニングシャツ一枚になった"狙撃者"はうなずいた。パーツの最後の一つ望遠
スコープを、キャップを外してセットする。
「標的は午前八時に、正面の橋を渡る」
 そう言って、窓の正面、雨の向こうに見えている大きな川と、それを横切る高速道路
を左から右に指さしてみせた。ガラス越しに見た正面の視界で、四車線の大きな高速道
路が左奥から延び、途中でカーブを描いてこちらの視界を右に横切っている。方角でい
うと、このビルが南東向きなので、東から延びた道路が途中でカーブして西南西に延び
ているかたちになっている。
 距離は遠いが、標的の車はかなりの時間をかけて、こちらの視界を横切ることになる。
狙撃にはうってつけのポイントと言えた。
「予想距離を出せ」
 "狙撃者"の右側に座っていた"監視者"は、風力計の側に据え付けた双眼鏡をのぞきこ
んだ。問題があるとすれば、やはり距離だ。
 赤外線装備なので、雨が降ろうが夜間だろうが、よく見える。緑色の視界の中に、幾
つもの照明に照らされた高速道路が浮かび上がった。視点を奥から手前にずらすと、距
離計のデジタル表示がそれにつれて動く。
 狙撃に最適なのは、やはりカーブを曲がって直線に入ったところから、もっとも近づ
くまでの間だろう。その間の距離を測定する。
「1800mから1600m」
 "監視者"は顔を上げた。
「難しいわ。距離がありすぎる」
 「AMAC 50口径 狙撃ライフル」の最大射程は、3000mと言われている。が、
距離が遠くなれば弾道はぶれて狙い通りにはいかなくなるし、当然、威力も落ちる。今
度の標的は車なのでサイズは大きいが、当たればいいというものでもない。まず機関部
を撃ち抜いて移動を封じ、第二射、第三射で中の人間が脱出する前に車ごと破壊しなか
ればならない。移動しているところを撃つ第一射が、やはり難しい。普通の乗用車のボ
ンネット程度なら、破壊力的には問題ない。が、確実に命中させるという点において
は、やはり1200mまでの距離であってほしいところだ。
 だが、"狙撃者"は特に困った様子もなく、そうか、とうなずいただけだった。不意に、
ブレザーを拾って立ち上がる。
「屋上に行く」
 そう言って、テラスを降りようと階段の方へ向かう。
「ちょっと待って。何のために?」
 呼び止める"監視者"に、青年は面倒そうに振り返った。
「上を調べておくのは、常識だ」
「また、被害妄想? それなら、私の仕事よ」
 "監視者"は立ち上がった。"狙撃者"は狙撃だけに専念すればいい。こういった事は、
バックアップ要員がやる事である。
「銃を返して」
 しかし、"狙撃者"は首を振った。
「銃だって? 何の事だ? 記憶にないがな」
 ため息をつく"監視者"を尻目に、階段を降りて入り口の方に向かう。途中で振り返っ
てこう言った。
「こんなことわざがある。「被害妄想の奴でも、殺されない保証はない」」
「それって、ただの冗談でしょう。そんなことわざ無いわよ」
「なに!?」
 確かに、そういうことわざはない。が、"狙撃者"はそうは思っていなかったらしい。
 少女はテラスの端にしゃがみ込んで、"狙撃者"を見おろした。
「古いジョークよ」
「そうか……」
 青年は肩を落とした。
「教訓めいたセリフだから、ことわざだと思っていた。面白くない冗談だな」
 こんな事に教訓を感じる方がどうかしている、と少女は思ったが、口には出さなかっ
た。
 "狙撃者"はブレザーを肩にかけて、少し落ち込んだような感じで、ペントハウス
から出ていった。"監視者"はそれを目で追ってから、もう一つため息をついた。
続きへ。