かれこれ三十分、延々と続く一面の麦畑を少女は走り続けていた。追ってくる敵の気
配はなかった。だが、要人を狙われたPTA側の部隊と、この地域での覇権奪回を狙う
教師側の部隊が、この間にも周囲で展開しているはずだった。それでなくとも、この地
域は今だ紛争が続いている。狙撃が失敗した以上、一刻も早くこの地域から脱出する必
要があった。
 麦畑を抜けた先に、すでに廃屋となった農家がある。作戦開始前に、"監視者"はそこ
で"狙撃者"と落ち合い、倉庫に予備の武器や携帯用食糧、無線機などを隠していた。と
りあえず、「0」と連絡を取らなければならない。"狙撃者"の立っていた螺旋階段の頂
上に、ヘリが突っ込み炎上するのが見えた。おそらく彼は生きてはいないだろう。ここ
から先、たった一人で脱出しなければならない。
 ようやくたどり着いた廃屋の倉庫に、"監視者"は駆け込んだ。ずっと握りしめていた、
もうすでに弾切れになっている拳銃を投げ捨てると、隅に一つだけ置いてある木の箱に
走りより、かぶせておいた布を取り除け、中のリュックサックから携帯用の無線機を引
っ張り出す。
「こちら、イーグル2、「0」、応答願います!」
 息を乱しながら呼びかける。ややあって、応答があった。
『私だ』
「現在、第一地点。周りは敵だらけです! 指示を……!」
 その時、気配を感じる間もなく、背後から男の手が伸びてきて彼女の口を塞いだ。続
いて無線機がひったくられる。
 振り返った背後に、死んだと思った青年がいた。
「脅かさないでよ!」
「驚いてるような暇はないぞ」
 "狙撃者"は無線のスイッチを切ると、倉庫の隅に放り投げた。
「いいか。無線はまずい」
 "監視者"は安堵のあまり、床にへたり込んだ。すでに着ているセーラー服は埃まみれ
の汗まみれである。見上げた先の"狙撃者"もそれは同じだ。学生服の上着は、あちこち
が擦り切れている。
 うざったくなったのか、青年は学生服の胸元に両手を掛けると、左右に引っ張った。
既に消失していた第一ボタン以外の、五つのボタンがちぎれて吹き飛ぶ。用済みになっ
た上着は、その場に放り捨てられた。
「狙撃は敵にばれていた。陰謀でなければ盗聴だろう」
「陰謀? どういう事?」
 "監視者"には、"狙撃者"の言う事が解らなかった。まさか、味方から命を狙われてい
るというのか。
「……信用は命取りだ」
 中に着ていたカッターシャツも脱ぎ捨てて、カーキ色のランニングシャツ一枚になっ
た"狙撃者"はそれだけ言うと、予備の武器を調べ始めた。
「顔を拭け」
 少しして青年が荷物の中にあったタオルを、少女に向けて放った。
「ありがと」
「……キャリアはどれくらいだ?」
 疲れきっておとなしく顔を拭く"監視者"に、"狙撃者"が尋ねた。ためらったが、少女
は正直に答えた。
「本当は、これが初仕事なの。高校に入ったばかりよ」
「……やれやれ、まいったな」
 それほど経験はないと思っていたようだが、まさかファースト・ミッションとは思っ
ていなかったらしい。青年は困ったような顔をして、箱に座り込んだ。頭を掻いて、本
当に困惑しているようだ。作戦が始まって初めてみせる、"狙撃者"のそんな表情に、少
女は少し微笑んだ。
「いいか、新入生」
 "狙撃者"は落ちていた"監視者"の拳銃を拾うと、新しい弾倉を込めて差し出した。
「生き残りたければ、俺の指示に従え。十二時間以内に、第二地点まで行くぞ」
 荷物をまとめて立ち上がる。予備の武器、弾丸、全て大きな鞄一つに詰め込んでいる。
「わかったわ」
 銃を受け取って立ち上がりかけた"監視者"は、手の中のタオルに目を落とした。返り
血であろう黒い染みが、幾つもついていた。
「さっき、初めて人を殺したの」
 その時は、自分でも驚くほど冷静だった。完全に組織での訓練通りやれたと言ってい
いだろう。だが、今はそうでもない。至近から銃弾を受けた兵士の血が、頬にかかった
瞬間の記憶が、生々しく甦っていた。
「正当防衛だろう」
「あなたは、平気だった?」
「俺の時は戦争だった」
 戦争とは、二年前に終結した「スクール・ウォーズ」の事だろう。その時、"狙撃者"
は何歳だったのだろうか。十八歳、十五歳、それとも十二歳?
 歩きだしかけていた"狙撃者"は、途中で振り返って付け足した。
「あの戦争は敵がはっきりしてた。教師とそれに味方する奴だ」
 そのまま再び歩きだし、倉庫の外へと消える。
 "監視者"も自分の荷物を抱え、後を追おうとした。その時、床に放り捨てられた無線
機が目に入った。彼女は一瞬ためらったが、"狙撃者"に見られていない事を確かめると、
それを拾い上げた。
続きへ。