夜明けの光が、校舎を照らし出していた。数時間前までは闇に沈んでいた、今は使用
されていないこの古い建物の中に、二人の人間がいた。
 打ち続く紛争のために疲弊し、廃校となった学園。かつて、校庭を彩った木々も枯れ
果て、戦乱を演出した教師も、生徒も、今はいなかった。学園の支配の為に、ただそれ
だけの為に生徒を縛りつけんとした教師達。その体罰による支配に、暴力を持って対抗
した生徒達。その争いの最中、どちらにつくでもなく自分達の子でもある生徒を縛り、
教師を攻撃しつづけた地域の父兄達。その全ては死に絶え、今や名前すら忘れ去られた
この学園には、そのどれにも属さぬ二人の人間がいるばかりだった。
 コンクリートの校舎は朽ちかけていたが、その脇に設置された剥きだしの鋼鉄製非常
階段は、いまだ無傷のままであった。本来その階段の頂上は、校舎の屋上につながって
いるはずであったが、当の屋上の一部が損壊しているため、螺旋状になったその階段だ
けが直立している格好になっていた。その頂上に、彼らはいた。
 頂上といっても、上に屋根はある。そこは丁度、円塔の最上階になっていた。その陰
の中に、一組の男女がうつ伏せになっていた。どこかの高校の制服だろうか、紺の学生
服を着た人並外れた長身の青年。それと同じ学校の制服であろうセーラー服を身につけ
た少女。二人は同じ方向を向いて腹ばいになっていた。
 少女は自分の目の前に据え付けられた双眼鏡を、一心にのぞき込んでいた。そして青
年は、彼の前に置かれた巨大なライフルの照準に目を合わせていた。
 1m以上あるであろう鈍く光る銃身。その横に取り付けられたおおよそ10==の長さ
の、五発の弾丸。そしてその50口径の銃口の先、約1.6==の地点を彼らは見ていた。
 人の気配のない校舎付近とは対照的に、そこにある広場には朝早くから市が立ち、地
域の住民の持ち寄りによってバザーが行われていた。
 今からおよそ八年前、世界はかつてない戦乱に見舞われた。世界各国の中学、高校な
どの学生が、水面下で連絡を取り合い、世界規模で教師、学校、ひいては教育制度に対
して反乱を起こしたのである。
 鞭、正座、運動場、竹刀、バリカン、通知表、内申書、そういった物を振りかざし、
「血」によって生徒を支配してきた教師達は、生徒達が校内に持ち込んだ「鋼鉄」によ
って、その支配に終止符を打たれた。
 銃の前には、もはや校則違反などというたわごとは通用しなかった。校則、規則、遅
刻、服装違反、無断欠席、不純異性交友、そんな言葉を口にだした瞬間、その教師は鉛
の弾をぶちこまれてあの世行きになった。
 現在の教育制度が確立されて以来、百数十年間、それはたまりにたまった学生達の怒
りであった。鞭打たれ尻を腫れ上がらせた生徒、長時間の正座で脚が痺れた生徒、炎天
下を走らされ日射病になった生徒、竹刀で殴打され脚を折られた生徒、バリカンで無理
矢理に二枚刈にされた生徒、通知表の先生からの一言欄に「協調性が足りません」と書
かれた生徒、内申書を盾に取られ生活のためのバイトをやめさせられた生徒、脚が不自
由だったため入学を断られた生徒、校門に頭を挟まれて死んだ生徒、烏竜茶一杯もらっ
ただけで夏の暑い盛りにコンテナに閉じこめられ脱水症状になって死んだ生徒、同級生
によって体育館のマットにくるまれ窒息死した生徒、教師からも親からも同級生からも
見捨てられたった一人首をくくった生徒、彼ら全ての無念が、怒りが、哀しみが、つい
に爆発したのだ。
 学園は戦場となった。「教育の血」を求める生徒に対抗するために、教師も銃を取っ
た。殺戮が殺戮を呼び、憎しみの炎は地域、父兄、PTAにも飛び火した。もはや戦い
は「生徒」と「教師」という単純な対立の図式にとどまらなかった。生徒を理解しよう
とする教師、教師に同情する生徒、そんな曖昧な態度を示した者達は、同じ仲間である
はずの教師、あるいは生徒の手にかかった。学校をステータス・シンボルとしてしか見
なさなかった親、子供を自分の引いたレールに置いた親、学校主催の盆踊りの練習に嫌
がる子供を無理に連れて行った親、彼らも皆、戦いに、怒りの渦に巻き込まれ、そして
死んで行った。
 戦争は泥沼の様相を呈したまま、六年間続いた。結局、戦いの決着はつく事がなく、
日本における「文部省爆破事件」を最後に、暫定的にではあるが和平条約が結ばれた。
 現在、世界の学園は平和を取り戻したかに見えている。だが、学校も教育も戦いによ
っては何も変わらず、学生達の痛みは、流された多くの血によっても癒されはしなかっ
た。今だ一部の国では、紛争の絶える事はない。
 しかし、戦争に参加する者全てが、何らかのイデオロギーに属しているわけではない。
ただ利益だけを求めて戦火を拡大させる者も多くいた。彼……学生服の青年も、その一
人だった。正確には、彼の所属する組織が、である。組織は、戦争が終わった今になっ
ても、紛争の続く国に工作員を派遣し、また紛争のない国でも新たな火種を蒔かんとし
ていた。 青年は組織の"狙撃者"の一人だった。彼は紛争の続くある国のある地域に、命
令を受けてやってきていた。
 標的は、今、早朝から開かれているバザーに姿を見せるはずだった。
「距離は?」
 青年はスコープから目を離さず、隣で双眼鏡を覗いている少女に尋ねた。
「1600m」
 少女も双眼鏡から目を離さず、事務的に答えた。
 組織では、狙撃は一人では行わない。"狙撃者"には必ずバックアップ要員が付き、任
務は二人一組で遂行する。バックアップ要員に課せられた任務は"狙撃者"のサポート、
護衛、そして不能になった"狙撃者"の抹殺である。
 現在では「スクール・ウォーズ」と呼ばれているかつての戦争では、参戦した者の多
くが人間としても兵士としても未完成であった。複雑な任務をこなす能力もなく、躊躇
わずに敵を撃つ非情さも持ち合わせていなかった。思想に関係なくプロとしての仕事を
求める組織は、苦肉の策としてこの方法を発案したのである。もし"狙撃者"がミスを犯
した、あるいは情に惑わされたとしても、すぐにそれを清算できるように。
 幾人もの"狙撃者"が相棒の手にかかった。バックアップ要員にとっての最大の任務は
それであった。いつしか、彼ら(あるいは彼女ら)は"監視者"と呼ばれるようになって
いった。
「風は?」
 "狙撃者"の問いに、"監視者"である少女は双眼鏡から目を離すと、非常階段の柵の隙
間から空に向かって伸びている風力計に目をやり、続いて手元のデジタル表示を見た。
「中くらいの横風、東から9m」
 再び双眼鏡を覗き、
「右に6==の微調整」
と、告げた。
"狙撃者"はそれに応じて照準を調節した。
 二時間程前から二人はこの位置につき、微動だにしていなかった。不用意かつ無駄な
動きは、狙撃者の存在を敵に知られる原因となる。しかしこの時、"狙撃者"が動いた。
這いつくばっていた身体を起こし、さも疲れたというように腰を伸ばす。目をしばたた
かせ、大きく息をつく。その全く周囲を気にしないかのような無造作な動作に、"監視者"
がとがめだてるような視線を向けた。が、"狙撃者"は意に介した様子もなく、振り返っ
て階段の下を確認した。螺旋の中心を、金具の付いた太いロープが下に向かって垂れて
いる。非常時の脱出用である。
 広場の方で動きがあった。一台の周囲に護衛のついた車が到着し、バザーに集まって
いた人だかりが、一斉にそちらの方に流れていった。車のドアが開き、中からスーツを
着た中年の女が出てきた。群衆に歓呼の声で迎えられている。
『「0」より「イーグル1」「イーグル2」へ。標的が到着した』
"狙撃者"と"監視者"、二人のかけたレシーバーから、突然、男の声が響いた。
 イーグル1、イーグル2というのは、任務に携わる人間に与えられる組織のコードネ
ーム。そして、「0」というのは任務に関連した指令やGOサインなどを出す、"管理者"
の暗号名である。おそらく彼も、この近辺にいるはずである。
「イーグル2、了解しました」
 "監視者"は通信に応答すると、今だ座ったままの"狙撃者"に、もう一度目をやった。
「イーグル1、了解」
 "狙撃者"は無表情に応答し、ようやくライフルの照準を覗き込んだ。
 車から降りてきた女は、数人のマシンガンを持った護衛を付き従えて、歓声に応えな
がら群衆の中をかき分けて進んでいた。"狙撃者"のライフルの照準が、正確にその軌跡
を追う。照準が一瞬、女を通り過ぎ、広場の端にある壇上に合わさった。直後、護衛か
ら離れた女がその上に上がる。
『やれ』
 "管理者"からの通信が入った。任務遂行の時である。
 ゆっくりとした動きで、"狙撃者"はライフルの横に取り付けられていた銃弾を一つ外
し、装填した。照準が、女の顔の中心に合わさる。「距離は?」
先ほどと同じ問いだが、正確な距離と風をもう一度測り直す必要があった。狙撃には
正確さが常に求められる。
「1680」
 双眼鏡のスコープのデジタル表示を見て、"監視者"がそう告げる。
「風は?」
「東から5m。左に微調整、1==」
 答えに合わせて、照準が微妙に調整される。『撃て』 
 三度目の通信。"狙撃者"はスコープから目を離し、手元を見た。一枚の写真が置いて
ある。写っているのは二人の人間、後ろ向きで顔は見えない男と、何かを声高に喋って
いるような中年の女である。女の方は、今まさに、広場の壇上で演説を始めた人物だっ
た。
「標的に間違いないわ」
 少し苛立ったように"監視者"が言った。作戦の開始前に二人とも写真を渡され、それ
を穴の開くほど眺めたはずだった。今更、間違えるはずもない。もっとも、標的につい
て知っているのは顔だけである。経歴その他、詳しい事は何も知らない。ただ狙撃だけ
を命じられて、二人はここに来ていた。むろん想像はつく。この地域では、戦争の後、
学生側と教師側が共倒れになる形で勢力を失い、主導権をPTAが握っていた。標的は
おそらく、その要人であろう。
 ……そんな事に意味はなかった。標的は現れ、弾も込めた。後は撃てばいいのだ。
『撃て』 
四度目の通信。
「青信号。……進めよ」
 その時、壇上の標的が群衆の中の一人から赤ん坊を受け取った。何やら話しながら、
高々と掲げる。
「赤信号だ。撃てない」
 "狙撃者"が呟く。
『何をしている、イーグル1。撃て』
五度目の通信。かすかに苛立っているような響きがある。
「障害物です、0。……早く撃って!」
 言い訳にはならないはずだった。数秒後に実証されるであろうライフルの威力は、赤
ん坊など簡単にぶち抜いて、標的の頭すらも粉々にするだけのものがあるはずなのだ。
「撃てない」
 だが狙撃を促す"監視者"に、"狙撃者"はその科白だけを繰り返した。
『イーグル2、イーグル1は不能だ。殺せ』
六度目の通信に応え、"監視者"は腰の拳銃を引き抜いた。
「何やってんのよ、早く撃って!」
 起き上がり、"狙撃者"に突きつける。
 照準の中では、すでに女は赤ん坊を手放していた。しかし、それでも"狙撃者"は撃と
うとはしなかった。スコープから目を離し、"監視者"を見上げる。そこには何の表情も
読み取れない。
『殺せ』
 "監視者"は引き金に指を掛けた。
 その時、耳慣れた音が二人の耳に響いてきた。空気を切り裂くような旋回音。戦場に
生きた事のある者にとっては馴染み深い、ヘリコプターのローターの回転音だった。
 音の発信源は、すぐに"監視者"の視界に飛び込んできた。脚の部分に六人の武装した
兵士を乗せた、小型の戦闘ヘリである。
 おそらくローター音は、少し前から耳に届いていたのだろう。だが、狙撃に集中する
あまり、気づかなかったのだ。そしていつの間にか、数十mの距離まで接近を許してし
まっていた。
 一瞬、"監視者"は自失したが、"狙撃者"はすぐに行動を起こした。素早く手を伸ばし
て自分と"監視者"のつけたレシーバーを引っ外した。
『イーグル2、イーグル1を殺せ』
通信が空しく響く。
 続いて"監視者"を抱き寄せ、階段の中心に垂らされた脱出用のロープの金具に、彼女
のスカートの上のベルトを固定する。そのまま抗議の声を挙げさせる間もなく、何もな
い空間に向けて押しやった。"監視者"は金具の摩擦によって、落下するのとは比ぶべく
もない緩やかな速度で、地上へ向かって降りていく。
 その直後、戦闘ヘリの前部に固定された機銃が、螺旋階段の上部に向けて火を吹いた。
床に伏せた"狙撃者"の頭上で銃弾が弾け、跳弾が風力計を打ち砕いた。ヘリはそのまま
周囲を旋回し、執拗に機銃を撃ち込む。だが、階段の鉄柵が邪魔をして、"狙撃者"を捉
える事が出来ない。
 地上に降り立った"監視者"は、ロープから身を離すと走りだした。瓦礫の散乱する校
庭を横切って、向かい側にある多少損傷の少ない校舎の方に向かう。
 その動きに気づいたヘリが向きを変えた。スカートと黒髪を風になびかせて走る少女
を追尾して、機銃が斉射される。校舎まではたどり着けず、"監視者"は手近な大きな瓦
礫の陰に飛び込んだ。銃弾がその上を掠めていく。
 一呼吸置いて、ヘリからロープが垂らされた。先ほどの"監視者"と同じように、それ
に身体を固定した六人の兵士が、次々と地上に向けて降下する。
 "監視者"はベルトにたばさんでいた拳銃を抜くと、障壁から身を乗り出して、降りて
くる兵士に向かって乱射した。ほとんどめくら撃ちと言ってもいい射撃だったが、一発
が兵士の一人に命中した。その兵士は態勢を崩し、ロープを操りきれずに地面にたたき
つけられた。だが、残りの五人は無傷のまま降下していく。"監視者"の第二射も、当た
らない。
 ヘリには二人のパイロットが乗っており、この時は、一人が機体の制御、もう一人が
最初の攻撃で撃ち尽くした機銃の弾倉交換を行っていた。しかし、弾倉を装填しなおし
た直後、再度の射撃を行おうとして非常階段の方を見たパイロットの目に、巨大なライ
フルを肩にかつぎ上げ、真っ直ぐにこちらに狙いをつけている学生服の男が映った。
 直後、そのパイロットの片われは、衝撃を感じる間もなく脳天をぶち抜かれ、フロン
トガラスを血で染めてのけぞっていた。ガラスのひび割れと鮮血で、もう一人のパイロ
ットの視界も奪われた。ヘリの態勢が大きく崩れる。そして、ぶらさがっている兵士達
も、その崩れた動きに合わせて振り子のように宙を走っていき、校舎の壁にたたきつけ
られた。二人がそのまま落下して、地上に激突する。
 "監視者"はその隙に校舎の中にかけ込んだ。無事に地上に降り立った兵士の一人が、
彼女の後を追って手持ちの機関銃を連射するが、間一髪で命中しない。再び物陰に潜ん
だ"監視者"は、拳銃の弾倉を込めなおした。
 螺旋階段の上の"狙撃者"も、鉄柵の陰で、素早いボルトアクションで空の薬夾を排夾
した。同じ動きで新たな弾丸を装填する。
 空中のヘリは、姿勢を制御しきれないでいた。撃たれたパイロットの血が計器を紅く
染め、もう一人の操縦を阻害している。だが、地上の兵士三人は、それに構わず行動を
起こしていた。二人が螺旋階段の方へ、もう一人が"監視者"の隠れた校舎の方に向かう。
 拳銃を構えて、建物の陰から辺りを窺おうとした"監視者"は、丁度その兵士と鉢合わ
せする格好になった。反応する間もなく、機関銃が目の前に突きつけられる。が、轟音
と共にその兵士の胸が弾けた。慌てて身をかわす"監視者"の足元に、つんのめる様にし
て倒れ込む。銃声が轟いた先、思わず"監視者"が見上げた先、螺旋階段の上の"狙撃者"
と目が合う。
 離れた位置を狙ったために、鉄柵から多少、身を乗り出すような格好になった"狙撃者"
を、真下にいる兵士の銃弾が襲った。だが、"狙撃者"は悠然としたとも見える動作で新
たな弾丸を装填すると、狙いをつけたとも見えない無造作な動きで、十数m下の兵士を
撃った。50口径弾が正確に敵兵の胸を貫く。その余りの正確さに立ちすくんだ最後の
一人も、背後に迫った"監視者"の狙いすました射撃を受けて、崩れ落ちた。
 上空のヘリは、ようやく姿勢を立て直し、再び機銃を乱射した。ゆっくりとした動き
ではあるが、螺旋階段の頂上に向けて前進する。
 "狙撃者"は、銃撃など気にもならないかのように、ヘリに正対した。自らの胸ぐらに
手をかけて、制服のホックと第一ボタンを引きちぎると、腕の中のライフルから空の薬
夾を排出し、四発目の弾丸を装填する。次第に迫ってくるヘリを見据え、まっすぐに狙
いをつける。照準が正確にパイロットの額を捉えた、その一瞬に引き金を引く。
 二人目のパイロットも失った戦闘ヘリは、完全に制御を失った。ただ慣性に任せ、黒
煙を吹き出しながら前進する。
 "狙撃者"がライフルを抱えたまま宙に身を躍らせた、その背後で、ヘリはついに爆発
した。機体はそのまま螺旋階段の頂上に突っ込み、爆炎と共に四散した。
 仮の寝ぐらであるマンションを出た青年は、どんよりと曇った空を見上げた。十月も
半ばだというのに、空を夏さながらの分厚い雲が覆っていた。
 青年の端正な面差しが、ふと険しい色を浮かべ、そして、どこか何かに飽いたような
疲れた表情を浮かべた。ゆっくりと、肩に担いだ大きなバッグを抱え直し、歩き出す。
 途切れた回想の中でとは、青年はまた違った制服を着ていた。紺のネクタイと、灰色
のブレザー。上着の胸に縫いつけられたワッペンに、校章と学校の名が彫り込まれてい
る。”アルゴンキン・ハイスクール”。
続きへ。