最終章  停止

       十月十日

 絶え間なく全身を駆け抜ける激痛、背中からあふれ出る生暖かい感触の液体。それら
全てが、今、肩を貸されてようやく歩いているだけの、景の意識を苛む。
「あいつは……?」
 今にも暗転しそうになる視界を前に向け、景はただ一つの影を捜し求める。十年前、
自分を救ってくれた少女。今夜、彼と行動を共にしていた一人の女。二つのイメージが
だぶる。が、それらは今だに溶け合わない。景は、まだ彼女の事を何も知らない。
 何故、彼女は十年前、自分を助けたのだろう。何故、今夜も彼を護ってくれたのだろ
う。ようやく思い出した十年前の保健室のイメージは、ひどく希薄だった。記憶は刻一
刻と失われるというが、まさにその通りだ。全ての出来事はつながったが、そこに係わ
った人間の心は、今だに闇の中だ。
 校舎の明かりは、全て煌々と点いていた。深夜だというのに、ひどく明るく感じる。
今、この校舎のある丘の、麓の街からも、この学校の照明ははっきりと見て取れるだろ
う。だが、それがこの中学校の最期の輝きだ。あとわずかで、この学校は、校舎中に無
数に仕掛けられた爆薬によって、炎の中に消滅する事になる。
「大丈夫、まだ時限装置のタイマーは、一時間近くあったから」
 自分に言い聞かすように、耳元で桜本が囁く。
 多岐美が地下で何人かを倒したとしても、まだ数人の教師が残っているはずだった。
だが、その残った教師たちも、どうやらこの学校に見切りをつけたらしい。逃げようと
しているはずだ。もう景たちが脱出するのを妨げる者は誰もいない。
「俺たちの勝ち……か」
 これでようやく終わる。殺人狂たちは逃げだし、邪悪な思い出の残るこの中学はこの
世から消える。
「この状況で、勝ちも何も……」
「そう、だな」
 桜本の言うとおりだ。今日も何人も死んだ。今までも何人も殺された。理不尽にも奪
われた彼らの命が、帰ってくる事はない。事実が世の明るみに出る事も、おそらく無い
だろう。今までの殺人が明らかにされなかったのだ。これからこの学校が吹き飛んでも
、明日の夕刊に、
「十年ぶりの同窓会で惨劇。ガス爆発による校舎消失!」
 といった見出しが踊るだけの話だろう。
 だが、ならばなおさら、生き延びなければならない。
本館校舎を抜け出し、二人は校庭へ出た。ナイター設備の照明が点灯し、校庭も明る
く照らされている。そこに横たわる教師と元生徒の死体五つも。
 鈍りつつある意識で、聴覚が駆けよってくる足音を捉えた。景は歯を食いしばり、そ
の方向に顔を向けた。
 その瞬間、過去の全てのイメージは、跡形もなく吹き飛んだ。今の彼女は、優美で気
高く、そして力強かった。この戦慄の学び舎において、己を失う事なく、自分の足で歩
いていた。
「掛川さん!」
 少し遅れて桜本も気づいた。
「二人とも、無事? ……怪我を!?」
蒼白になった景の顔色、背後から滴っている赤い液体を見て、多岐美は顔色を変えた

「……山野の奴にな。油断したよ」
 安堵のあまり意識が途絶えそうになるのを、景はこらえて言った。
「何人、残ってる?」
「……三人。理事長は死んでた。組織に裏切られて……」
「組織……?」
 やはりそういった物が存在したのか。校舎のこれだけの設備、それらをいとも容易く
葬ろうとする神経。巨大な財力を持った者が、やはりこの学校の裏に潜んでいたのか。

 それらによって、理事長が殺されたという事は、もう景や多岐美は少なくとも今夜は
、狙われる理由が無くなったという事だ。
聞き覚えのあるような音が、空から響いてきた。顔を上空に向けた三人に、不意に眩
しい光が降り注いだ。
「あれは……!?」
一機のヘリコプターが、サーチライトで地上を照らしながら、学校の上空、闇夜の中
をホバリングしていた。やがて、ゆっくりと方向を変え、東側の建物に向かう。
 西館校舎の、ちょうど校庭を挟んで反対側、他の校舎より低い建造物がある。その屋
上に、ヘリは着陸しようとしていた。
 四階建の、幅広な建物。今日、散々に学校中を走り回った景と多岐美が、今だに足を
踏み入れていない場所。
 体育館である。
 ヘリのローターの風圧とサーチライトから顔を庇いながら、多岐美は上空を睨んだ。

「あれで、逃げるつもりか……」
「らしい、な」
 景は弱々しく笑い、校門の方を指した。
「奴ら、尻尾を巻いて逃げる気だ。もう終わりだ。俺たちも行こう」
 そう、これで何もかも終わりだった。もう永久に、この学校ともお別れだ。かつて、
同じことを想った事がある。いつだったろう。結局、行かなかった、卒業式の日だった
ろうか。それとも、もうこの中学には二度と来ないと、最初に決めた時だったろうか。

 多岐美は、景の示す方向にある校門、そして、その先にある外の世界に目を向けた。
が、しかし、それはほんの数瞬の事に過ぎなかった。彼女は再び、上空を見上げた。
「追わないと」
「何だって!?」
 喋る度に痛みが走る。が、景は聞き返した。
「そ、そうだよ。もうじき爆弾が」
「地下でも見たよ。あと45分くらいかな」
「そんな事はいい!」
 景は怒鳴った。今はそんな問題を言っているのではない。
「奴らは、逃げようとしてるんだぞ! ほっとけばいい! なぜ、追う必要がある!?」

 視線を宙に向けたまま、多岐美は答えた。
「今、彼らを逃がすと、同じ事がまた繰り返されるよ」
「あんたは、いったい何をやってるんだ!?」
驚いたように、多岐美は景と目を合わせた。
「銃なんか持って、昔の殺しを調べて、来たくも無いはずの同窓会にわざわざ来て、ど
こまでも教師共を追いかけるだって!? なぜ、そんな事をしなきゃならない!? 俺はこ
んなところの事、思い出したくもなかった。今日ここに来たのも、ただの気まぐれだ。
十年前の殺しも、ずっと忘れてた。
 ……だが全部、思い出した。あんたが俺を守って教師を殺した事も、みんなだ。あん
たはずっと忘れたりしなかったんだろう!? もう、いいじゃないか。どうして俺たちが
、こんなに苦しむ必要があったんだ。どうしてあんたがこれ以上、下らない重荷を背負
って苦しむ必要があるんだ!
 俺のせいか!? あんたがあの時、俺を守ったりしたからなのか? あの時、俺を見捨
ててればあんたは……!」
「それ以上、言わないで」
 頭を振ると、多岐美は首をかしげ、景の瞳を覗き込んだ。
「きみのせいなんかじゃないよ。私は後悔なんてしてない」
「なら、どうして……」
 理解不能……と言うと、正確ではないだろう。なぜだと尋ねながらも、景には、彼女
の答えのイメージが、見えるような気がした。
「人間だったら当然の事……なんて、綺麗事じゃない。私は、あの時まで死んでた」
 一度、言葉を切ると、多岐美は正面校舎の西側、保健室の方を見やった。
「小学校からずっといじめられてて、私には両親もいなかったから、ずっと独りぼっち
だった。これからもずっと一人だろうから、もういつ死んでもいいって思ってた。でも
、それはやっぱりただの強がりで、私はいつも保健室で、泣いてた。
 でも、きみだけは私に声をかけてくれた。私を慰めてくれた。私に光をくれたんだ。
きみが襲われた時は、ただ夢中だったよ。でも、ぜったいにこの人だけは殺させないっ
て、その時、初めてそんな事を考えた。だから、あの先生を殺してしまった事も、悔い
たりはしてない。むしろ、きみを助けた事を誇りに思ってる。
 そのおかげで、今日まで生きてこれたんだ。これからは、私やきみみたいな、学校な
んて物のせいで苦しむ人間が少しでも減るようにって、そのために戦ってきた。これか
らも、そうするつもり。それが、生きるって事だと思う」
 多岐美は再び景に背を向け、体育館を見据えた。
「今日、私とこの学校の因縁は無くなった。でも、本当はこれからだと思ってる。今、
逃げたらこの十年間も、無駄になってしまうから」
「待てよ! それなら、俺も行く」
 息を苦しげに吐き出しながら、景は痛みと戦いつつ声を絞り出した。
「まだ、山野と水島の二人は残ってるはずだ。いくらあんたでも、あの二人相手じゃ、
かなうわけがない!」
「大丈夫だよ」
「嘘だ、サシでも危ないって、自分で言ってただろう。だから、俺も……」
 不意に、なんの先触れも見せず、多岐美は後ろ手に掌打を繰り出した。景にはその動
きがほとんど見えなかった。胸に当たるほんの軽い一撃だった。だが、その一発だけで
、景の頭には電流が走った。背中の傷口の痛みが、全身を貫く。
「……その身体で? 無駄死にするだけだよ」
 片膝を突いてうめく景の頭上に、冷ややかとさえ言える声が降ってきた。
「ぐ……!」
「私のね、わがままなんだ」
 薄れそうになる意識の中で、今までより少し明るい、多岐美の声がした。
「この大嫌いだった学校は無くなるけど、一つだけ無くなって欲しくない物があるんだ
。それが、きみ。きみは、私がこの学校でやった事が正しい事だって言える、たった一
つの
証しなんだ。だから、きみにはどこかで生きていて欲しい。きみが、私のおかげで幸せ
に生きていると知ってたら、いつだってがんばれるから。苦しくても、戦えるから」
 景は、顔を上げなかった。上げる事が出来なかった。何も、返す言葉が見つからなか
った。
「あの写真、私が持ってても、いいよね」
 なんの写真だって? 問い返す前に、多岐美は、ただ呆然と口を挟む事も出来ず聞い
ていた桜本に向けて、
「頼むよ」
 と、一言だけ声をかけた。
「う、うん」
 地を蹴る音だけが聞こえた。景がようやく顔を上げ、正面を見た時、すでに今日、彼
が追いかけ続けて来た背中は、もう小さくなっていた。

 それより少し前……。
「メール着信です」
 小脇に抱えた携帯用端末と、それにつないだ携帯電話から、不意にメッセージが飛び
出た。
「何……!?」
 宮田は驚いて、迎えのヘリを待っていた体育館の屋上から、地表に目を落とした。側
に立っていた山野も、顔色を変える。
「ど、どうしました?」
 水島だけが、この意味が分からず惚けたように聞き返した。
「やられたようですね、佐倉先生……」
 今の今まで、この学校全体は強力な電波障害で覆われていた。携帯も無線も、あらゆ
る通信手段は使用不能になっていた。それが突然回復し、外部からメールが入って来た
。それはすなわち、電波障害の発信源である、中央コントロール室のセキュリティシス
テムが、停止した事を意味する。
「馬鹿な奴だ、栄光はすぐそこだったものを……」
苦々しげな山野の呟きで、水島もこの意味を悟ったらしい。
「ぬう……」
 唸り声をあげる。
 上空から、待ち構えていた旋回音が聞こえて来た。日付が変わった時点で迎えに来る
ようにと、宮田が命じておいたとおりに、組織のヘリがやって来たのだ。
 上空に向けて手を振ると、宮田はその場に膝を突いて端末を開いた。着信したメール
を呼び出す。
「これは……!」
 宮田の顔色は、その場で急転した。最初は驚き、その後に好機をつかんだような笑み
が浮かぶ。
「どうしました?」
「……半年前、ある地方都市で、組織の工作員とある高校の校長が、会談を持った事は
知っていますか」
 突然の宮田の問いかけに、山野はうなずいた。
「噂程度になら」
「では、その工作員と校長が、会談の場で何者かに襲われ、再起不能の重傷を負わされ
た事は?」
「いえ、それは……」
 そこまでは知らなかったらしく、山野は怪訝そうに首をかしげた。宮田は続けた。
「我々組織が手を回している、地元の警察の集めた目撃証言では、現場近くで不審な女
の姿が目撃されているそうです。再起不能にされた校長の側には、これ見よがしにサン
グラスが捨ててありました。組織は、この犯人を"シェイド"と呼んで、半年間捜索して
きました」
「サングラス……? まさか、それは」
「今、入って来た情報です。目撃証言と酷似した女が、数日前からこの付近の市街で、
目撃されている、と。考えもしませんでしたよ。十年も前から組織傘下の学校のターゲ
ットになっていた女が、まさか組織本体を狙っていたとはね」
「そんな、あいつが?」
 宮田はうなずくと、立ち上がった。
「送られてきた特徴からして、掛川多岐美に間違いないでしょう。これで、今日のあの
女の行動にも、いくらかは納得がいきます」
「掛川、なぜ、奴が組織を?」
 よほど意外だったらしい。山野はうわ言のように繰り返した。水島も自分の耳を疑っ
ているらしい。
「何者なのか、何を考えているのかは、この際、どうでもいいでしょう。重要な事はた
った一つだけです」
 宮田は、二人の教師の顔を順番に見た。
「ここで"シェイド"をあなたがたが仕留めれば、組織での発言力を強化できます。組織
の刺客が、すでに"シェイド"抹殺のためにここに向かっています、が」
 普段より厳しい声音で、宮田は言い放った。
「あなたがたの教え子だ。二人で確実に始末して下さい」
「はっ!」
 組織での権限の強化。それを聞いた時、山野と水島の逡巡は消し飛んだらしい。靴音
も高らかに、宮田に向かって敬礼した。
 城之刻中学校の消失まで、残り45分。

 二階へ階段を駆け上がり、多岐美は正面入口から、体育館の中へと飛び込んだ。
「待ってたぞ」
 ほとんど予想はしていなかった。景の言うとおり、てっきり教師たちは逃げる準備ば
かりしていると思っていた。
 一周70mほどの広さの、照明に明るく照らされた体育館。その正面の舞台の上で、二
人の教師は待ち受けていた。
 風を切る音が、内部にこだまする。生活指導教師山野が、得物である血塗れの鉈を素
振りしたのだ。
「荒光の腰抜けめは、来なかったか。まあいい。おまえも弟の仇の、片割れみたいなも
んだからな」
 ジャージ姿の体育教師水島が、憎々しげに呟く。
「あの深手ではな。まあ、奴もいずれ始末するさ」
 手に持った鉈には、景の血も付いているのだろう。山野の口元に酷薄な笑みが浮かぶ

 ほぼ同時に、二人は舞台の上から跳躍した。山野は軽やかに、水島は地響きをたてて
木製の床に着地する。
「言っておくが、銃は通用しないぞ」
 山野は、鉈を目線と水平に構え、一歩一歩、歩んで来る。
「体育館で、体育教師である俺に、かなうと思うか?」
 水島も、山野とほぼ歩調を合わせ、ゆっくりと進んで来る。
「きみの言ったとおりだよ。こいつは、とんだハンディキャップマッチだ」
 必死で彼女を引き留めようとした少年、いや、今は青年か、の顔を思い浮かべ、多岐
美は独りごちた。
 次の瞬間、体育館中の空気が振動した。
「ハッ!」
 多岐美の掛け声と共に、周囲の空気が一瞬彼女に向けて収束し、次の瞬間には解放さ
れた。衝撃波が、正面に立つ教師たちの頬をなぶる。
「ふん、大したこけおどしだな」
 だが、言葉とは裏腹に、山野の額には汗が滴る。
全身の呼吸が、周囲の大気の流れのリズムと同化した時、多岐美の掌の中で、気が凝
った。
「うおおおおーっ!」
 構えを取った多岐美に向け、体育教師が突進した。同じ速度で生活指導教師も鉈を振
り上げて襲いかかってくる。
 再び大気が震えた。咆哮は邪悪なる教師との、開戦の幕開けだった。

 桜本に肩を貸され、校庭の中程まで来た時、景は体育館の方向を振り返った。
 上空を舞っていたヘリは、すでに屋上に着陸していた。だが、景の視線は自然ともう
少し下、建物の中心へと向いた。
「多岐美……」
 今、微かな空気の流れが、景の背を撫でた。同窓会の時、音楽室の前で水島兄と戦っ
た時と同じだ。多岐美が、気を解放したのだ。それはすなわち、最期の戦いの始まりを
意味する。
 当然の事だったのかも知れない。相手は教師なのだ。教師としてのプライドがあるの
なら、奴らは生徒相手に逃げる事などしないだろう。逃げるのは、いつも生徒だ。
「俺のような、弱い人間だ」
 自嘲気味に、景は吐き捨てた。最後の最後になって、何も出来ない。十年前と同じだ
った。自分はあの時と同じく多岐美に守られ、現実から目を反らしてこの学校から逃げ
ようとしている。
「あいつは……」
 半ば桜本に引きずられるような格好になりながらも、景は体育館を見つめ続けた。
 今、たった一人で多岐美は戦っている。なぜ、彼女は戦えるのだろう。傷つけられ、
辱められ、裏切られ、なぜ、それでもなお立ち向かえるのだろう。どうして、逃げてし
まわないのだろう。何のために戦っているのだろう。
 少し前に、答えは出ていた。
 正義のため、全ての人のため、この学校で殺された者たちのため。もちろん、今まで
はそれもあっただろう。だが、今だけは違う。この戦いだけは違う。
 認めてしまっていいものか、景は少し迷う。こんな事を考える事自体が、自惚れのよ
うにも傲慢のようにも思える。だが、認めなければならない。
 多岐美は今、景のために戦っているのだ。
 そんな事がある訳がないと、自分に対する自信の無さのせいにして、目を背けてしま
う事は容易い。だが、真実はそれ一つだった。
彼女は今、彼の分まで全ての罪を背負い、傷ついた景を背にかばって戦っている。こ
の学校を完全にこの世から消し去り、これ以上、景が傷つくことの無いよう戦っている
。景がこの先、重荷を背負う事の無いよう、自らの手だけを汚そうとしているのだ。
 赤の他人のため、十年前のあの日と、今夜のわずかな一時を共に過ごしただけの人間
のために、なぜそこまで出来るのだろう。愛? 友情? 親近感? どれも正しいし、
どれも違う。だが、その気持ちは今、逃げようとしている景が、多岐美に対して抱いて
いる気持ちより、ずっと強いものなのだ。でなければ、彼のために戦うことなど、出来
るはずが無い。
 いつの間にか、二人は校庭を横切り、校門の側まで来ていた。すぐ目の前には、外の
世界があった。十年前にあれほど望み、今夜、渇望し続けた外界。ようやく、出られる
のだ。これで何もかも終わる。この先の世界には……。
 ふと景は思う。この先には、いったい何があるのだろうか?
「た、助かった」
 桜本も足がふらついたか、二人はよろめき校門を横切ろうとした。
 今、外の世界に出て、この学校から逃げて、その先にいったい、何があると言うのだ
ろうか?
 その瞬間、景は感覚の麻痺しつつある全身に、鳥肌が立つのを感じた。すぐ側で殺意
をともなって、聞き覚えのある爆音が弾けた。その音を聞く前に、景は桜本を突き飛ば
していた。
 周囲の動きが、一瞬、ひどくゆっくりに見えた。数時間前、南尾進を叩き潰した巨大
な校門が、今、景に向けて突進して来た。
 景は立ち尽くした。これで何もかも終わりだと、また思った。幕引きは、哀れな不登
校児の惨めな死として、教師たちに記憶されるのだと、思った。そうなる運命だったの
だろうかと、思った。
 だがその時、眼前に迫る死の一文字を切り裂くように、一人の声が脳裏に響いた。
「君には、幸せに生きていて欲しいから……」
 景の脳裏を掠めたのは、今日までの人生全て、などではなかった。
 十年前、この学校に秘められた罪を目の当たりにした時。
 一人の少女が彼を護って、その手を教師の血で汚した時。
 今日、この学校の入口で彼女と再会した時。
閉ざされた保健室で過ごした、沈黙に満ちた時間。
 共に戦った、地下での事。
 別れ際、己を鼓舞するかのように拳を突き上げた彼女の姿。
 ……思い浮かぶのは、全て後ろ姿ばかりだった。今日、自分は彼女の背中ばかり追い
かけ続けて来たような気がする。
 そして、今しがた、必殺の危地へ、また彼を護るために飛び込んで行った彼女の背。
そのイメージが、ゆっくりと薄らぎ、今、徐々に消え行こうとしている。それが消えた
時、自分は……。
 為すべき事を悟った時、鳴り止んでいた鈴の音が、再び夜空を貫いた。
「オオオオオオオッ!」
 景は咆哮し、突っ込んで来る校門に向き直った。

 突き飛ばされて、仰向けに転んだ桜本は、目の前に信じられない光景を見た。
 爆発音と共に巨大な門扉が、凄まじい速度で閉じようとした。だが、それはおそらく
トン単位の衝撃を持っていたであろうにもかかわらず、閉まり切る直前で食い止められ
ていた。たった一人の、生身の人間によって。
「ぐうううう……」
 ミンチになる寸前で、その校門を止めた青年の背中の傷口から、まるで噴水のように
高々と鮮血が噴き出した。突進する力の行き場を失った校門の車輪が、地面のレールと
こすれ合い、耳障りな摩擦音と、火花を散らす。
「ぬうう……!」
 一度、受け止められても、校門は動きを止めなかった。さらに車輪の回転速度を速め
、あくまで通過しようとする者を叩き潰そうとしていた。だが、すでにその時、校門は
歪み始めていた。自らの勢いでではない。それを受け止めた者の力によって。
「ウオオッ!」
 青年の筋肉が、盛り上がった。捻る力が加わり、なおも回り続けている校門の車輪が
、浮き上がって空転した。幾多の血を吸ってきた悪夢の兵器は、この時、最期を迎えた
。自身を上回る常識を越えた力によって。
 高さ3m、幅10m、重さは数トンの城之刻中学の象徴は、レールから脱線し、不気味
にねじ曲がって大地を揺らしながら、校庭に倒れ込み醜悪な姿を晒した。
 今日、一番の常識外れはこれだろうか。桜本は立ち上がると、茫然と見やった。絶対
の死を、文字通りちぎって投げ捨てた血塗れの青年を。
「クックックックック」
 体中が総気立つのを、桜本は感じた。青年が不意に笑ったのだ。彼は地に伏した校門
を見下ろしたまま笑っていた。
「どこまで……」
「え?」
「どこまで性格の悪い奴らなんだ」
 彼の目は、座っていた。
「よっぽど、俺を外に出したくないらしいなあ」
「あ、あの」
「根性のねじ曲がった、最悪のクソ教師どもめ。神経科へ行け。いや、俺が徹底的に治
療してやる。もう許さんぞ。皆殺しだ」
「そ、その」
「だいたい、あいつもあいつだ。俺は血だらけだってのに、殴りやがって。そう思わな
いか?」
「え、いや」
 だが、青年は桜本の同意など、求めていなかった。
「もう、俺はキレたぜ。教師どもがそんなに俺を逃がしたくないなら、あいつがそんな
に俺を追い払いたいなら」
「え……」
「そうだ、俺は戻るぞ。こうなったら意地でも戻ってやる。誰が逃げてなんかやるか。
見てろよ、後悔させてやる。クフフフフ」
奇妙な笑い声をあげ、顔を上げた青年の顔を見た時、桜本の背に、本能的に悪寒が走
った。剣呑なせりふとは裏腹に、青年の顔は、妙に晴れ晴れとしていた。
 次の瞬間、青年の姿が視界から消えた。
「え?」
 そのまた一瞬後、桜本の鳩尾に凄まじい速度で拳が撃ち込まれた。
「な、なんで僕が……?」
 いったい僕は今日、何をしたというんだろう。てな事を考えつつ、桜本千春はあっさ
りと失神した。

「悪いな」
 一発で意識を失い、力の抜けた桜本の身体を、景は塀の外へと押しやった。彼の身体
はそのまま地面に倒れ、校門の前の坂道を、凄い勢いで転がり落ちて行った。
 坂を転げる桜本の姿が、完全に見えなくなるのを見届けると、景は体育館の方角へと
向き直った。
その場に響く涼やかな鈴の音に、景は目を細めた。右手首に付いた鈴は、今、動かし
もしないのに、世にもあえかな音色を掻き鳴らし続けていた。鈴音が一度、鼓膜を打つ
度に、それら全てが身体中の細胞に染み渡るかのような感覚が、襲って来る。
 そして全身で感じる、八年の月日が流れても色あせぬ、馴染み深い"彼"の気配。
「すまないな。もう一度だけ、力を貸してくれ」
 ささやくと、形見の鈴は、それに応えるかのように、一際大きな音色を奏でた。
 校庭を照らしている照明が、不意に全て落ちた。一瞬、周囲は闇の帳に覆われた。…
…時が迫っている。
 暗闇の中、二つの赤い光が灯り、そして深紅の軌跡を描いて流れた。二つの輝きは、
ある一つの方向に向けて走った。
 この学校全てを包む大気が、この時、震えた。

 巨大な拳が通過した軌跡、それとほぼ直角に振り下ろされてきた鉈の一撃を、多岐美
は大きめのスウェーバックでかわした。
「フゥー」
 深く息を付き、多岐美は胸の前で左右の手刀を交差させた。
「カアッ!」
 怪鳥のような叫び声を上げ、山野が鉈をかざして踏み込んで来た。多岐美の手刀は反
射的に防御の位置に上がりかけ、しかし瞬時に元の位置に戻る。
「フェイント」
 呟きながら、多岐美は膝を折って身を沈めた。果たして山野の斬撃が、彼女を追って
来る事はない。それに代わって、再び水島の拳が頭上から振り下ろされる。
 機敏な動きで、多岐美はその場で後転した。背を丸め、背後に転がる。水島の拳は多
岐美のいた空を通り抜け、体育館の木製の床板を砕いた。
「ぬう……!」
 水島は唸り、床に刺さった腕を、木屑を散らしながら引き抜いた。
「チョコマカと、ガキが……」
「まったく、よくかわす」
 明らかに水島の声は、苛立っているように聞こえる。だが、山野は違う。依然として
余裕がある。
「だがな、これは詰め将棋みたいなものだ。今はまだ詰まないが……時間の問題だ」
 多岐美は舌打ちしたいのを、ようやくの思いでこらえた。……確かにその通りなのだ

 時計を見たわけではないが、戦いが始まって、そろそろ五分ほど経つ。だが、彼女は
ここまでずっと防戦一方だった。相手を見くびっていたわけではない。が、まさかこれ
ほどとも思っていなかった。
 ……全く、付け入る隙が無いのだ。拳をかわせば鉈が、鉈をかわせば拳が。交互に、
あるいは同時に。間断なく襲いかかって来る。完璧なコンビネーションとは、この事だ
。幾度か攻撃に転じようとしたが、どうしても踏み込めない。彼女の手は、始まってす
ぐに攻撃のための掌打から、守りのための手刀に置き換えられ、以後そのままだった。

 思い切って踏み込めば、一人に致命打を与えられるかも知れない。だが確実に、自分
がもう一人から致命傷を負わされるだろう。それがわかっているから、多岐美は思い切
った攻撃が出来ないでいる。かと言って、中途半端な攻撃では、例えば水島にはダメー
ジを与えることすら出来ないだろう。音楽室前の戦いでは、気を身体の表層に叩きつけ
て無傷だった。それ以上の技で無ければ、仕留めようがない。
「どうした、掛川。先生たちが、二人掛かりで特別指導してやってるんだぞ。難しい顔
してんなよ」
 山野が手招きして挑発してくる。この教師の昔ながらのやり口だ。生徒が先に逆上す
れば、悠々と体罰を加える大義名分が与えられる。わざと怒らせようとしているのだ。

 とは言え、このまま戦っても、こちらのスタミナが先に尽きるのは明白だった。相手
は大の男二人なのだ。
「……いよ」
 多岐美は呟いた。
「何だって?」
 聞こえなかったらしい。教師二人は同時に聞き返して来た。多岐美はもう一度、同じ
ことを大きめの声で繰り返した。
「犬臭いよ。組織のペットが、文部省の飼い犬が、偉そうに何言ってんだか」
「……!」
「先生たちを侮辱するのか! おまえのような社会不適応者の人殺しが!」
 立ち上がって、多岐美は続けた。
「よその社会に適応出来ずに、他人を自分たちだけの社会に引っ張り込んで、自分たち
のいいように教育してる。そんなあなたたちが、何が先生だっていうの? まして、権
力の後ろ楯がないと、減らず口も叩けない。あげくに変態じみた殺しのゲーム。笑わせ
るよ」
皆まで言う前に、二人の教師は猛然と殺到して来た。
 多岐美の目が、一瞬、糸のように細められた。
「ハ!」
 裂帛の気合と共に、多岐美は右手の握りを掌打に変え、床に叩きつけた。気によって
発生した凄まじい衝撃が体育館を襲った。床が震動し、衝撃が木材を伝播する。
「何い!?」
 体重の軽い山野の身体が、縦揺れによって浮き上がった。辛うじて、態勢を立て直し
て立ち止まる。だが、水島一人は、揺れなど物ともせずに突進してくる。
「待て、水島先生!」
 山野が叫ぶ。だが、もう遅い。これこそが、多岐美の待ち望んでいた瞬間だった。
 二人の教師が連携を続ける限り、多岐美には勝ち目はなかった。ならば、二人を分断
してしまえばいい。先程の挑発はそのための布石だった。連携攻撃は、主に山野が自分
の攻撃を水島に合わせる形で、繰り出されて来ていた。水島が攻めれば山野が攻め、水
島が引けば山野も引く。単細胞な体育教師には、相手に合わせるような頭脳はない。挑
発によって水島だけが突っ込んでくれば、それでよし。山野がなおも合わせてくるにし
ても、頭に来た水島が行動を起こせば、僅かながらタイミングがずれるはず。
 そのタイミングを狙って、切り札の一つである"遠当て"を撃つ。後はこの通りだ。床
の震動は、わずかな連携のずれを決定的な物に変えた。
怒りに任せて振るわれた拳を、多岐美はやすやすと見切り、瞬時に水島の懐に潜り込
んだ。身長のある水島は、その瞬間、多岐美の姿を全く見失った。脇腹ががら空きにな
る。
「ハーッ!」
 気合と共に無防備な胴体に、多岐美は掌打を炸裂させた。
「グオオッ!」
 水島の顔が衝撃に歪んだ。会心の手応え……!
 これもただの掌打ではない。今までに使った気をこめた一撃を、もう一歩、発展させ
た技だ。水島の身体の表面に気を当ててもダメージがないのは、すでに実証済みだ。だ
が外側に当てても駄目なら、内側に当てればいい。掌打を直接当てる事で打点を一点に
集中し、拳法の"裏当て"の要領で、力点を体内にずらして肋骨付近で気を爆発させる。
水島の身体は吹き飛ぶ事なく、内部から破壊される。
「ガアッ!」
 水島はよろめいた、が、踏みとどまった。悪鬼の形相で多岐美を見下ろし、再度、横
殴りに拳を振るう。
 しかし、これも多岐美は計算済みだった。上体を反らして、丸太のような右腕が頭上
を通り抜けるのをやり過ごし、その腕に自ら飛びついた。
「ぬお!」
驚いた水島は、彼女を振り飛ばそうとした。だが、多岐美はその勢いさえも利用する
。体育教師の腕に両腕を巻き付けてぶら下がると、腹筋で下半身を起こし、両足を交差
させて肩口から首筋にかけて絡める。そのまま身体を捩り、水島の動きの慣性を生かし
たまま、右肩と首を極めて、ヘッドシザース気味に投げ捨てる!
 先程の遠当て並の衝撃が、体育館を揺らした。水島の身体は完全に宙に浮き上がり、
首が明らかに不自然に曲がった事によって、側頭部から床に突っ込んだ。
 右手に続いて、両脚にも完璧な手応えが伝わり、多岐美は起き上がって思わず笑みを
浮かべた。肋骨粉砕骨折、複数の内臓破裂、右肩脱臼、頸椎挫傷というところか。全く
狙いどおりだった。切り札として隠しておいた関節技も含めた、奥義級の技三つを、全
て使ったのだ。耐えられるわけがない。これで、後は一人だ。
「……痛え……」
 どこからか、声がした。多岐美は全身に寒気を覚え、慄然として飛びのいた。
 声を発したのは山野ではない。山野は、鉈をぶら下げて笑っていた。
「そ、そんな……!」
全身が破壊されるほどのダメージを受けた体育教師は、この時、ゆっくりと立ち上が
った。視線は多岐美を見てはいない。首がねじまがっているため、明後日の方向を向い
ている。右腕も、完全に外れて力無く垂れ下がっている。
 不意に、自由に動く左腕が、外れた右肩にかかった。一息だった。たった一息つく間
に、外れていた肩は元の位置にはまっていた。
 息を飲んだ多岐美の前で、水島は両手で自分の頭を鷲掴みにして、無造作に捻った。

 水島は、確かめるかのように首を上下左右に動かした。たったそれだけの事で、再起
不能になったはずの体育教師は、元の姿に戻っていた。その動きは、いっさいのダメー
ジを感じさせない。
「先生は不死身だぞ!」
 水島が目を剥き、せせら笑いながら言った。
「貴様ら生徒のレベルで、先生の事を判断するな」
 山野も薄笑いを浮かべたまま、うそぶく。
「まいったな……。これはいくらなんでも、計算違いだよ……」
 二人の教師が、再び前進を始めた時、多岐美は自分の勝機が完全に無くなった事を悟
っていた。もう二度と同じ策は使えない。銃は効かないし、これ以上の奥の手もない。
まして、助けなど……。
 ……絶望の中、ふと、一人の顔が頭に浮かんだ。
「……上出来か。きみだけは、また守れたよね」
 もう、彼は逃げ切っただろうか。多分、もう二度と会えないだろう。自分が死んだら
、彼は悲しむだろうか。悲しむぐらいなら、忘れて欲しい……。
 多岐美は首を振った。これではまた、強がっているだけだ。生き延びたかった。生き
て、彼が幸せに生きている事を見届けたかった。だが、もう駄目らしい。
 真っ正面から跳ね上がってきた水島の鉄拳を、多岐美は無意識に防いだ。衝撃が全身
を揺さぶり、身体が浮いた。
 体重の軽い多岐美の身体は、数m吹き飛んで、体育館の壁に叩きつけられた。そのま
ま、力無く床に落ちる。
「が……はっ」
 背中を強く打ち、多岐美は肺の中の息を吐き出して呻いた。
「てこずらせたな。だが、これで終わりだ」
 真上から声がして、多岐美は顔を上げた。
 水島が目の前で自分を見下ろしている。彼女の顔ほどもありそうな拳が、徐々に振り
上げられる。多分、一撃で頭蓋骨を砕かれるだろう。
 拳が振り下ろされて迫って来た時、思わず多岐美は目を閉じた。
 骨が砕ける鈍い音が、周囲にこだました。
「ぐああっ!?」
 野太い叫び声が、続いて響く。
 予想していたような衝撃はなかった。一瞬、死ぬってのにひどい声を出しちゃったな
、などと、考えた。まるで、あの体育教師みたいな声だ……。
「な、き、きき、貴様は!?」
 生徒指導教師の驚愕の叫びが聞こえた時、多岐美は目を開けた。
 水島の振り下ろした拳は、多岐美の頭蓋を捉えてはいなかった。拳は、横合いから不
意に繰り出された飛び蹴りによって、肘の辺りを蹴られ軌道を変えられていた。そして
、威力をそのままに水島自身の鼻面へと、まっすぐにめり込んでいた。骨の砕ける音は
、水島の鼻が折れたその音だった。
 涼やかな、鈴の音が聞こえた。
 その時、多岐美の目に最初に飛び込んできたのは、滴る深紅の滴だった。続いて、そ
の源が目に入った。彼女を守るように立った、血塗れの背中が。ここに来るはずのない
男の後ろ姿が。
 頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。こんな事が、あるはずがなかった。だ
から、多岐美は、彼に問いかけた。
「どう……して……?」


 顔を押さえて無様にはいつくばった水島と、呆然と口を開けて立ちすくんだ山野をね
め付けると、景は背後を振り返った。
「怪我、ないか?」
 多少はあるだろう、と思う。景が体育館に飛び込んで来た丁度その時、彼女は水島に
一撃受けて吹き飛ばされていた。ダメージが無いわけがない。
 助けに入ったのも、間一髪のタイミングだった。もう一秒遅れていたら、自分は二度
と彼女の顔を、まともな形では拝めなかったに違いない。
 振り向いた景に、多岐美は目を合わせようとはしなかった。その場にあぐらをかいて
、明後日の方向を向いている。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、わざわざ戻ってくるかな……。死にたいとしか思えないよ……」
 恨めしげなような、後ろめたげなような、そんな口調だった。景は苦笑しかけた。そ
して、言った。
「そいつは違う」
「え?」
 多岐美は顔を上げた。
「俺は、生きるためにここへ戻って来たんだ。あのまま、この学校から逃げ出していれ
ば、俺はこの先、緩やかに死んでいくだけだっただろう」
 それは、かつて多岐美が言った事と、同じだった。言葉を切り、景は微かに笑みを浮
かべた。
「借りを返すとか、そんなんじゃない。ただ、あんたが昔、俺にしてくれたように、俺
もあんたを守ってやりたい。それが、今の俺の、生きる意味なんだ」
 そっと、景は手を差し出した。
「あんたのおかげで、俺は、生きがいを見つけだした。幸福ってのは……そういう事だ

思う」
 多岐美はずっと黙っていたが、景が言葉を切ると再び目を伏せ、呟いた。
「そっか……じゃあ、何も文句を言う筋合いは、無いわけだ……」
「ああ。俺は、自分のためにやってるに過ぎない」
 景の差し伸べた手には捕まらず、多岐美は自分で立ち上がった。一歩踏み出し、景の
横に並ぶ。その時、彼女は耳元で囁いた。
「私も、今、幸せかもね」
 景は、そっぽを向いて肩をすくめた。こういうのは苦手だ。相変わらず。
「フフン、落ちこぼれが何人集まろうが、同じことだ。まとめて指導してやる」
 ようやく、山野もいつもの鼻息を取り戻したらしい。鉈を二人に突き付けて吠えた。

 多岐美はそちらに向けて、面倒臭げな視線を向けた。
「そっちはまかすぞ」
 景は一言そう言うと、傍らの床に視線を落とした。体育教師は、辛うじて起き上がろ
うとしていた。鼻がへし折れたらしく、大量の鼻血が顎や手を濡らしている。水島は、
真っ赤に染まった手のひらを見て、震えていた。屈辱感に、声も出ないらしい。
 景は、そちらに歩み寄ると、体育教師に人差し指を突き付け、言い放った。
「立てよ。貴様の相手は、俺だ」
悪鬼の形相が、彼を睨んだ。
「荒光ぅ、てめえーっ!」
 その叫びが、あまりに同窓会の時の水島弟とそっくりなので、景は内心で冷笑した。

 鈴はまだ鳴り続けていた。だが、あまり余裕のある状態ではない。背中の傷からは出
血が絶え間無く続いているし、全身の筋肉はこれ以上の酷使には耐えられそうもない、
と悲鳴を上げている。そして、学校中に山野が仕掛けた、爆薬のタイムリミット。あと3
0分程度だろうか。
「時間をかけてる暇はない。手早くたたむぞ」
 水島剛史は、歯を軋らせながら、立ち上がった。
「あまり、調子に乗るなよ。荒光」
 低く、ドスの効いた声が発せられる。
「生徒が、教師に、勝てる筈が無いんだ」
「……貴様といい弟の方といい、いったい何度、同じ事を言わせるんだ」
 景は冷ややかに言い放った。
「もう、十年も前の話だ。今の俺は生徒じゃない。貴様は骨の髄まで教師らしいがな」

「そうだ!」
 体育教師は唸った。
「俺は教師だ。絶対者なんだ! そして、おまえは聖職者殺しの犯罪者だ!」
「ああ。貴様の弟を、殺してやった」
 景が答えた時、不意に水島は後方へと、大きく跳び退った。それが助走距離をとるた
めの跳躍だと景が気づいた時、水島は目を血走らせて、突進して来た。
 身構えると、景も正面の体育教師目がけて、疾走した。
 僅かな予備動作から放たれた、お互いの右拳が、空中で激突した。水島の方が上背が
あるため、自然と打ち下ろすような形になり、景が受けにまわる。が、明らかな体格差
があるにも係わらず、景は押されもせず引くこともなく、拳を合わせたまま踏みとどま
った。
「ヌガアアアアアッ!」
「オオオオオオオ!」
 二つの咆哮がかぶさったその拳の下、景の足元の床に、網の目状に細かい亀裂が走っ
た。上方から加えられる体育教師の怪力に、体育館が耐えられなくなっている。だが、
景自身は、全く、崩れることも揺らぐ事もない。
「何だと……!」
 明らかな優位を確信していたのだろう。水島の分厚い唇から、驚愕の呟きが漏れる。
その瞬間、景は動いた。激突した拳をひっぱずし、懐に踏み込む。
 ジャージを着たがら空きの胴体に、五発のボディブローが立て続けにめり込んだ。体
育教師の身体は宙に浮き上がり、数mも吹き飛ぶ。

「あの死に損ないめ、よくも、あの傷で……」
 水島との交戦状態に入った景を横目で睨むと、山野は呟いた。
「だが、奴が水島先生に、かなうはずがない。水島先生こそ、組織最強の栄冠を担うべ
き、不死身の教師なのだからな」
「なるほど……。じゃあ、無理だね」
 多岐美が呟くと、山野は怪訝な顔を彼女に向けた。
「なんだと?」
「あの先生は、死ぬよ。でも山野先生は、それを見られない。あんたの方が、先に死ぬ
から……」
「随分、なめた口を叩いてくれるな。俺一人でも、おまえを跪かせてヒイヒイ言わせる
事など、訳はないんだぞ」
「まだ、そんな事考えてるのか。死に物狂いで来た方がいいよ。……どっちにしろ、無
駄な努力だけど」
 辛辣な言葉を吐き捨てると、多岐美は両の手刀を、胸の前で交差させた。
「ほざけーっ!」
 山野は絶叫すると、立て続けに斬撃を繰り出した。大振りの鉈が、まるで日本刀のよ
うに自由自在に変化し、八方から襲いかかる。
 多岐美は正面から迫る光の奔流を避け、後方に跳んだ。間合いが開いた時、多岐美の
スーツの肩口、パンツの腿、ブラウスの胸元の布地が、綻びる。
「チッ」
 一つ舌打ちし、多岐美は再度身構える。
「予告しよう。次の攻撃で、まずは、手首を落としてやる。その後、その手首にペンを
持たせて、俺が反省文を書かせてやる。私はこんな悪いことをしました、ってな」
 再度、鉈が閃いた。波状の斬撃が多岐美に迫る。
 その時、多岐美の左の手刀が跳ね上がった。
「な!?」
 その手に触れるかと思われた刃は、手刀によって腹を押され、受け流された。
「手首を、何だって?」
 冷たい囁きと共に、山野の胸板に、右の掌打がめり込んだ。
「が!」
 息が詰まり声を上げた山野の口元に、さらにもう一発。
 その二発で、山野はよろめき、その場に片膝を突いた。
「な、何?」
 己の顎から滴る血の滴を、山野は信じられない物でも見るような面持ちで見つめた。

「こ、こんな馬鹿な。この私が、た、たった二発で、いや、それ以前に、生徒に殴られ
て、膝を突くだと? こ、こんな事、あ、ありえん」
 その呻きに、多岐美のため息が重なった。
「動きがスッとろいよ。中学生ばかりなぶってきたから、ちょっとハングリーさに欠け
てるって事。先生、一対一の戦いには向いてないね」
 山野はよろめきながら立ち上がった。
「こんな事が……あってたまるか!」
 だが、次の斬撃の速度はさらに鈍っていた。多岐美の脳天に向けて振り下ろされたそ
の一撃は、またも素手で流された。無防備な生徒指導教師の身体に、立て続けにハイス
ピードで掌打がめり込んだ。
「つ、強い、強すぎる!」
 至近距離から撃たれた銃弾をも見切るほどの反射神経を持つ山野が、今、多岐美の動
きにまるで反応出来ない。攻撃の軌道がまるで読めないのだ。速度ではない。緩急自在
の動きが、タイミングを読みづらくしているのだ。しかも、一撃一撃が重い。その破壊
力は、普通の女のそれではない。
 山野は大きくのけぞり、間合いを取った。またも、床に膝を突く。
「どしたの? 立ってかかってきなよ」
 構えを攻撃型に変化させた多岐美は、人差し指で教師を差し招いた。その時。
 不意に山野の、鉈を持っていない左腕が上がると、そこから白光がほとばしった。
 多岐美は後方に跳ぼうとしたが、間に合わずに山野の袖口から飛び出たそれを、右腕
にまともに受ける形になった。
 金属音をたて、それは多岐美の腕に幾重にも絡み付いた。
「クハハハ、今まで隠しておいたかいがあったな。最後の最後で役に立ったぞ!」
 嗄れてはいるが得意げな山野の声が、多岐美の耳朶を打つ。それは銀色に光る、太い
鎖のついた分銅だった。
「あ、ぐ……」
 かなりの速度で放たれたそれは、相当きつく絡まっていた。多岐美の細い骨がその圧
迫に悲鳴を上げる。
「これで、もうかわせまい」
 山野は左手で袖から伸びた鎖を掴み、手前に引いた。いったい身体のどこに隠してあ
ったのか、それほど長い鎖だ。多岐美は両手で鎖をつかんだが、踏ん張れずに、手前に
引きずられた。
「ハハハハ、先生の勝ちだ!」
 山野の哄笑が、体育館を揺らした。

 分厚いゴムタイヤを殴ったような感触が残る左拳を、景はさすった。ボディの一点に
五発打ち込み、今、水島の身体は吹き飛んだ。が、おそらくダメージは与えていない。
今の五発を合わせて、ようやく多岐美の気を集約した掌打に、匹敵する破壊力を得られ
たはずだ。だが、それでは足りない。
「グフフ、こんな程度か。傷が痛んでるんじゃないのか?」
 果たして、水島は軽々と身を起こした。
 先程までの多岐美の戦いを、景は見ていない。だが、彼女の事だ。なんらかの成算が
あって戦いに臨み、それをすでに試したに違いない。景が飛び込んだ時に窮地にあった
という事は、それが通用しなかったという事だ。
「ぬおっ!」
 水島は、突然、上方に向かって跳躍した。一足で数mも飛び上がりそのまま、まっし
ぐらに景に向かって落ちて来る。考える暇も無く、景は後方に跳んだ。今まで立ってい
た場所の床を、落下した水島の脚が打ち抜く。水島は不気味な笑みを浮かべながら脚を
引っこ抜く。木屑が周囲に飛び散る。
 再び、水島は跳んだ。軽々と景の真上まで飛び上がり、落下してくる。
 景は今度は跳ばずに、一歩下がった。自分を踏み潰そうとする水島の体躯を、直前の
所でかわす。
「ぬう!」
 もう一度、水島は飛び上がった。
「ここだっ!」
 このタイミングを、景は待っていた。上昇するジャージを追うように、彼も血の軌跡
を引いて舞い上がった。落下を開始した水島の表情が、目の前に迫る拳によって引き歪
められた。景が飛翔しながら真上に向けて振り抜いた拳は、カウンターで正確に、体育
教師の顎を打ち抜いた。
 完璧な手応えを感じながら、景は着地した。床に立つと同時に、背中に激痛が走る。

「……どうだ!?」
 痛みによろめきながら、景は床に叩きつけられた体育教師を睨んだ。今の対空防御技
も、これ以上ないくらいに、完全なタイミングで入った。顎が砕けなかったとしても、
衝撃で脳が揺さぶられて、立つことすら困難になったはずだ。
 が、景はまたも目眩を覚えることになった。水島は、またも何事もなかったかのよう
に、ゆっくりと上体を起こしたのだ。
「……くそっ……」
 景は吐き捨て、身構えた。このカウンターも駄目では、もう後はひたすら殴り続ける
しかない。だが、多岐美の最大の技が通用しなかったのでは、ちょっとやそっとの攻撃
は通じないだろう。まして、もう景の身体は限界だ。
「効かんなあ。掛川といいおまえといい、こんな事で反抗してるつもりなのか? いき
がるなよ」
「やかましい!」
 立ち上がった体育教師に向けて、景は叫びざま突進した。大ぶりな拳をかいくぐり、
再び懐に入り込む。立て続けに振り回される太い腕を、容易くかわし、景は立て続けに
拳を見舞った。水島の攻撃は景の身体をかすりもしない。対照的に、景の攻撃は面白い
ほどに水島に当たる。鳩尾、脇腹、顔面、ありとあらゆる部位を捉える。
 だが、まるで効いていない。一発ごとに、景の攻撃の威力が弱まっているせいもある
が、水島にはダメージという物が存在しないかのようだ。
「どこか、どこか……」
 いくら強靭でも、相手は人間だ。どこかに弱いところがあるはずだ。真っ先に思いつ
くのは目だが、20==以上の身長差があっては、目潰しもままならない。
「うっとおしいぞ!」
 真正面から伸びて来た拳を、景は横に跳んでかわした。そのまま直角にターンし、距
離を取って背後にまわる。
「……?」
 一瞬、間が空いた。一秒ほどの空白が、戦いの最中に流れた。
 ようやく水島が背後を振り返った時、景はその原因を悟った。首の回転が遅いのだ。
多岐美が与えたダメージだろうか。水島の首は、明らかに回りにくくなっている。
「……よし!」
 鈴の音と共に、景の速度が上がった。小刻みなステップで、水島の周囲を円を描くよ
うに動く。
「ぬ!?」
 水島は景の動きを、目で追おうとしている。が、明らかに付いて来れない。やはり首
の筋が痛んでいる。
 スピードを上げた事で、さらに景の身体には負担がかかっていた。あとは残り……。

「一発ってとこか……!」
 これで仕留める。残りの力全てを、この一撃に注ぎ込む。
 完全に動きの止まった水島の背後に向けて、景は急角度で跳んだ。体育教師は棒立ち
で、反応出来ない。その首筋に向け、
「弟も首を折ってやったぜ!」
 景は絶叫すると、その場で旋回し、斜めの角度から後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
 その一瞬、あの時の感触が蘇った。水島栄吉の首の骨を砕いた時、心の奥に生まれた
歓喜。弟の物より二倍も太い水島剛史の首も、今、景の一撃によって撃砕された。
「く……クク……」
 最後の一撃を撃ち、景は受け身もままならずに床へと落ちた。俯せに床に這う。背中
の傷からの出血が、さらに激しさを増す。
 立ち上がろうとして、しかし景は脚を曲げる事すら出来ない。蹴りを放った右足は、
骨がどうかなっているのかも知れない。
 意識が朦朧となっていく。血の出過ぎだろう。死ぬかもしれない。景は目の前の床を
見ながら、そんな事を考えた。
 ふと、景は、起こるべき事が起きていないのに気づいた。自らの血の温もりを感じて
いた全身が、急激に冷えていく。
 水島兄の首を折った後、景の方が先に床に落ちた。だが、首を折られたはずの水島が
、倒れるところを景は見ていない。倒れる音も聞いていないし、倒れる震動さえも感じ
ていない。首を折られて、既に十秒ほどが経過しているにもかかわらず、水島はその場
に立っている……!
 真上からの照明の光が、陰った。やっとの思いで身体を捻って仰向けになった時、巨
大な手が伸びて来て、景の胸倉を掴んで宙空に吊り上げた。
「先生は、不死身だ……」
 斜めから見上げて来る体育教師の視線と、景の目線がぶつかり合った。直後、水島の
左拳が景の腹にめり込んだ。
「が……」
 かなり加減してあったのだろう。それ一発で、意識が飛ぶことはない。だが、それで
無くとも景は失神寸前だ。
「佐倉先生のぶんだ……」
 間を空けずに、もう一発。もう景は声も出ない。
「福井先生のぶんだ……」
 水島の声からは、一切の抑揚が無くなっていた。感情が消え去り、ただ録音してある
言葉を再生しているだけのように聞こえる。
 ……当然だろう。水島は首を傾げたまま、景の顔を、虚ろな目で見上げている。首の
骨が折れたままなのだ。いや、景の蹴りが入った時には、既にひびぐらいは入っていた
のだろう。もう、この教師は死んでいるのだ。
 命の無くなった身体を、教師としての怨念だけが動かしている。教師という生物にの
みある、本能とでも言おうか。
「生徒を支配せよ」
 そのどこかから来る命令にだけ従って、この教師は動いている。
「弟のぶんだ……」
 続けて腹に埋め込まれる拳を味わいながら、景は呟いた。
「おまえは、もう死んでるんだよ……」
 その囁きが届かない事は、知っていた。おそらく、理事長の娘が初めて生徒を手に掛
けた時、この中学の教師は全員が死んだのだ。そして、本能のままに十年に渡って殺戮
を繰り返した。
「俺のぶんだ……」
 自動人形となった水島は、なおも拳を振るい続けた。いつ果てるともなく。

 やはり、腕力が違う。
「どうした、何を嫌がってる? 先生とのスキンシップが、そんなに嫌か? 来いよ!

 5mほどの間合いは僅かずつにだが、小さく詰められていった。右腕に巻き付いた鎖
はどうやっても解けず、多岐美は否応無しに引きずられる。
「特別指導だ! 個別指導だ!」
 山野は鉈を振り回しながら、左腕一本だけで、鎖を巻き取って多岐美を引っ張り寄せ
ていた。
 左手だけでは、山野の鉈はかわせない。このまま鉈の攻撃圏内まで引き寄せられれば
、多岐美は一撃の下に切り下げられるだろう。あるいは、手首を落とされ嬲り殺しにさ
れるか。
「教育的指導だ! 生徒指導だ! 俺の指導だ!」
 叫びながら、山野はさらに強く引いた。
「くう……」
 多岐美はなおも腰をいれて、踏みとどまろうとした。その瞬間、山野は不意に鎖を手
放した。
「あっ!」
 半ば鎖に体重を預けていたため、多岐美は体勢を大きく崩してよろめいた。
「もらったあっ! 罰はこれだ、掛川!」
 山野は鉈を振りかぶり、走った。多岐美の鎖の絡んだ右腕が、それを防ぐように上が
った。鉈は、その手首を切り下げんとした。
 刹那、鎖が跳ね上がった。山野の意志によってではない。一方の端は、山野の袖の中
で固定されているが、山野はもうそれを掴んではいない。
 間合いが詰まった事によって緩んだ鎖は宙に浮き上がり、一方の端を持った多岐美の
右腕に合わせて動いた。多岐美の腕が宙で円を描いた時、その動きは鎖を伝わり、一つ
の小さな円を形作った。まるで、魔法をかけたかのように。
「……な!?」
 踏み込んだ山野の真上に、その円は落下し、鎖は首に絡んだ。
 多岐美の左腕が鎖を掴み、その左腕が鎖の絡んだ右腕と交差した瞬間、それは締まり
、山野の気管を圧迫し、頸動脈の血流を止め、頸椎をへし折った。
 馬鹿みたいに開けられた、山野の口から鮮血が飛び出た時、多岐美は悲しげに呟いた

「死んだ人間は、もう帰ってこない。これが罰では、軽すぎるだろうね……」
「そ、そんな、俺は、教師だぞ、組織が、俺の栄誉が……」
 鎖を手放すと、多岐美は首を折られてもなお立っている教師に、ゆっくりと歩み寄っ
た。

「……組織で、最も栄誉を与えられるのは、志を果たせずに死んだ人間……」
「そ、そんな!」
 不条理だ、と叫ぼうとした山野の口元に掌打がめり込んだ。
「……でも、そんな栄誉なんて、生きてる人間の自己満足。誰にだって、死は不条理な
ものだよ。その中でも、ここで死んだ人は、それを最も不条理なかたちで与えられた。
だから、せめて……」
 言葉が途切れると同時に、一切の間断と容赦のない、十数発の掌打が、山野の全身に
めり込んだ。山野の身体は吹き飛び、2m半ほどの高さにある体育館の壁の、バスケッ
トのゴールに激突した。
 首に絡んでいた鎖がネットにも絡み付き、生徒指導教師山野隼雄は、ゴールリングか
ら首を吊ってぶら下がった。
「惨たらしく、死んでいくんだね」
 山野の身体は、しばらく痙攣していたが、やがて、ゆっくりと動きを止めていった。

 鈴の音が鼓膜を打ち、多岐美は振り返った。
「……景!」
 シャツの胸倉を掴まれ、景の身体は水島剛史によって高々と吊り上げられ、力無くぶ
ら下がっていた。彼の腹部に向け、水島は単調なリズムで攻撃を加え続けている。
「俺の分だ、俺の分だ、全部、俺の分だ」
 その一撃が景の腹に食い込む度に、彼の手が揺れ、鈴の音が響く。
「くっ!」
 水島の首は不自然な方向へと曲がり、目は白く濁っている。回復不能な程のダメージ
を受けているのは間違いない。だが、それでも体育教師は動いている。多岐美は、景を
助けるべく、その方向に駆け寄ろうとした。
「来るな!」
 声がし、多岐美は肩を震わせ、立ち止まった。
「離れろ! もう、止められない。あんたまで巻き込む!」
 多岐美は戸惑い、吊り上げられたまま叫ぶ景を見上げた。止められない? 巻き込む
とは? 水島の事だろうか。それとも、爆弾の事か? 逃げろというのか?
「死ね……!」
 もう三十数度目にもなる拳を、水島が振り上げた。拳は今までと同じく景の腹に吸い
込まれかけた。が、その時、景の左手が動いた。体育教師の拳は、その左の手のひらに
よって、直前で食い止められた。
「貴様が死ぬんだ……!」
 その呟きが聞こえた時、多岐美は先程自分が抱いた疑問が、全て間違っていた事を悟
った。景の右腕がゆっくりと上がった。彼は、何かをしようとしている……いや、違う
。景の中で、何かが起ころうとしている!
 青年の右腕の鈴が、さらに勢いと音量を増して響き始めた。彼の手は全く動いていな
い。それなのに、鈴だけが鳴り響いている。
「これは……!」
 音量はさらに増し、リズムは加速度的に速くなっていく。やがて、音の切れ目は完全
に消えた。一続きの音が、鈴虫の泣き声にも似た、破壊音とも言えるその音が、体育館
中を満たす。
 多岐美は思わず耳を塞ぎ、その場に膝を突いた。
「グワ、ガワワーッ!」
 見上げた先で、その超音波の音源のすぐ側にいる水島が悲鳴を上げた。叫ぶと、水島
は右手に掴んだ景の身体を、振り回し始めた。だが、音は鳴り止まない。
「ウオオオオーッ!」
 水島は絶叫し、景の身体を上方に向けて投げ上げた。多岐美は息を飲んだ。何たる怪
力か、景の身体は20m上空の天井に、軽々と吹っ飛ばされ激突した。
 そのまま、景の身体は頭から真っ逆さまに落下する。
 ……その時、不意に鈴の音が止まった。瞬間、訪れた静寂の中、空中の景の身体が横
にねじれ、一転した。
 驚愕の呻きを上げた水島の目線の先で、景は両手両足を使い、音も無く着地した。
「な……!」
 不意に、震動が体育館を揺らした。周囲から爆発音が聞こえる。校舎中に仕掛けられ
た爆弾のどれかが爆発したのか、という考えが多岐美の脳裏をよぎった時、体育館の照
明が暗転した。
 その時、水島は見た。漆黒の闇の中、己を睨み据えて赤く輝く、二つの光を。
「ウオオーッ!」
 体育教師は絶叫した。その叫びに向けて、深紅の軌跡を引いて、獣は飛翔した。
 暗闇を、伍筋の白光が閃いた。右腕が一閃し、風が渦巻いた。瞬時に駆け抜けた残光
が、水島の顔をなめた。
 再び照明が戻った時、景の姿は水島の背後、数mの位置にあった。
「いったい……」
何が? 多岐美がそう呟きかけた時、水島が己の背後を振り返った。
「あ、お、おまえは……おまえは……俺は……子供たちに、運動を教えて……こ、ここ
は、俺は、いったい、何を……教師……栄吉……先生……やめて……」
 うわ言のようにうめく水島に、景は何事も無かったかのように肩越しに一瞥をくれ、
そして囁いた。
「反省も、詫び言も、泣き言も、恨み言も、言うべき相手は俺じゃない」
 その場で、景の右腕が水平に一振りされた。
「え……?」
 水島の額を、赤い液体が伝った。一、二、三、四……伍筋。次の瞬間、額からジャー
ジの胸元にかけて、その赤い筋は一気に太さを増した。
「そ、そんな、馬鹿なーっ!」
 体育教師の顔面に五筋の亀裂が走り、そこから一時に鮮血が噴出した。噴き出る血の
勢いに押されるかのように、水島の身体はその場で舞い踊った。両手がその血を押し止
どめようとするように上がりかけ、すぐに痙攣に支配され垂れ下がった。一度、二度と
水島はきりきり舞いを演じ、やがて、その場に音を立てて突っ伏した。
 その後、体育教師水島剛史の身体が、再び動くことは無かった。
「地獄で弟になめてもらえ。俺のくれてやった、その伍筋の爪痕をな」

 動かなくなった体育教師の屍を見下ろし、次いで景は、バスケットゴールからぶら下
がった生徒指導教師の死体も一瞥した。
 鈴の音は止んだままだった。今度こそ、本当に、力を使い果たしたらしい。鈴の音を
暴走させて一瞬の間だけ完全に理性を消失させ、獣の力を解放する、今だ使った事の無
かった最後の力。吹き上がる力は鈴に導かれて右手に宿り、その五つの爪を刃に変え、
真空の波を持って不死身の体育教師の肉体を切り裂いた。自分でも制御し切れない程の
力だった。巻き添えを恐れて、多岐美を近づけなかったのも、そのためだ。
 ……恐らくこの先、この鈴が鳴る事は、もう無いだろう。だが、それでいい。
「十年の間、ずっと、俺を守ってくれたな。……ありがとう」
 響くことの無くなった鈴に唇を付け、景は囁いた。
 人影が歩み寄って来た。景は目をあげ、この十年、彼を守り続けてくれたもう一人の
顔を見た。
 腰に手を当て、あきれたような、安堵したような、そんな笑みを浮かべて、彼女は立
っていた。上気した頬や服に血が付いている。彼女の物ではない。山野の血だ。だが、
そんな殺伐とした彩りが、彼女にはひどく似合う。
 何か言いかけた多岐美に先んじて、景はこう言った。
「あと一人だ」
 多岐美は肩をすくめた。
「調子いいよ、きみ。ついさっきまで怯えて逃げたがってたのに、変わり身が早すぎる
って、自分でも思わないかな」
「ひどい言い草だな。かなり悩んだぞ。十年、棚上げしてた分をな」
 言い返すと、多岐美は目を反らし、ため息をついた。
「そんな事言うと、十年もずっと悩んでた私が、馬鹿みたいだ」
 少し考え、景はとぼけて上を向いて言った。
「答えは最初から同じだったろう。どれだけ悩んだって、正しい答えは変わらない」
「きみが言うかな。それを」
 二人は笑い、振り向くと、舞台に向けて走りだした。舞台袖に小さな階段があり、そ
こから屋上に行ける。最後の一人、教頭宮田昌光はそこにいる。

 小さな扉を開け、屋上に飛び出すと、旋回音と強烈な風圧が、二人を襲った。
「く、しまった……!」
 すでに屋上に宮田の姿は無い。山野と水島の敗北を知り、いち早くこの学校から離脱
しようとしているのだ。
 ポケットから銃を取り出すと、多岐美は上空20mの暗夜をホバリングしている、ヘリ
に向けた。が、すぐに下ろす。
「駄目だ。こんな豆鉄砲じゃ」
「こら、簡単に諦めるな! なんて淡泊なんだ!」
「どうしろっての」
「うぐぐ……」
 景は言葉に詰まり、ヘリを睨んだまま唸った。

 振動するヘリの後部座席から、宮田は足下の校舎の屋上を見下ろした。虫が知らせた
と言うか、予想通りと言うべきか。体育館の戦いを生き残ったのは、彼の部下の教師た
ちではなかった。
 水島に山野、佐倉。宮田が自分の手駒とすべく、組織に迎え入れようとした三人の教
師は、皆、殺された。あの二人の抵抗で、穏便に終わるはずだったこの中学校の消去も
、ひどく時間がかかってしまった。とは言え、大筋に変更はない。理事長以下、組織に
ついて知り過ぎてしまっていた教師は、全員抹殺した。もう十数分でこの中学も、無数
の死体を始めとする組織の痕跡もろとも、この世から消え去る。時間的には遅れている
が、ほぼ予定通りだ。
「おい、早く離脱しなさい」
 前部座席に座っている、二人のパイロットに命令すると、宮田はシートにもたれて目
をつむった。
 荒光景と、掛川多岐美。この二人には、おそらくこの場は逃げられるだろう。だが、
組織の事後工作は完璧に行われる。警察も、この二人に手を出す事は無い。代わりに、
組織の刺客が、どこまでも追うだろう。国内にいる限り、日本中どこにでも学校はある
。どこに行こうがすぐに見つかる。逃げられはしないのだ。
 組織には、こと戦闘能力においては、山野や水島など比較にならない能力を持った教
師が、大勢いる。そして、教師が表立って動けない時のために、暗殺を目的とした工作
員もいる。
 そう、工作員。あいつなら、荒光と掛川を倒す事も、容易いだろう。あいつが来れば
……。
 宮田は思考を中断し、目を開けた。いつまでたっても、ヘリがホバリングの態勢のま
ま、動こうとしない。見ると、前の座席に座っている二人の内、小柄な方の一人が、盛
んに下を覗いている。
「何をしてるんですか? 早く……」
 言いかけて、宮田は口をつぐんだ。何か、おかしい。
「せかすなって。いずれ、標的になる奴らだ。よく見ときたいんだよ」
 男とも女とも、判別のつかない声が、小柄なパイロットから発せられた。そのパイロ
ットの、少女のような横顔を見た時、宮田は息を飲み、シートの上でのけぞった。
「た、樽谷! な、なぜ、今、おまえが……!?」
 叫んだ瞬間、目の前のシートの背を突き破って、白光が噴出した。腹に衝撃を感じ、
宮田はそのまま、自分の座った座席に縫い止められた。
「あんたは、この中学に長くいすぎた。それが、上の判断した理由。まあ、体のいいリ
ストラだな」
 己の腹部を深々と抉った、朝露のような滴に濡れて輝く日本刀の刃が、ゆっくりと前
部座席の向こうに消えて行くのを、宮田は呆然と見送った。

 上空のヘリの扉が開き、何かが外へと投げ出された。鮮血の尾を引いて、それはまっ
すぐに校庭へと向かって落ちていった。それが体育館の屋上の高さを通過する瞬間、景
はそれと目が合った。
「教頭……!」
 驚愕に縁取られたその死相を目の当たりにし、景は続いて上空のヘリを振り仰いだ。

 また、視線が合った。ヘリの操縦席から彼らを見下ろす、酷薄な笑みを湛えた目を、
景は見据えた。

「任務は完了した。引き上げるぞ」
 その人物……少年にも見えるし少女にも見える、その人影が命令すると、もう一人、
実際にヘリを操っていたパイロットである若い男は、怪訝そうな顔を向けた。
「どうして、今、ここでやらないんですか? 樽谷さん」
問われて、樽谷と呼ばれた人影は、肩をすくめた。
「噂の"シェイド"だけならともかく、あんな化け物がいるんじゃなあ。荒光景だっけ?
 あんなのが相手じゃ、いくらなんでも分が悪い」
 パイロットはそれを聞いて、おかしそうに含み笑いをもらした。
「また、心にも無いことを……」
「ほんとさ。アンも、今はやめておけと言ってる」
 ヘリは急上昇し、今いる空域から離脱するコースを取った。
「見ろ!」
 樽谷が叫んだ瞬間、眼下に広がった城之刻中学校から、無数の火柱が上がった。同時
かつ連鎖的に起きた爆発によって、三つの校舎は瞬く間に倒壊し、炎の中に没した。数
秒を経ずして、地下でも爆発が起き、校庭も真っ二つに裂けた。学校全体が、地の底へ
と没していく。
「裁きの炎だ……。こんな事が続くようなら、組織も長くはないな」
「組織が長くない……滅びるという事ですか?」
「ああ」
 窓越しに炎から目を離さずに、樽谷はうなずいた。
「組織の息のかかった学校を、こんな形で処理せざるを得なかったのは、始めての事だ
。……原因はなんだ? 十年前の中学生二人の、ちっぽけな反抗だ。たったそれだけの
事のために、この中学を消さなければならなかった。蜥蜴の尻尾切りにしては、代償が
大きすぎる。いずれ、全ての学校が、この炎に焼かれるだろうよ」
「……貴方も、それを望んでいるのですか?」
「そうさ」
 小脇に抱えた抜き身の刀の鍔を弄びながら、樽谷は楽しげに笑った。
「その方が、楽しめるってもんだ。俺たちにとっちゃ、どっちでもいいんだからな」

 かつて、彼らの母校が建っていた丘の麓で、二人は崩れゆく校舎と焼き尽くされてい
く過去を見送った。醜い思い出、老いしなびた教師たち、乾き切った同窓生たち、汚さ
れた命、侮辱された誇り、それら全てが、今、天を衝く炎によって浄化されていく。
「これで、俺たちの学校も、終わりか……」
「終わりがあるから、始まりもある。始まりがあるから、それがどんなに血腥くても、
終わりってのは素晴らしい」
 かすかな皮肉のこもった景の呟きに、多岐美は答えた。
「終わりを迎えたのが血塗れの過去だとすれば、始まるのは何だ?」
「今までの数倍にも上る死体。流される、重く濁った血潮。……ただし、奴らのね。組
織と組織にかかわる教師全て。今までに浪費された命は、彼らの命で贖って貰う」
「……それが終わるのは?」
「そう遠くない未来……だと思いたいね。全ての人が、モノとして見られる事に耐えら
れなくなった時、組織は滅びる。でも……」
「人はそれに慣れすぎ、自らさえもモノとして見ようとしている。進んで機械になろう
としている。金で命と誇りを吐き出す、自動販売機同然の存在に」
「うん……。でも、すべての人が、そうなってる訳じゃない」
「そうだな。奴らに淘汰されかけた人間は、自分が何者なのかを知っている。そして、
俺たちは、決して人を淘汰し選ぶ事を、選択しはしない。自分の弱さを、人間の弱さを
知っているからだ」
 景は、そっと手を伸ばし、多岐美の手を取った。強がってはいるが、彼は少し心細か
った。だから、こうしていたかった。もう、ほんの少しだけ。今の間だけでも、ようや
く守り切った命の温もりを感じていたかった。
「冷たいよ、きみの手……」
「……そうだな。血の出過ぎだ……」
 多岐美は彼の手を握り返し、自分の頬に当てた。しばらくそうしていた後、彼女はポ
ケットから一枚の写真を出すと、彼の手に滑り込ませた。
「やっと、返せたね。十年も借りっ放しだったけど」
 景は、その写真を見て微笑んだ。それは、今日まで彼らを守り続けてくれた彼の愛猫
の、ベッドに座って景を見上げた、十年前の在りし日の姿だった。
「悪い。俺、眠くなってきた……」
 薄れていく、いや、もうとっくに見えなくなっていたはずの彼女の姿に向け、景は囁
いた。
「寝ていいよ。もう、ゆっくり休めるのは、今しかないから」
 よろめいた景を、彼女の両腕が支えた。多岐美の肩口に頬を埋め、景はもう一度呟い
た。「あんたには、迷惑をかけっぱなしだな……」
「気づいてる? 私もそう思ってる事……」
 その最後の言葉を聞いた時、景の意識は途切れ、深くそして安らかな眠りの中へと没
して行った。

続きへ。