第四章  逆流

 時刻は間もなく、11時になろうとしている。
「ここも違うか」
いったい、今、景と多岐美がいるこの学校の地下は、どれだけの空間があるのだろう
か。先程、山野たちの攻撃をくぐり抜けてから、もう十数分が経過していた。その間に
二人は階段で一つ下のフロアに下り、無数に列なる廊下の、目に付く扉を片っ端から調
べていた。だが、大半は倉庫のような部屋ばかりだ。
地上の校舎と違い、各部屋に部屋の名前を示す札が付いているわけではない。見ただ
けでは、そこが何の部屋かはわからない。だが、やはり全て調べるというのは不合理だ
。時間がかかって仕方がない。
「何か、聞こえない? 機械音とか、人の足音とか」
鍵のかかっていない目の前の扉を開けて、中を覗いていた多岐美が、苛ついたように
その扉を叩きつけて、景に尋ねた。すぐ側での大きな音に一瞬身をすくめ、その後、景
は耳を澄ます。
「上の階でエレベーターらしき音」
「違う」
「右前方で、動物らしい鳴き声」
「豚のいる部屋。さっき見た」
「……駄目だ」
「下の階は?」
「何も聞こえない」
いつの間にか多岐美は、景の目や耳が常人より遥かに優れているという事に、気づい
たらしい。だが、いくら優秀だと言っても、個人の耳で拾える音など限界がある。
「匂いは? 鼻も利くはずだけど」
「フンフン、フンフンフン」
 言われるままに、景は周囲の匂いを嗅ぐ。
「どう?」
「利くって言っても、犬じゃないんだぞ」
「いいから。何か匂う?」
「香水の匂い。あんたのだな」
「……何もつけてないけど」
二人は顔を見合わせた。景は、廊下の少し先、まだ開けていない鉄製の扉を指し示す

「あっちの方かな。……何か、生臭い匂いもするが」
多岐美はその方向に歩み寄り、扉に手を掛けた。開かない。鍵がかかっているらしい

一歩下がり、多岐美は腰を落として構えた。水島を吹き飛ばした時と同じ構え、拳法
のような構えである。景は格闘技に詳しくないので、それが中国拳法なのか空手なのか
合気道なのかもよくわからない。だが、わかっている事が一つある。
 多岐美は大きく深呼吸を繰り返しながら、両手の平を身体の前に掲げた。何も無い空
間で、何か球状の物をこねるような動作を数秒間、繰り返す。
「ハッ!」
 掛け声と共に彼女は腰に右手を引き付け、握りを掌打に変えて扉に叩きつけた。大音
響を発して、厚さ数センチはある鋼鉄の扉は、蝶番ごと部屋の中に吹き飛んでいった。

 むろん景のわかっている事とは、ただの拳法などでは、こんな芸当は出来ないという
事である。
「とんでもない技だな。水島にやった時は、手加減してたのか?」
 鋼鉄の扉がねじ曲がるのである。普通の人間が食らったなら、どうなるかわからない
。だが、多岐美はそれこそとんでもないという顔をして、景を睨んだ。
「本気でやったよ」
「何だって? 水島の奴はピンピンしてたぞ」
「そう。並の人間ならあの一発で、口から内臓がはみ出してるはずなのにね」
 多岐美は一旦、口をつぐんだ。真っ暗な室内を覗きながら付け加える。
「……化け物だよ、あいつらは。戦うつもりだったけど、サシでも危ないかな」
「そうか……」
 景は多岐美の横から部屋の中を覗いた。暗視能力も、並の人間とは桁が違う。苦もな
く室内が見通せる。
「げっ」
「どしたの?」
顔をしかめた景に、多岐美が尋ねる。彼女には中は見えないが、人の気配がないのは
解っているのだろう。不必要に身構えてはいない。
室内に一歩踏み込んで、景はスイッチを押して明かりを点けた。
「……これだよ」
光りの中に浮かび上がったそれを景が指し示すと、多岐美もうんざりしたように天井
を仰いだ。
部屋の真ん中にベッドのような物、と言うか手術台が置いてあり、その上に黒ローブ
を着た人間が横たわっていた。顔面を叩き潰され、血の匂いを発している。それと混じ
ってかなりきつい香水の匂いもする。音楽教師、福井浅代の死体である。
「モルグってわけ?」
「どうかな。他の死体がない。これから運び込むにしてもここじゃあ、スペースが足り
ないだろう」
 そこは、ごくごく狭い部屋だった。置いてある台にしても一つだけ。死体置き場とい
うのは言い過ぎだろう。
「そんな沢山、死体が出ることを想定してたかな」
今度は福井の死体には近づかず、多岐美は少し考え込むようなポーズを取った。
「どういう事だ? もう奴らは五人も殺してるぞ」
「それがそもそも、妙なんだ。例年の行方不明者は普通、一人。多い時でも二人。それ
がもう既に五人。桜本君と、私たちを含めると八人。何か、今年はおかしい。狙われる
のは
この私だけか、あるいは君と私の二人だけかと思ってたのに……」
「俺……と?」
 多岐美はうなずいた。
「そう。十年前のあの時、あの場所にいた私たち二人。奴らが最も憎んでるはずのね」

「オマエタチはココでシヌ」
不意に乾いた硬質な声が室内に響き、景と多岐美は身構えた。相変わらず人の気配は
ない。だが、その声は確かに聞こえた。
「ニゲラレはシナイ。ツグナエ。オマエタチのツミをツグナエ」
「うるさいよ」
 多岐美は吐き捨てると、銃を抜いて死体に近づいた。景も声の出所に気づいた。よく
見ると、死体の頬が不自然に膨らんでいる。
「悪趣味な……」
銃口を、多岐美は福井の死体の口に突っ込み、こじ開けた。中から、ちっぽけなテー
プレコーダーをつまみ出す。
「ツグナエ。ツグナエ。ツグナエ」
多岐美はそれを足元の床に叩きつけた。
「俺たちの罪……?」
この期に及んでも、景はさっぱり思い出せない。多岐美は、彼がもちろん覚えている
と思っているのだろう。敢えて何だとは言わない。十年前、あの時、あの場所、彼と多
岐美がやった事、二人が狙われるわけ。それはいったい何だ?
「行こう。気にすることないよ。私たちはこうやって生きてる。あんな事なんかに負け
なかった。今日だって負けるはずないから」
おぞましい死体から目をそらし、多岐美は銃をしまい、再び廊下に出た。
尋ねさえすればいいのだろう。覚えていない、と正直に言って、何があったかを聞け
ばいい。だが、景はそうしたくなかった。
死体が彼を横目で見ている。恐ろしいのだ。過去と向き合いたくなかった。ようやく
景は気づいた。思い出せないのではなく、思い出したくないのだ。記憶の凄惨さに目を
背けて、それが再び顔を出す事を、心のどこかで拒否している。多岐美は今、負けなか
った、と言った。彼女は記憶から目を背けず立ち向かったのだろう。だが、景はこの十
年間、それらを封じ込めてずっと何事も無かったように生きてきたのだ。
「どうしてだ!? どうしてそんなに、平気でいられる!?」
 不意に激昂した景を、多岐美は驚いたように見た。
「俺にはわからない。十年も経ってやって来た学校は、死体だらけ。いかれた化け物の
巣窟だ! もう十年も平気で生徒を殺し続けてる教師どもだって!? 理由は劣等感とプ
ライドと面子!? ああ、わかるよ、わかってるよ。ここの教師はみんな、そういう奴ら
だ。昔からわかってた事だ。生徒を管理して自分の思うようにして、気に入らない生徒
は嬲ってストレスを発散する! 管理しきれない、手に負えない、自分たちの理解を越
えた生徒は、社会から追放しようとする! それが出来なきゃ消すだけだ! 奴らは、
今、俺を、殺そうとしてる!」
「ああ、そうだよ! 十年前みたいにね!」
叫び返した多岐美の声が、耳に届いた時、景の中の時は、ほんの一瞬、十年前へと飛
んだ。
 薬品の匂いがする。この中学の保健室。室内は必要もないのに、病的なまでに消毒さ
れている。管理している保健の教師の性格ゆえだ。二十三歳の荒光景は、その部屋に足
を踏み入れた。見覚えのある後ろ姿が、彼に先んじて保健室の中にいた。学生服姿の少
年。少年の目線の先、部屋の一角が安物のカーテンで仕切られており、薄布ごしにベッ
ドが二つ並んでいるのが見える。カーテンにシルエットが浮かんでいる。誰かがベッド
に座っている。かすかにすすり泣きのような声が、奥から聞こえてきた。どうしようも
ない衝動に駆られ、景はその方向に踏み出そうとした。だが、それより先に、彼の前を
歩く少年が歩み出した。おっかなびっくりといった感じで、まるで確かな足取りではな
い。だが、彼はゆっくりと歩を進め、やがてカーテンの側にたどり着いた。少年は深呼
吸をし、意を決したようにカーテンに手を掛けた。
「どうしたの? もう終わり? もう気が済んだ?」
またも、記憶の流れは途切れた。大声を出したのを恥じたのか、多岐美は少しうつむ
き加減に目をそらしている。
「……ああ。もういいよ」
なぜ、自分が不意の激情に任せて怒鳴ったのか、それは多分、苛ついているだけなの
だろう。やけに冷めてしまった頭で、景は思う。いつだってこうだ。自分の足かせにな
るのはいつも自分だ。思い出すことも、行動することも、やろうとすればやろうとする
ほど、自分のどこかで歯止めがかかってしまう。この学校を脱出して過去と訣別する事
を、先程決意したばかりだというのに、すでに見たはずの死体一つのせいで、もう迷っ
ている。
「わかんない人だよ、きみは。あの時も、そう思ったけど」
景は顔を上げた。多岐美は、いつの間にか彼に背を向けていた。そのまま、彼女は話
し続けた。
「私だってね、平気なわけじゃない。平気な顔してるみたいに見えるかもしれないけど
、それはこの十年で、こんな顔になっちゃっただけ。
この学校で、元生徒が行方不明になってるって知ったのは、二年前だった。十年前、
あんな事があったから、今日、同窓会に来れば、絶対に狙われるだろうって思った。で
も、来なきゃならないと思った。私が来ないと、きみや他の人が殺されるかもしれない
って考えたから。結局、他の人は救えなかったけど」
「……」
「校門であった時、きみだって事、すぐわかった。すごく嫌そうな顔して、入りたくな
さそうで、でもどうしても帰れないでいるって、そんな感じに見えた。やっぱり、私に
似てるんだって、思った」
「似てる……?」
夢の中で少女が言った声が、景の頭をかすめた。
「似てるね。私の名前と……」
 多岐美は続けた。
「さっきまで、ずっと考えてたよ。十年前のあの時、きみが私を救ってくれて、私がき
みを守って。ひょっとしたら、今度もそうなれるかなって。私も十年で変わったけど、
きみもすごく変わってて、すごく強くなってた。あの時みたいに二人なら、今度だって
負けないって。……でも、私の勝手な期待だったんだね」
 寂しげな顔をして、多岐美は振り向いた。
「ごめん」
返す言葉を、景は持っていなかった。代わりに尋ねた。
「この十年……」
「え?」
「ずっと……一人だったのか?」
多岐美は答えなかった。だが、目を伏せうつむいた表情が、それを肯定していた。
 景は、ポケットから鈴を取り出した。景の家族で、友人で、恋人だった、最愛の者の
形見。景は一人ではなかった。五年前に景の腕の中で死んでからも、彼がずっと側にい
てくれた。ずっと、守ってくれていた。
「きみは隠れてて。ここからは、私一人でやるから」
 顔をあげて、多岐美が言った。
突然、機械音が部屋の隅から聞こえた。弾かれたように二人は、そちらの方向を向い
た。明かりの届かない天井の端の方で、テレビカメラが回頭し、彼らを見ていた。
「聞こえますか? 荒光景くん。掛川多岐美くん」
そのすぐ側のスピーカーから、よく通る物静かな声が聞こえてくる。
「この声は?」
「宮田……?」
多岐美は驚いたような顔でカメラを見上げた。景も驚いた。あの影の薄い、年の若い
教頭は全く彼の意識の外にあった。敵対する教師と言えば、真っ先に水島兄と山野の顔
が思い浮かぶ。武闘派の怪物たちだ。だが、ろくに司会もしないあの教頭が、この殺人
ゲームに関与しているとは、わかっていても想像がつかなかった。
「桜本千春くんを、こちらで預かっています。すぐに、西館屋上まで来て下さい。繰り
返します。すぐに、西館屋上まで来て下さい」
 ほとんど、生徒呼び出しの校内放送だ。
「くっ、行くしかないか。でも……」
「でも、何だ?」
 景が尋ねると、多岐美は唇を噛んで答えた。
「人質を取ってるのに、すぐ投降を呼びかけてこない。どういうつもりか知らないけど
、西館校舎のセキュリティを使って、私たちを無傷で捕らえようとしてるみたい。何か
の時間稼ぎかもしれないけど……」
「だが、行かなければ桜本は殺されるか……。確実に罠だろうが、しかし桜本は本当に
捕まってるのか?」
 多岐美はうなずく。
「ここのセキュリティのシステム全体の完成度を考えれば、彼がどこに隠れても、無駄
だと思う。私たちの行動も完全にトレースされてるはず。……行かなきゃ」
「待てよ」
「……?」
 景は、手に持っていた鈴を、手首に巻き付けた。
「俺が行く。どうせ捕まれば、三人とも殺されるだろう。俺が何とか奴らを引き付ける
から、あんたはこのまま、セキュリティを破壊する方法を捜してくれ」
「え!?」
「まだ、俺には何も言えない。だが……俺は一人じゃない」
 自分がどうすべきなのか、景自身、わかってはいなかった。これからどうなるのかも
、わからなかった。だが、やはりやらなければならなかった。迷っている暇はなかった

 景は手首を揺らした。鈴の音が鳴る。
「こいつがいる。……今日は、早退は出来ない……だろ?」
唖然としたような表情を浮かべ、そして、多岐美は少し笑った。首をひねり、肩をす
くめて見せる。
「……やっぱり、わけのわかんない人だよ、きみは」
「あんたも、俺には充分わからない。……行こう」
景が部屋の入り口を指し示すと、多岐美は不敵な笑みを浮かべた。拳銃を抜いて、目
の前のカメラに突き付ける。
 轟音が一発、室内に反響した。銃弾を撃ち込まれ、監視カメラは煙を吹いて沈黙した

二人は廊下に走り出た。景は元来た方向へ。多岐美は反対に向けて駆け出す。
 廊下の途中で視線を感じ、景は振り返った。多岐美が立ち止まって、彼の方を見てい
た。遠目に彼女はもう一度笑うと、
「がんばろうぜ!」
と叫んで、天井に向けて握り締めた拳を突き上げた。
同じように拳を突き上げるほど、景はノリのいい男ではなかったが、微かな笑みを返
して首を縦に振って見せた。
 そして、彼は走りだした。今度は一人で。

「どうやら、二手に別れたようです。荒光は地下一階に上がり、西館校舎方面に移動中

掛川は地下二階を移動しています。……予想外の行動ですね」
 中央コントロール室内部。
 校舎地下の対物熱感知反応をモニターに出し、荒光と掛川を指し示す、マップの温度
の違う部位を指さしながら、佐倉は傍らに立った宮田を仰ぎ見た。
 宮田は、首を捻りながらもうなずいていた。
「いやいや、桜本くんを見捨てないで、同時に捕まらない方法を考えると、これしかな
いでしょう。無謀ではありますがね」
 佐倉は手元のコンソールを操作し、正面の画面を切り替えた。小さな照明が灯っただ
けの西館校舎の屋上が映し出される。屋上のほぼ真ん中に、両手足を縛り上げられても
がいている桜本が、転がされている。
 なおも首を傾げながら、宮田は手元の腕時計を見た。アナログ時計の短針は、十一を
過ぎて十二に間もなく到達しようとしている。
「間もなく、日付が変わる、か……。ところで」
 宮田は振り返り、コントロール室をざっと見回し、室内にいる者たちの顔を一人一人
見た。
 車椅子に座った老人。学園のトップである理事長、富田修三。
血塗れの鉈をぶら下げた痩せた男。生徒指導教師、山野隼雄。
 ジャージに身を包んだ巨漢。体育教師、水島剛史。
 モニターの前の白衣の男。セキュリティを担当する理科教師、佐倉信介。
 茫漠とした表情で椅子に座っている、データ担当の数学教師、森田俊紀。
 皺だらけの、目だけが光る枯れた老人。記録担当の英語教師、辻洋一。
 宮田を含め、同窓会がスタートした時点で十一人いたはずの教師たちは、今は七人ま
で減っていた。
「皆さん、ご記憶されてますか。毎年、この創立記念日に行われて来た、同窓会。未だ
かつて、深夜0時までに終了しなかった事は無かったという事を」
「それが、どうしたというのだ」
 理事長は、白目に血管を血走らせてうめくように言った。
「まだ、奴らは生きている。奴らが死ぬまで、素っ首をこのわしの前に並べるまで、こ
の同窓会は終わらん。文句があるなら、今すぐ奴らの首を取ってこい」
 だが、宮田は理事長の台詞の後半を聞いていなかったように、後を続けた。
「そう。彼らは生きています。もうこの学園の先生方が、四人も殺されているのに」
 それを聞いて、水島が顔を歪め、唸り声を漏らした。宮田に何か言いかけ、傍らの山
野に制される。
 宮田はそれに気づかなかったかのように、話し続ける。
「まさに、有り得べからざる事態です。四人が彼らによって殺された。こちらは、前祝
いなどと称して、本来ターゲットではなかった五人の死体を並べたが、それだけです。
最大の標的だった掛川多岐美と荒光景は、殺すどころか今や、十年前、この同窓会が始
まって以来の、最大の脅威となっている」
「何が言いたい!」
 理事長が不意に大声を張り上げた。が、宮田は動じた様子もない。一度、ため息をつ
いた後、さも残念そうに首を振った。
「……少し、お遊びが過ぎたようですな、理事長。本日午後十一時十分をもって、我々
の組織は、この中学の運営から手を引かせていただきます」
「な!」
 その場にいる教師たち、宮田と山野、それと森田以外の全員から、驚愕の喘ぎ声が漏
れた。
「ど、どういう事だ、それは。手を引くだと!? 馬鹿な! この同窓会は、いずれ来る
理想社会の、不要な因子を粛清するためのシステムとして……!」
「ハハハハハハハハハ」
 理事長の口から喘鳴と共に吐き出された言葉を、宮田は笑い飛ばした。
「教師殺しの罪を負った今日のターゲットは、確かに教育の改革がなされた新時代には
、不必要な存在でしょう。
 だが、たかだか年に数人を抹消したところで、それが何だというのです? 社会に蔓
延る雑草は、今も加速度的に増え続けている。この学校だけでは追いつきませんよ」
「だ、だからこそ、おまえたちの組織の力で、このシステムを全国的規模にまで普及さ
せるのではなかったのか!? そうすれば、警察権力をも押さえ込む組織の力で、行く行
くは大規模な不穏分子狩りが行える。この中学はそのための実験校として……!」
「おためごかしは、いい加減にしてもらいましょう。組織も再編成が進んでいましてね
。幹部でも、貴方のような理想派は実権を失いました。そのような改革は、もはや組織
の方針では有り得ません。
 ……いや、貴方は理想派ですらありませんでしたね。貴方は私怨のみで動いている。
崇高な目的だなどと言って、その実、十年前に殺された、自分の娘の復讐をしたいだけ
に過ぎない!」
 雷鳴に打たれたように、理事長は黙り込んだ。周りを囲んだ、他の教師たちも、一様
に目を伏せる。
「卒業した後に社会にとって有害となった生徒を、八年後に抹殺する……。自分の復讐
のためだけにそのようなシステムを生み出し、己を正当化して、組織の協力を取り付け
るとはね。ここまで事が大きくならなければ、今年を持って同窓会は終了し、この学校
を黙認
する方法もあったのですが……」
 宮田は一度、言葉を切り、側に座っている森田を振り返った。
「理事長の昨日の言動を再生して下さい」
 ずっと話を聞いている様子も無く、ただ座っていただけだった森田の口から、初めて
声が漏れた。最初は苦しげな喘鳴。それは、傍らで顔面を紅潮させている理事長の声そ
のものだった。
「あのガキめ、よくもよくも、わしの娘を、わしの芳子を、ゆるせん、絶対にゆるせん
、明日、明日の同窓会だ。十年、この日を、十年、待ち続けた。明日こそ、娘の恨みを
、晴らせる。ちっぽけなガキの癖に、神聖なる聖職者だった、わしの娘を、よくも、明
日、わしの手で、その首を刈り取って、標本にしてやる。そのために、忌ま忌ましい、
奴らの手など借りて、十年も待った。組織だと、でかい顔しおって、この学校の支配者
は、わしだ、娘の仇は、わしが討つ。宮田などに、口出しはさせん。わしがわしが、わ
しがわしがわしが、わしがわしがわしがわしぐぅわぁーっ!」
「まったく……」
 ようやく森田の声が途切れ、宮田は蒼白になった理事長を見据えた。
「昨日、森田先生を録音モードにしておいて、正解でしたよ。この発言はテープに落と
して、組織上層部へすでに送りました。決はもう出ています。……もう一度再生を」
「あのガキめ、よくもよくも、わしの娘を、わしの芳子を、ゆるせん、絶対にゆるせん
、明日、明日の同窓会だ。十年、この日を、十年、待ち続けた。明日こそ、娘の恨みを
、晴らせる。ちっぽけなガキの癖に、神聖なる聖職者だった、わしの娘を、よくも、明
日、わしの手で、その首を刈り取って、標本にしてやる。そのために、忌ま忌ましい、
奴らの手など借りて、十年も待った。組織だと、でかい顔しおって、この学校の支配者
は、わしだ、娘の仇は、わしが討つ。宮田などに、口出しはさせ……」
「もう結構」
 森田は口をつぐんだ。宮田は理事長を見下ろしながら、上着の懐に手を入れた。抜き
出された手には、黒光りする拳銃が握られていた。
「醜悪な……。貴方のような人のために、組織の資金が良いように使われたと思うと、
虫酸が走りますよ。組織の決定は貴方の消去と、この中学の廃棄処分です」
 そう言って、宮田は目の前の理事長に、ゆっくりと銃を向けた。
「や、山野、水島、こいつを殺せーっ!」
 老人はしゃがれた声を張り上げ、自分に銃を突き付けている宮田を、左手を挙げて指
さした。
 山野が、それに応えるかのように、持っていた鉈を一振りした。銀色の光が一閃し、
左手首から先が、ものの見事に切り落とされた。ただし理事長の手首だが。
「ぐぅおっ!? や、山野、何お!?」
「……組織のために。組織に刃向かう者には、死を」
 老人の目が、驚愕に見開かれた。
 水島と佐倉、辻の三人は、この凄絶な裏切りを、気死したようにただ茫然と見守って
いた。
 山野は冷徹な目付きで、手首から血を吹き出して喘ぐ老人を見下ろしていた。側の宮
田の顔には、薄笑いが浮かんでいる。
 自らが支配者であったはずの空間で、たった一人となった老人は、車椅子からずり落
ちると、部屋の入り口に向けて這いずった。流れ出る血が、老人の這った跡を彩る。
「わしが、こんな、このわしが」
 そんなかつての理事長をまたぐと、山野は、
「どこに行かれるのですか。理事長ともあろうお方が。忘れ物をされてますよ」
 そう言って、切断した皺だらけの手首を、顔の前に放った。
「よ、芳子ーっ!」
 絶叫する老人のうつ伏せの首筋に、斬撃が振り下ろされた。
 床に転がった、恐怖の表情に彩られた皺首を見下ろし、宮田は満足げに笑った。
「さて」
 手に銃を持ったまま、宮田は周囲の残り五人を見回した。
「これで城之刻中学は解体です。教職員であるあなたがたは、失業という事になるので
すが……」
「ひっ」
 辻が脅えたような声を上げた。彼のような老人は、職を失うと再就職は難しい……と
いう事ではなく、ここまでこの学校の秘密を知っている者を、組織が生かしておく訳が
ない、と考えたからである。森田は無表情を崩していないが、立ちすくんでいた水島、
椅子から立ち上がりかけてそのまま固まっていた佐倉も、同じことを考えたのだろう。
顔に恐怖の色を浮かべて身構える。が、宮田は笑みを絶やさず、にこやかにこう続けた

「こんな欠陥だらけの理事長の下で、この殺人ゲームにおける役割を破綻無く演じ切っ

演技力と、皆さんそれぞれが持つ専門的能力に、組織は注目しています」
「……どういう事ですか?」
 今一つ飲み込めない、という風に、佐倉が尋ねた。
「つまり、組織としてはこの老人と中学校を切り捨てるからと言って、あなたがたまで
抹消するのは惜しいと、判断しているのです」
「おお、それでは!」
 歓喜の声が、辻から上がった。
「組織は、優秀な人材を手広く求めています。これから来る、教育のシステムそのもの
の改革のために必要な人間をね」
 宮田は、端から一人一人の顔を見ていった。
「山野先生は、このゲームをまとめ上げた指導力と、高い戦闘能力が早い段階から評価
されていました。ですから、私としても早い段階から協力していただいていました」
 まずは山野、ついで佐倉を見る。
「佐倉先生は、この学校のセキュリティシステムの設計と管理の手腕が、組織には有用
だと判断されました。これからは組織の中枢部分で働いてもらう事になるでしょう」
 そして、宮田は水島を見た。水島の顔からは、恐怖の色は消えていた。だが、その代
わりに警戒心と不信感が、如実に浮き出ている。
「……水島先生は、生徒を恐怖で管理する能力と、戦闘力については評価されているの
ですが……」
 宮田は一度、言葉を切った。首を捻り、目の前の巨体を見上げる。
「どうも、何というかですね、私情に流され感情的になりやすいところ、組織の幹部で
ある私に対する反抗的態度、上層部ではそういった物が憂慮されているんですよ。そこ
で一つ、組織に対して忠誠の証しが欲しいところなのです」
 すでに宮田の側近となっていた山野も、これは聞いていなかったらしく、慌てたよう
に口を挟んだ。
「待って下さい。水島先生については、私が保証すると申し上げたはずです。今日の事
にしても、弟が殺されたので……」
 宮田は水島を見たまま、困ったようにうなずいた。
「私は山野先生を信用していたんですが、上の方は納得していないんですよ。これから
の教育はビジネスです。人間を物として、商品として見る事が重要なんです。それは自
分に対しても同じこと。己の感情を抑制出来ない人間は、危険だと言うのです。なに、
証明と言っても、簡単な事です」
 そして、山野は水島の左側にいる辻を見た。
「辻先生は、年齢的にもビデオ撮影の技能にしても、組織には不必要と判断されました
。よって、消去する必要があります。これを水島先生にお願いしたい」
「ひいいーっ!」
 辻の口から、恐怖の叫びがほとばしった。その瞬間、水島の左手が伸びた。髪の薄い
老人の頭蓋を、巨大な手がわしづかみにした。そのまま、宙高く吊り上げる。
「あ、あ、あ……」
 老人の血の気のない顔に、血管が浮き出た。骨が軋む音がし、呻きと共に眼球が前方
へ迫り出す。
「組織のために。組織に不必要な者に死を」
水島の口から、低い声で先程の山野と似た言葉が漏れた。
 一瞬後、辻の頭はマスクメロンの如く握り潰され、脳漿と血液、頭皮の破片を周囲に
飛び散らせていた。
頭部を失った死体を床に落とし、水島は宮田にひざまづいた。その顔には後悔や罪の
意識など、何の表情も浮かんではいない。先程まではあった、恐怖、不信、そんな物ま
でも、全て拭い去られたようだった。
「俺の力を組織の為に役立てて下さい。組織に忠誠を誓います」
「おめでとう」
 宮田は笑って手を差し伸べた。
「頭を上げて下さい。これで貴方は、完全な教師となりました。私情を捨て、公に忠を
捧げた貴方は、間違いなく組織最強の教師となれます。上層部も喜ぶでしょう」
「おめでとう、水島先生」
 山野がそう言って、拍手を送る。
「押忍! ありがとうございます!」
 水島は立ち上がって、宮田に向けて空手式に礼をした。さらに、山野とがっちりと握
手を交わす。
「生まれ変わったような気分です! 教員試験に受かった時ぐらいに、いや、それ以上
です!」
「これからも頑張ろう。日本の学校教育のために!」
 そして、二人の教師はしっかりと抱き合った。
 傍で見ている佐倉の顔には、引きつったような笑みが浮かんだ。彼は目を離せないで
いた。床に転がった、頭部の無い二つの痩せこけた死体から。そして、恨めしげに生者
を、抱き合う山野と水島を睨む、数分前までの最高権力者の、皺だらけの生首から。

 鈴の音が鳴る。
 世にもあえかな鈴の音色を響かせながら、漆黒の影が駆ける。
 血潮に塗れた廊下を、一匹の獣が走り抜けて行く。
果てしない暗闇と憎悪に包まれた学び舎の空間を、伍筋の輝きが切り裂く。
幾度も幾度も、途切れる事なく鈴が鳴る度に、景は馴染み深い感覚が脳の奥に湧き上
がるのを感じた。昂揚感と少しばかりの悲しみを伴って、その感覚は彼を覆い尽くす。
それと共に、力が溢れてくる。
 人を越えた、獣の力。
この力が、先天的に彼の中にあった物なのか、それとも後天的に身につけた物なのか
、景は知らない。考えた事もあったが、答は出なかった。素手の一撃で人間を死に至ら
しめ、どんな暗闇も見通し、あらゆる物音を聞き分け、人の背丈の高さを跳ぶ。並の、
いや、どのような人間でも持ち得ない能力だ。多岐美には催眠術だと説明したが、実際
は違う。如何なる術をかけようと、これ程までの力を発揮出来るのは、景一人だ。
 この力を景が身につけた、あるいは気づいたのは、十年前の事だった。
 不登校になる少し前の、ある夜の事だった。彼の両親は共働きで留守がちだった。そ
の日も帰りは遅く、景は一人で食事や身の回りの事をすませ、ベッドに入った。
 この頃の事を、景はよく思い出せない。
「死んでいたからだ」
 彼は生きていなかった。ろくに口もきかず、遊ぶ事もせず、ただ日々を送っているに
過ぎなかった。そして、両親はそんな彼を顧みつつも、結局何もしなかった。人らしい
感覚は日一日と失われ、景は物言わぬ人形のようになっていた。
だが、その夜、不思議な事が起こった。
 景は、頬を叩く冷たい風に目を覚まされた。身を起こし、顔を上げると、しっかりと
閉めて鍵も掛けておいたはずの窓が、開いていた。
「誰……?」
 景は、いつの間にか窓辺に座っていた影に向けて問いかけた。影は彼の質問には答え
なかった。代わりに彼を差し招いた。
魅入られたように、景はパジャマ姿のまま、窓際に歩み寄った。影は一声鳴くと、首
に付けた鈴を鳴らして、外に飛び出した。景の部屋は、一戸建の二階だった。が、鈴の
音が聞こえた時、景はためらう事なく窓から外に飛び出ていた。
影に続き、景は窓から2mほども離れた塀の上に飛び移っていた。裸足のままだった
が、痛みも何も感じなかった。影と景はそのまま塀を渡り歩き、平屋の側に来るとその
屋根に飛び移った。まるで、空を飛んでいるようだった。どのような高い壁も、塀も、
その時の景にとっては障害とはならなかった。
 月明かりが周囲を照らしていたが、周りには誰もいなかった。景と影は、二人きりで
深夜の町を散策してまわった。
 翌朝、目が覚めた時、窓が閉まっていたので、景は夢だったのだと思った。だが、靴
下をはこうとした時、自分の足の裏が真っ黒に汚れているのに気づいた。
 その次の夜も、そのまた次の夜も、影はやって来て、景を夜の空間へ誘った。景も影
も何も言わず、ただ町の屋根を、塀を、樹木を自由自在に走り回った。ある夜、ふと景
は思った。
「友達って、こういうものだろうか」
 そうして一月も過ぎたある日、目が覚めた景は、自分の被っている布団が、やけに重
いのに気づいた。上体を起こして、景は首を傾げて尋ねた。
「泊まったの?」
 深夜の散歩者は、やはり何も答えず、彼の布団の足元に丸まって寝息をたてていた。

白黒の斑の模様をした彼は、その日から景の家に住み着いた。両親も最初は驚いたよ
うだったが、息子が楽しそうな顔をしているのを見て、何も言わなくなった。
 不登校になった後、景と彼は、昼間も連れ立って出掛けるようになった。さすがに屋
根を跳び回る訳にはいかないので、道路を歩く。彼の首で鳴る鈴のリズムに乗って、景
はいつまででもどこまででも歩いた。そんな二人の姿を見た、近所の人はこう言った。

「荒光さんの所の猫ちゃんは、お利口ねえ。景くんとお散歩してるよ」
 実際は景が猫に連れられていたのだが。
 月日が流れ、景は高校に通うようになった。高校という所は、何も恐ろしくなかった
。痩せっぽちの少年だった景は、いつの間にかしなやかな身体の青年へと変わっていた
。数年間、猫と共に暮らしたからなのだろうか。猫科の猛獣のような、圧倒的な運動能
力も身につけていた。それ以上に、内面も変化していた。愛し、愛される者がいるだけ
で、人はこれ程変わるのだろうか。景は過去を記憶の奥底に封印し、現在を自分の足で
歩み始めた。彼を阻む者など、最初からいなかった。彼は自分の存在に気づいた。自分
の足で町を駆けたおかげで、自分の肉体とそこに宿った心の存在を実感した。その事を
知ったおかげで、もう学校は怖くなくなった。彼の存在を脅かす者は、もういなかった

 最初の深夜の散策から、五年と少しが過ぎた。その間、ずっと二人は一緒だった。景
が家にいる間も外に出た時も、彼はいつも景の前を歩いていた。
 高校の卒業式を終え、景が家に帰った時、彼の心に光をもたらしてくれた愛猫は、ベ
ッドに力無く横たわっていた。抱き上げると、一声弱々しく鳴き、そして彼は、静かに
眠りについた。
 景はその骸を抱き締めて名を呼び、初めて自分以外の者のために、透明な涙を流した

それから、もうさらに五年も経つ。
 記憶はおぼろげになり、出会った頃に一枚だけ撮った写真もどこかに無くしたが、形
見である鈴と共に、その猫の存在は依然として景の側にあった。鈴を鳴らすたびに湧き
上がる力が彼で無くていったい誰だろう。
景はオカルトは信じていないが、背後に守護霊という物が憑いているとすれば、それ
は彼でしか有り得ないだろう。
「行こうか」
 景は囁いた。かつてあれほど恐れ、忌み嫌った中学校で、景は守護天使と共にいた。
鈴の音が高鳴る度に、徐々に景を蝕みつつあった恐れは消え、過去に対する復讐心、非
道に対する怒り、死者に対する悲しみが膨れ上がって行く。
今なら、過去への扉を開けても平気でいられるだろう。景は、過去との訣別を、再び
決心した。桜本を助けだし、多岐美と共にこの学校を脱出する。だが、その前に己の奥
底に封じられた過去を暴き、それと対決し、
「そして、勝つ」
 一際澄んだ音が響き、それを合図に景は地下からの階段を駆け上がり、西館校舎に続
く隠し扉を開けた。

「荒光景、西館校舎一階に侵入。北側階段に向けて高速で移動中」
 森田の事務的な、と言うより機械的な声に、佐倉は我に返った。中央コントロール室
、宮田と山野、水島の三人は姿を消し、室内に残っているのは彼と森田、そして頭部を
失った老人の死骸二つだけだった。
「くそ」
 頭を振ると、佐倉は床に転がった理事長の首から目を逸らし、モニターを睨んだ。
 いったい、どうしてこんな事になったのだろう、と佐倉は考える。自分が教師になろ
うと決心した時の事を思いだし、そして、どうしてそう決心したのかを、佐倉は思い出
そうとした。……が、どうやっても思い出せなかった。血を見過ぎたせいで、頭の中に
血煙がかかってしまったのだろうか。それとも、これだけの死を生んだこの学校という
空間において、もはや若気の戯言など存在しえないのだろうか。
 理事長は狂っていた。佐倉が作らされたあの標本。それを目撃した生徒。それを隠そ
うとした理事長の娘。何もかも狂っている。
 その結果が、この中学校の抹消だ。
 だが、努力はやはりしておく物だ。佐倉は身につけていた能力のおかげで死を免れた
。彼が教師人生を傾けて作り上げた、「ヘブンズ・ゲート」を始めとする校舎設備は、
間もなくこの世から消える。しかし、宮田はこう言った。
「この学校はやむを得ず消去しますが、システムは完璧でした。この学校は、来るべき
組織の新世代校舎のひな型となるでしょう。佐倉先生の頭脳はそのためにも必要なので
す」
 組織! その事を考えると、佐倉の口元には自然と笑みが浮かぶ。十数年に渡って歴
史の陰から日本の教育をコントロールしようとしてきた、謎の存在。傘下の学校の教師
は皆、組織に入ることだけを夢見ている。誰もがその実態を知り、見ずから日本の教育
を操り、日本を自らの色に染め変える事を望んでいる。その組織が、自分を認め、必要
としているのだ。それと比べたら理事長の死など、大した事ではない。山野や水島のよ
うな血に飢えた怪物とこれからも付き合うのは辛いが、組織の中核に入れば、奴らを見
下ろす事も出来るだろう。
「北階段に到達。速度、変化無し」
 森田の声に従い、佐倉は手元のモニターに、西館校舎北階段付近の、対物熱感知反応
を呼び出した。無機物である校舎は温度が低いので、サーモグラフィー画面の中では青
色。
その中を、高温を示す赤と黄色の点が移動している。
「これは……?」
佐倉は首を傾げた。表示された温度が高すぎる。人間の体温なら普通は三十六度、運
動している事を考慮しても、三十七度程度のはずだ。それが、四十度程もある。それに
移動の速度が速すぎる。階段を上がっているはずなのに、平地を走っているかのような
速度、
いや、それ以上だ。
 だが、佐倉にはまだ余裕があった。人間が、この西館校舎のセキュリティを突破でき
るわけがない。
「廊下と階段のルールは「おかし」だぞ、荒光。おすな、かけるな、しゃべるな、だ」

キーを叩き、壁面を彩るディスプレイの一つに、西館校舎のCGによる見取り図を呼
び出す。
「閉じ込めるのは簡単だけどな」
 校舎一階と屋上の手前の防火扉を下ろしてしまえば、荒光景は屋上の桜本の元にたど
り着くことも、校舎の外に出る事も出来なくなる。だが、やはりそれでは面白くない。
獲物が抵抗の気力まで失ってしまっては面白みが無い。
まずは、一階の扉を閉める。これで、とりあえずの退路は断った。
佐倉は、モニターの荒光景を指す光点を見ながらほくそ笑んだ。後は徹底的に引きず
り回し、校舎が焼き尽くされるまでの間、ゲームを楽しむとしよう。

 背後、階段の下の方で、機械音が響く。重い物がゆっくりと閉まっていく音。
「前に進むしか、無くなったか」
 景は立ち止まり、耳を澄ました。他の位置からは、防火扉が閉まる音は聞こえない。
少なくとも、前進は可能だ。
「やはりな」
 景は独りごちた。誰がセキュリティを操作しているかは知らないが、教師はこちらを
甘く見ている。前方の扉を下ろしてしまえば、景は万事休すになる。本来、この西館校
舎に踏み込むという事が、そもそも自殺行為なのだ。だが、こちらがそれを敢えてやっ
ているというのに、付け込んでこない。桜本を餌にして、こちらに呼び寄せたのはいい
が、その後の詰めが甘い。どういう意図か知らないが、もし多岐美の言うように時間稼
ぎが目的なら、こちらも同じ事だ。
 景は、先程まで隣を走っていた女の事を、思い浮かべる。セキュリティをコントロー
ルしている部屋がどこかにある、と言っていた。後は彼女がそこを叩くまで、教師たち
の注意を引いて持ちこたえるだけだ。
問題があるとすれば、時間だ。景は左手に巻き付けた、赤いリボンと鈴を見る。全力
で、しかも今日二度目。これだけ使うのは、初めての事だ。当たり前だが、人間は猫で
はない。猛獣の運動能力を発揮できる時間には、限度がある。果たして、後何分もつだ
ろう。五分、三分、せいぜいそんなところだ。それだけの時間が過ぎれば、体力を消耗
し切って、歩くことすら覚束無くなるだろう。
「頼むぞ……!」
 手の鈴に、あるいは多岐美に、そして自分の肉体に向けて、景は念じた。
 わざとゆっくりと、景は階段を上り始めた。こちらの狙いどおりに事が運べば、何分
もかかりはしない。桜本を助けだし、後は多岐美に任せる事が出来る。
「うまく乗ってくれよ」

 モニターの中、荒光景を示す光点の速度が、急激に落ちた。
「ふふん」
 佐倉は鼻で笑うと、ごくごくゆっくりとした速度で三階への階段を上る光点を、目で
追う。
 後方の防火扉が閉まったのに気づいて、警戒しているのだろう。階段付近にはテレビ
カメラを設置していないので、映像は見られないが、とまどい脅えている、虚弱体質の
不登校児の姿が目に見えるようだ。
「この私の学校で、今まで好き放題に走り回ってくれたな。もう好きにはさせん」
 所有者ではないが、佐倉にはこの学校の建物とセキュリティを設計し管理してきたと
いう、プライドと自負があった。先程までも、山野や水島が荒光たちを取り逃がすのを
、苦々しい思いで見ていたのだ。この部屋からの操作で、例えば二人がエレベーターに
乗った時などに、簡単に捕らえる事が出来た。それなのに理事長は、あの武闘派の馬鹿
どもばかりを用いた。
「老人め。ハイテクというものを、いつになっても理解せん」
 もう永遠に、理解する事は無くなったのだが。佐倉はもう老人の首を振り返って見る
事はしなかった。
「私はこれからだ」
 ようやく、自分の頭脳を最大限に生かす事が出来るようになる。これからの学校教育
は、もっと機械化すべきだというポリシーを、佐倉は持っていた。オートメーションに
流れ作業化した授業、コンピュータに記憶されこれからの指針すら弾き出す生徒管理。
そして、最新にして最高の技術による、完璧なる教師そのものの創造。機械の如く人間
を生産し教育し管理するのが、組織の目的だと聞いている。ならば、それを為すのも、
機械の教師ではないか?
 そして、それら全てを産み出すのが自分だ。自分の足下に日本の教育の未来図を描き
、佐倉は哄笑した。
 ひとしきり笑うと、佐倉は我に返った。空想に浸っている場合ではない。まずは荒光
景を捕らえなければならない。覇業について考えるのは、その後だ。桜本と荒光には、
校舎と共に消滅してもらう。
 佐倉は、手元のボタンで、北階段の三階から四階へと続く場所の防火扉を操作した。
ここを閉めてしまえば、荒光は廊下を抜けて南階段へ向かうしかなくなる。現在、無人
の西館校舎に呼び出せば確実に捕獲出来る、と宮田に進言したのは佐倉だった。確実に
捕らえなければ、宮田の信頼を失う事になりかねない。

 意識を前方に向けて集中していた景は、自分の真上、ちょうど三階の階段から、機械
の駆動音を聞き取った。
「今だ!」
 鈴の音が狭い階段に鳴り響き、そしてその場に尾を引いた。景は跳躍し、彼の身体は
一気に二階と三階の中間の踊り場へと跳ね上がった。一瞬の間もなく反転し、上を見上
げる。天井から下りかけた防火扉は、今だ30==程しか降下していない。
 再び景は跳躍した。またも一飛び。十六段もある階段を一挙に飛び上がり、景はあっ
さりと防火扉の下をくぐり抜けた。

「何だと!?」
 不意に、荒光景を示す点がモニターから消失したのを見て、佐倉はパニックに陥った

荒光が映し出されている範囲から高速で移動したのに気づき、慌ててモニターの中のマ
ップを拡大する。
 ワンフロア分しか映っていなかった見取り図を一階、二階、三階の3フロア分に拡大
した一瞬、光点が三階の階段付近に映った……と思った瞬間、また消失する。
 佐倉はモニターのマップを西館校舎全体に拡大した。一体、時速何==出ているのだろ
う。荒光景は信じられない速度で階段を駆け上がっている。佐倉がその状況を把握した
瞬間、既に光点は五階に到達していた。
「く、くそ!」
 佐倉は必死になってキーボードを叩き、六階、七階、八階に続く防火扉を降下させた
。同時に手元のモニターに、八階廊下入口のテレビカメラの映像を呼び出す。

「六階!」
 景は叫ぶと、ちょうど立った時の頭の位置ぐらいまで下りてきた、防火扉をくぐり抜
けた。あと2フロアで最上階の八階までたどり着ける。景は、おぼろげながらもこの西
館校舎の構造を思い出していた。八階まで上りきっても、この北階段には屋上への入り
口はない。八階にたどり着いた時点で、廊下を抜けて南階段へと走らねばならない。
 景は身を低くすると、さらに加速した。漆黒の影が、まるで滑るように階段を駆け上
がって行く。瞬く間に七階も駆け抜けた。
「あと一つ!」
 叫びざまに階段に両手を突き、四つ足になる。全身の筋肉がバネのようにしなり、さ
らなる加速を生み出す。そこから二呼吸。床から30==の位置まで下りて来ていた八階入
口の扉を、景は頭を低くしてくぐり抜けた。

 八階入口の防火扉が閉まる、と思った刹那、黒い影が僅かな隙間から飛び出し、画面
の中を通り過ぎた。
「推定時速70==。速度、落ちません」
「ば、馬鹿な! 原付より速いだと!?」
 森田の無感動な報告に佐倉は喘ぎ、慌てて屋上入口前のシャッターを操作した。屋上
付近は失火の危険がないので、鋼鉄製の防火扉はない。夜間に封鎖するためのシャッタ
ーがあるだけだ。最初から下ろしておけば良かったと悔やんでも、もう遅い。まさか、
ここまでの速度で上がってくるなどと、想像もつかなかった。いや、判断の甘さだ。佐
倉は、荒光景が水島弟と他二人を倒すところもモニターしていた。そこで奴が見せた超
人的な運動能力、それのデータを計算し限界値を測定し、対応策を練っておくべきだっ
たのだ。
 佐倉は、再び画面を切り替えた。モニターの中、その緑色のシャッターが閉まるのは
、やけに遅く感じられた。

 廊下に走り出た景は、数十m先で、防火扉とは違うシャッターが降下しているのを目
視で捉えた。
「あれで、ラストか!」
 身を起こすと、再び景は二本足で走った。速度はまるで落ちること無く、むしろ上が
っていく。八階にあるのは倉庫のような教室ばかりで、何もない。無論、殺風景な廊下
にも障害物など存在しない。数秒も経ずして、景は廊下を通過し、降下しつつあるシャ
ッターをくぐり抜けようとした……その瞬間。
 全身に激痛が走り、景はたたらを踏んだ。よろめいて態勢を立て直そうとし、しかし
支え切れず廊下に横転する。いつの間にか、鈴の音は鳴り止んでいた。
「ぐ……あ!」
 先程まであれほど漲っていた力が、見る間に抜けていく。身体中を凄まじい筋肉痛が
襲い、骨が悲鳴をあげている。一瞬、ブラックアウトしかけ、景は必死で意識を保とう
と、痛みに集中した。
「ちくしょう、もう、時間切れか! まだ、何分もたってねえぜ……!」
 毒づきながら、景は廊下を這いずった。顔を上げるとすぐ目の前に、五段程の階段と
扉が見えている。屋上は目の前なのだ。
 だが、その時、降下を終えたシャッターによって、景の右足首は床に挟まれ固定され
た。
「は、はは、やったぞ!」
 あと一秒なかっただろう。それほどのタイミングで、荒光景は最後のシャッターに捕
らえられた。モニターに足を挟まれ、もがいている青年が映っている。佐倉は安堵のた
め息をついた。
 もしも屋上までたどり着かれると、校舎外部にある非常階段で、脱出されてしまう所
だった。佐倉は腕の時計を見た。深夜0時まであと10分である。宮田にはそれまでに荒
光だけでも捕らえるように、厳命されていた。だが、それも完了だ。
 もう一人の不穏分子、掛川多岐美はまだ地下をさまよっているだろう。理事長にとっ
ては最大の標的だったあの保健室登校児も、宮田にとってはどうでもいいらしい。もう
一度荒光と合流する事がなければ、捨てておいていいと言われていた。
「さて、そろそろ、我々も脱出の用意をしましょうか。森田先生」
 あらゆる事に無反応な教師に、佐倉は声をかけた。宮田はこの人間コンピュータの処
分は命令しなかった。佐倉はそれを嬉しく思う。
 この十年間に渡る、殺人ゲーム。その天才的な頭脳と記憶力、分析能力を買われて参
加した森田俊紀という希望に燃えていた新任教師は、他の教師ほどに殺しにのめり込む
事が出来なかった。毎年、十月九日が来る度に脅え、仲が良かった佐倉に、いつも悩み
を打ち明けた。自分たちのしている事は、正しいのだろうか。この元生徒を殺す事が、
本当に日本の教育を変える事につながるのだろうか、と。
 最初の数年は、佐倉も親身になって話を聞いてやった。彼自身、同じ悩みを抱いてい
た。疑問ではなく、理事長の復讐という真の意図を知っていたがゆえ、その欺瞞とそれ
に加担する自分に苦しんでいた。だが結局、佐倉も血の誘惑に屈した。自分の生み出し
た巨大な鋼鉄の門、「ヘブンズ・ゲート」が人間を叩き潰すのを目の当たりにした時、
佐倉の心は愉悦に酔った。
 四年が過ぎた時、佐倉は、森田に何もかも告げた。自分が殺しを楽しんでいること。
理事長がどうしてこのゲームを始めたか。四年前に荒光景と掛川多岐美という生徒がや
った事。それ以前に、理事長の娘がひそかに犯し続けていた罪。六年後に最後の標的と
なる二人の事。それらを告げた後、佐倉は森田に、それら全ての証拠となる「あれ」を
見せた。
その日以来、森田は心を閉ざし、生きた計算機となった。
 一人暮らしで身寄りの無かった森田を、佐倉は同じく一人住まいだった自分の家に引
き取った。以来、身の回りの世話も一人でこなし、ずっと二人で、この学校に通い続け
ている。
「さあ、立って下さい。宮田先生の所に行きましょう。ヘリが待ってます」
 佐倉は、森田の側に歩み寄り、耳元に囁いた。
「この先には、栄光があります。貴方と私とでなら、組織の頂点にだって立てる。さあ
、一緒に行きましょう。私たちはいつも一緒です!」
自分の言葉に、佐倉は酔っていた。これから先、未来は彼と森田の前に開けていた。
二人の頭脳が、組織の中で勇躍する様を想像すると、佐倉は恍惚となった。今ここで、
森田を抱き締めたいぐらいだった。
 ほとんどそうしかけていたが、不意に、座ったままの森田が口を開き、佐倉は思い止
どまった。
「こちらに接近しています」
「何ですって?」
 佐倉は聞き返した。何が接近しているって?
「当コントロール室入口、接触まであと六秒、五秒」
 思わず佐倉は扉を振り返った。ここに接近する者と言えば、一人しかいない。だが、
入口は鋼鉄製の自動ドア。とうの昔にロックしてある。
「四秒、三秒」
 侵入など不可能だ。扉の前で立ち往生している間に、佐倉と森田は、このコントロー
ル室の奥にある、先ほどから宮田たちが使用している、体育館裏に直結した非常用エレ
ベーターで、脱出できる。
「二秒、一秒」
 カウントダウンを続ける森田を、佐倉が立ち上がらせようとした、その時。
 扉の外で轟音が轟いた。バズーカ砲が至近距離から火を噴いたような、そんな凄まじ
い爆発音。続いて佐倉が見た光景の迫力は、視覚的にもその音に劣らなかった。鋼鉄の
扉がねじ曲がって外れ、室内に吹っ飛んできたのだ。扉の軌道にあった車椅子が、巻き
込まれて引っ繰り返る。
「な、何だと……!」
 つい一分前、荒光の人間離れしたスピードを見た時に匹敵する衝撃だ。佐倉は呻き声
を上げて、突っ立っていた。扉に遮られていた空間、暗い廊下。最初に目に入って来た
のは、こちらに向けられた掌だった。
 掌は視界からすぐに消え、代わって全身が現れた。青いパンツスーツを着た細身の女
が、ゆっくりと息を吐きながら、室内に歩み入ってきた。
「コントロール室に侵入者。目視で確認。……侵入者、掛川多岐美と確認」
「か、掛川……!」
 彼の元生徒は、全くの無言だった。冷ややかな怒りを込めた眼差しを彼に向け、一歩
を踏み出して来た。
反射的に佐倉は、ポケットに隠していたバタフライナイフを抜いた。
「うああーっ!」
 叫び声と共に刃を振り出し、女の腹に向けて突き出す。
 女の左手が、素早く伸びた。突き出されたナイフは苦もなく捌かれ、瞬きする間もな
く佐倉の右腕は、掛川の左脇に抱え込まれた。
 掛川の右腕が絡み付き、佐倉の右肘をねじ曲げた。鍛えていない腕は、そのまま一時
の間も置く事なく、容易くへし折られた。
「ギャーッ!」
 佐倉は絶叫し、天井を仰いだ。
 腕を捉えていた掛川の両腕が緩み、正面に立っていた身体が消える。叫び声が途切れ
る前に、佐倉は女が自分の背後に回ったのを知覚した。続いて女の左右の腕が自分の首
に回される。それが佐倉の、この世での最期の記憶となった。
 頸骨のへし折れる鈍い音と共に、理科教師佐倉信介の野望は崩れ去った。

「佐倉先生の生命反応、消失。指示を待ちます」
森田の機械的な声が響く中、多岐美は部屋の中を見回した。床には彼女自身が屠った
者を含めて、死体が三つ転がっている。
恨めしげな表情で宙を睨む、理事長の胴体から切断された頭部を見下ろし、多岐美は
自分を本当に憎んでいる者が、ついにこの世から去った事を実感した。
 逆恨み、と言ってしまえばそれまでだが、自分にはこの老人に憎まれるだけの理由が
あった。結局、直接に言葉を交わす機会は無かったが、水島弟などの言動から考えても
、この同窓会の殺戮の最終の標的が、自分だった事は疑いないだろう。
 十年間、余りにも無駄な血が流れ過ぎた。そして、今日、いずれ来るであろうと思っ
ていた日が訪れても、結局、新たな血が流された。自分はそれを防ぐ事が出来なかった
。全ての原因は自分であるという思いが、今でも心から消えない。
 だが、それでも多岐美は、十年前に自分がした事について、後悔はしていなかった。
ただ恐れ、脅え、生きる勇気さえ無くしていた自分に、かすかな光を投げかけてくれた
彼。その彼を守り、消える事の無い罪を負った事を、彼女はむしろ誇りに思う。あの時
、ゆっくりと死んでいくだけだった自分の心は、生き返ったのだ。
そして今日、彼は逃げもせずに共に戦ってくれた。十年前のように、自分に勇気を与
えてくれた。
 ここに来る時、彼がたとえ狙われても、もう巻き込むまいと思っていた。罪を背負う
のも戦うのも、自分だけで充分だと思っていた。それなのに、知らず知らず彼に頼って
いた。結局、自分一人で出来る事など、限界があるという事だ。
 だからこそ、もうこれ以上、彼に傷ついて欲しく無かった。
 残る教師は三人。体育の水島、生徒指導の山野、そして……。
 多岐美は、先程まで佐倉が座っていた、モニターの前に駆け寄った。セキュリティシ
ステムは、プログラムは複雑だが、操作自体は難しくは無い。メニュー画面を呼び出し
、全校舎を平日モードに移行させる。
 これで、ほとんどのセキュリティ設備は停止したはずだ。授業のある通常時に備え、
防火扉は解放され、電流はストップし、あの物騒極まりない校門も、もう動く事は無い
。これで、この学校から脱出する事は容易になった。
 しかし、まだ全てが終わったわけではない。再び多岐美は、横たわる理事長の死骸を
見下ろす。
最高権力者であったはずの人間の死。そして、一時間程の間に炎の中に没するであろ
うこの学校。これらの事は、一つの事実を指していた。
「組織が、とうとう動いた……」
 この中学は見切りをつけられ、不要な人間は証拠隠滅のために抹殺されたのだ。日本
の教育全てを支配しようとする、あの組織によって……。その組織の人間は、あの教師
然としない男、宮田でしか有り得ない。
 逃がすわけにはいかなかった。今、組織の幹部を逃がせば、またどこかで同じことが
繰り返されるだろう。それを許すわけにはいかない。
 多岐美は部屋の奥を振り返った。隅の方に、この地下に下りて来た時に乗った物に似
た、小さなエレベーターがある。地上に通じているはずだった。
「指示を待っています。次の指示を待っています」
 十年前、新任教師だった森田を、多岐美は見下ろした。この学校の教師で、最も良心
と言える物を持っていたのが、この男だったのだろう。それゆえ、現実から目を背け、
己の世界に閉じこもった。
「指示ありませんか。佐倉先生」
 森田の頬を、一粒の涙がつたった。その時、多岐美は既に、エレベーターに向けて走
りだしていた。

 足を捕らえていたシャッターが、そこかしこで聞こえ始めた機械音に合わせ、天井へ
消えていった。
「間に合ったか、ありがとよ……」
 聞こえるはずもない礼を言うと、景は足を引きずりながら立ち上がった。校舎中が機
械の駆動音で振動している。下の階で閉ざされていた防火扉も、今一斉に開いているの
だろう。多岐美がセキュリティを解除したのだ。
 だが、景の肉体は既に限界に達しようとしていた。一回目までは筋肉痛だけだったが
、先程、二度目の鈴を使い、今度は全身の骨が悲鳴を上げていた。当然、スタミナも限
界だ。一歩踏み出すごとに、脂汗が顔を滴る。呼吸も続かない。
「くそっ」
 景はやっとの思いで目の前の小さな階段を上がり、屋上へと続く扉を開けた。
 戸の真上に明かりが点いており、照明は確保されている。入口からほど近い所に、桜
本千春は転がされていた。両手両足は縛られ、猿轡を噛まされている。意識は失ってい
ないようだ。見開かれた目が、景の方を向いている。
「くっ」
景は入口をくぐると、彼の方に歩み寄った。
「待ってろ、今、外して……」
「ンーッ!」
 不意に、桜本がうなり声を上げ、身をよじった。景は背後に気配を感じた。それと同
時に、背中に衝撃が走った。
「……ぐ、あっ!」
 熱鉄のような痛みが背中を駆け抜け、刻み付けられた傷口から、血が噴き出した。景
はよろめき、膝をついた。
「よくここまで来たな。御褒美だ。花丸のかわりにとっとけ」
 耳慣れた声が耳朶を打つ。屋上までたどり着いた安堵感と、体力の消耗で、注意力が
鈍っていた。景は、屋上の隅に潜んでいた山野の気配を、まるで捉える事が出来なかっ
たのだ。
「貴様……!」
 景は向き直って、立とうとした。だが、力が入らない。入りようがない。背中に鉈で
一撃見舞われ、今も大量に出血しているのだ。
「じゃあな、荒光。桜本。この学校と共に消えるがいい」
 山野は景に止めを刺そうとはしなかった。踵を返して、校舎の中に消えて行く。景は
出血で霞む目で、それを見送るしかなかった。
 足音が遠くなるのを聞き届けると、景は桜本に近づき、震える手で手首の戒めを解い
た。「だ、大丈夫!?」
桜本は猿轡をかなぐり捨て、足の縄を自ら解くと、力つきて倒れ込んだ景を助け起こ
した。
「平気だとは言えないな……ぐ!」
 口を開くと、背中に激痛が走る。
「立てる? 早く逃げないと、ここは危ない!」
「……?」
 桜本は、景の無言の問いかけに、屋上の隅を指し示した。ごくごく原始的な物だ。だ
が威力は充分なのだろう。
 そこにあったのは、大量のダイナマイトだった。何本もの筒から導火線が伸び、デジ
タル表示のついた時限装置らしい時計のような機械に繋がっている。
「校舎のあちこちに仕掛けてるって、言ってた。学校を吹き飛ばして、逃げるんだって
。」これからは組織の一員だとか、わけのわからない事も言ってたけど」
 助け起こされ、肩を貸されながら、景はそれらの台詞を薄れそうになる意識の中で聞
いていた。

 幾度か意識が飛んだのだろうか。気が付くと、景は校舎の階段を下りていた。耳元で
桜本の声がする。
「ずっと、教室のロッカーに隠れてたんだ。あの、掃除用具の入ってる……。でも、な
んだか簡単に見つかっちゃってさ。昔、水島くんや誰かに閉じ込められたのを覚えてて
、凄く嫌だったんだけど、でもここなら見つからないって思って。なのにあっさり。閉
じ込められた時はいくら叫んでも、誰も見つけてくれなかったのに……」
 そうだ。たしか景も、十年前に理科準備室に閉じ込められた。
「その手の鈴、何? 全然、音がしないけど」
 こんな時によく喋る奴だ、と朧げな意識下で考えながら、景は、
「猫の、形見」
 とだけ答えた。宙を漂っているような感じだ。激痛を発している肉体を放りだして、
意識だけが果てしない闇の中を彷徨っている。
「ふーん、名前は?」
 名前。そうだ。彼には名前があった。初めて同じベッドで一緒に寝た日に、景が名付
けたのだ。
「たきちゃん……」
 そう答えた瞬間、景の意識は十年前に飛び、瞬時に現代へと舞い戻ってきた。
「そういう、ことだったのか……」
 痩せた少女が、彼の目の前で、涙を拭って微笑み、こう言っていた。
「似てるね、私の名前と」
 途切れそうな意識の中で、ようやく全てが繋がった。自分があれほどにこの学校を恐
れたわけ。教師たちが多岐美を狙うわけ。全ての答えは、無意識の海に沈んでいた。も
っと早くに思い出しているべきだった。多岐美は今日、たった一人でこの秘密を背負っ
ていたのだ。
「おい……」
「何だい?」
「悪いが、理科室によってくれ」
「え、でも」
 桜本の頼りない肩によりかかるようにして、景は囁くような声で言った。
「時間は、かからない。頼む」

カエルのホルマリン漬けの標本が並んだ準備室は、何もあの時と変わっていなかった
。十年前、水島栄吉が彼を閉じ込めた時と全く同じだった。
 桜本が手をかけると、部屋の一番奥の本棚は、音も立てずに容易くスライドした。裏
には鋼鉄の扉がある。それも鍵はかかっていない。あの時のままだ。
 二人は地下へと続く階段を降りていった。十七段。突き当たりに扉がある。
「それも、開けてくれ」
 景に促され、桜本はその扉も押し開けた。
 室内は明かりが点いていた。裸電球の明かりの中、それらはあった。十年前はたった
一つだけだった。だが、今では十数個に増えている。十数組の目が、景と桜本を見てい
た。生者を憎むように。あるいは慈しむかの如く。
「こ、これは……!」
 景の身体を支えている桜本の身体が、瘧のように震えた。彼の震えは景にも伝わる。

「これが、この十年間、奴ら教師が、やり続けて来た事だ」
 狭い部屋の端の棚に、標本が並べてあった。ホルマリンに漬けられた標本。液体の中
に浮かんだ標本。
 それは、人間の頭部だった。
 ネームプレートを添えられた、二十歳そこそこの男女の首。この十年間、この中学の
同窓会に訪れ、そして消えた者たちは、皆ここにいた。漂白されたように白くなった皮
膚、白濁した眼球。男は丸刈りに、女はおかっぱにされた頭髪。死して胴体を失っても
、彼らはまだこの学校に縛り付けられていた。
 景は、棚の一番上の段を見上げた。その一番端に、他の者とは明らかに違う標本があ
った。そこにある首は、生前はせいぜい十三歳程度の少年だっただろう。十年前、景が
見たのは、これ一つだった。
 同窓生ではない。おそらく在学中に殺されたのだ。教師によって。
 十年前、この標本の生首を見た景は、ここを飛び出し、意識を失った。そして……。

 景は、視線を下げた。棚の下の方に、何も標本の入っていない、これから入る予定で
あったろう瓶が、二つ置いてある。それらにも、ネームプレートが添えられていた。景
は、靄のかかる目で、そこに書かれている名前を読み取った。
 "荒光景"。"掛川多岐美"。

 死者の匂いの立ち込める部屋を後にし、景と桜本は保健室に向かった。
 傷の手当のため、などではない。十年前の、この中学での最後の記憶。それは保健室
にあった。
 今日、最初に多岐美と閉じ込められた場所だ。戸を開けると、かすかに薬臭い匂いが
する。景は中に踏み込むと、奥にあるカーテンで仕切られたベッドに、目をやった。
「カーテンを、開けてくれ」
 さっきは戸を開けたら大変な物があったので、おっかなびっくりにだが、言われるま
まに桜本は手を伸ばし、カーテンを開けた。そこには、ベッドが二つ並んでいるだけだ

 理科準備室に閉じ込められた日。その日の朝、十三歳の景は保健室に行った。理由は
覚えていない。転んだのか、殴られたのか、腹が痛かったのか、ただ教室にいたくなか
ったのか、どれかだろう。
保健室に入ると、ちょうど、授業のある時間帯だったからだろうか。保健の女教師は
いなかった。代わりに、部屋のどこかから、すすり泣くような声がした。
 カーテンの向こう、ベッドに座って、誰かが泣いていた。ためらいながらカーテンを
開けると、そこには一人の見知らぬ痩せた少女がいた。
……その時、何を話したのかはよく覚えていない。その時、知ったのは、その顔も知
らぬ少女が、実は自分と同じクラスだったという事だ。彼女は不登校になりかかってい
て、毎日保健室に来るだけだったから、知らなかったのだ。
 話しながらも涙を流す少女に、景は持っていた猫の写真を見せた。彼のたった一人の
友達だった猫の写真。手渡すと、少女はそれをまじまじと見つめた。景は何か、その猫
について話したと思う。ひょっとしたら、誰にも秘密にしていた、夜の散策についてま
で喋ったかもしれない。その時、少女は、こう尋ねた。
「この子、名前、何て言うの?」
「たきちゃん、て言うんだ」
 景が答えたその時、少女はようやく涙を拭い、微かに微笑んでこう言った。
「似てるね。私の名前と」
 少女の名は、掛川多岐美といった。
その日の放課後、理科室であの悪夢の標本に遭遇した景は、叫び声を聞き付けた何も
知らない管理作業員によって、保健室に運び込まれた。
 その時、保健室にいたのは、少女ではなく保健の教師一人だった。作業員を追い払う
と、その中年の女教師は意識を取り戻しかけた景を、ベッドに横たえ……そして縄で縛
り付けた。景は、自分が悪魔の懐に抱かれているのに気づいた。
 もがく景を見下ろしながら、女教師は鼻にかかった声で言った。
「あれを見ちゃったのか……。ちゃんと、鍵かけとけばよかったなあ」
 どことなく幼児的な喋り方だったのを、今でも覚えている。
「あれ、どうだった? 好い出来だと思わない? あの男の子、気分が悪いって言って
、ここに来たの。だから、注射打ってあげたんだけど、そしたら死んじゃってね。パパ
が組織ってとこにお金払って、もみ消してくれたから、大騒ぎにはならなかったけど。
もったいないから、記念に標本にしたの。だって、人殺したのなんて、初めてだったか
ら」
 その教師は笑顔で景の周りをスキップしながら、注射器を取り出した。
「あなた、荒光君だっけ。あなたもなんか調子悪いみたいだし、注射したげよっか」
 周囲を見回すと、顔のすぐ側に何本もの光り輝くメスが並べてあった。景は叫ぼうと
したが声が出なかった。恐怖で口の中が乾ききり、ひび割れていた。
「痛くなんかないからね。あの男の子も切っても痛がらなかったから。まあ、死んだ後
だったけど」
景の剥き出しの右腕に、女教師は注射針を刺そうとした。その時。
「やめて!」
 叫び声とともに、部屋の隅、カーテンの陰から、あの少女が飛び出してきた。女教師
は突き飛ばされて注射器を落とし、激昂した。少女の細い首を肉の厚い手で掴むと、締
め付けた。
景はただ見ているだけだった。自分を守ろうとした少女が、危機にさらされているの
に、何も出来なかった。
「このバカガキが! 何で邪魔すんだよ!」
教師は叫び、なおも強く締め上げた。その時、少女の手は宙をまさぐり、手近にあっ
たメスをつかんだ。
全くの防衛本能からでた行動だっただろう。少女は、メスを教師の喉笛に突き立てた
。メスが刺さった瞬間、教師の表情は凍りつき、抜かれた瞬間、何故というような表情
が浮かび、そして血飛沫が上がった。
返り血を浴びた少女は振り返り、景に、
「もう、大丈夫だよ」
 と囁いた。
 その後、病院に運び込まれた景は、その時の全ての記憶を失っていた。富田芳子とい
う、理事長の実の娘であった保健教師の死は、事故という事で処理された。
封印された記憶は心の奥底で、学校への恐怖というかたちを取った。景を救ってくれ
た少女の記憶もまた、封じられた。
十年間、ずっと景は忘れていた。中学から逃げだし、心の隠れ家を造る事によって、
重荷を背負う事なく生きて来た。今日、この学校に来たのも、罪悪感に駆られての事だ
ったのかも知れない。自分を救い、自分の代わりに殺人という重荷を背負い続けてくれ
た、少女に対しての。
「あいつの所に、行かないと」
 景は、肩を貸し続けてくれている桜本を促した。もう一度、彼女に会わなければなら
なかった。会って、話したかった。そして、彼女に預けていた物を、返して貰わなけれ
ばならなかった。
時刻は、この時、深夜0時を回った。

続きへ。