第三章  破裂

         1

 校庭に立っていた四人の目は、自然とその音のした方向に向けられた。虚空に吸い込
まれるでもなく、その澄んだ鈴の音は、周囲の校舎の壁に反響し、その場に鳴り響いた

その音色は、どこか抗い難い響きを持って、多岐美と、三人の教師の注意を引いた。
 その視線に囲まれ、景はゆっくりと立ち上がった。
「ふ、ふん、ようやく立ったか」
 一瞬、魅入られたようになっていた水島栄吉は、首を振って景を睨みつけた。
「腰抜けには、そろそろ退場してもらうぞ!」
 だが、側にいる多岐美の目に映った景は、水島の言う事など、聞いていないように見
えた。妙に覚めた表情で立ち上がると、そのまま微動だにしない。いや、右手だけが、
鈴のついた右手だけが、微かに揺らいでいる。景は目も閉じた。彼の意識は、鈴の音色
のみに集中しているように見えた。
 バイクの教師二人が、威圧するようにエンジン音をふかす。片手でボウガンを構えた
まま、スロットルをかけ、突撃態勢を取る。
「く……」
 数秒後の攻撃を予想し、多岐美は少し腰を落として身構え、スーツの上着の内ポケッ
トに手を突っ込んだ。
 その彼女を、遮る手があった。
「……下がってろ……」
一瞬、別人かと思った。あまりに冷たい、暗い印象の声だった。いつの間にか目は開
いている。その目には、明らかな憎悪の光が渦巻いていた。
 景は身構えた多岐美を左手で遮ると、無造作に歩を進めた。
「ちょ、ちょっと!」
多岐美は止めようとしたが、既に景は数歩先に進んでいた。いつの間にか、鈴の音は
鳴り止んでいた。
 自分に向けられたボウガンにも、景はまるで頓着する様子がない。彼の薄い唇には、
笑みすら浮かんでいた。
「何がおかしい!」
 それを見て、水島が激昂して叫んだ。教師に限らず、男という生き物は、笑われるの
が嫌いなものである。まして、笑っている相手が、自分よりレベルが低いと思っている
者なら……。
「ククククク……」
 景の口から、ついに笑い声がもれた時、他の教師たちも頭にきたか、ボウガンを構え
たまま、爆音とともにバイクをスタートさせた。先ほどの様に円を描く動きで、景の周
囲を走行する。さっきと違うのは、多岐美が円の外にいるという事だけだ。
「ククク……ハハハハハハハ、ハハハハハハハハハ!」
だが、自分を押し包んだ砂塵を、まったく意に介する事なく、景は笑い続けた。
「笑い死にするか……。それもいいだろう」
 バイクの教師の一人が呟き、ボウガンの引き金に指を掛けた。景の側面から、矢が放
たれる。
 景は逃げようともしなかった。矢は、彼の身体をわずかにそれ、校庭の地面を跳ねた

「……?」
元から、威嚇のつもりだったらしい。しかし、景は避けるそぶりも見せず、ただ立っ
ていた。
「まさか……矢の軌道を見切って?」
多岐美は息を飲んだ。
「今のは、わざと外してやった。だが、今度は当てるぞ。せいぜい、逃げ回ってもらお
うか!」
バイクの教師が、挑発するように叫ぶ。彼らは気づいていないようだ。彼らが今、相
手にしている男の危険さに……。
 走行する二台のバイクから、ほぼ同じタイミングで矢が発射された。景はその場で一
歩動いた。矢は再び、彼の足元の大地を跳ねる。
 景は哄笑を発するのを止め、教師の一人を目で追った。ヘルメットを被っているので
、教師の表情は見えない。だが、多岐美から見ても、明らかに戸惑っているようだった

 もう一発、教師は今度は景の上体を狙って発射する。景はその場で少し胸を反らした
。その胸元を矢は通り過ぎて行く。
もう業を煮やしたか、景の視線に圧迫感を感じたか、バイクの教師の一人は、まだ数
発の矢が残ったボウガンを投げ捨てた。両手をスロットルに掛け、速度を上げる。円形
の軌道を崩し、一度Uターンすると、正面に景を見据えた。そこでさらにスピードを上
げる。爆音と共に、バイクは景に向けて突っ込んだ。
 景は、その場で少し腰を落とす。
「死ね!」
バイクの教師は叫んだ。その瞬間、景の姿は彼の視界から消失した。
「なっ!」
 だが、驚愕の呻きを上げそうになった瞬間、再び景は現れた。教師の目の前、バイク
のハンドルの上に。
 跳躍した後、左足だけで、走行するバイクの上に降り立った景は、腰をひねるとその
左足を軸に、身体を独楽のように一回転させた。旋回して襲いかかった右足のかかとは
、正確に教師のヘルメットの側頭部を捉えた。
悲鳴を上げる間もなく、教師はバイクから叩き落とされ、地面に這った。
 乗り手を失い、衝撃で安定を失ったバイクから、景は再び跳躍する。バイクは横倒し
になり、慣性で校庭の隅まで滑っていった。
校庭に着地した景を、もう一人の教師のボウガンが襲った。その教師はバイクから降
り、正確に狙いをつけようとしていた。だが、当たらない。先ほどと一転して、景は目
まぐるしく動き始めた。着地したその場から後方に飛び、そのままトンボを切って宙返
りをする。矢はその軌跡を追うが、彼の身体を捉える事が出来ない。
 最後の矢が放たれた時、景は不意に動きを止めた。飛来する矢を、かわしざまに素手
で掴む。
「あ……」
茫然となったように、教師は装填すべき矢の無くなった手のボウガンを、地面に落と
した。景も矢を落とし、その教師に歩み寄る。
「う、うあああーっ!」
 教師は景に向かって走った。走りながら、右の拳を振り上げる。景もそれに向けて真
っすぐに疾走した。
 両者が激突する寸前、お互いの右の拳が宙空で交錯した。
 骨の砕ける、鈍い音がした。教師のパンチは、景の右耳をかすめて空を打っていた。
そして、景の右拳は交差法でその教師の顔面にめり込んでいた。フルフェイスヘルメッ
トの風防を打ち砕き、その下の生身を完璧に粉砕していた。
「けへっ」
 顔面を打ち砕かれた教師は、血の混じった声を出し、グラウンドに崩れ落ちた。
 最初に教師がボウガンを撃ってから、一分も経っていない。その間、多岐美はただ茫
然と見ているだけだった。
それは水島弟も、同じだった。
「そ、そんな、馬鹿な……」
二人の教師を屠ったかつての同級生が、彼の方に向き直るのを見て、水島は喘いだ。

「あ、荒光景は、虚弱体質の、不登校児のはず、こ、こんなはずが……」
 景は、哀れみすら感じさせる目をして、首を振って言った。
「何年前の話だ?」
十年の月日が経っていた。時代は変わる。人も変わる。荒光景という男も変わった。
ただ、教師だけが変わっていなかった。
「あ、荒光のくせに……」
 青白かった水島の顔色が、じょじょに赤く染まりつつあった。屈辱感による怒りが、
驚きと恐怖を凌駕し始めているようだった。
景は笑みを浮かべていた。その怒りを歓迎するかのように、両手を広げた。
「さあ……」
 来いよ、と景が差し招いた時、水島栄吉の理性のたがは吹き飛んだ。口から泡を吹い
て、襲いかかる。
 振り下ろされた水島の拳が、鷹揚に構えていた、景の頬に炸裂した。景はパンチの衝
撃でのけ反り……そして、その場で縦に後方に回転した。
 間合いが開いたと思った瞬間、景の左足が振り出された。スニーカーの爪先が高々と
跳ね上がり、水島のこめかみに食い込む。
「がっ!」
 よろめき膝を突いた水島の鼻面に、今度は右膝がめり込む。さらに景は、その場で旋
回した。再度の左後ろ回し蹴りが、首筋に一閃した。

 骨の砕ける鈍い感触が左足に伝わった。
 目の前で、水島栄吉は校庭に崩折れた。校庭を照らし出していた照明が、まるで幕の
終わりを宣するかのように消灯する。暗闇の中で、二つの息遣いだけが響く。
「殺した……」
 首をねじ曲げ地面に横たわった、水島の死体を見下ろし、景は呟いた。
「正当防衛でしょう」
 背後から、多岐美が歩み寄って来たのを感じ、景はそちらに向き直った。闇の中で、
彼女は少し青ざめているようだった。だが、冷静だった。取り乱したりはしていない。

 俺も冷静だ、と、景は胸の内で呟くと、頭を振った。
「違う。俺は、殺したかったから、殺したんだ。取るに足らない相手だった。寸止めす
ることも、大怪我だけですませることも出来た」
「……後悔してる?」
「いや……」
戦っていた時の自分を、景は鮮明に思い出せる。多くの人間を手に掛け、なおもエゴ
を垂れ流しにし、景の命をも奪おうとした教師たちに対して、たしかに景は怒っていた
。だが、それ以上に、私怨があった。昔、自分を傷つけ、辱め、虐げた水島栄吉という
男を、景は忘れようとしていた。だが、水島が殺意を持って迫ってきた時、封じ込めて
いた怨念が噴出した。
教師たちが殺戮者だと解った時、景は心のどこかで納得すると同時に、大義名分を得
たように感じた。これで遠慮なくこいつらに復讐出来る、と。バイクの教師を倒した景
に、水島が脅え始めた時、景は落胆しかけた。向かって来て欲しかった。あくまで傲岸
に不遜に、景を罵って襲って来て欲しかった。そうでなければ、殺せないから……。
水島を蹴る一撃毎に、かつての憎しみは消えていった。水島の恐怖の表情は、ある種
の愉悦をもって景の胸に焼き付いた。
 景はよろめき、両膝を地面に突いた。今の戦いで、肉体は極度に消耗している。
 多岐美はバイクの教師らに近づき、ひざまづいている。生死の確認をしているのだろ
う。「これで、四人」
 立ち上がって、多岐美は景に向き直った。
 桜本をさらい音楽室で襲った仮面の襲撃者は、音楽教師である福井浅代(ふくいあさ
よ)だった。その福井は桜本の抵抗にあい、オルガンの下敷きになって死んだ。
 そして、今のバイクの教師二人と、水島栄吉。これで四人の教師が死んだ。多岐美は
そう言いたいのだろうか。
「この学校に今いる教師は、残り七人。多分、全員が関与してると思う。……全員、倒
さなければ、ここからは出られない」
「……冷静だな」
肩で息をしながら、景は歩み寄ってきた多岐美を見上げた。多岐美は冷たい目で、景
を見下ろした。その目は、何の感情も感じさせない。隠しているのか、それとも何の感
慨も無いのか。わからなかった、が、少なくとも人殺しを見るような、脅えた目ではな
かった。それだけで、景は充分だった。
「相手は、私たちを人間だとは思ってない。昔からね。こっちもその気でいないと、殺
される」
そう言うと、多岐美は景に手を差し伸べた。
「動けるようなら、ここから離れよう。すぐには襲ってこないと思うけれど」
「……ああ」
本当に彼女は落ち着いている。景は、先の事など考えていなかった。ここから逃げ出
す事も、教師たちの再度の襲撃も、頭には無かった。あったのは虚無感だけ。だが、彼
女は
同窓会で教師が襲って来るという異常事態にも、まったく混乱している様子がない。ま
るで、こうなる事をあらかじめ予期していたようだった。
景は、自分たちを襲い同窓生の何人かを手に掛けているのが、教師だと知った時、む
ろん驚いた。だが、心のどこかで納得もした。彼にとって、この中学校とはそういう場
所だった。なるほど、この教師たちなら、俺を殺そうと考えるかも知れない、と漠然と
だが思った。
だが、多岐美はまた少し違うようだった。この状況を把握し、対処策まで考えている
ようだった。
景は、彼女の手にはつかまらずに立ち上がった。多岐美は彼に背を向け、先ほど出て
来た校舎本館に向けて歩きだした。景も、おぼつかない足取りでそれを追った。

「復讐させろ!」
凄まじい怒号が、機械的な室内に響いた。
 そこは、一般的に「彼ら」が、中央コントロール室、と呼んでいる部屋だった。無数
のディスプレイ群と、それらを操作するキーボード、スイッチの類い。壁面やデスク、
モニターに無数に表示されたデジタル数字。映し出された映像は、全て学校内に設置さ
れたテレビカメラの撮影した映像である。校内を管理するセキュリティも、全てここで
操作されている。
そこに、「彼ら」七人は集まっていた。ある者は押し黙っており、ある者は沈痛な表
情をしている。そして、ある者は怒りをあらわにしていた。
先ほどまで被っていた、プラスチックの笑い顔の仮面と黒ローブをかなぐり捨て、水
島剛史は怒りに駆られたように歩き回っていた。怒号し、部屋の隅で腕を組んで立って
いた山野隼雄に詰め寄る。
 山野は迫る巨漢に向けて、侮蔑に満ちた視線を向けると、吐き捨てた。
「馬鹿が……。荒光を殺す、と優先権を主張したのはおまえの弟だ。おまえもそれを認
めたはずだ。弟が、ほんのねんねだって事を知っていてな」
「うるさい! あんたと言えど、これだけは譲らんぞ。奴は俺が殺す!」
 唾を飛ばして叫ぶ水島から顔を背けると、山野はモニターの前に座っている男の一人
に、声をかけた。
「森田先生、荒光景のデータは?」
森田と呼ばれた男は、声をかけられてもしばらく反応を見せなかった。いや、そもそ
もこの男は、先ほどから水島が大声で怒鳴っていても、何の動きも取らなかった。さっ
きからただ、ぽつねんと座っているだけだった。
 やがて、その男は口を開いた。
「荒光景。一年三組。年齢、十三歳。性別、男。身長、152==。体重、49==。偏差
値、56。数学の偏差値……」
「もう結構」
 山野が言うと、森田はすぐに口を閉ざした。口を開いていた間、男は瞬き一つしない
。声を出す以外の事を知らないかのようだ。
 水島を睨んで、山野は言った。
「こんな十年前のデータを頼りにしたのが、間違いだったな。奴は昔とは違う。同窓会
の時、おまえの弟を挑発していた時に、気づくべきだった。栄吉では役不足だった。死
んで当然だ」
「弟を悪く言うと許さんぞ!」
「……落ち着いたらどうですか」
 静かな男の声が割り込んだ。部屋の入り口近くに、車椅子の老人が座っている。声を
発したのは、その後ろに立っていた、まだ若い、インテリ風のメガネをかけた男である

「宮田さんよ。監視役は黙っておいてもらおう。これは、俺たちこの学校の教師の問題
だ。ニセ教頭は口だしするな」
水島が憎々しげに言うと、宮田はさも心外だという風に首を振った。
「そうしたいのは山々ですが、今の状況は非常にまずいですよ。彼らが生きてここを出
れば、今までの事も全て明るみに出る。そうなれば、あなたがたは終わりです」
「ふん、荒光も掛川も、ここから逃げることはできんよ。この俺が、一人ずつ始末して
やる」
水島の鼻息は荒い。それに同調するかのように、モニターの側に座っていた痩せぎす
の教師が口を開く。
「それに、この学校の防衛システムは完璧です。奴等は逃げられはしない」
痩せた男は目の前のキーボードを叩いた。正面のモニターの一つに、この中学のもの
らしい、CGの全体図が映し出される。
「この学校の脱出路は一つだけ」
 操作に従い、見取り図の中の正門が拡大される。
「ここには、私の最高傑作、ヘブンズゲートがある。セキュリティを解除しない限り、
南尾進と同じ運命をたどる事になります」
通過しようとする者を探知し、自律制御で開閉してそれらを抹殺する鋼鉄の門。激突
の際の衝撃は数十トンにも及ぶ。
「これがある限り、脱出は不可能。心配には及びません」
「彼らが、ここを狙ってきたら? どうなりますか、佐倉先生?」
 この宮田の問いには意表を突かれたらしく、佐倉と呼ばれた教師は言葉に詰まった。

「確かに、ここを破壊されれば……いや、しかし」
「まあ、待て……」
 かすれた声がし、その場にいた全員が声の主を振り返った。
「理事長……」
 そう呼ばれた車椅子の老人は、一人一人の顔を見回して、言った。
「五人もの聖職者が、あの二人の手に掛けられた。始末する事は決まっている……」
皺くちゃの顔に憎々しげな表情が浮かんでいる。
「だが、遊びはここまでだ。これはゲームではない。粛清だ。社会にへばりついた塵を
、それを送り出してしまった我々の手で抹殺するのが、目的だ。その目的を失い……」

 老人の手が震えながら上がり、床にほうり出されたローブと仮面を指さす。
「そんな物を使ってお遊びをしたのが、間違いだった」
理事長は、水島と山野に目を向けた。
「おまえたち二人でやれ。優先権や取り分など、考えるな」
命を受け、水島はほくそ笑んだ。
「すぐに殺してやりますよ」
 そう嬉しげに言って、指の関節を鳴らす。反対に、山野は渋面になった。
「掛川多岐美は、どういたしましょう?」
「ここに連れてくるのだ。あやつには特に、己の罪を思い知らせねばならん」
その老人の指示に、山野はさらに眉を寄せた。
「……それは、遊びではないと?」
「ぬ……!」
 老人は言葉につまり、山野から目を反らした。なおも、山野は口を開こうとした。が
、その彼に目配せを送る者がいる。老人の背後に立った宮田である。
「言葉が過ぎますよ、山野先生。理事長とて、私情で動いているわけではない。若者の
質の低下による、この国の未来を憂えての事だ。だからこそ、我々も援助をさせていた
だいているのです。そうですね、理事長?」
 言葉とは裏腹に、宮田はそうは信じていないようだ。薄笑いを浮かべ、理事長の白髪
頭を見下ろしている。老人も、答えを返せぬまま、
「むう」
 とうなずいたきりだ。
「あの……」
 ここまで会話に参加していなかった教師が、理事長に向けて声を発した。理事長より
は年下だろうが、同じような枯れた老教師だ。
「何だ、辻くん」
「ビデオ撮影は、続けてよろしいでしょうか。今後の記録に……」
へつらうような媚びた笑みを向ける辻という教師に、理事長は怒りに満ちた視線を向
ける。が、出て来た言葉は、
「好きにしたまえ」
 だった。
「では、行ってまいります」
 山野と水島の二人は、理事長に一礼すると、部屋の戸口に向かった。入り口が音を立
てて、自動的に開く。部屋の外の暗闇に足を踏み出すとき、山野は誰にも聞こえぬくら
いの小さな声で、独りごちた。
「私怨に狂った老人か……やっかいだな。どうするつもりだ……?」

  2

 息が続かない。歩くだけならともかく、走っているとすぐに呼吸が途切れる。先を行
く女の背に引き離されそうになり、無理に足を速める。が、その足に痛みが走り、その
場に膝を突いてしまう。
 数歩先を走っていた多岐美が、後ろの青年の異変に気づいて振り返った。
「どこか、怪我を?」
「いや、すまない。少し、休まないと、動けそうにない」
景は切れ切れにそう言うと、床に尻餅を突き、廊下の壁にもたれ掛かった。大きく呼
吸を弾ませ、喘ぐ。
怪訝そうに眉を寄せ、多岐美が側にひざまづく。怪我一つしていない景が、ここまで
消耗しているのを訝っているようだ。無理もない。つい先ほどまでは平気で走り回って
いたのだから。
 桜本を探して、四階まで戻って来たところで、とうとう景は力つきてしまった。
「さっきの闘いで?」
「ああ」
座っていると、少し呼吸が整ってくる。景はポケットから鈴のついたリボンを取り出
すと、多岐美に見せた。
「これのせいだ。鈴の音を聞いただろう」
「うん」
「催眠術の一種だ。鈴の音に神経を集中し、自己催眠状態に入る。雑念を取り払う事に
よって、自分の潜在能力を限界まで引き出すんだ。だから、あんな離れ業が出来る」
 走行するバイクに片足で飛び乗ったり、ボウガンの矢をかわしたり、素手の一撃で屈
強の大人を殺すなど、並の人間では不可能だ。ある種の催眠術をかけられた人間は、例
えば身体に火を押し付けられても、熱いと感じなかったりする。また逆に、事前に暗示
をかけておく事によって、何も触れていないのに勝手に皮膚が火傷を負うような事もあ
る。人間の肉体は、多分に意識によってコントロールされているのだ。その意識の枷を
取り払えば、常識を越えた能力を発揮出来る。
「噂は聞いた事がある。……高らかなる鈴の音が鳴り響くとき、一匹の獣が召喚される
。前世より現世へ、現世より来世へ、来世より末世へ……。召喚術、コーリング・ビー
ストの法……」
 景は苦笑した。彼自身は、そんな噂は聞いた事が無い。
「という事は、これはその反動なわけだ」
 そう言う多岐美に、景はうなずいた。
「人間は普通、力を抑えてる。自分の身体まで壊してしまわないようにな。それを考え
ずに、肉体を限界近くまで酷使するのがこの技だ。めったに使うもんじゃない」
「今までに、使った事は?」
「……全力でやったのは、初めてだ」
「まだ、使える?」
「何だって?」
 景は聞き返した。我が耳を疑うとは、この事だ。
「殺人鬼の仲間が、まだ残ってる。さっきも言ったように、全員倒さないとここから出
られない。きみの力も必要になるから」
あまりのシビアさに、景は絶句した。彼はもうへばっているし、まだ教師を殺したシ
ョックからも抜け出ていないのに、この女は同じことをもう一度やれと言うのだ。確か
に、それが現実だ。同窓会の後、姿を見ていないが、水島兄や山野が襲って来れば、闘
わざるをえないだろう。だが……。
「何で、そんなに冷静なんだ?」
さっきも考えた事だ。多岐美は、突発的にこの事態にあったにしては、冷静すぎる。
そっけない態度や言葉遣いは元からだとしても、余りに切り替えが速い。
「何か、知ってるんだろう? 俺の知らない事を……」
教えてくれ。そう景が言うと、多岐美は膝を突いたまま、景の目を見返した。彼女の
目にかすかに浮かんだ光は、何だろう。疑念か、戸惑いか。その光を支えきれずに、景
はまた目を反らした。
「その前に、質問に答えて」
「……あと一回が限度だろう」
多岐美の再度の問いに、景は視線を合わさぬまま答えた。これは本当の事だ。体力が
回復しても、もう数時間もしたら凄まじい筋肉痛が襲ってくる。立っていられない程に
。もう一度使えば、確実に限界が来るだろう。
 別段、落胆したような様子も見せず、多岐美はうなずいた。冷めた表情のまま、彼女
も景の側に、腰を落とす。
 正面の窓から月の光が射し込んでいた。女の青白い肌が、その柔らかな光の中に浮か
んだ。そのまましばらく、多岐美は口を開かなかった。景は身じろぎした。隣の彼女か
ら、少し距離を取る。
「今日が、何の日かは覚えてる?」
「え?」
不意に言った多岐美に、景は尋ね返した。今日は十月の九日だ。
「創立記念日。今年で多分、この学校が出来て二十年」
 学校を卒業してフリーターなどやっている景は、曜日の感覚が希薄である。よくよく
考えれば、今日は平日だ。普通なら学校もやっていて、生徒が登校して来ているはずな
のだ。まるで不審に思わなかったが、平日なのに学生がいない。景が不登校になったの
は冬前だったから、この創立記念日も、一度は経験しているはずだったのだが、すっか
り忘れていた。
「九年前から毎年、この創立記念日に同窓会が開かれるようになった。あの時以来……

 あの時とは? 景は尋ねかけたが、多岐美は構わずに続けた。
「毎年、一クラス。一クラスだけが選ばれて、創立記念日にこの学校での同窓会に招待
される。はた目からは、ごく普通の同窓会に見える。でも違うの。大半の人間は、ほん
の二時間がとこお喋りと飲み食いをすれば、帰る事が出来る。でも毎年、この同窓会に
出席した人間の内の、一人か二人は、二度と家に帰る事は無かった」
「何だって? じゃあ、毎年……」
「彼らがどこに消えたのかは、結局わからなかった。同窓会に一緒に出ていた元同級生
は、同窓会の間はずっといた、と警察に証言した。そして、学校に居残っていた教師た
ちは、彼らは最後まで会場にいたが結局は帰った、と証言した。警察はその言葉を信じ
て、学校を出た後の彼らの足取りを追ったけど、何もつかめなかった。彼らはこの世か
ら、忽然と姿を消してしまった」
まるで、暗記してきた事を読み上げるように、多岐美は淡々と続ける。
「警察も、じきに捜査を打ち切った。行方不明になったのは大抵が元不良で、無職でフ
ラフラしてるような人間ばかりだったから。家出か何かで、みんな片付けられてしまっ
た。今でも彼らの名は、警察の失踪人リストに載ってる。捜査、継続中」
 多岐美は目を伏せた。
「私は、この謎を解くために、この同窓会に来た。八年間で、十三人。行方不明になっ
た元生徒たちは、どこに消えたのか……。答えはここにあった」
「殺されたのか……全員」
信じられない事だが、今の惨状を見れば、答えは明らかだ。同窓会が終わってから数
時間、その間に五人の元生徒が殺されている。教師たちによってだ。
「だが、何故?」
もっともな問いである。教師たちが常軌を逸していると言えばそれまでだが、狂人に
は狂人の理屈があるだろう。理由もなしに、自分たちの教え子を殺すなど考えられない

しかし、多岐美は首を振った。
「わからない。さっき、水島が言ってた事しか……」
「あれか。しかし、あんなものは……」
水島栄吉の言った事は、要約するとこうだ。
 資格もないのにこの中学を卒業した者が、社会の塵となってこの中学の名を貶めてい
る。だから、死をもって卒業資格を返上してもらう。
戯言だ。水島がそれを信じていたかどうかは知らないが、殺された者たちが社会に出
てどういう生活をしていたにせよ、中学に汚点を残すような事をしたとも思えない。も
っと納得のいく理由が、別にあるはずだ。
「きみは、彼には随分と恨まれてたようだけど、なぜ?」
 どうもこの、「きみ」という呼び方は気に食わないな、と思いつつも、尋ねられて景
は考え込んだ。
「……さあな。俺は昔、あいつにはやられっぱなしだった。殴られ放題の蹴られ放題。
弱かったからな。まともに抵抗した事なんて無かった。あいつにとって、俺は塵みたい
な存在だったと思う。ただ……」
「ただ?」
 不思議だった。景は、こんな事を今まで人に話した事は無かった。嫌な思い出だった
事ももちろんあるが、何より自分の弱さが恥ずかしかったのだ。肉体的に強くなった今
でも、それは変わらないはずだった。だが、なぜかこうして話している。思い出すのも
嫌だった、屈辱的とも言える事を、こだわらずに話している。
 やばい状況で冷めてしまったんだろうか、と思いながら、景は答えた。
「俺は殴られてても、あいつを馬鹿にしてた。奴は理由もなく俺を殴ったと思っていた
が、違った。あいつは俺が心の中で馬鹿にしてるのを、知ってたんだ。体育教師の弟だ
って事を鼻にかけてて、おんなじような体育会系で、おんなじように暴力を振るって、
俺みたいなよわっちかった奴を殴って粋がってた。俺はそんなあいつを、低レベルだっ
て馬鹿にしてた。奴も、レベルの低さはわかってたんだろう。奴は自分に、コンプレッ
クスを抱いてたんだ」
 そこまで言って景は、事の真相が少し見えたような気がした。
 桜本は、音楽の教師にバイオリンで殴られ、バイオリンの弦で首を締められていた。
なぜあの福井という教師は、そこまでバイオリンにこだわったのだろうか。
かつて、桜本はこの福井にバイオリンを壊された事があった。その時と同じなのだ。
福井はバイオリンが弾けなかった。その事に対して、桜本にコンプレックスを抱いてい
た。
だから、彼が中学生時代にバイオリンを持ち込んだ時、それを壊した。そして十年たっ
た今、バイオリンを凶器にして桜本を殺そうとした。
これらの事は、全てつながっているのだ。福井の抱いていたコンプレックスは、景が
思っていたよりもずっと根深かったのだろう。十年もの間、憎しみを持続させ、そして
今日、一気に爆発させたのだ。
水島弟にしても同じだ。彼の場合は、十年も根に持ち続けていたわけではないだろう
が、今日になって景と顔を合わせてみると、コンプレックスが再燃したのだろう。
殺された他の五人にも、何か教師たちの劣等感を刺激するような事が、あったに違い
ない。
 とは言え、あくまで推測に過ぎない。景は隣の女を、横目で見た。どうせ、こんな事
を言ったとしても、本気にしないだろうと思った。
「結局は、劣等感なんだと思う」
 突然、多岐美がそう言った。景は、驚いて聞き返そうとした。
「水島だけじゃなくて、彼らは、私たちにコンプレックスを持ってる。私たちを恐れて
いる。だから、消し去ろうとしてる。自分たちが、生徒に劣るという事を認めたくない
から。心の醜さを否定したいから」
 多岐美は景の方を振り向いた。そして、付け加えた。
「……優しさが怖いから」
「それは……」
景は、頭の奥に鈍い痛みが走るのを感じた。思い出せない。そう、思い出せないのだ
。かつて自分は、この掛川多岐美という女に会った事がある。が、いつ、どこで、どう
いう風に会ったのかが思い出せない。この学校に来て、かつての自分の事、憎んでいた
同級生、自分を蔑んだ教師たち、そういった事は思い出した。記憶が甦った。だが、ま
だ忘れている事がある。かつてのいじめなど比較にならない悲惨な出来事が、靄のかか
った脳裏から、解き放たれようともがいている。
 思い出さなければならない。ここから逃れ、平凡な日常に戻るためにも、過去と訣別
しなければならないのだ。
「あんた……いや、俺は……」
 言葉が出て来ない。不意に、脳裏に真っ赤な鮮血のイメージが浮かんだ。彼の目の前
で血潮が奔騰し、その血潮に目の前の女が重なった。誰の物かわからない返り血を浴び
ながら、女が彼に背を向けて立っている。いや、それは女ではなく……。
かすかな衣擦れのような物音がして、景の思考は途切れた。
「くそ、もう少しで……」
「なに言ってんの?」
突然にくやしがる景を見て、多岐美が冷めた声を発する。
「思い出せそうだったのに……」
景は眉を寄せて、多岐美の肩越しに、音のした方向を見た。
 赤い物が、廊下の空中に浮いている。先ほどまで赤い血のイメージを思い浮かべてい
た景は、一瞥した瞬間はさして違和感を覚えなかった。だが、よくよく見て、それが消
火器であり、浮いているのではなく、黒づくめの巨漢が高々と持ち上げているのだと気
づいた時、彼は寒気を覚えた。
「やばい……!」
とっさに景は多岐美を抱きかかえ、ひんやりとした廊下の床に身を伏せた。その瞬間
、巨漢が消火器を投げ付けた。伏せた景の背をかすめて、消火器は二人が座っていた位
置を直撃する。
景は床に転がった消火器を見やり、息を飲んだ。コンクリートの壁に派手な亀裂が走
っていた。消火器自体もひん曲がってしまっている。まともに食らったら即死していた
だろう。
多岐美を助け起こしながら起き上がり、景は黒ローブの巨漢の方に目を向け、その巨
体がまっしぐらに突進して来るのを見て、再度喘いだ。またも反射的に多岐美を廊下の
端に突き飛ばし、自分は数歩バックステップする。立っていた位置を、巨漢の拳が薙い
だ。空気を切り裂く音がし、風圧が景の頬をなぶった。
「ぐうっ」
巨漢は唸ると、景を見据えた。見据えたと言っても、巨漢の顔は笑い顔の仮面で隠さ
れている。だが、仮面の表情とは裏腹に、その奥からは明らかな怒気が感じとれた。
「水島か!」
仮面の巨漢の正体を悟り、景はその名を呼んだ。
「がああーっ!」
それに答えるかのように咆哮すると、巨漢は再び間合いを詰めて来た。腰を落として
身構える間も無く、顔面を狙って拳が繰り出されて来る。辛うじて顔を傾け、かわす。
右拳が耳元を掠めて行く。衝撃波が、景の横っ面を叩く。
 体勢が崩れた所を、今度は左拳がボディアッパー気味に襲いかかって来た。
 速い、と声を漏らす間もなく、景は両腕を身体の前で交差させてガードした。膝が笑
っている。速さに脚がついて行かない。鈴を使った反動が、まだ回復していないのだ。
防ぐしか無い。
 直撃……衝撃が背骨と内蔵を揺さぶる感覚に景は呻いた。両腕の骨が軋む。防がなけ
れば、確実に内臓が破裂していただろう。それほどの破壊力だ。
景はよろめいて数歩下がり、辛くも踏みとどまった。そこに三度巨漢が肉薄する。景
は両手を上げてそれを防ごうとし、その時初めて両腕がまるで動かないのに気づいた。
先ほどの衝撃で痺れて感覚が無くなってしまっているのだ。
巨漢の右腕が伸び、景の首を掴んだ。抵抗する間も無く吊り上げられ、窓側の壁に身
体を押し付けられる。
無骨な太い指が、首筋にめり込んで来る。景は呼吸が出来ず、もがいた。
「ぐ……あ……」
「クフフフフ」
仮面の下から笑い声が漏れる。意識が薄れそうになるのと戦いながら、景は悟った。
向井崇を殺したのは、今、自分の首を掴んでいるこの手だという事を。この握力なら、
人間の首や手の骨ぐらい、簡単にへし折れるだろう。
景は水島の手首を両手で掴んでもぎ離そうとするが、力がまるで入らない。
 巨漢の指に力がこもる。が、締め落とされる程の力ではない。水島は明らかに景の苦
悶の表情を楽しんでいる。
「ゆっくりだ……。ゆっくり時間をかけて、ごみ溜めに送ってやる。貴様らクズに、似
合いの場所へなあ」
「……ぉ……」
「ん……何だ……?」
景が何か言いかけたのを見て、水島は少し指の力を緩めた。苦しげに笑みを浮かべ、
景は囁いた。
「弟と同じ場所へか?」
「キサマ!」
 怒りと共に再度、水島の指に力が加わり、景の頸動脈を瞬時に握り潰そうとした。
 暗転しかけた景の視界に、不意に白い手が飛び入って来た。人差し指が横合いから伸
びて、水島の肩をつっつく。水島は、振り返った。
 見下ろす仮面に向けて、多岐美は微笑して見せた。
 仮面の視界が狭いせいか、水島はその次に多岐美が起こした行動に、まるで反応出来
なかった。横を向いた水島には、彼女の姿がかき消えたようにしか見えなかっただろう

吊り上げられた景と水島の間の空間に、多岐美は驚くべき速さで回り込んだ。次の刹
那、水島の右腕、肘の側面に、左の掌打がめり込んでいた。
「ぐあっ!」
関節と全く違う向きから打撃を加えられ、骨の軋む音が、捕まえられた景にまで伝わ
った。水島はたまらず声を上げ、景の喉を放した。
その景の身体が床に落ちるより速く、多岐美は腰を落とし、全く無防備な目の前の水
島の腹部に向けて、拳法のような構えを取って狙いを定めていた。
「ハッ!」
掛け声に合わせて周囲の空気が弾けた。衝撃波のような波動が発生し、周囲に拡散し
てまた集束する。腰に引き付けられた多岐美の右手で、空気が凝った。
大砲が間近で発射されたような轟音が発せられた。
「うおおおおっ?」
巨体が浮き上がった。多岐美の右の掌打が鳩尾にたたき込まれた瞬間、水島の百==以
上あるであろう身体は、黒ローブをなびかせて廊下の端の方まですっ飛んでいった。背
中から床に落ち、そのまま滑って入って止まる。
床で咳き込みながら、景は自分を守るように立った多岐美の背中を見上げた。そう、
確か、前にもこんな事があった……。
「ぐうううう……」
廊下の向こうで、獣じみた唸り声が上がった。
ローブと仮面が宙を舞った。脱ぎ捨てられた死神の扮装を踏み越え、体育教師水島剛
史は、立ち上がってその真の姿を晒した。夜の学校を跋扈する殺人鬼などではなく、青
のジャージの上下に身を包んだ、学校の管理者としての本体を……。
ダメージを感じさせない動きで立ち上がった水島は、再び咆哮すると突進して来た。

「チッ」
多岐美は舌打ちすると、上着の懐に手をやった。銀色に鈍く輝く物をそこから取り出
す。 それを見て、水島の脚が止まった。慌てたように身を翻す。その姿を追って、多
岐美が構えたそれ、小型のリボルバーから立て続けに銃弾が発射された。
鉄筋コンクリートの床を銃弾が跳ねる。跳弾が天井の蛍光灯を打ち砕く。だが、標的
の水島は階段の方に逃げ込み、多岐美と景の視界から消えた。
唖然としつつも、景は立ち上がった。
「いったい……」
本物の銃というのも見るのは初めてだし、それを平気で発砲する人間にも、初めてお
目にかかった。さっきの水島を吹き飛ばした技にも驚いたが、こっちの方が衝撃的だ。

「立てる?」
多岐美は振り返って、事も無げに尋ねて来た。景が既に立ち上がっているのを見て、
肩をすくめる。
「大丈夫そうだね」
冷めた顔で言って、今だに硝煙を立ち上らせている銃を、水島が消えた方向に向けな
おす。
いったい何者なんだ、というのが、今の景の感想である。十年にわたる血塗られた同
窓会に潜む秘密を追う、謎の女。拳銃を携帯し、気功のような技と拳法を使う。先ほど
からかなり走り回っているが疲れた様子もないし、この異常な状況下においても冷静に
行動している。
まあ、それはいい。わからないのは、これが自分の元同級生だったという事だ。先ほ
どから、思い出せそうになっているのだが……。
不意に、腹の辺りを肘でつつかれた。
「部屋の中に入って」
多岐美はそう言って、扉の壊れた音楽室に顎をしゃくった。
よろめきながら、景はそれに従う。まだ足取りがおぼつかないが、歩くことは出来る

銃を構えたまま後ずさりした多岐美が、スローペースで歩いている景にぶつかる。景
はよろめきながら音楽室に入り、手近のオルガンにもたれ掛かった。
「で、どうするんだ? ここで迎え撃つのか?」
「冗談言わないで」
もう一度、廊下の様子を窺うと、多岐美は銃を下ろし、周囲に頭を巡らせた。
「……やっぱり」
多岐美の視線が止まった方向に向けて、景も目を向けた。部屋のほぼ中央、オルガン
が一台倒れている。だが、その隣に転がっていたはずの物が、消えていた。
「死体が無いぞ!」
オルガンに頭を下敷きにされて、この音楽室で死んだはずの音楽教師、黒ローブに包
まれた福井浅代の死体が、オルガンの側の床に横たわっていたはずだった。それが無く
なっている。
立ち並ぶオルガンの横を擦り抜けて、多岐美はその場所に歩み寄った。ひざまづいて
フローリングの床を調べる。
荒い息を吐きながら、景もその場に近寄る。
 床の上に大きな血溜まりが出来ている。が、その血液を垂れ流したはずの教師は、消
えている。
「こっちか……」
多岐美が呟いて顔を上げた。教室の正面に教卓とホワイトボードがある。その側の壁
に扉が付いている。その扉の前の床に、赤い染みが付いて入るのに、景も気づいた。も
ちろん、血痕だ。足元の血溜まりからその扉まで、点々と続いている。
立ち上がって、多岐美は扉の側まで歩み寄った。銃を構えると、大きく息を吸って扉
に蹴りを入れる。
 大きな音に景は身を縮めた。多岐美は部屋の中に飛び込んで行く。その大胆さに半ば
呆れながら、景も後に続く。
音楽室に隣接した無人の小部屋。むろんの事、音楽準備室である。授業に使用しない
楽器、ブラスバンド部の使用する楽器などが大量にしまいこまれている部屋である……
はずだったのだが、部屋の中に入った景は、思わず目を覆った。確かに楽器はたくさん
ある。ホルンやトランペットなどの金管楽器。サキソフォーンなどの木管楽器。バイオ
リンやチェロのような弦楽器。ちょっとしたオーケストラが組めるであろう量の楽器が
置いてある。ただし、散々に叩き壊されて。
 薄暗い部屋の中。金管楽器は無残な凹みを晒し、弦楽器は全ての弦を切られており、
板の割れ目がささくれている。木管楽器もへし折られ、折れた管と管が金具によってつ
ながっている状態である。
「……狂ってる」
景は呟いた。無事な楽器は、部屋の隅のアップライトピアノと、棚の上のタンバリン
とトライアングルぐらいの物である。どうやら福井浅代は同窓会前に、自分が弾けない
楽器を全てぶちこわしたらしい。
「そんなにひがんでたのか。ピアノしか弾けないから、他の楽器は存在していてはいけ
ないと言う事か……」
 床を伝う血痕を追っていた多岐美が、不意に景の呟きに答えた。
「ピアノも下手だったけどね、あの先生は」
「……」
「ついでに歌も」
かつて、福井浅代はブラスバンド部の顧問もやっており、「放課後遅くまでの熱心な
指導」と「地域のイベントへの積極的な参加」は語り種になっていた。嫌気のさした部
員たちによってだが。指揮棒で生徒の手を叩き、無限に飛び出る嫌みで尻を叩く。父親
が青少年音楽学会の理事だか何だからしく、指導力皆無の癖にやたらと政治力だけはあ
り、嫌々練習している部員たちは、うまくもないのにコンクールで金賞を取る。ある部
員が退部しようとした時、こう言ったらしい。
「金賞が取れるのにやめるのか」
そんな音楽をやる者とは到底思えない発言の根底には、楽器を叩き潰す程の劣等感が
巣くっていたらしい。
「いかれてやがる」
「教師だからね。……こっち来て」
部屋の一番奥、左隅っこの本棚の前まで血痕を追った多岐美は、景を差し招いた。
音楽室からこちらの準備室までずっと続いていた血の跡が、その楽譜の並んだ本棚の
前で途切れている。
「そっち持って、引っ張って」
多岐美は本棚の左端に手を掛けると、右端に向けて景を促す。景は言われるままに、
肩の高さの三段目に手を掛けて、力を込めて引っ張った。
 拍子抜けする程、簡単に動く。楽譜の詰まった本棚は、景の方向に向けて軽やかにス
ライドした。よく見ると、足元の床にはごくごく細い物だが、車輪が通るようなレール
が走っている。
「隠し扉か」
また景はよろめいた。これにも覚えがある。確か、理科室にも……。
本棚の裏には取っ手のない鋼鉄の扉と、上下の矢印の形をしたボタンがある。下向き
の矢印の形のボタンに、血で指の跡が付いている。
少しためらっているようだったが、多岐美はその下行きのボタンを押した。
 それと同時に、景の聴覚が機械音を聞き取る。鋼鉄の車輪が回転し、強靭なワイヤー
に支えられた箱が、下の方向から浮上してくる。
十数秒後、音も無く扉が開き、人が三人程入るのがやっとなぐらいの、小さな部屋が
姿を現す。
エレベーターの中、中央の床にも、小さな血溜まりがあった。
「誰かが、ここから死体を運び下ろしたのか……」
何者か、おそらく教師たちの誰かが、音楽教師の死体をこのエレベーターを使って運
んだのだろう。景は中を除いた。行き先のフロアを示すボタンが付いている。八階、七
階、六階、五階、四階、三階、二階、一階……そして地階。
「地階だと?」
多岐美も一緒になってボタンを除く。地階行きのボタンに、これまた血の指紋が付着
している。
一度、後ろを振り向いてその後、多岐美は血溜まりを避けてエレベーターに乗り込ん
だ。今度は躊躇なく、その地階行きのボタンを押す。
「乗って」
突っ立っている景を、差し招く。
「いや、でも」
「いいから」
苛立った様な口調に、渋々と、景も中に入る。スペースが少ないので、血溜まりを踏
みそうになる。
扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと下降し始めた。
「どうするんだ? これじゃあ、桜本とどんどん離れていくと思うんだが……」
片手に銃をぶら下げたまま、腕を組んで考え込んでいるらしい多岐美に、景は尋ねた

「だいたい、危険じゃないか? 勝手もわからない地下なんかに入って、あの校門みた
いな罠があったらどうする?」
今、二人が乗っているのは、おそらく教員専用の隠しエレベーターなのだろう。普段
は生徒の目につかないように隠されており、同じく生徒の知らない地下の秘密の空間に
繋がっているのだ。
「……地下には、トラップは無いと思う」
「どうしてわかる」
多岐美は景と目を合わせぬまま、腕組みを崩さずに答える。
「教師の造る設備は、あくまで生徒を管理するために造られてる。校門は学校から無断
で外出するのを阻止するため。開閉する防火扉は、行事の際の不要な空間の閉鎖や、順
路の確保のため。塀の上に流されてる電流も……」
「電流!?」
「気づいてなかった? あれも外出阻止用。あの電流とあの校門がある限り、外には出
られない」
景は絶句した。逃げ出す事はもちろん考えていたが、まさかそんな物があるとは考え
ていなかった。
「でも、生徒はこの学校に地下があるなんて事は知らない。地下は生徒の侵入するはず
のない教師専用の空間だから、物騒な罠は必要が無いって事」
「なるほど。じゃあ下手に上を歩き回るより、地下に入った方がかえって安全なわけか

「そういう事。……彼らは、私たちの事も今だに生徒だと思ってる。そこがこっちの付
け目だね。私たちが地下に入り込む事は、頭では想像出来ても、具体的な対応策は持っ
て無いはず。奴らと戦うには、まず生徒的な発想を捨てる事」
「ふーむ」
学校にいる間中、教師と校則によって束縛されている生徒という物は、つねに外に出
る事を意識している。授業が終わった後の帰宅、一週間が終わった後の日曜、学期が終
わった後の長期休暇、三年間が過ぎた後の卒業。学校の事が少しでも嫌いな生徒は、皆
それを渇望している。学校からの脱出を、常に望んでいる。
「だが、逃げては駄目という事か」
 景がそう言って多岐美の横顔に目を向けると、彼女は頷いた。
「学校の中で何かを変えようと思ったら、立ち向かうしかない。私たちは入学してすぐ
に、教師は偉い、先生は正しい、学校に逆らってはいけないって、頭に刷り込まれてし
まってる。それをまず乗り越えないと戦えない。先入観を捨てれば、立ち向かえる。そ
して、ほとんどの教師は生徒の反抗を恐れてる。教師に対する恐怖を乗り越えてしまっ
た人間に、教師たちはひどく弱い。彼らは教師であるという事は、無条件に優れている
、正しい事だと思ってる。実際は普通の人間と変わらないのに、学校っていう狭い社会
の中で、権力を与えられて絶対者のつもりでいる。だからいつも反抗する者を恐れて、
刃向かわれる前に縛ってしまおうとする。
でも、こっちが縛られはしない、恐れていない事を見せつければ、彼らは為す術を失
う。教師ってのは子供には威張ってるけど、他の社会では通用しない人間だって言われ
るのはそれでだね。文部省の権力の通用しない所では彼らは子供以下なんだよ」
「……なら、やってやるか」
「え?」
景は思わず笑みをもらしていた。
「俺は、そのためにここに来たんだ。どうして同窓会に来る気になったのか、自分でも
よくわからなかったが、そのためだったんだ。十年たって、もう今では教師や俺をいじ
めてた奴らなんか怖くないって事を、奴らに見せてやりたかったんだ。水島栄吉は殺し
た。後は教師どもだ。この学校もろとも、奴らを徹底的に叩き潰してやる。俺は、復讐
しに来たんだ」
 少し声が上ずった。人を殺したせいだろうか、感情がたかぶっている。
「……うん。そうしないと、どうせここからは脱出できない」
「そうだ。十年前、俺は逃げたんだ。だが、結局ここに戻ってきてしまった。あの時、
立ち向かわなければいけなかったのに……!」
 不意に多岐美が顔を上げ、景の目を覗き込んだ。
「昔の自分を、否定しないで。あの時は仕方なかったよ、子供だったんだから」
 見つめられて、景は息苦しさを感じたが、目は反らさなかった。
「だが……」
「逃げたのは恥ずかしい事なんかじゃない。誰だって、あんな事になったらそうする。
君は、弱かったんじゃないよ。優しすぎただけ……」
見上げる彼女の瞳は、どこか悲しげに見えた。そして、景には思い出せなかった。あ
の時。あんな事。あんな事とは何だ?
「だけど、あの時、あんたは、俺を」
意識に反して、景の口から言葉が出た。思い出せない。それなのに、彼は彼女の言葉
に応えていた。
「あんたは、俺を守って……!」
その時、地階に到達しかけたエレベーターを、衝撃が襲った。

「何なんだ、あいつは……」
銃撃によって、一度は階段まで後退した水島は、再び音楽室前まで戻って来ていた。
待ち伏せを警戒しながら音楽室、さらに準備室に踏み込む。だが、標的の荒光景と掛川
多岐美の姿は消えていた。
本棚の裏に隠されていた、非常用のエレベーターの入り口が電灯の明かりの下にさら
されている。これを使って下に向かったらしい。
「辻の馬鹿め、福井の死体を片付けたな。放っておけばいいものを……」
背後からの聞き慣れた声に、水島は振り返った。同僚である山野が床に膝を突き、足
元の血痕を調べている。
 赤い染みは音楽室から、この準備室のエレベーター前まで続いていた。ビデオテープ
等の映像情報の管理をしている英語教師、辻洋一が、エレベーターを使って福井浅代の
死体を地階へと運び下ろしたのである。
「何をやってたんだ。あんたがモタモタしてたせいで、奴らを逃したぞ!」
「フン」
水島が怒鳴ると、山野は鼻で笑った。
「おまえこそ、銃を持ち出されたくらいで逃げるとはな」
「そ、そうだ。銃だ」
 一瞬、言いよどんだ水島は、再び血相を変えて怒鳴った。
「何なんだ、掛川は。ヒョロヒョロのガキだったはずだぞ! 何で銃なんか持ってる!
 それで俺を撃ってきたんだぞ! いったい、担任だったのは誰だ! どんな指導をし
てたんだ!」
 眉をひそめ、少し山野は声を落として答えた。
「少し、口を慎め。忘れたのか? 掛川多岐美は保健室登校児だった。あの、理事長の
娘が担任してたみたいなものだ」
「だ、だがよ」
水島は少し脅えたように自分も声を落とし、山野に問いかけた。
「なぜあいつは、銃なんか持ってるんだ。まるで、理事長の命令であいつを俺たちが殺
そうとしてたのを、知ってたようじゃないか」
「もっともだ。ついでに言うと、日本じゃそうそう銃なんか手に入らない。少し、きな
臭くなってきたようだ。宮田さんにも、聞いておく必要がある」
「あいつにか……」
 水島は、宮田の名を聞くとあからさまに顔をしかめた。
「どうもあいつは、好きになれない。得体が知れねえし、何より教師でもないしな」
「口を慎めと言ったはずだぞ」
山野の声に、少し殺気のような剣呑な調子がこもった。水島は慌てて口をつぐむ。
「この学校の運営も、我々が大っぴらに社会のクズを始末出来るのも、あの人の組織が
あるからこそだ。忘れるな」
「あ、ああ」
不意に、山野は不気味な笑みをもらして立ち上がった。
「おまえも、今のうちに宮田さんには敬意を払うようにする事だ。何かと得があるかも
しれんぞ。それより」
立ち上がった水島の目の前で、山野の腕から鉈が振り出された。今まで幾人もの元生
徒の血を吸ってきた、生徒指導教師山野隼雄の暗器である。つい先ほども吉井真知子の
血をその刃に受け、今も赤く濡れた輝きを発している。
山野はエレベーターの前に進むと、その鉈の刃を扉の隙間に差し込んだ。そのまま力
を込めて、テコのように使って扉をこじ開ける。手を入れられる程の空間が開くと、そ
こを
つかんで引き開ける。
垂直に校舎を貫いている、薄暗い空間が明るみに出た。昇降する箱を吊り下げた鋼鉄
のワイヤーが、目前で真下に向かって動いている。
山野は鉈でエレベーターシャフトの空間、真下を指して水島に言った。
「奴らは地階に向かってるはずだ。ここから追え。エレベーターを壊してもかまわん」

「壊してもって……」
 狼狽したように尋ね返そうとする水島に、笑みを崩さぬまま、山野は続けた。
「遠慮をするなと言ってるんだ。明日は祝日だ。一日かけて修繕すれば、どこを壊そう
がごまかしは効く」
「わ、わかった」
「ようし」
山野はうなずくと、準備室の戸口に向かって歩きだした。
「俺は隣のエレベーターを使って回り込む。挟み撃ちにするぞ。行け!」
声と共に水島は、遥か地下深くまで続いた暗黒の空間に、巨体を躍らせた。昇降機を
支えるワイヤーに掴まり、まっしぐらに下降して行く。
それを見送ると山野は廊下に出て、隣の被服室に向かって走りだす。
 その途中、水島に向けてだろうか、それとも全く別の者に向けてだろうか、嘲りをこ
めた口調で彼は一言呟いた。全てを見通しているかのように、こう言った。
「明日などないがな」

突然、エレベーターを襲った激震に、それがシャフトの上から何かが落下してきたせ
いだと気づくのには、少し時間がかかった。とは言っても、ほんの数秒程度だが。
 足下の血溜まりに足を突っ込みそうになり、景はよろめかないように踏ん張った。多
岐美も体勢を崩しそうになるが、壁に張り付いてすぐに立て直す。
 二人が半ば反射的に上を見上げるのと同時に、衝撃音と共に天井の一部が歪んだ。外
部から強い力を加えられたように、天井がこちらにせりだしてくる。回路が切れたのか
、天井に二つ付いていた照明の内一つが、ショートしたように一度か二度、明滅して消
えた。薄暗くなった室内で、二人は腰を落としたまま、息を飲んで真上を見守った。再
度、衝撃が走る。
全く同時に同じ物を予感し、二人はエレベーターの中央に空間が出来るように、壁に
張り付いた。三度目のショックを伴って、エレベーターの天井は紙細工のように突き破
られた。ジャージの袖に包まれた巨大な腕だけが侵入して来て、二人が避けた内部の空
間を一掻きする。髪の毛を掴まれそうになり、景は首をすくめる。
 空間の狭さに反撃する事も出来ず、景はその場にしゃがみこんだ。多岐美も同じよう
に膝を落とし、手に持ったままだった銃を真上に向ける。だが、天井から生えてきた腕
は、リーチも想像以上に長く、その銃を掴まれそうになって、あわてて引っ込める。
緩やかに続いていた降下が、この時ようやく地階にたどり着いて止まった。扉が開き
、薄暗い廊下が視界に姿を現す。
「何て遅いエレベーターだ!」
 景は毒づくと、振り回される腕を避けて廊下に飛び出した。
 飛び出た先は、剥き出しのコンクリートで構成された、幅2m弱の廊下だった。何処
からも光は射しておらず、天井の蛍光灯だけが周りを照らしており、いかにも地下らし
い。
廊下は袋小路になっており、突き当たりの右側面にエレベーターの入り口がある。出て
来て左に目をやると、6m程度廊下が続いていて、その先はT字路になっている。
多岐美も景に続いて飛び出ると、振り返って銃の狙いをエレベーター内部を探る腕に
定めた。が、銃弾が発射される寸前、その気配を察知したかのように腕は引っ込み、立
て続けに放たれた二発の銃弾は、空しく壁にめり込んだ。銃声が狭い廊下に反響する。

「こいつ……!」
 いらだたしげに顔をしかめ、多岐美はシリンダーから空になった六つの薬莢を落とし
た。スーツのポケットから新しい弾丸を取り出す。
 エレベーターの上の様子を窺っていた景は、右方向に気配を感じて振り返った。今日
、この学校に来て以来、幾度も知覚した気配……殺気だ。
感覚はどこかその空気に馴染み始めていたが、背筋を撫で首筋に纏わり付くようなそ
れの冷たさは、やはり不快だ。景はそちらの方向に向かって、一歩踏み出した。
 こちらからも殺気を放っているのを感じたか、T字路から人影が飛び出して来た。数
mの距離を、高速で詰めてくる。
鈍く光る鉈が人影の右手から振り出され、斜め左方向から斬撃を振り下ろした。踏み
出した一歩を後退し、刃風を左頬に感じながら景は回避した。が、かわしたと思った瞬
間、第二撃が、斜め下から逆袈裟に跳ね上がってくる。
 先ほど、水島の同じようなパターンの攻撃を、景は回避出来なかった。だが、今はわ
ずかずつではあるが、腕にも脚にも感覚が戻りつつあった。反応速度も速くなっている
。右脇を狙って来た刃を半歩下がり上体を反らしてかわす。
「何!?」
 よほど今の二連撃に自信を持っていたのか、人影……もとい生活指導教師山野隼雄の
唇から、驚愕の叫びがこぼれた。彼の鉈は景の衣服をわずかに切り裂いたにとどまり、
彼自身は攻撃をかわされた事によって、大きく体勢を崩した。
その隙を、景は見逃さなかった。山野の体重が、姿勢を崩した事で右に傾いたのを見
て、その右足にローキックを見舞う。
「うおっ!」
反射的に山野は右脚をかばおうとし、その結果、顔面ががら空きになる。
 もらった、とばかりに、景は踏み込んで正拳を繰り出した。が、相手が完全に体勢を
崩していたにもかかわらず、彼の拳は空を切った。反射的行為か、そもそも右脚に気を
取られたように見えたのは芝居だったのか、山野はわざと廊下に倒れ込みながら、景の
攻撃をかわした。
 虚をつかれた景の左脚に向けて、山野は倒れ込みながら第三撃を放った。
 だが、景はこれにも反応した。すでに彼の重心は踏み込んだ姿勢から移動し、体重は
両足にかかっていた。床すれすれの斬撃を、軽く跳躍して飛び越える。
さすがに着地は完璧とはいかず、わずかに体勢が崩れる。その間に山野は後方に一転
して起き上がった。
一瞬の間も空けずに、山野は再び突っ込んで来た。攻撃を見極めようと景も身構える
。その時、
「しゃがんで!」
 不意に背後からかかった声に、素早く景は応じた。抵抗も無く、自然に身体が動いた
。鉈を振りかざして景に襲いかかろうとしていた山野は、しゃがみこんだ景の向こうに
、彼の顔面に真っすぐ向けられた銃口を見た。
 銃声が二発轟いた。多岐美と山野の間合いは、2mも無かっただろう。これ以上ない
至近距離とタイミングである。銃弾を顔にまともに受けたか、山野はのけ反って吹っ飛
び、廊下に仰向けに倒れた。
「ふう」
銃弾が彼のしゃがんだ真上を通過した事を考えると、あまりいい気持ちはしなかった
が、ともかく景は安堵のため息をついて立ち上がった。
「やった……」
多岐美も銃を下ろし、前に出て景の横に並ぶ。
「やれやれ、危なかったな」
「君がね」
「……」
素っ気ない多岐美の答えに、景は黙り込んだ。側に立った彼女の横顔を、横目で睨む

多岐美は同じように横目で視線を合わせたが、意に介した様子も無く、すぐに前を向い
てしまった。
人を射殺したにもかかわらず全く冷静な、女の横顔を見ながら、景は少し考え込んだ
。もうずっと考え続けている事だ。
 いったい、何者なんだろう? 何故拳銃なんかを持って、同窓会に出ているのだ? 
そして、同窓会での行方不明者を調べていたとはどういう事だ? それを調べていた理
由は何だ? きっかけは? 
 拳銃を持っている事から、一瞬、刑事という職業が思い浮かぶが、明らかに違う。二
十三歳の女の私服刑事など、ドラマの中にしか存在しない。まして、単独行動で学校に
潜入するなど、ありえない。
次に出て来るのは……スパイ。警察ではないにしろ、日本のどこかの諜報機関が不審
な行方不明者の手掛かりを探すべく、特殊工作員を送り込んだ……。どうもこれも、無
理がある筋書きだ。この学校で、十年に渡って同窓生が殺されているなら、それこそ警
察の仕事だ。スパイなど使わなくても、名目をつけて手掛かりを捜査する事も、行方不
明者が出た時に出来たはずである。
いや……。ここで景は別の可能性に思い当たる。何か、ここには警察が手が出せない
理由があるのではないか? 手掛かりが無くとも、毎年一人ないし二人が同窓会の日に
行方不明になれば、捜査に当たった警官も、不審に思わないはずがない。まして、今年
は五人もすでに殺されている。単なる失踪ではすまない数字だ。
もし、どこかで証拠が握り潰されているとしたら。毎年の殺人を、どこかが警察に圧
力をかけてもみ消しているとしたら……。そんな組織があるとしたら、それはこの学校
単体ではありえない。国家権力をも揺るがすような巨大な組織だろう。そういう物が、
この狂った教師たちの殺人を後押ししている……? 何の得があって?
 考え込んでいたのはほんの数秒だったが、景は目の前で正面を見ていた多岐美の瞳が
、驚愕したように見開かれるのを見て我に返った。
「何だ?」
何げなく同じ方向を見て、景は己の目を疑った。それは多岐美も同じだっただろう。
至近距離から顔面に銃撃を受けたはずの山野が、仰向けの姿勢からゆっくりと上体を起
こしたのだ。
「冗談……!」
「な、馬鹿な!」
 驚きの叫びをあげ身構えた二人の前で、山野の唇が薄い笑みを形作った。
 山野の顔は、上半分が鉈の刃の腹によって隠されていた。山野が身を起こして笑った
時、その鉈に食い込みへしゃげていた二つの弾丸が、廊下に落ちて転がった。
「クフフフフ。こんな事で、先生を殺せるとでも?」
 立ち上がる山野を、景は信じられない面持ちで見つめた。多岐美の銃撃は必殺のタイ
ミングだったはずだ。それを鉈の腹で止めるなど、並の反射神経ではありえない。
「銃の学校への持ち込みは禁止だぞ。没収だ!」
 山野の叫びに重なって、背後から破壊音が響く。振り返るまでもなく、水島がエレベ
ーターの天井を破って、廊下に出てこようとしているのがわかる。
「もう逃げられんぞ。先生に謝って、命乞いしたらどうだ。銃は通用しないのがわかっ
ただろう」
 二人に血のついた鉈を突き付けて、山野が言う。無論、景はそんなつもりはない。銃
が効かないなら素手でやるまでの話だ。山野もそれはわかっているはずだ。心理的にプ
レッシャーをかけて、自分の優位さを誇示しようというのだろう。教師がよく使う手だ

多岐美の方を、景は一瞥する。彼女は、一瞬、目を合わせてきた。
「どうだ、荒光。おまえは諦めないのか? どこまでも、掛川に付き合う気か?」
 山野がしゃべり続けているのは、二人の背後に水島が現れるのを待っているから。言
わば時間稼ぎだ。挟み撃ちの態勢が出来上がった途端に、仕掛けて来るのは自明である

「せーの」
全く無造作に、多岐美の口から、その言葉は発せられた。
「ぬ?」
一瞬、山野が口をつぐんで聞き返そうとしたぐらい、何の前触れもない唐突な合図。
それに合わせて、景は行動を起こした。
ほぼ同時に、二人は前方に向けて突進した。虚を突かれた山野が苦し紛れに振るった
鉈は、いつの間にか逆手に持ち替えられていた、多岐美の拳銃の台尻に弾かれる。遮ら
れる事も無く、身を低くして二人は山野の両脇を通り抜けた。
「ぐっ!」
 振り返って山野は、走り去ろうとする背に向けて鉈を一閃させる。が、その一刀も景
の肩口の衣服を掠めるにとどまった。
そのまま二人は速度を上げ、曲がり角を右へ曲がって廊下を走る。廊下は一直線に長
く続いていた。途中に幾つも曲がり角があるが、全て先にエレベーターのある袋小路で
ある。各階の教室の準備室をつなぐ形で、エレベーターが通っているのだろう。
 背後から山野たちが追ってくる気配は無かった。多岐美が少し前に出て先導する形に
なる。
「どこへ!?」
景は大声で尋ねた。多岐美は彼の方を一瞥すると、
「セキュリティをコントロールしてる部屋、そこを叩いてこの学校を脱出する!」
と、叫び返した。一度、言葉を切り、前を向いて付け加える。
「待ってたって下校時間は来ない。腹くくってよ!」
どうも来た時から、景は彼女に対しては隠し事が出来ないらしい。迷いも見透かされ
ている。
子供だった、中学生だった頃、景は教師や学校に刃向かう事が出来なかった。弱かっ
たのだ。だが、今は違う。もう逃げる事は許されない。確固たる己を持っていなかった
昔はいざ知らず、今逃げてしまうという事は、自分を否定する事を意味する。今、戦わ
ずに逃げるか死ぬかすれば、中学校に通わずに大人になった事は、間違いだった事にな
る。自分は学校の存在ごときに、どうこうされるようなやわな存在でない事を、今日、
ここで証明して生き延びる。それこそが、彼の過去に対する本当の復讐であり訣別だっ
た。今、それがはっきりと理解出来た。
目の前に続く廊下は、照明が弱いため奥の方は暗闇である。だが、景にははっきりと
道が見えた。自分の進むべき道が。そして……。
「大丈夫? 走れる!?」
「ああ!」
景は頷いた。何も恐ろしくはなかった。なぜか、彼女と二人でいるだけで。

 荒光景と掛川多岐美が移動している階より、1フロアを隔てた中央コントロール室。
この中学校の機能全てを管理するこの部屋に集まっている教師は、今、三人にまで減っ
ていた。
校舎のシステム、設備、それを管理するプログラムを全て手掛けている理科教師、佐
倉信介。驚異的な記憶力で、それに関連するデータを保存している数学教師、森田俊紀
。そして、この学校の所有者にして最高権力者、理事長である車椅子の老人、富田修三
である。 理事長を補佐する教頭である宮田が、映像関係のデータを保存する係である
英語教師、辻を連れて地上の方へ上がってから、十数分が経過していた。
佐倉は、先ほど宮田に指摘された事のために、セキュリティプログラムの書き換えを
行っていた。この中央コントロール室の機能が破壊された時、この学校の設備は全ての
能力を失い、生徒の管理や異分子の除去もままならなくなる。
それを防ぐため、佐倉はある措置を施していた。さすがにプログラム全てを改編する
のは、膨大な時間がかかるために断念し、その措置の結果はシステムのただ一カ所に集
約された。「ヘブンズ・ゲート」。佐倉の造った校舎の設備の中でも、彼自身が最高傑
作と自負する、まさに兵器である。
自律制御で稼働し、無許可で通過しようとする者全てを叩き潰す、巨大な鋼鉄の門。
元々は、遅刻者の取り締まりのために発案された物だった。登校時間のタイムリミット
が過ぎた時、いかに素早く門を閉めて遅刻者とそうでない者を区別するか。本来はそう
いった目的で開発された。
だがしかし、理事長公認の殺人ゲーム(佐倉はこう認識していた)が始まって以来、
佐倉はそれでは飽き足らなくなった。この学校のシステムなら、ボタン一つで生徒を管
理出来る。それなら、同じ指の動き一つで、遅刻者や無断で外出しようとする者を殺せ
たら。
学校のオートメーション化は、それを造った者である佐倉に全能感を与え、さらには生
殺与奪の権利をも欲させた。
そうして完成したのが、この「ヘブンズ・ゲート」だった。この十年間で、今日ミン
チにした南尾進を含めて五人の血を、この校門は吸ってきていた。
今、佐倉はこの悪夢の兵器を、己の手から解き放とうとしていた。大元となるセキュ
リティ・システムから切り離し、完全なる自律制御を実現させるのである。たとえコン
トロール室が制圧されても、「ヘブンズ・ゲート」は決して動きを止めない。専用のパ
スを持つこの学校の教師以外の者を、容赦無く破壊する。自らの生命を得ることで、彼
の造った兵器は真の完成を迎えるのだ。
「いったい、何をやっている。馬鹿者どもめが!」
 背後の車椅子の老人から、嗄れた声が発せられ、一瞬、佐倉は自分の事かと思って首
をすくめた。むろん、気のせいだ。理事長は、佐倉の覗いている端末の上、壁一面に並
んだディスプレイを睨んで言っているのだ。佐倉が見上げると、ちょうど荒光と掛川の
二人が、山野の手を逃れて走っているのが映っていた。
「何をやっている……!」
老人が、同じことを繰り返す。佐倉も考える。山野先生は、いったい何をやっている
のだ……? 
荒光たちを逃がした事ではない。このコントロール室を出て行って以降、山野の行動
がどこかおかしいのだ。音楽室前で水島が二人を襲っていた時、山野はそれに合わせる
でもなく別行動を取っていた。何かを持って、校舎のあちこちを歩き回っている。モニ
ターにその姿は映っているが、何をやっているかまではわからない。
 佐倉は手元のキーボードを操作し、目の前の端末に数分前、カメラが捉えた映像を呼
び出した。照明の落ちた五階の廊下、カメラの死角になる隅っこの暗がりで、山野がし
ゃがみこんでいる。何かを設置するような作業をしているのだろうか。しゃがんだ背中
しか映っていないので、何をやっているのかはっきりとは解らない。だが、明らかに不
審な行動である。いったい、誰の指示なのか……? 理事長の命令が荒光の抹殺と掛川
の捕獲である以上、それは宮田の命令でしか有り得ない。
 老人のいる方を、佐倉は盗み見た。理事長にこの事を報告すべきだろうか。十年前に
自分の娘を殺されて以来、狂気に取り憑かれたこの老人に……?
再び、佐倉は目線を端末に向けた。結局、判断はつかなかった。彼には、今少し静観
する事しか思いつかなかった。

続きへ。