移調二段鍵盤チェンバロの話


移調二段鍵盤チェンバロ

左の写真がリュッカースの 「移調2段鍵盤チェンバロ」、 「トランスポージングダブル」と呼ばれている楽器です。 2段鍵盤チェンバロですが上下の鍵盤が左右にずれています。

たとえば最高音を見ると、上鍵盤ではドの鍵ですが、下鍵盤ではファの鍵になっています。 どちらも同じ弦を鳴らすようになっていますから、上鍵盤を基準に考えると、下鍵盤では見かけで思った音より四度低い音が出るわけです。 上鍵盤が標準のピッチで設計されていますので、上鍵盤が8フィートとすると、下鍵盤は10と2/3フィート。 現代の常識では考えにくい「移調鍵盤」なのです。

この楽器、上下の鍵盤はもちろん連動はしませんし、同時に使うこともできません。 上下鍵盤それぞれに8フィート1列と4フィート1列、計4列ものレジスター(ジャック列)があるのですが、弦列の方は8フィートと4フィートそれぞれ一組ずつしかなく、上下の鍵盤で共用しているからです。 演奏するときには、使わない方の鍵盤のかち合っているレジスターはoffにしてダンパーを弦からはずしておかないと、弦がおさえられていて鳴りません。 (ただし上鍵盤8フィート弦で下鍵盤4フィート弦、あるいはその逆ならば使えますが。)

リュッカースがつくったたくさんの二段鍵盤チェンバロは意外なことにすべて「移調二段鍵盤」だったことがわかっています。 (いくつかのタイプがあります。) ただし後の時代に、ほとんどすべてが普通のいわゆる「二段」(コントラスティングダブル)に改造されてしまいました。 それにしてもこのタイプの楽器がなぜ大量に作られ、どのように使われたかについてはまだ議論がつくされていないのです。

ところでこの上下の鍵盤は、それぞれ同時期のイタリアの楽器にしばしばみられる典型的な2種類の鍵盤音域、低音部ショートオクターヴのC/E〜c³とC/E〜f³にぴったり対応している点に注目してください。 ここから「C/E〜f³の楽器はC/E〜c³の楽器に対して四度低いピッチに調律すべきだ」という推論、主張が出てくるのです。


移調二段鍵盤チェンバロ

この楽器は他にも面白い問題を提供してくれます。

右の写真、注意してチューニングピンの列をご覧下さい。8フィートと4フィートそれぞれ3本で計6本、特別なチューニングピンが少しずれて立っているのがわかるでしょうか。(4フィートの方は見えにくいです。)
詳しく調べると、上鍵盤のミ♭、下鍵盤ではソ♯にあたる場所だけ、それぞれの鍵盤に専用の弦が張られているのです。
その理由は大変ややっこしいですが、次のように説明できます。
現代ではたとえばレ♯とミ♭は「異名同音」といって同じ音で共用しています。しかし昔使われていたミーントーン調律(中全音律)では別々の音程になるのです。ミ♭はレ♯よりだいぶ高い音で、どちらの音に調律するかは大問題なのです。
さて問題の場所、もし弦を共用していると、上鍵盤をミ♭に調律すると下鍵盤はソ♯でなくてラ♭に、下鍵盤をソ♯に調律すると上鍵盤はミ♭ではなくてレ♯になってしまいます。 これを避けミ♭、ソ♯を得るためにそれぞれに専用弦を張ったと考えられるのです。 チェンバロは簡単に調律替えができるのにもかかわらず、リュッカースはあえてこんな工夫をしたのです。
結論をまとめると、リュッカースがこのような特別弦を張った理由は、上下鍵盤ともに黒鍵を(ミーントーンで)、ド♯、ミ♭、ファ♯、ソ♯、シ♭に固定しておきたかったからだと考えられます。 いろいろな可能性を吟味しても、これ以外に合理的な説明はできないのです。
もう一つ。 写真では名札の置いてあるジャックレールの下に、上鍵盤のジャック列が見えていますが、最低音あたりで「乱ぐい歯」状態になっているのがわかりますか。リュッカースは鍵盤を上下ともC/Eのショートオクターヴにするために、この部分のジャックを飛び飛びにし、それにあわせて上鍵盤はなんと立体交叉するという手の込んだ細工をしました。
上鍵盤をわざわざC/E〜c³にしないでG/H〜c³にしておけば、過不足なく下鍵盤とマッチしてこのような仕掛けは一切必要ありません。 (作品ギャラリーのページ「イタリアンヴァージナル」の解説を参照してください。)
リュッカースはそれほどまでにC/Eのショートオクターヴに執着しているのです。これは重大で面白い事実なのです。

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