北方領土要求の根拠にはインチキがある?
北方領土要求の根拠の一つに、「ソ連もはっきりと千島列島を得撫島以北と考えていたために、はじめは択捉島以南の諸島を占領する意思のなかった」との説があります。この説の出所は、水津満少佐の証言です。和田春樹氏はこれを「単純な誤解」としていますが、北方領土要求のためのデッチアゲではないだろうかという気がしてなりません。
連休中、北方領土関連の文献を幾つか読み、その中に、水津の講演記録等も幾つかありました。これらをあわせると、次のようになります。
『水津が乗せられたソ連駆逐艦は、8月26日に松輪島を占領し3000人の日本兵を武装解除した、その後、新知島で偵察の結果、日本兵がいないことを確認し、さらに、得撫島に到着したときは濃霧と台風接近のため島に上陸せずに、島を1周し、数時間沖合いに仮泊し、そして、27日に北へ戻った』水津はこのように説明しています。
どう考えても、日程的に不可能です。
故意に日付けをごまかし、それを返還運動関係者は知っていながら、故意に嘘を吹聴して、国民をだまし続けたのではないだろうか。そんな不信感が心の中に沸いています。
このあたり、何かご存知のかた、ご教示ください。(2007年05月08日)
平成3年にゴルバチョフが来日して、海部総理と会談したとき、総理から、水津満証言を元に、領土要求をしたことを、日本政府は国会の場で明らかにしています。もし、水津満の証言が捏造だったとしたならば、日本外交の国際的信用は失われかねません。和田春樹氏はこれを「単純な誤解」と想像していますが、もしそうだとしても、日本の北方領土要求は世界の笑いものになります。
参議院 外務委員会 平成03年04月23日
○政府委員(兵藤長雄外務省欧亜局長) その点はまさに海部総理から、日本の主張の一つの重要な根拠として領土不拡大方針というものを、戦後の処理の過程として大西洋憲章から引き起こしまして説明をいたしました。その点は明確に主張をいたし、さらに水津満参謀が水先案内人でおりてきて、得撫島まで来て択捉を見て、ここは日本固有の領土であるから米国の占領地であると言って反対した事実、これはとりもなおさずスターリンの拡張主義というものの具体的な例であるという主張をいたしました。
それに対して、ゴルバチョフの方はヤルタ協定というものを持ち出しまして、これは戦後のこの協定によって決着済みであるという論理を中心とした反論をいたしました。
衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 平成03年04月24日
○兵藤政府委員 六回にわたります大変厳しい交渉の過程におきまして、海部総理大臣より繰り返し北方四島の主権の主張を展開したわけでございますが、その中で、海部総理も何回か北方四島の占拠というものはスターリン時代の拡張主義というもののもとにおいてなされたということで、例えば水津満参謀の有名な証言があるわけでございますが、その証言を紹介される等してソ連の当時の占領の非を鋭くつかれたわけでございます。
ところで、千島歯舞居住者連盟創設者の高城氏は、8月27日9時ごろ、択捉島西岸沖にソ連軍艦が現われたと証言しています。このとき、高城氏はソ連軍艦に乗り込み、艦長と会談しています。ソ連は留別湾の位置を知らなかったようで、高城氏は位置を教えました。この会談のなかで、米軍の進駐の有無を尋ねられたというようなことはなかったようです。8月26日に大泊を出航したソ連軍艦は、択捉島の詳細を知らなかったけれど、米軍の進駐の有無に関らず、択捉島に上陸占領の意思を有していた事実がうかがえます。 (2007年05月10日)
『千島占領ソ連軍はウルップ島に到達すると、択捉以南はアメリカの占領地であるため、8月27日に北転して帰った。その後、アメリカが来ていないと知ると、8月28日に択捉島を占領した。』との嘘が、まことしやかに語られたことがあります。海部・ゴルバチョフ会談で、海部はこれを事実として北方領土が日本の領土であることを主張しています。
これは、日本軍参謀・水津満がそのように証言し、水津ただ一人の証言を皆が信じ込んだためです。水津の証言は、1992年ソ連崩壊に伴ってソ連側資料が公開されるに至って、事実に反していることが明らかにされました。水津が嘘をついたのか、日付を誤ったために、誤った結論に達したのかは不明です。
しかし、実際に皆が信じ込んでいたのかと言うと、そうでもなくて、疑念を持っていた人もいます。作家の、三田英彬は、次のように、「もう一つ明瞭ではない」と疑問を示しています。
北方領土 悲しみの島々 三田英彬/著 講談社 昭和48年(1973年)2月24日 P149-P151(2008年08月31日)
…ソ連軍は、南千島、歯舞、色丹まで占領した。
その上陸時、「アメリカ兵が来ていないか?」と聞いていたのは、みてきたとおりだ。
なぜ彼らが、米軍の進駐について警戒的であったのか?
歯舞、色丹、そして南千島は、アメリカの占領分だと認識していたからではないのかという推測が、まず生まれるだろう。連合国軍一般命令第一号にもとづくソ連側の占領地域が、南千島等をふくむという確固とした判断があったのなら、べつに島民に聞くまでもなく、堂々と進駐してくればよかったはずである。先の水津氏の説を補強して、南千島などに、米軍がまだ進駐していないのを見て、これ幸いとはいり込んできたとする見方は、かなり確度の高いものとなる。
ところがまた、別な材料もあり、別な判断のはいり込む余地もあったのだ。
一つは、トルーマン書簡で述べられた「中央群島」ないし「中部群島」に飛行場をもちたいという要求と得撫島沖で引き返したソ連艦の行動がからむ一件だ。
また、水津氏が、ソ連軍が択捉、国後まで行くと聞いて出たのであれば、むしろ、最初からそこまで武装解除し、領有する肚でいたのではなかったかということも当然考えられる。それが途中でややぐらぐらした。それこそ日和ったのではなかったか。しかも、はっきりしているのは、この日和った状態が見えたのは、得撫島上陸をためらったほんの一日でしがなかったということである。
つまり、以後の南千島の武装解除と占領についても、アメリカ軍が来ているかいないかについて、警戒的であったにはちがいないのだが、じいっとようすを見てから上陸したのではなく、ヤルタ会談で獲得ずみの権利を、しかも一般命令第一号にもとづいて行使するのだという姿勢で、北千島からはじまって、およそ連続的に南下して来たものであったのだ。一応手びかえてようすを見た、といえるほど、日数はあいていない。
日本側の資料によれば、得撫島へ八月二十九日(ソ連側とくいちがっているが日本側のほうがほかの事柄からみると信びょう性が高い)に上陸、武装解除している。また、それより一日早い二十八日昼前には、択捉北方から現われた五、六百トンのソ連軍駆逐艦と輸送船一隻が、紗万部、別飛の沖合いを経て留別にはいっている。得撫島で上陸をためらった翌日である。
色丹島には、八月三十日、択捉島から連絡があって、九月一日朝、ソ連軍は上陸。国後島には翌二日に上陸して、それぞれ武装解除を行なっている。歯舞諸島の志発島には、三日、日本軍将校が連絡に渡り、部隊を色丹島へ集結さぜたうえで、四日に武装解除している。
また、クリル・アイランズ(千島列島)の範囲については、むかしはともかく、戦前の地図では、すでに、ソ連製でもイギリス製でも、クリル・アイランズといえば千島列島全部をふくんでいたという意見(寺沢一東大教授・国際法)もある。
島民が聞いたことについては、ソ連先遣部隊のつもりでは、千島全島が彼らへの降伏地域だが、ひょっとしてアメリカ軍が誤解して、南千島はアメリカの分だと主張して来ているかもしれないと懸念し、最初に確かめつつ上陸してきたかという、逆な推測もできるのである。
別に、ソ連軍進駐後、南千島、歯舞、色丹の村民の多くが、「自分たちは北海道北半分をも占領するんだ」と、聞かされている事実もある。
この背景は、先にみてきた一般命令第一号の原案に対するスターリンの修正提案にある。
もっとも、アメリカ側で作成した原案では、ソ連側への降伏地域に、千島はふくまれていなかったのだから、その時点(八月十五日)では、アメリカ軍は、千島へも進駐する予定であったはずだった。
それが十八日には北海道北半分は別にして、「千島列島の全部」(トルーマン書簡の中のことば)を、ソ連が占領するについては、同意を表明することとなる。ここで、米ソ双方が了解点に達している。この命令が日本軍に発ぜられる九月二日以前に、占領を目的とした先遣部隊にも伝えられていただろうことは推測に難くない。
そこで、「南千島、歯舞、色丹は北海道であって、『千島列島の全部』からはずれる」とはソ連兵のことばからは出てこないだろう。つまり、南千島がアメリカの分だという理由で、島民に「アメリカ兵が来ていないか?」とたずねたとは考えにくくなる。
ロシア人のいう千島(クリル・アィラソズ)の範囲が不安定で、混清した意識のうちに、先遣部隊に不安感はあっただろう。けれどそれ以上に短絡するかどうかは、疑問が出てくる。ウォルロフ参謀長が「択捉から南はアメリカの担任だ」と明言したことばの意味するところは重い。しかし、もう一つ明瞭ではないのであった。