解説
 日本政府は、海部・ゴルバチョフ会談で、「水津満参謀が・・・得撫島まで来て択捉を見て、ここは日本固有の領土であるから米国の占領地であると言って反対した事実」をもって、北方領土の領有を主張した、と説明している。
 ところが、このような事実はなく、水津の証言もはなはだ疑わしいものである。日本は嘘をついて、ソ連に対して領土要求をした可能性が高い



参議院 外務委員会 平成03(1991)年04月23日

○政府委員(兵藤長雄外務省欧亜局長) その点はまさに海部総理から、日本の主張の一つの重要な根拠として領土不拡大方針というものを、戦後の処理の過程として大西洋憲章から引き起こしまして説明をいたしました。その点は明確に主張をいたし、さらに水津満参謀が水先案内人でおりてきて、得撫島まで来て択捉を見て、ここは日本固有の領土であるから米国の占領地であると言って反対した事実、これはとりもなおさずスターリンの拡張主義というものの具体的な例であるという主張をいたしました。
 それに対して、ゴルバチョフの方はヤルタ協定というものを持ち出しまして、これは戦後のこの協定によって決着済みであるという論理を中心とした反論をいたしました。


衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 平成03(1991)年04月24日

○兵藤政府委員 六回にわたります大変厳しい交渉の過程におきまして、海部総理大臣より繰り返し北方四島の主権の主張を展開したわけでございますが、その中で、海部総理も何回か北方四島の占拠というものはスターリン時代の拡張主義というもののもとにおいてなされたということで、例えば水津満参謀の有名な証言があるわけでございますが、その証言を紹介される等してソ連の当時の占領の非を鋭くつかれたわけでございます。

注)この時期の外務大臣は、中山太郎氏である。


1989/8/10〜1991/11/5 中山太郎外務大臣(海部内閣)
1991/11/5〜1993/4/7  渡辺美智雄外務大臣(宮沢内閣)



(参考)水津満の証言は、中曽根総理が取り上げるなど、過去にも国会で取り上げられたことが有るが、国会証言で水津の証言が真実であるとされたことは、海部・ゴルバチョフ会談以前にはない。


衆議院 予算委員会 昭和58年09月19日

○中曽根内閣総理大臣

・・・例の北方四島であります。あのとき案内した日本の少佐の本が出ておる。ここにある「北方領土奪還への道」という、水津満という人の書いた本で、この人は北千島作戦参謀をやった少佐です。
 この人は、書いた本によりますと、侵入してきたソ連軍に案内を命ぜられて、この人は北千島軍の参謀であったんですけれども、ソ連のその入ってきた。連中の水先案内をやらされた。そうして得撫島まで来たときに、明らかに向こうの将校は、もうわれわれはここまでだ、そういう話になっておる、そういうことをはっきり言っているのですね、この本の中に明確に書いてありますから。
 こう言っております。彼は「これより以南はアメリカの担任だからソ連は手を出さない」とはっきり答えた。これは参謀長です。そうして北の方へ船団をまた向けて帰った、そういうことをここで言っておる。その後また得撫島へ来て、そうして様子をうかがって偵察隊を出したら、どうもい。ないらしい、いないらしいというのでそこから入ってきた、それがいまの四島が占領された歴史であります。もし、あすこへ日本軍がおり、あるいはアメリカの軍がおったらソ連は入ってこないことになっておったらしい。それをやったというので、この少佐は二階級特進で師団長に任命されたとこの本に書いてあります。
 私は、この本をそのとおり正しいか正しくないか確めたわけじゃありませんが、案内した参謀が響いておるのでありますから、したがって、防衛もしないでおるという状態になれば、北海道全体があのときこういう状態になったかもしれません。



衆議院 予算委員会 平成03年02月21日

○兵藤政府委員 先生御指摘のお話は、水津満参謀がまさに水先案内人として、ソ連の言葉で言えば解放ということで南下してきたそのときの事実関係をお尋ねと思います。
 私どもが水津満参謀から伺っております話、またその他の話からいたしますと、ソ連が南下を開始いたしまして占守島に参りましたのが八月の十八日でございます。それで、得撫まで参りまして、そこで一回反転をするわけでございます。それが八月の二十七日だったと承知しております。その後もう一回御承知のように南下してまいるわけでございますが、全部この上陸を完了いたしましたのが、私どもの承知いたしておりますところでは、国後島に九月の二日でございます。最後に歯舞群島、細かい島がございますが、水晶島に九月の三日に最後に上陸してきたというのが私どもが承知している記録でございます。




注)水津の証言では、8月27日に得撫まで来てそこで反転したとされている。しかし、27日には得撫まで来ていないことが明らかになっている。



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