注)特に重要と思われる箇所を太字にしています。

衆議院議員(立憲養正会) 浦口 鉄男
外務事務官(政務局長)  島津 久大
外務事務官(条約局長)  西村 熊雄




衆議院外務委員会 - 7号   昭和25年03月08日

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○浦口委員 たいへん時間が迫つておるという委員長のお話ですので、簡単に明瞭に御質問いたしたいと思います。
 千島諸島の帰属問題について、二、三御質問申し上げたいと思います。もちろん島嶼の帰属につきましては、講和条約に際しまして、連合軍が決定するところではございますが、しかし一応われわれ国民といたしましては、その島の法的にあるべき姿をはっきりとつかんでおくことが、たいへん必要だと考えるわけであります。実は去る二月一日の外務委員会におきまして、島津政務局長は、ヤルタ協定の「千島」という呼称については不明確で、確定する方法がない、こういう発言をされておりますが、しかしそのあとで、しかし南千島と北千島の違いは実在する、こういうふうに御答弁になつております。そういうことから申しましても、ヤルタ協定の問題はあとで申し上げることにいたしまして、まず千島列島という呼称は、一体どういう島々を千島と言うのかということを、一応お聞きしたいと思うのであります。実は私、千島と最も近い根室に参りまして、いろいろと土地の事情を聞きましたときに、南千島と言われている、択捉、国後、色丹島、歯舞諸島等から引揚げて来た人の約一万六千人くらい、こういう人々は、すでに三代あるいは五代も前からこの島に住みついておりまして、この島々がポツダム宣言あるいはカイロ宣言、もちろんヤルタ協定を一応認めるとしましても、われわれはなぜ引揚げさせられたかということについて、非常に大きな疑問を持つております。そういう点についても、この際これをはっきりしておくことがたいへん必要であろうと考えるわけであります。一般に千島列島と申されておりますが、その中の歯舞諸島と色丹島、国後島、択捉島等の島々は、非常に早くから北海道本島に属しておりまして、根室の国と、こう呼ばれております。そして択捉島以北のカムチャツカ半島に至る十八の島々が、いわゆる千島の国と、こういうふうに呼ばれておるのであります。それでその択捉島以南の、すなわち択捉島から南部の島々は、徳川幕府の初めから、日本人が住んでおりまして、三百有余年の長きにわたって、父祖代々相次いで漁業に従事していたというのが、島の歴史上の明らかな事実であります。そのことは一八五四年、安政元年に、帝政ロシヤと締結をいたしました神奈川条約、一名下田条約とも言われておりますが、これによっても明らかにされておるのであります。すなわちその第二条に、「今より後日本国とロシヤ国との境は、択捉島とウルツプ島との間にあるべし、択捉島全島は日本に属し、ウルップ島全島とそれより北方クリル諸島はロシヤに属し、樺太島に至りては日本国とロシヤ国との間において境界を設けず、これまでのしきたり通りたるべし。」こういう一条があるのであります。これはわれわれの解釈によりますと、今まで不明確であつたロシヤと日本の境をはっきりしたと解釈できると思うのであります。しかもその後いろいろ樺太の所有問題についてトラブルがありましたので、一八七五年の五月、明治八年にわが国の全権榎本武揚がロシヤにおもむき、千島・樺太交換条約というものを締結した、こういうことも当然御承知と思うのでありますが、その第二条には、「クリル全島すなわちウルップ島よりシユムシユ島に至る十八の島々は日本領土に属し、カムチャツカ地方、ロパトカ岬とシユムシユ島との間なる海峡をもつて両国の境界とす。」こういう一条があるのであります。この二つの条約から照しまして、明らかにわれわれは、ここに千島列島という名で呼ばれる部分は、少くとも択捉島とウルップ島との間の千島水道と言われる以北が、いわゆる千島列島と呼ばれるものである。その以南は先ほど申し上げましたように、いわゆる北海道本島に属する根室の国の一部である。こういうふうに考えてしかるべきであると思うのでありますが、その点についてまず見解をお聞きしたいと思います。

○島津政府委員 ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言つておると考えるのです。ただ北海道と近接しております歯舞、色丹は千島に含んでいないと考えます。

○浦口委員 そういたしますと、一八七五年、明治八年の千島、樺太交換条約と非常に矛盾して来るのでありますが、先ほど申し上げましたように、この第二条では、クリル全島、すなわちウルップ島よりシユムシユ島に至る十八の島々、こういうふうに北千島というものに対してはっきり第二条で定義されておるのでありますが、その点はいかがですか。

○島津政府委員 北千島の定義がそのようになつておるものと考えます。千島の定義につきましては、いろいろな経緯、歴史もあるわけでございますが、ただいま問題になつておりますヤルタ協定でいわゆる千島というものを先ほど私解釈したのでありますが……。それで御了承を願います。

○浦口委員 私の承知するところでは、北千島、南千島というのはいわゆる下田条約と千島・樺太交換条約、この二つの条約によってこういう俗称が出たと考えておりますので、公文書の上では南千島、北千島の差はないというふうに承知いたしておりますが、何かそういう公文書の上で明示されたものがあるならば、お知らせ願いたい。

○西村(熊)政府委員 それは一九四六年の一月二十九日付の総司令官の日本政府にあてたメモランダムでありますが、例の外郭地域を日本の行政上から分離するあの地域を明示された覚書であります。その第三項の中に「千島列島・歯舞諸島及び色丹島」とございます。いわゆる南千島と北千島とを合せて千島列島という観念で表示してあります。

○浦口委員 その条項も私は実は調べたのでありますが、島津条約局長のおっしゃるように、ザ・クリル(千島)アイランズと、こうなつております。そうなりますと、先ほど申し上げました千島・樺太交換条約の第二条にはクリル全島、こういうことになつておりまして、それはいわゆる下田条約による千島水道以北であるということは、はっきりするのであります。従つてその千島水道以南の択捉、国後――色丹、歯舞はもちろんでありますが、これはは当然含まれない。こういう解釈が明らかになるのでありますが、その点いま一応御答弁願います。

○西村(熊)政府委員 御質問の趣旨がよくわかりませんので、もう一度お繰言返し願いたいと思います。私は政務局長とまつたく同意見ではございますが、……。

○浦口委員 そうしますと、もう一度話が元へ返るようになるのでありますが、実は下田条約では、今より後日本国とロシヤ国との境は、択捉島とウルップ島との間にあるべしという一条があるわけです。これによって条約上初めて日本とロシアの境がきまつたわけです。ですから択捉島以南、すなわち択捉、国後以南の島は当然もう日本国としてはっきりきまつていた後において、千島・樺太交換条約によって、クリル全島すなわちウルップ島よりシユムシユ島――ウルップ島というのは択捉との境でありますが、下田条約によってすでに日本と決定されたその以北、いわゆるウルップ島以北がクリル全島、こういう呼称で呼ばれているのであります。そうでなければこの条約の文章が成立たないのであります。

○西村(熊)政府委員 その条約の条文を持ちませんので、確とした自信はございませんが、今繰返された文句によれば、例の明治八年の交換条約で言う意味は、いわゆる日露間の国境以外の部分である千島のすべての島という意味でございましよう。ですから千島列島なるものが、その国境以北だけがいわゆる千島列島であつて、それ以南の南千島というものが千島列島でないという反対解釈は生れないかと思います。

○浦口委員 私はどうもそれがよくわからないのであります。もう一度詳しく申し上げたいのですが、時間がありませんので、外務省の方で御研究願いたいと思います。この次にまた見解を発表していただきたいと思います。
 それでは引続いてそういうことからいたしますと、実はその前にポツダム宣言及びその根拠たるカイロ宣言については、すなわち第一次世界戦争以後において日本が奪取し、または占領した一切の島嶼を剥奪すること、日本国はまた暴力及び貧欲により、日本国が略取しだる他の一切の地域より駆逐せらるべし。この条項は千島――一応それを南千島、北千島とわけてお話してもよろしいのですが、その両方ともこれには該当しない、そういうふうに考えるのでありますが、その点いかがでありますか。

○西村(熊)政府委員 もちろんそう考えます。従つてヤルタ協定の文句も特にハンド・オーヴアー――引渡すという字を使つております。南樺太は返還すべしという用字が使つてあるにかかわらず、千島列島につきましてはハンド・オーヴアー――引渡すという違つた用語が使つてあります。その辺を考慮した上での条文かと私どもは了解しております。

○浦口委員 そうなりますと、南と北の問題は別といたしまして、国後、択捉、歯舞諸島、色丹島から強制的に引揚げなければならなかつた、その間の理由はどういう理由によるか、その点お伺いします。

○西村(熊)政府委員 今度の戦争後におきまして、連合国の日本及びドイツに対します政策の一つといたしましては、日本人及びドイツ人は将来における国境の内部に全部移住させるという政策がとられたようであります。従いましてドイツについても同じでございますが、日本につきましては、日本軍の占領地域ないしは日本の行政下の管轄の外に置かれました領域に在住しておりました邦人も、全部いわゆる強制引揚げということになつたわけでございまして、その一環として、千島における在留民も、本国へ帰らざるを得ないことになつたのでございます。

○浦口委員 われわれはこの千島列島、歯舞諸島、色丹島におる住民は、連合軍の保障占領下に生業を営み得る立場にある、こういうふうに一応考えるのでありますが、その点いかがでございますか。

○西村(熊)政府委員 言い分云々は別といたしましても、おっしゃるようなことを熱望いたしておるわけでございます。ことに歯舞、色丹については、強くそれを熱望せざるを得ないわけでありますが、事実上それはまだ許されていない事態にあると御了解を願いたいと思います。

○浦口委員 当然たいへん困難だという事情もよくわかるのでありますが、熱望しておるということで了承することにいたします。実はこの問題につきましては、千島と関係の最も密接な北海道の根室町におきまして、北海道付属島嶼復帰懇請委員会というものができておりまして、先ほど申し上げた、この諸島から強制帰還をさせられた一万数千の人と、土地の人が非常な熱情をもつて運動を続けておるのであります。すなわち昭和二十年十二月一日、二十一年八月六日、二十二年一月十五日、二十三年九月十五日、二十五年一月、この五回にわたってマツカーサー元帥に対して陳情書を提出して、この運動を展開しておるのであります。その真意は、先ほど申し上げましたように、付属島嶼の帰属はもちろん平和条約締結の際に、連合軍によってきめられるものである。しかしその間われわれが少くとも連合軍の保障占領下にあつて生業を続け得るのではないか。せめてその点は、われわれとしては主張しても間違いではないのではないかというふうな、やむにやまれぬ気持で、この運動を続けておると承知しておるのでありますが、外務省はこの運動に対して、連合軍がどういうふうな処置をとったか、あるいは態度を示しているか、あるいは外務省としてこの陳情に対してどういうふうに考えているか、また何かこれに対して処置をしたか、その点お聞きしたいと思います。――たいへん答弁がむずかしいように察しますので、こういうふうにお聞きします。それはいろいろ文献や歴史によって、国民が主張し、陳情することは自由である。しかしそれ以上、政府としては正式にこれに対してどうこうすることはできない、こういうお考えでありますか、どうですか。

○島津政府委員 たいへん御同情のある御質問でございます。政府としてできることはいたしておるのでございます。ただ領土の問題は、非常に機微な関係がございまして、また決定する立場にも、もちろんないわけであります。陳情その他が国民の間から出ますことについては、政府としても何とも申し上げられないのであります。非常に機微な関係もございまして、答弁を差控えさしていただきたいと思います。

○浦口委員 希望を申し上げておきます。こういう運動がどんどん熾烈になつて来るということは、現地の事情で非常にしみじみと感じられますので、それにつけても少くとも南千島、北千島の問題については、外務省当局も、そういう輿論を支持する、しないは別といたしましても、もし誤つた根拠に基いてそういう運動が盛んになるということであるならば、われわれとしても、その熱情は買うとしても、国際の問題、ひいては日本の将来に及ぼす問題が非常に大きいと思いますので、もう一段御研究を願いたい。こう希望いたしまして、私の質問を打切ります。

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