日本政府は、以下の公式見解を示した

@「平和条約によつて領土の帰属が確定する」との考えには議論の余地が有る
A国後島、択捉島は千島列島に含まれる。歯舞諸島と色丹島は千島列島に含まれない。
B千島の人口は約一万一千で、極く少数のアイヌを除き、全部北海道から行つた日本人が住んでいる


参議院 外務委員会 - 3号 昭和22年10月08日

(省略)

○説明員(萩原徹君) 普通に国際法では、戦争中には領土の変更は確定しないものであつて、平和条約によつて領土の帰属が確定するのであるというのが今までの国際法上の定説になつておるようでございます。それで厳格に法律的に申せば、台湾、朝鮮、樺太その他の日本領土でありました地域は、現在においても日本領である。そうしてこれが平和条約によつて、そのものが最終の帰属が決定せられたときに、初めて日本の領土でなくなるのであるという法律論は十分成り立つ可能性があると思います。ただ国際法の学者の一部も指摘しておりますように、元来平和条約によるにあらざれば、領土の最終的帰属が決定しないという国際法上の規則乃至学説は、十九世紀に発逹した学説でありまして、その当時には、今日のように戦争が事実上済んでから平和条約ができるまで、何年もそのままでいるというような状態はなかつたのであつて、その時代の慣習から確立したその国際法の規則を、今日の状態に直ちに当篏めるのが適当かどうかという点については議諭の余地があるということは申し得ると思うのであります。
 それからもう一つ重要な点は、朝鮮、台湾、樺太につきましては、ポツダム宣言の受諾によりまして、これは日本の領土でなくなることがはつきりいたしております。日本の主権が本州、四国、九州、北海道並びに連合国の指定する諸島に限らるべしということを日本が受諾しておるのでありますから、朝鮮や台湾は日本のものでなくなるということが、予約でありますが、もう確立しておるということは申せると思うのであります。併しその他の島になりますと、我らの決定する小諸島ということで、その決定のあるまでは、どうだか分らないという状況にあるのではないかと思うのであります。アリリカの国務省の当局が、新聞記者の会見か何かで申したこともあるのでありますが、樺太、千島等をロシヤが一方的に併合する措置を講じた際に、アメリカの国務省の、多分新聞記者に対する談だと思いますが、領土は平和条約によつて確定するのだ。ヤルタの協定で千島及び樺太をロシヤにやることは約束をしておつて、アメリカはそれに同意はしておるが、領土が確定的に帰属が移るのは平和条約によるのであるというようなことを、アメリカの国務省側の者が述べたことがあるようであります。連合国側もそういう見解を取つているのではないかと思われるのであります。
 それで現在の日本の行政はスキヤツプのデイレクテイヴによつてこれこれの範囲に限られる、つまり沖縄方面で申しますれば、あすこの北緯三十度を境として、その南の島には日本の行政権は及ぼしてはいけないというデイレクテイヴを貰つておりますので、三十度から南の島には日本の行政権は行使していない。従つて降伏後にできた日本の法律とか何とかというものも沖縄には施行されない状況にあります。併しスキヤツプのデイレクテイヴも行政権の行使を停止するのであつて、そのデイレクテイヴが領土の帰属を最後的に決定するものでないということを申しておるのでありますから、厳格な法律論としては、やはり沖縄は日本の領土であつて、行政権は全然行使できないが、形式的にはまだ日本の領土であつて、平和条約で確定されるのであるという見解を、アメカリ側でも採つておるのではないかと考えられます。

(省略)

○説明員(萩原徹君) 千島の問題と、千島の脇にございますハボマイ群島、及び色舟島のことについて簡単に御説明いたします。話が混合いたさないように、別々に御説明申上げます。
 千島につきましては、御承知のように北海道の端からカムチヤツカに互る約二十五ばかりの島が弧状を描いて並んでいる、この全体を千島列島と総称いたしておるわけであります。千島の歴史は、先程申しました琉球の歴史などと異りまして、古い昔のことは全然分りません。どうやら千島のことが日本の書物に出て参りますのは、徳川時代にあるようでございまして、徳川将軍がでてからこの松前藩があそこの有力なる豪族であつたのでありますが、それが大名になりました。その時分は蝦夷を松前藩が管轄していたわけであります。この蝦夷という言葉は、当時どこか、北海道だけなのであるか、漠然と千島樺太方面を含んで言つたのであるか、どうもはつきりいたしませんが、やはり何か漠然と北海道周辺の、今でいえば千島、樺太辺りを含んでいたようでございます。
 それで幕府に松前藩から、郷帳というのでございますが、自分の藩内のどの村には幾ら米ができるかということを詳しく書いたものについて、地図を附けて出しておるのでありますが、承応年間に出ていたものが、現在残つているものでは一番古い松前藩の作つた地図であります。それには勿論測量が今程正確ではございませんが、とにかく千島が現れておる。で、焼けてしまつて現在ないのですが、松前の藩の記録によりますれば、徳川の極く初めの頃、西暦で申しませば一六〇〇年代の初め頃にすでに地図ができていたようでありますが、今申上げましたように、現在残つておる地図としては一六四四年ぐらいに正保年間にできた地図が一番古い地図であります。その地図にはおぼろげながら明らかに千島が載つておる。従つて松前藩の人々はその地図の千島の存在を勿論知つておつたわけでございます。
 それでロシヤが千島に参りましたのは、むしろ西暦で申しませば一七〇〇年代に入つてからでございまして、大体一七一一年頃にロシヤの探検隊が初めて千島の方へ参りました。その頃以後にできたヨーロツパの地図には千島がやはり……現在のような正確な測量ではありませんが、とにかく載つておる。併し一六〇〇年代にできましたヨーロツパの地図には、あそこのところは何もなくて、島の存在をヨーロツパでは知られていなかつたのではないかと思う。それで一方ロシヤの方はこの探検の目的もあり、又ラツコを取るためにラツコ船が樺太から段々千島に伝わつて南の方へ下つて来る。それから徳川幕府の方でもロシヤが此辺に来るというのでしばしば探検隊を出したりいたしております。そうして千島の国後あたりには松前藩の役人がおつたのでありますし、幕府でもロシヤが下つて来るので松前藩に委して置かない方がいいというような考えから、途中で一度幕府の直轄にいたしまして、幕府の役人をあちらの方へ派遣して駐在さしたり、漁場を開いたりしたことがありまして、結局一七〇〇年代の終りから一八〇〇年代にかけまして、つまり十九世紀におきましては南の方は大体日本の漁民が住み、幕府若しくは松前藩の役人もいた。それから北の方からロシヤのラツコ船や探検隊が来る。そうして一部分ロシヤ人も住む者ができて来るというような状況であつたのであります。
 それでいろいろその間に政府とロシヤ側との交渉がありまして、幕府の方でロシヤ人に或る島を立退いて呉れということがあつたり、又幕府の方が或る島から引揚げたりしたいろいろな経緯がございましたが、結局安政年間、西暦で申しますれば一八五五年に日露間に友好条約ができまして、この条約でロシヤと日本の間の千島における国境を確定して、それで北海道に一番近いのは国後で、その次は択捉という島なのでありますが、その二つを日本領土とし、それから三番目の得撫から北をロシヤ領とする。つまりロシヤと日本との国境は、二番目の択捉と三番目の得撫の間にある択捉海峡を以て境とするということを約束いたしたのであります。それから申しまして、まあ大体ずつと昔から南の方は何処が境ということは余りはつきりした観念なしに、南の方は元々日本のものであつた。そうしてロシヤと日本との間で当時は其処を境にして国境を確定したというわけであります。
 ちよつと余談になりますが、当時樺太も同じように北の方にはロシヤ人が段々住んでおる。南の方は松前藩方面から行つた日本人が住んでおるというような状況で、これも又はつきり国境はなくて、樺太は日本とロシヤと両方のものであるというような形になつておつたのでありますが、安政の日露条約、一八五五年の日露友好条約の際に、樺太の国境を決めようとしたのでありますが、これは話がつきませんで条約には樺太等については従来通り日露間に分割しないで置く。つまりぼんやり両方のものであるままにして置くということを安政の条約では規定しておるわけであります。そうしてその後、樺太の国境をそれじや困るので、何とか決めようというので、日本とロシヤの間に明治政府になつてから、引続き樺太の国境確定問題が論議されたのでありまして、或る時は五十度を主張し、或いは五十度よりもう少し南の方の線ではどうかという案が出て見たり、当時日本側ではあの島は持つていても仕様がないから、あれをやつてしまつて、その代りロシヤから軍艦を貰おうという話が出て見たり、いろいろの経緯がありまて、樺太の国境確定問題が長い間懸案になつていたのでありますが、それが結局一八七五年にペテルスブルグで調印されました樺太千島交換条約というので話がまとまったのであります。つまり日本は樺太は全部ロシヤにやつてしまう、その代り千島を全部日本が貰うという条約ができまして、その結果千島は先程申しました北海道に近い二つの島は、元々日本のものであつたのでありますが、三番目からカムチヤツカの所まで、いわゆる北千島をその時に樺太と交換して日本のものになつた。それから御承知のように日露戦争の後で、樺太の南半分を日本が取つたということになつておるわけであります。
 千島の歴史と申しますれば大体そういうようなことでございます。この千島につきましてもいろいろ経済上その他の問題もございますが、これは一応省略さして頂きます。
 それからもう一つ、千島の極く傍に歯舞及び色丹という島があるわけであります。(以上図示)これはいい地図がないのでお分りになるかどうかと思いますが、これが北海道の端の所でございまして、これがいわゆる根室半島で、根室の町が、この半島の北側に、ここにあります。そうして、ここに一つのこういう湾がありまして、ここにもう一つ岬があつてこうなつております。この湾の真ん中の所に、これが国後島の南半分でございまして、ここに国後があり、ここに択捉、ずうつと千島がこれから一列をなしておるわけであります。それと違いまして、この根室半島の先に、ここに幾つかの島がございまして、これが歯舞諸島といわれている島でありまして、水晶島とも申します。それから、これから離れて一つ先に、一つ大きい色丹という島があるわけでございます。
 それでこの島の方は、もともと昔は根室の国と申しておつたのでありますが、根室郡に属しておる島であつたのでありまして、先程申しました安政年間の千島についての日露国境確定の条約にもこの島のことは、勿論何にも書いてございませんで、当然まあ日本のものだという考えでやつていたもののようであります。ただ北千島を日本が樺太と交換して、日本のものになつてから、行政区画としては千島を北海道の千島支庁という形にして、南千島、北千島というように分けたのでありますが、その際にこの色丹島だけを北海道庁の千島支庁の管下に入れて、こつちを根室郡に入れたという形になつて、行政区画という意味からいいますと、或る時期以後この島が千島支庁の管下に入つていたという事実はあるわけでございますが、地理学者のいろいろな話を聴いて見ましても、詳しいことは忘れましたけれども、地質のでき方からいいまして、北海道と同じ地質でできておつて、千島とは地質的にも違つておるというような話であります。それで外国の水路誌とかいろいろな地理の本などにも、やはりこの島は余り千島として取扱つていない著書の方が大部分のようでありまして、これはやはり千島ではなくて北海道の附属島嶼として考えるべきもののように思うのであります。
 これにつきましては、歴史と申しましても、只今申しましたように、樺太、千島の国境確定にも何にも書いてないので、平穩に昔から日本の北海道の一部として日本が持つていた島なのでございますが、終戦の当時にこの島におりました旅団が、千島にいた師団の隷下にあつたことが原因になつたのだろうと思いますが、この島にいた軍隊がロシア軍に降服いたしましたために、現在の島がロシア軍の占領下にある状態になつております。

○星野芳樹君 色丹の方だけですか。

○説明員(萩原徹君) 色丹も歯舞も、両方でございます。根室の半島の方からすぐ見える島なんだそうでございますが、その向いの島までロシア軍が来ておるわけであります。これは日本が降伏いたしましたときに、ゼネラル・オーダー・ナンバーワンというのが九月二日附で最高司令官から発せられておりまして、この一般命令第一号というのに、例えば朝鮮では北の方の日本軍はロシア軍に降伏しろ。南に居る日本軍はアメリカ司令官に降伏しろ。それから台湾に居る日本軍は支那軍に降伏しろ。何処に降伏しろというように書いてあります。それに千島における日本軍はロシア軍に降伏しろ。それから日本々土及び本土附属島與に居る日本軍はアメリカ軍に降伏しろというようになつておるので、恐らくこの指令を忠実に履行したならば、やはりアメリカ軍に降伏しているべかりしものであつたろうと思いますが、併し今言つたように、此処に居た旅団が向うの師団に属していた。或いは終戦当時の御承知のような混乱のために、ロシア軍に降伏して、ロシア軍の占領下に入つておるということで、現状に至つておる次第でございます。
 この島もいろいろ昆布ができますとか、根室方面の漁業にとつては非常に重要な土地であるという、いろいろな経済上の問題もございますが、これ亦長くなりますから省略させて頂きます。


○板谷順助君 千島列島の問題につきましては、講和条約の結ばれる以前に先立つて、従来の地理歴史をよく連合国に了解を求める必要がある。いわゆる連合国の認定する諸島に加えて貰うということについての重大な関係のある問題だと私は思います。只今外務当局からお話になりましたことと私共の調べたことと多少意見の相違があります。ということは、安政年間に南千島と申しますと択捉、色丹、国後ですね。それから中部千島、北千島、これは丁度青森から下関に至るまでの長い距離の間に散在している約二十六の島である。ところが安政年間にその当時のロシアと南千島に属する択捉、色丹、国後、この三つの島と、それから根室国に属しておる島の歯舞とその他の小さい島、これはロシアと通商条約を結んで、日本の領土であるということははつきり決まつている問題であります。ところが中部千島、北千島に対しては、只今外務当局はその当時、つまりこれはロシア領であるということを確定したような意味のことをおつしやつたけれども、私はそのように聞いておりません。これは殆ど無人島である。無人島であつて、日本の漁師が時時出掛ける。私は北千島まで先年視察に参つたのでありますが、殆ど漁が終るというと、番人を残す程度で皆引揚げてしまう。だからその当時は殆ど無人島でありました。そうしてロシアの軍艦が来て、これは我々の領土と言う。日本の漁師は明治以前から千島列島に対して、或いは樺太に対して出漁に出掛けている。そうして日本の方では樺太も或いは千島列島も自分の領土だとこう信じている。ロシアの方では無人島で出掛けて行つてこれは我々の領土だと言う。その争いの結果明治八年に榎本全権公使がロシアと交渉して樺太はロシヤ、千島全島は日本の領分にしようとはつきり決めた。だから安政年間の条約がつまり択捉――択捉は割合に開けておる、人口の多い所であります。私共ずつと全島を廻りましたが、その方面から得撫の方面はロシヤ領にその当時確定したということは私共その事実を聞いておりません。これは重大な関係があります。でありますからして、こういう歴史、地理を先ずはつきり一つ明らかにして、今お話の安政年間における条約の文献というものも外務省に行けばあるわけですか、或いは学者の想像によつてそういうお話をなさるのか。その点をちよつとお伺いしたいと思います。

○説明員(萩原徹君) それで先程少し説明を簡略にいたしましたので誤解があるかと思いますが、この千島の、カムチヤツカに近い方の極く北の方の島にはロシヤ人がラツコ船から下りて一夏住んでみたり、定住したのに又引揚げたり、まあロシヤ人がばらばらに住んでいるという状況にあり、そうしてロシヤ人がだんだん南の方に下つて来たので、例えば一八〇一年に徳川幕府は冨山元十郎という幕府の役人を派遣して、三番目の得撫へ行つて、そうしてロシヤ人の立退きを要求して、そうして得撫は日本領だという柱を立てて帰つて来たことなどもあるわけであります。それで三番目か四番目の島までは日本側が行つたりして明らかに領有の意思を表示したことがあるわけであります。
 併しその間に勿論、当時の日本というのは幕末の眇たる小国であり、ロシヤは当時非常な世界的な大国であつたので、その間の条約の交渉というものがどういう関係にあつたかほぼ想像がつくわけでありますが、結局最後に一八五五年の条約では、はつきりその二つの島は日本のものである、三番目から北はロシヤのものであるということを決めたわけであります。
 ですから、その前においては、その条約の前においては何処が境であるか非常に明白でなかつた。それで只今おつしやいましたように、日本はただ千島全部が日本のものなのだというふうに思つたおつたものでありましよう。少くとも得撫ぐらいははつきりと日本のものだくらいに思つていたのでありましようが、その条約を締結する際に讓歩いたしたわけだと思いますが、条約は、明らかにロシヤと日本との境は今後は択捉と得撫の間を走るべし、そうして択捉島は日本に属し、得撫及び得撫の北にある千島諸島はロシヤに属すべしという条約に調印しておるわけであります。従つてそのときに明らかにいわゆる北千島はロシヤのものであるということを日本政府は一度認めたわけであります。

○説明員(萩原徹君) それを、樺太はすでに共有状態にあつたのを、樺太の方を今度は讓つて、そのときに安政年間に讓つた千島と取換えたわけであります。

○板谷順助君 そういう文献があるとすれば、或いは安政年間において、得撫島が境のように言つたかも知れませんが、その後日本の方ではやはり千島全島或いは樺太は日本の領土だというので、殆どロシヤ人など来やしない。御承知の通り、占守島がカムチヤツカと対しておるので、日本の一番の北部だというので戦時中大部活動した島である。いずれにしても今申上げたように、安政年間に北海道に属しておるところの南千島、択捉島、色丹、根室に属しておる歯舞島、これは昆布の大産地でありますからして、別に日本が侵略した島でも何でもないからして、先程も申上げましたように、講和条約が調印されれば最後であります。その以前につまり認定する諸島に加えて貰うことについて懇請する手段として、外務当局としては有らゆる手段を尽して貰いたい。
 そこで私はこの問題については、国民の與論を起す必要があるということは、御承知の通り連合国は日本の再建を許し、日本国民の最低生活を保障するという以上は、何としても蛋白質が或る程度どうしても必要である。ところが今沿岸漁業や定置漁業では、これらの目的を達することができない。これらの関係から行きましても、国論を興すことは差支えないというので、私は北海道においてできるだけ国民の與論を起すということを盛んに言つてるわけでありまして、御承知の通り請願が出るについても、いわゆる與論に基いて請願と考えるのであります。それから又根室方面におきましては、三囘までもマッカーサー元師に直接陳情いたしております。こういう経過もあるのでありますから、この鮎につきましては、外務当局が講和条約に臨む以前において有らゆる手段方法を尽されんことを希望いたします。

○細川嘉六君 千島には幾らほどの人口があり、それま全く日本人だけですか。それを局長さんにお聞きしたい。

○説明員(萩原徹君) この千島の人口は約一万一千くらいだと思います。ただ土地柄から、そこに定著しておる人口はそれだけでありまして、漁期になりますと、北海道方面から大勢出掛けて行く。併し冬越しするのは比較的少いという状況だと思います。特に国後、択捉に大部分おりまして、それから北千島の方に行くともつと寒いわけでありますから、冬は余りそこで過ごさないという状況のようであります。そこでこれらは殆ど全部日本人であります。アイヌが極く少しおつたようでありますが、この北千島が日本の領有になつた頃にアイヌを色丹等に集めたようなことがあるようであります。極く少數のアイヌを除きましては、全部北海道から行つた日本人が住んでいるということだろうと思います。

○板谷順助君 私は千島全島殆ど廻りましたが、得撫島には或る程度お話のように越年する人も相当おるようであります。それから得撫はあれは農林省の狐の飼い場所になつていて殆ど人を入れません。それからその他にその先の漁場に越年する場合に、殆ど二三人或は四五人程度残るのみで越年する者はないのであります。夏の出稼ぎであります。燈台守が占守島の方にいるくらいの程度でありまして、そうしてロシヤ人など殆どおりません。それからアイヌらしいものも余りおりません。まあ殆ど日本人は春から秋に掛けて漁に出掛ける。他の農作物というのは殆どできやしませんという状態であります。であるから人種的に見てももう殆ど大部分は日本人であります。

(省略)


出典:国会会議録



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