北方領土問題


5.国後・択捉は千島? クリルアイランズ?


5.1 国後・択捉は千島


 今でも、国後・択捉は南千島であって、千島に含まれないと言う人たちがいる。
 サンフランシスコ条約で、『千島列島・・・に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄』したので、国後・択捉が千島であるとすると、日本政府の要求こそが、不当不法な領土要求になりかねないためだ。
 実際には、明治二年以降、国後・択捉は千島国に属しており、一貫して千島である。(正しくは、初期は千嶋と書かれている。)(明治二年以前は、異民族の地を意味する「蝦夷地」と呼ばれていた。)
 ウルップ島以北の北千島が日本の領土になるのは、1875年のサンクトペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)であるが、この当時は日本の地名は無かったので、政府内部で暫定的に「クリル諸島」と呼ばれた事がある。交換条約の翌年1876年1月にはウルップ島以北も千島の国に編入され、国後・択捉同様に「千島」と呼ばれるようになった。
 このように、明治二年に蝦夷地が北海道と称されるようになって以降、国後・択捉島は一貫して千島国だった。



参考のためエトロフ島・クナシリ島で使用された切手を紹介します。すべて「千島」と記載されています。


(エトロフ島で使用された切手)

紗那
留別

左:蕊取

中左:内保

中右:入里節

右:別飛

(画像をクリックすると拡大します)  サンフランシスコ条約により日本は千島列島の領有を放棄した。



(クナシリ島で使用された切手)

乳呑路
左:泊村
中:瀬石
右:古釜布

(画像をクリックすると拡大します)  サンフランシスコ条約により日本は千島列島の領有を放棄した。


 
 左は、昭和に択捉島蕊取で使われた葉書の一部。
 (画像をクリックすると、葉書の全体が見られます。)
 




(参考)


明治時代の切手の消印には国名が書かれていた。北海道内の千島以外の消印。

 上段左から
  根室国 根室
  根室国 薫別
  釧路国 太田
  釧路国 標茶
画像をクリックすると拡大します
 下段左から
  天塩国 天売 (天売島)
  石狩国 幌向
  後志国 久遠
  渡島国 福山
画像をクリックすると拡大します


注意) 千島の郵便局のうち、紗那と国後は大局だったため、明治後半以降は千島の記載は省略されている。




5.2 色丹島は千島か否か


 色丹島は、北海道か千島かは時代によって異なる。千島樺太交換条約以前、色丹島は根室国に属してい(根室国花咲郡)。しかし、千島樺太交換条約で全千島が日本領になると、日本政府は1884年にクリルアイヌ97人を占守島から色丹島に強制移住し、その翌年、色丹島は千島国に編入し色丹郡となった。



 左は、色丹島色丹郵便局の消印が押印された切手。『千島・色丹』と書いてある。


 (画像をクリックすると拡大します


画像をクリックすると拡大します

上のはがきは色丹島民が差し出した昭和5年の年賀状。色丹島民であるが、根室郵便局で差し出している。差出人住所を見ると「千島国色丹郡」となっている。



5.3 クリル・アイランズ


 1951年のサンフランシスコ条約で、日本は千島列島の領有を放棄した。国後・択捉は明治以来一貫して千島国に属しているので、国後・択捉が千島列島に属する事は明白だ。にもかかわらず、なぜ日本政府は「北方四島は千島に含まれない」と宣伝しているのだろうか。

 サンフランシスコ条約の英語版では、 Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands,(日本国は,千島列島…に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する)となっているので、英語版では日本が放棄したのは「Kurile Islands」である。地図や百科事典では「Kurile Islands」と「千島列島」は同じ意味で、国後・択捉はKurile Islandsに含まれる。ところが、幕末に結んだ下田条約や、明治初期のサンクトペテルブルク条約の日本語版では、クリル諸島(クリル群島)はウルップ以北と読めるような記述になっている。
 ここを根拠に、日本政府の主張では「日本が放棄したのは Kurile Islands であって、クリル諸島に国後・択捉は含まれないので、日本は北方4島を放棄していない」と なるようだ。
 ところが、和田春樹氏・村山七郎氏は、下田条約や、サンクトペテルブルク条約には、クリル諸島をウルップ以北と定義している事はなくて、そのように日本語版が読めるのは、日本語版の誤訳である、ことを明らかにした『北方領土問題を考える(岩波書店)1990年』。和田春樹氏・村山七郎氏の説に対して、外務省をはじめ反論は今のところ特に無いようだ。(1986/4/2、第104回国会 参議院外務委員会 第2号の論議を参照ください。)
 和田春樹氏・村山七郎氏説以降「国後・択捉は南千島であって、千島に含まれない」とは、あまり言わなくなった。

 和田氏・村山氏の説がなくても、1946年1月29日のGHQ指令(SCAPIN-677)では、Kurile Islandsに国後・択捉が含まれているので、サンフランシスコ条約のKurile Islandsに国後・択捉が含まれないとの主張には無理があった。もともと無理があり、世界を説得する可能性のなかった論拠を、和田氏・村山氏がほとんど完全に葬り去ってしまった。

注1)・下田条約では日本語もロシア語などと並んで条約正文なので、誤訳であっても有効です。Kurile Islandsをウルップ以北と限定していないロシア語・オランダ語・中国語の条文も有効です。
  ・サンクトペテルブルク条約はフランス語のみ正文なので、日本語誤訳は無効です。
  ・Kurile Islandsとクリル諸島、あるいはクリル群島が同じ物と考えてよいのか疑問です。しかし、サンクトペテルブルク条約日本語版は誤訳なので、誤訳の条文解釈をしても無意味な事です。

注2)国後島・択捉島がヤルタ協定で言うところの千島に含まれるか否かについて、昭和25年、衆議院外務委員会で西村政府委員は、国後島・択捉島は千島に含まれると回答しています。サンフランシスコ条約締結当時の認識では、国後島・択捉島が放棄した千島に含まれることは明白でした。


(参考)サンクトペテルブルク条約には、クリル諸島をウルップ以北と定義している事はなくて、そのように日本語版が読めるのは、日本語版の誤訳であることの説明

サンクトペテルブルク条約 第二款について

条約正文(フランス語)
En echange de la cession a la Russie des droits sur l'ile de Sakhaline, enoncee dans l'Article premier, Sa Majeste l'Empereur de Toutes les Russies pour Elle et pour ses heritiers, cede a Sa Mejeste l'Empereur du Japon le groupe des iles dites Kouriles qu'Elle possede actuellement, avec tous les droits de souverainete decoulant de cette possession, en sorte que desormais ledit groupe des Kouriles appartiendra a l'Empire du Japon (以下省略)

日本語訳文
全露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲネコタン」島第六「ハリムコタン」島第七「エカルマ」島第八「シャスコタン」島第九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ラスツア」島第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「ブロトン」島第十七「チエルポイ」並ニ「プラット、チエルポエフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権利及ビ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス


和田春樹著「北方領土問題を考える」(岩波書店,1990年)の説明を掲載します。

 条約正文は論理的で、暖昧さをのこさない。日本語訳で「現今所領『クリル』群島」とされている箇所は、「自らが現在所有するクリルという島々のグループ」であり、原文ではle groupe des iles dites Kouriles qu'Elle possede actuellementであり、ロシア語訳でも、これは gruppu ostrov, nazyvaemykh Kuril, kotorymi On nyne vladeet となっている。
 フランス語では区別できないが、ロシア語では、「自らが現在所有する」という限定句は「クリルという島々」にかかっており、「島々のグループ」にかかっているのではない。もしも後者なら、クリル・アイランズという一つのグループをロシアが領有しているという意味になるのだが、前者であるがゆえに、ロシア領クリル・アイランズが集まって、一つのグループをなしているという意味になるのである。つまり、ここは「ロシア領クリル・アイランズのグループ」となるのである。ロシア領でないクリル・アィランズのグループが別にあることを前提にするテキストである。
 他方、le groupe des iles dites Kouriles(the group of the Kuril islands)は、クリル諸島を表現する言葉ではありえない。それをいうなら、the Kuril islandsで足りるのである。この「グループ」という言葉の使い方については、後世の文章ながら、ヤルタ会議の前後に、米国務省内につくられた千島の処理にかんする名高いブレイクスリー文書が参考になる。この文書には、「クリル諸島(The Kuriles)は、南部、中部、北部と三つのグループ(three group)に分けられる。---日本は民族、自然、地理的近接性、経済的必要と歴史的領有に基づいて、クリル諸島の南部グループ(the southern group of the Kuriles)に強い要求をもっている」とある。明らかに、「グループ」は列島、諸島の中をさらに区分するために使われている。
 以上の点からして、正文でいわれているのは、クリル諸島中、ロシアが所有している島々のグループ、ロシア領の部分を日本に譲るということである。日本語訳文の「『クリル』群島」は明らかなる誤訳であり、正文のどこにも「『クリル』全島」にあたる言葉はない。


5.4 日本政府も国後・択捉をクーリール(KOURILES)と認識していた

 戦前、逓信省では、何回か記念絵葉書を発行したことがある。最初に発行されたのは、1902年UPU加盟25周年記念で、5種類有るのが、そのうちの、1枚には地図が描かれている。

 この地図で、千島列島には『KOURILES』と書かれている。
 1902年に、日本では、国後・択捉をKURIELESと認識していたことが明白だ。


1902年、逓信省発行、印刷局印刷 紀念絵葉書 (クリックすると画像を拡大します)




(北海道、千島部分の拡大)


(参考)

択捉島在住のステン・ベルクマン博士に宛てられた手紙。
住所はKuril Islands(クリルアイランズ)となっている。
国後・択捉が、クリルアイランズに含まれることは、戦前から地理上の常識です。

(画像をクリックすると拡大します)

(参考)



1969年8月23日 毎日新聞朝刊記事に掲載されていた千島列島の地図。
国後島・択捉島を千島列島に含めている。

画像をクリックすると、もう少し新聞記事の広い範囲が現れます。


最終更新 2020/7

詳しい北方領土問題の話の先頭ページへ       北方領土問題の先頭ページへ