北方領土問題


4. 四島返還論とその根拠


4.1 四島返還論

 サンフランシスコ条約締結の経緯を見ると、日本政府の立場は2島返還論になるはずです。
 にもかかわらず、何故に四島返還論なのでしょう。
 1950年に朝鮮戦争が勃発し、東西対立が激化する中、1951年2月訪日した米国務長官ダレスは、南千島(国後・択捉)を日本の領土と認める発言をして、日本の世論を反ソ連へと誘導を図ります。しかし、漁業問題もあって、日本の国内世論はソ連と対決を求めたわけでは有りませんでした。実際、1956年の日ソ交渉では、鳩山内閣の重光葵外相が二島妥結による解決を試みています。しかし、この試みはダレスにより拒絶されました。
 日ソ交渉が中断している最中の1956年8月19日、外務大臣重光葵はダレスと会談した折、ソ連案を受け入れるしかないと話すと、ダレスは米国としてそれは承認できないと、重光を次のように叱責したと言われています。
 『日本が南樺太・千島を放棄し、特に国後・択捉をソ連領として認めるならば、サンフランシスコ条約違反となる。これは、サンフランシスコ条約以上のことをソ連に認めることになり、この場合は米国としてはサンフランシスコ条約第26条により沖縄を永久に領有する。』 (注1)

 このとき以降、日本政府は一貫して「四島は日本領でありソ連に不当に占拠されている」と主張しています。
 四島返還論は、日本の世論を反ソ連へと誘導するために主張されて来ました。実際、戦後50年以上、日本政府は現実的解決の努力を何一つ行っていません。このことからも、四島返還論は日本の世論を反ソ連へと誘導するため道具に過ぎなかったと言う事実は疑いありません。
 

 ダレスは、南千島(国後・択捉)を日本の領土と認める発言をして、日本の世論を反ソ連へと誘導を図りました。では、なぜ、このような発言が、日本の世論誘導に成功したのでしょうか。成功するのには、それだけの理由があります。
 昭和26年02月05日参議院外務委員会において、千島及び歯舞諸島返還懇請同盟副会長・根室町長岸田利雄氏は、以下の発言をしています。

 南部千島に属するところの色丹島、国後島、択捉島は全く日本固有の島で、三百年の昔から日本人の手によつて開発経営され、行政上には普通町村制が施かれ、かつて異民族の居住した事実はないのであります。故に安政元年の日露和親條約に基くところの国境線も択捉水道に置かれ、択捉以南の島々は我が国の領土であることは何人も認めるところであります。

 この発言には、偽りがあります。「三百年の昔から日本人の手によつて開発経営され…かつて異民族の居住した事実はない」と言ったならば、それ以前から居住しているアイヌの存在や、アイヌを弾圧支配することにより統治を確立したと言う歴史を無視しています。北海道のことを明治初年まで蝦夷と言っていましたが、これは異民族の意味です。
 しかし、エトロフ以南がロシア固有の領土になったことが無いのは、その通りで、これは何人も認めるところです。日本で一般に言われている説明では、下田条約(日露和親條約)によって、エトロフ以南が日本領になったというわけではなく、それ以前から日本領だったものを、日露間で確認しあったのが、下田条約だったことになります。(注2)
 下田条約は、日露間で平和的に領土問題を画定したものでした。平和的に解決したと過去の先例に倣って、過去と同じ国境線にして欲しいという、素朴な心情に基づく返還運動が、特に北海道を中心に有りました。
 しかし、ソ連側からしたら、とんでもない都合の良い話で、日露戦争で勝利したときは領土を奪っておきながら、いまさら何を言うのか、さらに、日米安保条約という反ソ軍事同盟を結んでおきながら、平和な時代に戻ろうなどとは、いったいどういうつもりか、ということになります。
 北海道民の心情と、日本のかつての軍国主義や、その後の東西冷戦構造という世界情勢とでは、ずれが生じています。このずれを巧みに利用し、そこに付け込んだのがダレス発言だったわけです。

 ウルップ以北の全千島が日本の領土になったのはサンクトペテルブルグ条約で、千島の領有と樺太の権利を交換したためです。こちらも、全く平和的な方法により行われましたので、日露間で考えた場合「平和的」な取り決めであったという点において、南千島も北千島も違いはありません。このため、以前の返還運動の多くは、四島返還ではなく、全千島返還を求めていました。現在、北海道における北方領土返還運動の主体である「北方領土復帰期成同盟」も、1963年以前は「千島及び歯舞諸島返還懇請同盟」を名乗っており、名称からも全千島の返還を求めていた事がうかがえます。
 つまり、ダレス発言は当時北海道を中心に存在していた返還運動そのものを利用したのではなく、返還運動とサンフランシスコ条約との両方を睨んでの発言だったのです。



注1)外務省発表1956年9月7日付け米国政府覚書で、米国政府は『日本は、同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持つてはいない』と断定し、日本の対ソ交渉に対して日本の交渉に厳しく制限を加えました。このため、ソ連としては、独立国と交渉をしていると言うよりも、米国の植民地と交渉しているようになり、領土交渉を諦める事になりました。
 なお、同じ覚書の中で、米国政府は『米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した』と、根拠を示すことなく断定し、二島返還で妥結する事を禁止しています。

ちょっとわき道:
 1956年9月7日付け米国政府覚書には、『米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は、常に固有の日本領土・・・』とあります。ヤルタ会談・サンフランシスコ条約で、米国は歴史を杜撰に扱ったと宣言しているのに等しい文書です。米国にとって、日本の利益など眼中にないことを、図らずもさらけ出す結果になってしまいました。


注2)『択捉島について、下田条約では、以前から日本の領土でだったことを、日露間で確認した』 日本では、このように説明されますが、若干、史実に反しています。
 歴史的経緯から見た場合、択捉島の領有をロシアが主張する可能性がありました。実際、交渉の中で、ロシア側は択捉をロシア領とする事を主張したこともあります。しかし、当時ロシアは択捉の領有にはあまり関心がなく、それ以上に、日本と友好的に貿易する事を望んでいたのでした。実際、下田条約第一条は、日本とロシアの友好を宣言しています。択捉島をロシアが放棄したのは、友好関係と貿易を重視したためでした。
 なお、この間の事情については司馬遼太郎「菜の花の沖(択捉島雑記)」に詳しい。



 政府による四島返還運動は、その後現在にいたるも、強力に行われています。このため、政府の論拠が絶対に正しいように思っている人が、日本には多く、日本の世論の多くは政府支持です。

 北方四島が日本の領土であると日本政府が公式に発言したのは、昭和31年02月11日衆議院外務委員会です。この委員会において、下田政府委員は次のように答弁しています。

…クーリールといいまして、クーリールなるものの範囲も、これも連合国間で何ら意見の一致を見ていないのであります。従いましてその意見の一致を見ていないクーリールなるものの範囲について、固有の日本の領土たる国後、択捉はクーリールに含まないと言うことは、日本の自由なりということになっているのであります。であるとするならば、今日日本が、最終的の領土処分を行いました平和条約がない以上は、日本の利益に従ったところを最大限まで主張するということは、これは当然のなすべき処置であると私は考えます。

 つまり、北方四島返還は、日本の利益を最大限はかった結果生れた日本政府の主張なのです。日本政府と利益を異にする立場では当然異なった主張が生れるのです。もちろん、それぞれの立場にはそれぞれの論拠があります。日本政府の、最近の論拠は、1855年の下田条約に有るようです。日本政府の論拠だけを見ると、それだけが正しいように思えますが、実際はそう単純ではありません。
 サンフランシスコ条約で日本が放棄したクリルアイランズに四島が含まれるのならば、それ以前の条約は無意味です。
 サンフランシスコ条約で日本が放棄したクリルアイランズに四島が含まれないとしても、下田条約の後、サンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)が結ばれているので、下田条約の領土境界線は無効になりました。150年前に結ばれ、その後、無効になった条約を根拠にしても、説得力はないでしょう。


4.2 四島返還論の根拠

 四島返還論は理論的検討から導き出されたわけではなく、政治的動機によって起こったものであることを説明しました。しかしながら、四島返還論を主張するためには、理論的な裏づけが必要となります。
 四島返還論の根拠は次の4つに分けられます。

@サンフランシスコ条約の条文解釈
 サンフランシスコ条約で放棄した千島はウルップ以北であって国後・択捉は千島に含まれない。また、歯舞・色丹は北海道の一部である。
A固有の領土論
 歯舞・色丹・国後・択捉は一度も外国の領土になったことが無い日本固有の領土である。
Bカイロ宣言解釈
 カイロ宣言では領土不拡大の原則が宣言されている。
C動物性蛋白摂取
 日本人の動物性蛋白摂取に北方海域の漁獲が欠かせない。

 これらのことは単独で言われる事は少なく、たいていは、複数の理由をあげます。このうち、1956年以降1970年代まで最大の理由だったのは『@サンフランシスコ条約の条文解釈』でした。現在では、ほとんど省みられなくなっています。1956年当時から有力で、現在もっとも盛んに言われる理由は『A固有の領土論』です。しかし、これが単独で言われる事は少なく、たいてい『Bカイロ宣言解釈』を伴っています。
 『C動物性蛋白摂取』は日本の食料事情が良くなかったころは、現実問題として重要でした。現在では過去のことです。


4.2.0 ずさんな説明

 一番多く見かけるのは、ずさんな説明です。
 「サンフランシスコ条約で千島を放棄しましたが、放棄した千島に北方領土は含まれません。」
 このように、理由なく一方的に放言するものです。どう見ても、説明にはなっていませんが、良く見かけるのが不思議です。


4.2.1 サンフランシスコ条約の条文解釈

 1956年から1970年代までは、北方領土返還要求の最大の根拠となっていた理論です。
 サンフランシスコ条約二条C項で、日本は無条件で千島列島の領有を放棄しました。この説明は、日本が放棄した千島とはウルップ島以北の北千島のことであり、択捉島以南の南千島は放棄していないと言うものです。
 この問題はサンフランシスコ条約よりも前の、1950年(昭和25年)3月8日衆議院外務委員会で、ヤルタ協定で定められた千島列島の範囲として、すでに議論されています。このとき政府は、千島列島には南北両千島が含まれると説明しています。サンフランシスコ条約を審議した国会でも同じことが議論されましたが、政府の説明は同じでした。
 1956年になると、政府は、下田条約・サンクトペテルブルグ条約の日本語訳を理由に、サンフランシスコ条約二条C項で放棄した千島に南千島は含まれないとの解釈に変更します。ところが、これら条約の日本語訳は誤訳で、条約正文では、日本政府の説明は誤訳に基づいた誤解である事が明らかにされ、現在では北方領土返還要求の主要な理論ではなくなりました。
 サンフランシスコ条約の条文解釈は北方領土返還要求の一つの時代を作った有力な理論なので、次章に詳述します。



4.2.2 固有の領土論

 現在、北方領土返還要求の最大の根拠となっている理論です。現在、政府の言う「固有の領土」とは「わが国民が父祖伝来の地として受け継いできたもので、いまだかつて一度も外国の領土となったことがない」という意味です。
 この理論が単独で語られる事は少なく、たいていの場合、かつては、@サンフランシスコ条約の条文解釈と共に、最近は、Bカイロ宣言解釈と共に語られます。
 下田条約(日露和親條約)によって、択捉島とウルップ島の間に、日露の国境が定められました。しかし、このときに択捉以南が日本領になったというわけではなく、それ以前から日本が支配・領有していた土地を、日露間で確認しあったのが、下田条約だったと説明されます。すなわち、北方四島は第2次大戦までは一度も外国の領有になったことは無く、常に日本の領土でした。このため、日本の領土から省かれると言う事は心情的に忍びないので、政治的動機として「返還を求めるべし」との意見があります。しかし、これはあくまで、政治運動の動機であって、理論的根拠ではありません。すなわち、これまで一度も他国の領土になったことが無い土地が、他国の領土になることは歴史上珍しい事ではないのです。固有の領土論が理論的根拠をもつためには「@サンフランシスコ条約の条文解釈」「Bカイロ宣言解釈」など、他の理由付けが必要となります。

 固有の領土論には、法的な理論としては決定的な欠陥があります。そもそも、『固有の領土』とは国際法上の用語ではないため、使う人によって、都合よく定義される言葉です。『北方領土は日本の固有の領土』とは、法的・政治的問題を説明したのではなく、単なるスローガン・プロパガンダ・キャッチフレーズにすぎないものです。日本語で、日本人向けキャッチフレーズをいくら上手に唱えたところで、法的な理論として、国際社会に役に立たないことは明白です。

 日本政府は固有の領土を英語で『an integral part of Japan's sovereign territory』と説明しているようです。この英語では、戦後ドイツから割譲したポーランド西部をポーランドが領土主張の根拠としている状況と同じで、日本政府が日本国民に向けて説明している『固有の領土』の定義とはずいぶんと異なります。日本政府の『固有の領土論』は海外ではほとんど理解・賛同を受けていません。(参考文献:国境・誰がこの線を引いたのか−日本とユーラシア 岩下明祐/編著)

(参考)世界で一番有名な百科事典であるブリタニカ百科事典で調べると、次のように書かれています(英語)。
 千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17、18世紀の探検に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島を奪取し、1875年には全千島列島を領有した。1945年、ヤルタ協定に基いて、島々はソ連に割譲された。日本人は引き揚げ、替わってソ連人が移住した。日本は、今でも、南部諸島に対する歴史的権利を主張し、島々に対する日本の主権を回復するように、ソ連・ロシアを、繰り返し説得している。(原文はここをクリックしてください



4.2.3 固有の領土論のバリエーション

 固有の領土論は政治的動機から生じたものだったので、固有の領土の範囲も政治家により大きく異なっていました。
 現在、日本政府は「固有の領土」というと「外国の領土に一度もなったことが無い領土」のことで、具体的には「北方四島」のことであると説明していますが、『固有の領土』は国際法上の用語ではないので、いろいろな人が、自分の主張が正しいと感じるように『固有の領土』の意味をいろいろと変えて、いろいろな主張があります。

   a)南樺太・全千島を固有の領土とするもの
   b)全千島を固有の領土とするもの
   c)北方四島を固有の領土とするもの
   d)歯舞・色丹を固有の領土とするもの
   e)歯舞群島のみを固有の領土とするもの
   f)北海道のみを固有の領土とするもの
 
 戦後になってからは、朝鮮半島や台湾を固有の領土とする見解は無いと思います。なお、小笠原・沖縄が米国の信託統治領だったころは、「固有の領土」の用語は、これら地域を指す事もありました。



4.2.4 固有の領土論の嘘

 日本では、北方四島は「三百年の昔から日本人の手によつて開発経営された」「日本人が最初に発見した」「一度も外国の支配になった事がない」などと説明されます。
 実際には、日本人が正しく択捉島の知識を得たのは、最上徳内が今から220年前に探検し、当時そこに住んでいたロシア人からいろいろと聞いたことに始まります。徳内の探検の動機はロシア人の進出に対処するためでした。日本人が、蝦夷地を開発経営するのは、明治になってからです。それ以前は、アイヌを弾圧・収奪するだけのものでした。
 なお、今から240年程前、ロシア人イワン・チョールヌイは択捉島アイヌから毛皮税を徴収していますので、ロシアでは択捉島を最初に支配したのはロシアであると考えられています。

 1855年に結ばれた下田条約(日露和親條約)で、日露の国境は択捉・ウルップ間と定められました。日本では、ロシアの勢力が択捉以南におよんだことがないので、このように国境線を定めた、と思っている人が多いようです。しかし、実際には、ロシアは日本との交易を重視するあまり、条約締結を急ぎ、日本の主張を認めたのでした。当時は、択捉を領有する事よりも、日本との交易のほうが、はるかに利益があったのです。実際、下田条約では、両国の友好関係を宣言しています。

 さらに、下田条約(日露和親條約)を根拠とする考えには重大な欠陥があります。下田条約の国境条項は、その後締結されたサンクトペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)により失効しています。さらに、サンクトペテルブルグ条約の樺太・北海道間の国境もポーツマス条約により失効しています。
 下田条約のうち、両国の友好を謳った条項は、日露戦争の日本の奇襲攻撃あるいは直前の最後通牒により日本側から無効にされています。
 このように、締結されはしたけれど、その後の日ロ関係で完全に効力を失った条約を根拠としているので、固有の領土論はロシアではほとんど理解されていません。



4.2.5 カイロ宣言解釈

 日本が受諾したポツダム宣言八条には次のように書かれています。
『カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ』。
 この条項には2つの事が書かれています。@カイロ宣言の条項は履行されるべしA日本の領土の範囲。日本政府の国会答弁によると、この2つは並列的であり、前段が後段を修飾すると解釈するものではないそうです。
 カイロ宣言には次のように書かれています。
 『三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ
 この最後の部分を日本では簡単に『領土不拡大の原則』といいます。北方領土がソ連の領土になるとしたら、ソ連は領土拡大になってしまい、領土不拡大でなくなるので、カイロ宣言に違反する事になる。このため、北方領土はソ連のものになるはずがない、、、これが、カイロ宣言の解釈です。

 カイロ宣言解釈により、北方領土が日本のものであるというのはちょっと無理があり、以下の批判があります。
@カイロ宣言を正しく読めば、『領土不拡大の原則』ではなく、『領土拡大の念無し』なので、日本の侵略を制止し、日本を罰するために領土を削減し、その結果として、ソ連の領土が増大したのならば、領土拡大の念無しに抵触しない。
Aポツダム宣言では次のように書かれている。『カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク(The terms of the Cairo Declaration shall be carried out)』。
 『履行セラルベク(shall be carried out)』とは、履行する事を求めている条項を履行するのであって、履行する事が求められていない条項は履行する必要ない。『領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ』はカイロ宣言時の状況説明であって、履行を求めている条項ではないので、ポツダム宣言8条の適用とはなりえない。
 実際、ヤルタ会談で、千島のソ連領有を認めたとき、カイロ宣言の条項は全く問題にならなかった事が知られています。



4.2.6 動物性蛋白摂取

 終戦当時、外地から多数の邦人が引き上げ食糧確保が急務でした。特に、動物性たんぱく質は魚介類から摂取する必要があり、北洋漁業は日本人の栄養摂取に欠かせなかったのです。こうした理由で、千島周辺海域の豊かな漁場を失いたくないと考える国民の世論がありました。
 しかし、これは四島返還論の根拠ではなくて、当時の四島返還運動の動機です。  


4.3 ソ連領有の根拠

 ソ連は南樺太・千島の領有の国際法上の正当性をどのように説明していたのでしょう。実は、ソ連側の国際法上の正当性の説明は多くは有りません。事実として領有しているので、領有はソ連・ロシア国内法の問題になるので、国際法的根拠を説明する必要性がないのです。
 とはいえ、日本側の主張に反論する形で、ソ連領有の正当性が主張されることはありました。
 ソ連の根拠は、ヤルタ協定が中心になります。1945年2月、米国ルーズベルト・英国チャーチル・ソ連スターリンの3首脳は、ヤルタで戦後処理方針について協定を結びました。この協定で、南樺太はソ連に返還すること、千島列島はソ連に引き渡す事が決められました。この協定に従って、ソ連は南樺太・千島を領有しています。
 ソ連の考えに対して、日本は、次のように反論します。
 @ヤルタ協定は戦後方針を決めているが、ヤルタ協定自体は最終決定ではなくて、最終的な領土処理を決定したものではない。
 A日本には無関係に決められた協定が日本に効力を及ぼす事は無い。
 ヤルタ協定に対する、日本の考え方はどちらも正当なものです。ヤルタ協定は、日本が放棄しない領土をソ連が領有する根拠にはなりません。しかし、サンフランシスコ条約にしたがって日本が連合国に対して放棄した領土をヤルタ協定に従ってソ連が領有する事も、同じく正当な事です。日本の反論は、サンフランシスコ条約で日本が放棄していない領土に対してのみ有効な反論で、放棄した領土に対しては、何の反論にもなっていません。


 外務省国内広報課発行の「われらの北方領土2003年版」には、日本が放棄した南樺太・千島は日本が放棄したけれど、国際法上これらの地域がどこに属するか今なお未定と書かれています。日本はサンフランシュスコ条約で南樺太・千島の領有を放棄しましたが、同様に、台湾・澎湖諸島の領有も放棄しました。国際法上これらの地域もどこに属するか今なお未定なのでしょうか。そんな事はありません、中国に属しています。中国とは中華人民共和国なのか中華民国なのかについては議論がありますが、いずれかに属していると言う事に間違い有りません。新南群島・西沙群島も放棄しています。こちらは、数ヶ国が領有権を主張していますが、どこの領土であるかを決める決定権が日本にあるわけではありません。南樺太・千島についても同様で、日本に決定権があるわけではなく、日本以外で領有を主張する国の間で決定されるべき事です。実際には、ソ連・ロシア以外に領有を主張する国がなく、さらに住民もソ連・ロシアの領有に賛成しているので、ソ連・ロシアに属していることは明白です。

 ところで、日本の反論には重要な点があります。ヤルタ協定は最終協定でないという点です。カイロ宣言やポツダム宣言も最終協定ではありません。領土の帰属を最終的に定めたものは、サンフランシスコ条約だけなのです。サンフランシスコ条約以前の協定等でサンフランシスコ条約に矛盾している点があったならば、それらはすべて効力を有しないわけです。
 日本はサンフランシスコ条約を解釈するために、カイロ宣言を使っていますが、ロシアでは、サンフランシスコ条約を解釈するために、ヤルタ協定を使うことがあるのです。


ちょっとわき道

 北方領土問題はなぜ起こったのでしょう。人により、立場によって、回答は違います。大きく3つに分けられます。

1)15年戦争(シナ事変・大東亜戦争・太平洋戦争)と、末期のソ連対日参戦およびヤルタ協定。
2)サンフランシスコ条約二条C項
3)東西冷戦と、1956年対ソ交渉における、米国務長官ダレスによる重光外務大臣の一喝、あるいは、9月7日付米国政府覚書。
4)1961年10月3日、6日の衆議院外務委員会で池田首相、小坂外相答弁。

 1)は南樺太・全千島を失った原因ですので、これを北方領土問題の直接原因とする立場は、少なくとも全千島返還論になると思います。

 2)は日本国との講和が東西冷戦の中で行われたため、米ソの対立が解消せずに、領土問題に対して中途半端な表現になったために生じたとの見解です。もし、米ソ対立がそれほどでも無かったならば、日本国の領土返還要求の余地が全く無いような表現になったはずです。米ソ対立が激しかったならば、日本に有利なような表現になっていたかもしれません。

 3)は二島返還で妥結しなかった原因です。これを北方領土問題の原因とする立場に立つと、二島返還論かそれに近い立場になるでしょう。

 4)は少し説明を要することです。1961年10月3日、6日の衆議院外務委員会で池田首相、小坂外相は、南千島・北千島などはなく、千島とはウルップ島以北の18島を言うと、歴史的事実に反する説明をしました。このときから、北方4島は政府の説明では、千島の範囲に含まれなくなりました。このため、北方領土問題の発端は1961年10月3日、6日の池田・小坂答弁に有るとの考えもあります。なお、北方四島をソ連が実効支配していることを、日本政府が「不法占拠」と言うようになったのもこの頃からです。


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