根室での返還運動



根室で始まった返還運動




北方領土返還運動と安藤石典

 北方領土返還運動は、1945年12月、当時、根室町長だった安藤石典が、北方四島をアメリカ軍の占領地域にして欲しいと、マッカーサー元帥に陳情したのがはじまりであるとされています。安藤石典は翌年GHQにより公職追放になっています。
 千島列島がソ連占領地になったのは、トルーマンとスターリンの合意事項なので、米軍占領地司令官に過ぎないマッカーサーに、陳情内容を実現する権限はまったくありませんでした。
 なお、マッカーサー元帥への陳情は、占領とほぼ同時の1945年8月から始まり、総数40万〜50万と言われていますので、たくさんの陳情の一つに過ぎない、安藤石典の陳情をマッカーサーが読んだかどうか定かではありません。GHQは公職追放者である安藤石典の陳情を、どれほど重要視したのでしょう。

1945年12月1日 ・根室町長、安藤石典、根室町長名で第1回目のマッカーサー宛陳情
1946年8月6日 ・根室町長、安藤石典、北海道附属島嶼復帰懇請委員会会長名で第2回目のマッカーサー宛陳情
・同日、午後4時半頃、ホイットニー准将に面会
1946年11月29日 ・安藤石典、GHQ命令により、公職追放。根室町長職を失う。
1947年1月15日 ・安藤石典、北海道附属島嶼復帰懇請委員会会長名で第3回目のマッカーサー宛陳情
1947年4月5日 ・第一回統一地方選。岸田利雄が当選し、初代の公選根室町長となる。
1948年9月15日 ・岸田利雄、北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会会長名でマッカーサー宛陳情。「地方漁民の窮状」を理解し、速やかに「ソ連軍の占領を解除せしめられたい」などの内容。
1949年12月11日 ・北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会が集めた一千数百名分の署名を携え、岸田会長(根室町長)ら陳情団が復帰懇請運動のため上京。外務省、連合国軍総司令部、国会などへ懇請を行った。
1951年2月5日 ・千島及び歯舞諸島返還懇請同盟の副会長・根室町長・岸田利雄、参議院外務委員会で参考人として発言




北海道附属島嶼復帰懇請委員会

 1946年7月、根室町長・安藤石典、歯舞諸島脱出者や根室地区の漁業関係者らを中心に、北海道附属島嶼復帰懇請委員会が設立され、安藤石典が会長に就任した。
 1946年8月、1947年1月のマッカーサー宛陳情は北海道附属島嶼復帰懇請委員会会長名で行っている。根室町長・安藤石典は、1946年11月、GHQにより公職追放処分となり、町長職を失った。


現在の根室


根室は返還運動の拠点地域として、所々に、返還を呼びかける看板が立っています。(2008年現在)



道路わきの大きな看板(写真をクリックすると拡大します)

道路に面して立てられているが、
人よりも牛の方が多い場所だ
文言が違うものもある 隣の別海町にあった看板




電柱にも「返せ!北方領土」(写真をクリックすると拡大します)




根室市役所や支庁(現:根室振興局)は返還運動の拠点です(写真をクリックすると拡大します)

根室市役所の標語 根室支庁(現:根室振興局)の標語 根室市役所の看板



根室の街中にもいろいろな看板(写真をクリックすると拡大します)




マンホールのふたにも「返せ!北方領土」(写真をクリックすると拡大します)





所詮、補助金目当てのおざなりな運動?


2014年に根室を訪ねたら、前と同じ看板が、色あせて、サビが出て、そのまま建っていた。見苦しい。国民の血税を使っているのだから、「もう少し、まじめにやれよ」と言いたい。



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