北方館・望郷の家 


納沙布岬に立つ北方領土問題啓発施設
「北方館」「望郷の家」2つの建物がくっついた形をしています




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北方館の住所と電話番号

住所:〒087-0165 北海道根室市納沙布36-6
電話:0153-28-3277

望郷の家は1972年(昭和47年)4月に千島歯舞諸島居住者連盟が開設し、現在は根室市が所有
北方館は1981年8月に北方領土問題対策協会が開設


建物外観

建物外観
この付近、観光客もたくさんいることがあります
建物裏側 案内看板


2F展示室

2Fは、北方館と望郷の家が繋がっています。写真は、北方館側から撮ったもの。


展示室(写真をクリックすると拡大します)

資料展示
双眼鏡が備え付けられています
動物の剥製



大平正芳総理大臣の題字


望郷の家の展示


望郷の家の展示は、主にパネルを使った北方領土問題の解説です。


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択捉島紗那村の郵便局の説明パネルがありました。大正か昭和の消印の印影があります。

 エトロフ島・クナシリ島・シコタン島には紗那郵便局のほかに17局ほどありましたが、紗那局・国後局だけが2等郵便局でした。明治後期以降の消印は、2等郵便局以上は「局名」のみ、3等郵便局は「県名・局名」の表示でした。千島の3等局は「千島・局名」の表示でした。
 エトロフ島・クナシリ島・シコタン島の郵便局の消印は、紗那・国後を除いて、総ての郵便局に「千島」と表示されています。紗那・国後も明治後期までは消印に「千島」と入っています。
 日本はサンフランシスコ条約で千島の領有を放棄しました。このため、千島は日本の領土ではありません。「千島」と表示された消印を展示しながら、「ここは千島ではない」と主張しても、あまり信憑性がないので、日本国民に、北方領土返還要求は正しいことであると思わせるためには、千島と書かれていない消印を展示することは、返還運動推進に役立つかもしれません。
 
 
 
(参考)

 紗那郵便局の消印も初期の頃は「千島・紗那」と千島であることが明示されていました。

 左は、明治31年の消印で「千島・紗那」となっています。
 右は明治41年の消印で、単に「紗那」となっており、事情を知らない人が見たら、千島ではないような気持ちになるでしょう。

紗那局が2等局となるのは明治30年10月1日、局名表示に千島がなくなったのは、明治39年初から。
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望郷の家、入り口付近の説明看板

   望郷の家、建設の主旨
 この「望郷の家」は昭和四十七年四月北方領土からの引揚者の団
体(壬島・歯舞諸島居住者連盟)が建てたものであります。
 昭和二十年九月に(戦後)、突然ソ連軍が北方領土を占拠し、北
海道との間の海を閉鎖し、行き来を断ちました。島民の一部は不安
の余り、夜陰に乗じて自分の小さな船で島を脱け出しました。残っ
た者は島で働かされ、昭和二十二年、二十三年の二ヶ年に恒って、
懐かしい山川を後に、全員強制的に本国に送還されました。
 島民達は、遠ざかる島々に吾々は必ず帰ってくるぞと涙でちかい
ました。この望郷の家は、全国の皆さんに日本固有の領土であり故
郷である北方領土を、この望郷の家から見て頂き、日本国民が一致
団結し、一日も早く北方領土の返還に頑張って頂きたい念願をこめ
て、建てたものであります。
 北方領土は、日本人が開拓した、国造りした日本固有の日本国民
の領土であります。 

説明:

 『望郷の家、建設の主旨』の記述は、理論が弱い、頭の悪い人が書いたのではないだろうか、不思議です。
 <島民の一部は…島を脱け出しました><残った者は…全員強制的に本国に送還されました>と書かれていますが、理屈で考えれば、「帰国が許されなかったけれど、島を脱け出した」「帰国が許されたので希望して帰った」「帰国したくなかったのだけれど、無理に帰させられた」の3つがあり得ます。だから、命令するほうだって、残ったもの全員を強制送還する必要はなくて、帰国希望者は帰国させれば良いだけのことです。

 実際には、ソ連は終戦当時、労働力不足だったので、最初のうちは、千島やサハリンの日本人は帰国が許されず、このため、歯舞や国後など日本に近いところの島民の一部は島を脱出しました。日本人をロシアの支配下に放置することは日本国にとって忍びないので、日本政府はGHQに、日本人の帰国を要請し、その結果、1946年12月、GHQとソ連との間で日本人希望者全員の引き上げが合意され、1949年7月までにほぼ全員の日本人が帰国しました。しかし、朝鮮国籍の人など日本国籍を持っていなかった人は、帰国することができず、日本人でも、帰国できない朝鮮国籍の人と結婚した人や、ロシア人と結婚した人など、残留を希望する、わずかの人は、サハリン・千島に残留しました。千島に残留した人も、その後、サハリンなどに移住しました。このため、現在でも、サハリンには、残留した日本人婦人が生存しています。
 北方領土からは、日本人は一人もいなくなったのですが、サハリンなどに残留した日本人の2世、3世、4世の中には、北方領土に移住する人も現れます。現在、北方領土には、このような人も住んでいるそうですが、彼らの国籍はすべてロシア人です。

 北海道根室高等学校地理研究部/著『北方領土 高校生が聞いた202話』(日本教育新聞社)(1991.4.12)には、択捉島に残留した日本女性の話が書かれています。 

留別村の内保では、ソ連兵と結婚して島に残った人がいました。進駐時のソ連兵の中には、日本の民家に押し入って略奪や暴 行をはたらく者もいましたが、日がたつにつれ、そうした行為もなくなり友好的になっていました。
 昭和22(1947)年の引き揚げの時のことです。ソ連兵と恋仲になった娘さんがいて、ひそかに結婚の約束までしていたことから、親の方は「娘を渡さない」ソ連兵は「渡せ」と、ひと悶着が起き、喧嘩にまでなってしまいました。
 引き上げ船の出航時間が迫るばかり、最後に、肉親と涙ながらに別れ、娘さんは島に残ったのです。
 その後、彼女は、樺太に住み、それなりに幸せな暮らしをしているそうです。(択捉島)


 根室市には、『根室高校』の他に、もう一校、高等学校がありますが、成績が平均以上でないと、根室高校への入学は難しいそうです。根室高校の生徒は、北方領土に残留した日本人がいたことが理解できているのに、望郷の家の入り口付近看板には、『全員強制的に本国に送還』と書いてあるところを見ると、望郷の家を作った、千島歯舞諸島居住者連盟の人たちや子弟は、成績がかなり悪く、根室高校には入学できないのでしょうか?


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