海部・ゴルバチョフ会談と、外務省発行『われらの北方領土』記述の変遷
水津満参謀は、ソ連が千島を占領したいきさつを以下のように証言していた。
二十七日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返しました。しかし、北方領土における米軍の不在を知ると、翌二十八日、ソ連軍は再び行動を開始し、北方四島までも占拠した。このことは、当時のソ連も択捉島以南の四島と得撫島以北の島々とは全く異なったものと意識しており、はじめは択捉島以南の四島を占領する意思のなかったことを示す。 |
海部・ゴルバチョフ会談における海部総理の主張や、外務省発行『われらの北方領土』では、水津満参某の証言が引用されている。証言の引用の仕方が、海部・ゴルバチョフ会談以前と以降とでは、大きく異なっている。
1991年2月以前、日本政府は水津の証言を事実であるとは言っていない。ところが、海部・ゴルバチョフ会談で、海部は水津の証言を事実として、日本の領土主張を行った。このとき以降、日本政府は、水津の証言を事実として説明するようになった。『われらの北方領土』1992年版には、これが反映されている。
1992年12月、ソビエト連邦が崩壊する少し前、これまで秘密だったソ連側の資料が公開されるようになる。これら資料により、ソ連は、少なくとも対日参戦以降、もともと北方四島を占領するつもりであったことが、明らかとなった。すると、『われらの北方領土』は書き換えられた。このときウルップ島占領の日付が誤りとなった。
『われらの北方領土』1996年版は、この誤りが訂正された。しかし、これでは、北方四島を初めは占領する意志がなかったとの主張に根拠は無くなった。1993年版以降は、北方領土は他の千島列島と区別されていたとの記述に変わった。そして、「北方四島の占領は、日本の固有の領土であることを承知の上で行われた」と根拠無しに記載されている。
年 | 出典・事項 | 概要 |
1991年版 およびそれ以前 |
『われらの北方領土』 | 『当時の日本軍関係者の記録』として説明。日本軍関係者の記録が事実であるとは書かれていない |
1991.2.21 | 衆議院 予算委員会 |
水津満参謀の話として紹介。(水津の話が事実であるとは言っていない) |
1991.4.16〜19 | ゴルバチョフ訪日 | 海部・ゴルバチョフ会談が行われた |
1991.4.23 | 参議院 外務委員会 |
海部は、ゴルバチョフに対して、水津満参謀の話を事実として主張したと説明。 |
1992年版 | 『われらの北方領土』 | 二十七日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返しました。・・・このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言からも明らか |
1992年5月22日 | イズベスチャ | ソ連の新聞イズベスチャに、ボリス・スラビンスキーの研究成果が発表された。 ソ連の資料により、水津の証言は誤りであることが明白となった。 (注)この記事の翻訳は 『日・米・ロ 新時代へのシナリオ』木村汎/グラハム・T・アリソン/コンスタンチン・O・サルキソフ/著 ダイヤモンド社(1993.3.18) に掲載されている。 この記事の翻訳はここをクリック |
1993年版〜1995年版 | 『われらの北方領土』 | 二十七日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。… 当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び最近公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。 (注意: 水津満参謀は、27日までに占領を完了したとは証言していない。一旦引き返したと証言している、旧ソ連海軍の資料では、27日に引き返したとの記述や、27日までにウルップを占領したとの記述は無い。) |
1996年以降 | 『われらの北方領土』 | 三十一日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。… これとは別に、樺太から進撃した第一極東軍は、…、米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し… 当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び最近公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。当時、ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識しており、… (注意: 1995年以前の版には、27日までに占領を完了したと、書かれていたが、占領完了は31日であることは日本でも以前から良く知られていた。1996年以降の版では、1992年から1995年版が訂正されている。しかし、「米軍の不在が確認された北方四島」とあるが、いつ・どのように確認されたのか根拠が不明になっている。さらに、「ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識し」の根拠も不明である。) |
(参考資料)
衆議院 予算委員会 平成03年02月21日
○兵藤政府委員
私どもが水津満参謀から伺っております話、またその他の話からいたしますと、ソ連が南下を開始いたしまして占守島に参りましたのが八月の十八日でございます。それで、得撫まで参りまして、そこで一回反転をするわけでございます。それが八月の二十七日だったと承知しております。その後もう一回御承知のように南下してまいるわけでございますが、全部この上陸を完了いたしましたのが、私どもの承知いたしておりますところでは、国後島に九月の二日でございます。最後に歯舞群島、細かい島がございますが、水晶島に九月の三日に最後に上陸してきたというのが私どもが承知している記録でございます。
外務省発行『われらの北方領土』1991年版およびそれより古い版
当時の日本軍関係者の記録には、ソ連軍が千島列島を南下するにあたり、最初は、得撫島まで来て引き返し、その後米軍が択捉島より南の諸島を占領していないことを知って再び南に下り、これらの諸島を一方的に占領した旨が記させています。このことは、当時、ソ連もはっきりと千島列島を得撫島以北と考えていたために、はじめは択捉島以南の諸島を占領する意思のなかったことを示すものとして興味深いものです。
参議院 外務委員会 平成03(1991)年04月23日
○政府委員(兵藤長雄外務省欧亜局長) その点はまさに海部総理から、日本の主張の一つの重要な根拠として領土不拡大方針というものを、戦後の処理の過程として大西洋憲章から引き起こしまして説明をいたしました。その点は明確に主張をいたし、さらに水津満参謀が水先案内人でおりてきて、得撫島まで来て択捉を見て、ここは日本固有の領土であるから米国の占領地であると言って反対した事実、これはとりもなおさずスターリンの拡張主義というものの具体的な例であるという主張をいたしました。
それに対して、ゴルバチョフの方はヤルタ協定というものを持ち出しまして、これは戦後のこの協定によって決着済みであるという論理を中心とした反論をいたしました。
外務省発行『われらの北方領土』1992年版
八月十八日より千島列島の占領を開始し、二十七日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返しました。しかし、北方領土における米軍の不在を知ると、翌二十八日、ソ連軍は再び行動を開始し、九月三日までの間にこれら四島までも占拠してしまったのです。このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言からも明らかであり、当時のソ連も択捉島以南の四島と得撫島以北の島々とは全く異なったものと意識しており、はじめは択捉島以南の四島を占領する意思のなかったことを示すものです。
外務省発行『われらの北方領土』1993年版〜1995年版
八月十八日、カムチャッカ半島から第二極東軍が進撃して千島列島の占領を開始し、二十七日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。これとは別に、樺太から進撃した第一極東軍は、当初北海道の北半分(釧路・留萌ライン以北)及び北方四島の占領を任務としていましたが、前者につき米国の強い反対にあったためこれを断念するとともに、米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し、八月二十八日から九月五日までの間に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島のすべてを占領してしまいました。(ちなみに、これら四島占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました。)このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び最近公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。当時、ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識しており、択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本の固有の領土であることを承知の上で行われたとの事実がここに示されています。
外務省発行『われらの北方領土』1996年版以降(ウルップ島の占領日付が27日から31日に訂正されている。)
八月十八日、カムチャッカ半島から第二極東軍が進撃して千島列島の占領を開始し、三十一日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。これとは別に、樺太から進撃した第一極東軍は、当初北海道の北半分(釧路・留萌ライン以北)及び北方四島の占領を任務としていましたが、前者につき米国の強い反対にあったためこれを断念するとともに、米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し、八月二十八日から九月五日までの間に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島のすべてを占領してしまいました。(ちなみに、これら四島占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました。)このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び最近公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。当時、ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識しており、択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本の固有の領土であることを承知の上で行われたとの事実がここに示されています。