書についての知識と漢字の歴史
書とは、我々現代人が何の疑いもなく筆記用具を持って文字を書いています。しかし、紀元前1400年頃に文字が誕生し、その頃は書くというよりも甲骨文字のように刻み込むことから始まり長い歴史の中から年月をかけて書くことが発見され発明されて、書くということが成立されてきました。文字を毛筆でただ書きつけたとしても、書くことにはならず、書き手が書く対象を深く理解することによってその中に書きぶりを盛り込み書くということが主体化し初めて文字を素材とする芸術「書」が誕生しました。「書の宇宙 3 書く事の獲得」 編集 石川九楊 より
文字の歴史は、殷の時代の甲骨文字、きわめて絵画的な形の金文(きんぶん)(金文とは金属の器物などに刻まれている文字で、だいたい殷の時代から周や春秋の時代にかけてのものをいい、さらに戦国時代の武器にある字までを含みます。)金文の次に大篆といわれる書体が確かにあったのですが、確かなものは残っていません。そこで石鼓文(せっこぶん)が石鼓(太鼓の形をした石)に刻まれている文字が大篆にあたるのだろうと言われています。この石鼓文は万里の長城を作った有名な秦の始皇帝が篆書を制定する際に重要なよりどころとしました。実際には首相の李斯(りし)が遂行し、李斯が書いたと言われる泰山刻石などが有名です。漢(前漢)の時代になると中国の文化は大変栄え、ことに漢の武帝は文教が盛んになるように努めました。この時代には新しく隷書という書体が盛んに使われました。隷書には前漢の古隷(隷書の完成体である八分体(はっぷんたい)とは異なる古朴、古拙な味わいの隷書体)、比較的少なくて開通褒斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)や魯孝王刻石(ろこうおうこくせき)などがあり、後漢になると、はらいのついた八分体(はっぷんたい)という華やかな感じのする書体が書かれるようになりました。八分体の作品は比較的たくさん残されていて孔廟礼器碑(こうびょうらいきひ)、史晨前碑、史晨後碑、曹全碑(そうぜんひ)などが有名です。

秦の始皇帝が焚書坑儒といって医学書など以外の書物を焼き捨てた事件があり北宗の時代に地下に埋まっていた木簡や竹簡が見つかり、その後二十世紀になって沢山探検家により発見されました。これは春秋戦国時代に朱や墨を用いて書かれた文字朱墨手跡がここ5、60年の間に数多く発見されました。湖南省の楚墓(そぼ)から出土した帛書(はくしょ)、湖北省の秦墓(しんぼ)から出土した竹簡などがあります。秦の始皇帝が6国を統一する以前に一般庶民や下級官吏が書いた文字です。このなかには隷書の八分を非常に速く書いた書体がありこれを章草(しょうそう)と言い、これが後に草書になるわけで、楷書が行書になりさらに草書になったのではありません。

約1700〜1800年くらい前の西晋(せいしん)の時代には楷書、行書、草書の三体が確立し、1600年くらい前の宋の時代に入ると、書を芸術鑑賞の対象として書き、そして書を楽しむようになりました。日本にも約1500年以上前の唐の影響を受け書道が書かれる様になりました。その当時女性は漢字を勉強してはいけない事になっていましたが、どうしても和歌や手紙を書くには文字が必要でした。そこから漢字をくずした優雅な日本独自の美しいひらがなが生み出されました。
カタカナは「片仮名」とも書き、平安時代の初めごろ僧侶たちが経典、漢文を読むのに便利なように句読点記入のために用い始めたものです。その為には字間や行間の狭い所に書くのに適した小さい形のもの、講義聴聞の時に速く書くのには字画の少ない簡単な形のものであることが必要でした。もともとカタカナそのもので文をかくことはなく文字とはいいながら記号的な性格がかなり強いものでした。


甲骨文や金文の文から篆書、隷書などの書への転移は文字を「刻す」ことから「引く」を経て書への転位を物語っています。



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