●「竹内敏晴レッスン」を読む●
北海道工業大学教養部 葛西俊治
札幌学院大学の滝沢広忠さんと一緒に「札幌こころとからだの会」を開いたのが1983年…。その後、いろいろと紆余曲折を経て、現在は「からだの会」を主宰しています。
六月に札幌の地で竹内さんの宿泊レッスンを企画することになりましたので、「からだの会」の場で、竹内さんのレッスンや考え方などについて少しずつ体験的にまとめていきたいと考えています。
以下に掲載するのは、「からだの会」の案内と竹内レッスンについての私個人のとらえ方です。竹内さん本人にも異論がある?!かもしれませんが、それはそうとして、私なりの角度で述べてみたいと思っています。どうぞよろしく。(それぞれB5判の紙一枚分にまとめたのでいろいろと言い足りないのですが…)
「竹内敏晴レッスン」を考える
- その1)「ことばって情報じゃないの?!」
- その2)「からだとことば」という「術語」
「からだの会」へのお誘い
1983年…。今から十四年前になりますが、その年、私=葛西は竹内敏晴に初めて会
いました。
カウンセリングの世界を来談者中心療法、非指示的療法で切り開いたカール・ロジャー
ズが日本にやってきて開かれた一週間のワークショップ、その場に、竹内敏晴が一般参
加者として参加していたのです。ワークショップの自由時間を使って、竹内レッスンの
自主企画を持ち、私も初めて竹内レッスンを体験することができました。私はそこで深
く感じ入る体験をしてしまいました。
中心的人物だったカール・ロジャーズからよりも大きな影響を受けてしまった私は、そ
の後、「からだ」ということを生き方や活動や研究の中心に据えて今日に至っています。
札幌学院大学の滝沢広忠さんと一緒に「札幌こころとからだの会」を開始し、月に1−
2回のペースで体験の場を持ち始めたのも、ちょうどその頃のことでした。それからは
いろいろと紆余曲折がありましたが、私は「からだの会」の名称で、「からだほぐし」
などリラクセイションを中心にした体験の場を継続してきています。
そして、今年、6月21−22日(土、日)の二日間、札幌で竹内敏晴ワークショップ
を開催することになりました!いろいろな偶然が働いてのことでした。
*ヒューマニスティック心理学の学会、日本人間性心理学会が企画運営します。私は運営委員の一
人として今回のワークショップの事務局を担うことになりました。
そこで、これを機に、竹内敏晴という人の仕事、その意味などを自分なりにきちんとま
とめておきたいと思い立ちました。そして、「からだの会」という場で、竹内敏晴の
レッスンや考え方について少しずつ体験学習を積み重ねながら、確認していきたいと思
います。
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「からだの会」の日程
A)日時 4月16日(水)6時から8時45分
B)日時 4月23日(水)6時から8時45分
会場 いずれも中央区民センター・二階「和室」
南2西10、プリンスホテルの向かい Tel. 271-1100
参加費 いずれも千円(学生5百円)
内容:
レッスンの前半は「からだほぐし」を中心にしたリラクセイション法を基礎から指導し
ます。後半は、からだの解放に向けた様々なレッスン(野口体操・呼吸法など)を展
開します。
*なお、竹内敏晴の本の紹介やビデオ上映などのイベントも順次予定しております。
「からだの会」代表 葛西俊治
Tel.685-7083
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「竹内敏晴レッスン」を考える その1. 1997.04.01
北海道工業大学教養部助教授 葛西俊治
竹内敏晴のライフワークである「竹内レッスン」が一時ほどは脚光を浴びなくなった
のは、氏がすでに年老いてきた…という事実も関係していないこともないだろうが、そ
れよりも時代の流れとの関係が深いように私には思われる。
コンピュータやインターネットという言葉を通じて伝わってくるのは「時代は情報社
会…」ということなのだが、情報や情報社会ということに竹内レッスンは真っ正面から
ぶつかっていく。それは違うぞ…と。
竹内敏晴は自身のレッスンを「からだとことばのレッスン」(講談社現代新書)とみ
ずから称している。「からだのレッスン…」の方は「からだほぐし」や野口体操と
いった言葉から何とかイメージか湧くのだが、「ことばのレッスン…」とはどういうこ
となのか。
まずはこの「ことばのレッスン」と「情報」ということについて考えていく。
★
さて…「ことばって情報じゃないの?!」と誰でもふと感じる。花のことを「ハーナ
ー」と発音しなければ、相手に「伝わらない」のだから「ことばは情報」なのだと思う。
それが実は違うのだ!―と竹内敏晴は発見した。さらに、その奥へと参入するレッス
ンを彼は開発して実践してきたのだ。
「言葉は分かるけれども気持ちが伝わらない…」という言い方をすることがある。確か
に「ことばよって情報は伝わってくる」けれども「相手の気持ちが分からない」ことは
誰でも体験したことがあるに違いない。さらに、それがもう少し悪化していると…「口
ではそう言っているけれども… 身体は別のことを言っている」となる。
口から出てきた言葉の意味を解析すると、その意味は「カクカクシカジカ」であるが、
●意味を載せている声の調子
(強さや高さ、抑揚の状態、タイミング)。そして…
●その声を出す身体の状態
(喉を詰めているのか開いているのか、口を固めて言っているのかリラックスしている
のか、怒り肩で言っているのかどうか、頭を下げているのか天井を向いているのか…)。
実はこういうこと(非言語的情報 non-verbal information)が、全く反対のことを
「語っている」ということなのだ。腕を固く組んで相手をにらみつけながら「ハイ、
そうです」と言うとき、言葉の意味するところと身体の意味するものは違っている。
あどけない子どもに意味的な「ことば」だけ伝えても、子どもには分からない。
「ネナサイ」と言っても伝わらないけれども、ニッコリ笑いながら優しく
「寝なさい (^_^)」と言ったり、
父親が「ネッナッサッイッ!」と吼えたりすると、言葉の意味と身体が語る意味が一致
しているので、子どもには良く伝わる…。
「ことばのレッスン」とは言葉カズを多くすること…ではないのだ。
「それじゃー、セリフ回しやジェスチャーの勉強などをすれば良いのね」と思いつ
いていろいろ訓練すると確かに良さそうなのだが、ふだんの生活ではこれがどうもう
まくいかない。子どもに優しく「ネナサイ」と言う練習をするときの、あるいは子ど
もに話す本番での自分のセリフの嘘臭さ…。何だか鳥肌が立ったり、笑い出したり、
自分がイヤになったりする。これはどうもそういう技術を磨く…というのでは駄目み
たいだ…そんな風に気がつくことができれば、竹内敏晴の「ことばのレッスン」の意
味に少し近づいている…。
(次号に続く。 無断転載禁止)
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「からだの会」の日程<5月>
A)日時 5月13日(火)6時から8時45分
B)日時 5月21日(水)6時から8時45分
会場 いずれも中央区民センター・二階「和室」
南2西10、プリンスホテルの向かい Tel. 271-1100
参加費 いずれも千円(学生5百円)
内容:
4月は「からだほぐし」を中心に行いました。今月はそれに加えて、
動きを伴ったレッスンや呼吸なども加えていきたいと思います。
からだを締め付けない服装を用意してご参加下さい。
「からだの会」代表 葛西俊治
Tel.685-7083 (ENCC)
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「竹内敏晴レッスン」を考える
その2)「からだとことば」という「術語」
先月の「その1」の中で私は次のように書きました:
|以下に掲載するのは、「からだの会」の案内と竹内レッスンについての
|私個人のとらえ方です。竹内さん本人にも異論がある?!かもしれませんが、
|それはそうとして、私なりの角度で述べてみたいと思っています。
後で読み返してみて気が付いたのですが、「竹内先生からの異論がある…」のでは
なくて、実は私が勝手に「異論」を唱えている…ということですね。不正確な表現で
申し訳ありませんでした。
今月も「からだの会」の案内と一緒に以下の内容を送りますが、これは私から見た
「竹内レッスン」についての「異論」ですのであらかじめお断りしておきます。(^_^;)
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「からだとことば」という「術語」について
竹内先生は「からだとことば」あるいは「からだとことば」のレッスン、という言
い方をします。「からだ」ト「ことば」…というように二つに分けたりはしません。
したがって、「からだのレッスン」と「ことばのレッスン」…という言い方(前回の
案内の中で私が行ったもの)やそういった解釈は私個人の勝手な読み替えでしかあり
ません。
ということで、前回の「異論」についての解説の意味もこめて、今回は「からだと
ことば」ということについて考えてみたいと思います。
竹内先生は「からだとことば」という表現で、「からだ」と「ことば」を並列して
述べているのではなく、「カラダトコトバ」というある全体、例えば「カ・こ・ラ・
と・ダ・ば」ように相互に一体となっている何かを言い当てる言葉として用いていま
す。 しかし、この「からだとことば」という表現によって竹内先生は一体何を指し
示そうとしているのか…。これは正直言って私自身も依然としてそれほど明確ではあ
りません。ここが分かるためには…あるいは感じとるためには、レッスンを体験する
しかないのかもしれません。
そういう意味では、一見ふつうの表現に見える「からだとことば」は、いわば竹内
レッスンの「術語=テクニカル・ターム」(私はどうも、こういう身も蓋もない言い
方を振り回す癖があるようで申し訳ありませんが…)だと考えられるのです。
*日本人間性心理学会の機関誌「人間性心理学研究」に、竹内敏晴『断想 ― から
だ・こころ・ことば』(1990,No.8,27-33)という著作があり、「からだとことば」と
言い現わす理由、竹内先生が「こころ」という言葉を用いない事情、などが述べられ
ています。
( http://www.bekkoame.or.jp/~kasait/mindbody/danso.htm を参照)
さて。「…コトバは神なりき」という聖書(ヨハネ伝福音書)の表現があります。
その言葉が書かれたヘブライ語には22個の文字(子音)があり、その第一字母がア
レフと呼ばれる文字だそうです。アレフという文字は、発音され始める直前あるいは
そのセツナに出てくる音というか喉の状態というか…何か発音の原初状態を表す文字
なのだそうです。(井筒俊彦『意識と本質』岩波書店,p.246-247)
「声を上げる」という言い方から感じられるように、声を出すことによって「わた
しがここに居る・存在している」ことを示す…。というか、「声を上げる」前には
「ワタシ」ということは無意識の海の中に沈んでいたままだったものが、そのことに
よって、自分自身にも「ワタシ」ということが存在しているのだ…と分かる・感じら
れる、そういうことのように思えるのです。
「声を上げる」ことが、「ワタシ」が存在することを私自身にも世界にも示すこと
なのだとしたら、「存在」というものをこしらえたらしい「神」は、「ワタシ」が声
を出し言葉を言う瞬間、そこに「宿る」あるいは「在る」ことになるのでしょうか。
アレフという文字は、そのことを現わすものなのか…。いずれにしても、それ一文字
で「全て」を現す文字でもあるのだそうです。
イスラム教の歴史の中には、「ワタシは神である」(「アナルハック―我こそは
神」)と言ったために教団によって処刑された殉教者がいたのだと、井筒俊彦(『イス
ラーム哲学の原像』岩波新書,61-62)は書いています。しかし、そのときの「ワタシ」
とは、どこそこのナニガシという「私」という意味ではなくて、「ワタシ」という身
・存在そのものがいわば「神の降臨」なのだ…という気づきだったようでした。個我
としての「私」のことではなくて、「ワタシ」という身・存在…そしてそのことの奥
底から「神ということ」を語ろうとしていた…。しかし、そういう微妙で多重なコト
バは教団などには通るはずもなく、「異端…」として抹殺されることになったので
しょう…。
先日、私は「AKIRA」という漫画6巻全てを読む初めての機会に恵まれました。
言葉を発することのない超常能力者アキラという少年がふと開く凄まじいエネルギー
によって東京都が深く球状にえぐられて瓦解する…。言葉にならないアキラの声は、
私にはアレフの音のように感じられました。自己や遺伝子や原子構造や宇宙の果てに
ある「一なるもの」を解き放つ…音にならない声、すなわち「アレフ」だと…。
『ことばが劈(ひら)かれるとき』という竹内先生の初期の著書…。その<ことば>
が…アレフとしてワタシの中から喉を切り裂いて立ち上がってきたのならば…劈かれ
たものは「ワタシが存在する…ことへの劈かれ」ということなのでしょうか。平仮名
で書かれた『ことばの…』というタイトル、しかし、その優しそうなひらがな文字と
は裏腹に、「ドクン」とするほどの戦慄がこめられているように私には思われるのです。
竹内敏晴の「からだとことば」という「術語」は、こんな連想から眺めてみると相
当に凄まじいものへと向かおうとする宣言のように聞こえます。確かに、竹内先生は
「…私のレッスンは地獄の釜の蓋を開けるようなものだ…」と述べているのですし。
竹内レッスンの一つ「上体のぶら下がり」の状態からゆっくりと体を起こしながら
「ラララッー」と声を出すレッスンがあります。それを、かつて私は単なる「発声練
習…」と思いこんでやっていたのですが、もしかすると私は相当におめでたい人間
だったのではないでしょうか…。