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出典: 人間性心理学研究,1990,第8号,27-33


[特集:からだ、こころ、ことば―その全体の仕組みを求めて―]から

断想 ― からだ・こころ・ことば ―

南山短期大学 竹内敏晴



1 感情ということ
 認知心理学の佐伯胖氏と対談した折り、事のついでに私はぶしつけな質問をした ことがある。補足しつつ語り直せば以下のようなことになろうか。― 心の働きと いわれることの一つに感情があるわけですが、感情ってのはいったいどういうこと なんでしょうか。心理学などで扱われる「感情」と呼ばれるものが、どうも私には 腑に落ちないところがあるので教えていただきたいのですが―

 例えば今私が佐伯さんてなんてイヤな奴だと思ったとする。と私はどうするか。 いきなり相手を突き飛ばす― つまり目の前から消えてなくなれ!ってことですね。 でなければ、めちゃくちゃに叩きのめして― これも存在を消してしまおうとする 行動でしょう。そのとき行動している主体は、「オレはオコっているぞ」なんて自 覚しない。全身で相手に跳びかかり働きかけているものであって、いわゆる「怒り」 の感情なんてものを、その時点で感じている余裕なんてないわけです。「怒り」を 感じるのは、相手がカワイソウだとか、世間体をはばかって、とか、つまり、二次 的な配慮が働いて行動をストップした時でしょう。でなければ突き飛ばすなり殴る なりの行為が一段落してふっと「我に帰った」時か。どちらにしても行動の停止が 意識を呼びさます。普通感情と呼ばれるものは、このようにして意識され、ことば で名付けられるまで、いわば激しさが低下した状態であって、本源的な、私の言い 方によれば「からだの動き」は視野から落ちているのではないか。勿論外から客観 的に観察し名づけ測定することはできるわけでしょうが、それには主体としての視 点が欠けているということになる― 。

 こんな疑問を私が持つようになったのは大分古いことである。1950年代の終わり ごろからだろうか、演劇の専門家として演技の基底を探っているうちに次第に形を なして来たのであった。二流の役者がセリフに取り組むと、ほとんど必ず、まずそ のセリフを主人公に吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき 立て、それに浸ろうと努力する。たとえば、チェホフの三人姉妹の末娘イリーナの 第一章の長いセリフの中に「なんだって今日はこんなに嬉しいんでしょう!」 (神西清訳)ということばがある。女優たちは、「どうもうまく『嬉しい』って気 持ちになれないんです」といった言い方をする。もっといいかげんな演技者なら、 なんでも「嬉しい」って時はこんな風な明るさの口調で、こんなふうにはずんで言 うもんだ、というパターンを想定して、やたらと声を張り上げてみせる、というこ とになる。「嬉しい」とは、主人公が自分の状態を表現するために探し求めて、 取りあえず選び出してきたことばである。その<からだ>のプロセス、選び出され てきた<ことば>の内容に身を置くよりも、まず、「ウレシソウ」に振る舞うという ジェスチュアに跳びかかるわけである。もっと通俗的なパターンで言うと、学校で 教員たちがよく使う「もっと感情をこめて読みなさい」というきまり文句になる。 「へえ、感情ってのは、こめたり外したりできる鉄砲のタマみたいなものかねえ」 というのが私がこの例にぶつかった時の皮肉であった。当事者も含めて場にいた全 員が笑い転げたが、では、感情とはなにか、そう言いたくなった事態にどう応対し たらいいのか、については五里霧中である。

 この逆の行為を取り上げて考えるともう少し問題がはっきりするかも知れない。 女優さんに多い現象だが、舞台でほんとに涙を流す人がある。私は芝居の世界に 入ったばかりの頃初めてこれを見てひどく驚き、同時に役者ってのは凄いものだと 感動した。映画「天井桟敷の人々」の中に、パントマイム役者に向かって、役者は すばらしい「毎晩同じ時刻に涙を流すとは奇蹟だ」と言う年寄りが出てくる。若い 頃はナルホドと思ったものだが、この映画のセリフを書いている人も、これをしゃ べっている役柄も役者も、一筋縄ではいかない連中であって、賛嘆と皮肉の虚実が どう重なりあっているのか知れたものではない。
 数年演出助手として修行しているうちにどうも変だな、と思えてくる。実に見事 に華々しく泣いて見せて、主演女優自身もいい気持ちで楽屋に帰ってくる―  「よかったよ」とだれからから誉めことばが降ってくるのを期待して浮き浮きとは ずんだ足取りで入ってくるのだが、共演している連中はシラーッとして自分の化粧 台に向かっているばかり。シインとした楽屋に場ちがいな女優の笑い声ばかりが 空々しく響く、といった例は稀ではないのだ。「なんでぇ、自分ひとりでいい気持 ちになりやがって、芝居にもなんにもなりやしねえ」というのがワキ役の捨てゼリ フである。

 実のところ、ほんとに涙を流すということは、素人が考えるほど難しいことでも なんでもない。主人公が涙を流すような局面まで追いつめられてゆくまでには、 当然いくつもの行為のもつれと発展があり、それを役者が「からだ」全体で行動し て通過してくるわけだから、リズムも呼吸も昂ぶっている。その頂点で役者がふっと 主人公の状況から自分を切り離してしまって、自分自身がかって経験した「悲し かった」事件を思いおこし、その回想なり連想に身を渡して、「ああ、なんて私は 悲しい身の上なんだろう」とわれとわが身をいとおしんでしまえば、ほろほろと涙 は湧いてくるのだ。つまりその瞬間には役者は主人公の行動の展開とは無縁の位置 に立って、わが身かわいさに浸っているわけである。このすりかえは舞台で向かい 合っている相手には瞬間に響く。「自分ひとりでいい気になりやがって」となる 所以である。

 本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動である のだろうか、その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。 そんなことはあり得るはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにした い。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。 それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は 「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのもの であるのかも知れぬ。それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ <からだ>が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なの ではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する斗いを少しずつ捨て始める 時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。とすれば、本来たとえば悲劇 の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での斗いであって、ほとんど 「怒り」に等しい。「悲しみ」を意識する余裕などないはずである。ところが二流 の役者ほど「悲しい」情緒を十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テン ションもストンと落ちてしまうことになるのである。「悲しい」という感情をしみ じみ満足するまで味わいたいならば、例えば「あれは三年前…」ということになれ ばよい。

 こういう観察を重ねて見えてくることは、感情の昂まりが舞台で生まれるには感 情そのものを演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、 激烈に行動している<からだ>の中を満たし溢れているなにかを、外から名づけて 言うものだろう、ということである。それは私のことばで言えば「からだの動き」 にほかならない。ふつう感情と呼ばれていることは、かなり低まった次元の意識状態 だということになる。

 佐伯史は私に答えていくつかの示唆を与えて下さったが、後に「一種の『心身 二元論』が背後にかくれているのじゃないかな、それは今日の心理学のかくれた 前提だし(略)」とまとめられたのが強く記憶に残っている。(「からだ・認識の 原点」佐々木正人(東大出版会)中の対談より)

 今、私がこれらの過程を一まとめにして言ってみるとこういうことになろうか。 感情― に限らないが― という心の働きは、その本源においてまさに「からだ」 ― 私に言わせれば肉体と意識とを含めた全人間存在を言うのであるが― の 「動き」乃至「働き」であって、その動きが低まり意識が対象化してそれをとらえ うるまでに静まったとき、それに名付けを行う。その時はじめて「怒り」とか 「悲しみ」とか、アランがヒュームを揶揄した手法を借りれば、「石とか短刀と かくだものとかいうのと同じ調子で」寄せ集められるような「もの」はあり得る はずがないのだ。

2 名づけについて

 近頃しばしば「からだとこころ…」という言い方を見聞きする。「からだとここ ろの健康」とか、<…の対話>といった商業的なキャッチフレーズも電車の中吊り に浮かんでいる。私に近しい人々の中でも「からだはこころのシンボル」とか 「からだとこころの出会い」といった用語を見ることができる。だいたい日本語に おける「と」とはかなり曖昧なことばであって、私の「からだとことばのレッスン」 という名づけも「からだ」と「ことば」の両方を並行してレッスンという意味に 取られるのではないかと惧れたけれども、よい名を思いつかなかった経緯がある。 私としては、「からだ」と「ことば」の根元的なつながりに気づいてゆくのが第一 の意図であったのだが。

 「からだとこころの健康」などの言い方は、明らかにそれぞれを異物として前提 しており、しかし、その二つの別ものあるいは別々の現象を、統合することが大切 だという暗黙の志向を内在させている、と言っていいだろう。一般に心理学畑の 人々は、「からだ」は「こころ」の現れである、あるいは「こころ」を探る手だて として、それに関心を向けている、といった無自覚の態度が前提となっていて、 統合という視点までは視野は届いていない、と感じることも多いのだが、この場合 「からだ」とは、物質としての量と外延とを持つ「肉体」を指している、といって いい。

 「表現」という場合も、内なる「こころ」を外なる形に現わすこと、と一般に 考えられている。ここにも「こころ」が本体で肉体という客体は道具乃至素材だと する素朴な常識が潜在している。

 仏教学者の金子大栄氏は大無量新経におけるいわゆる弥陀の四十八願の講義に おいて、世に「触光柔軟の願」と呼ばれる第三十三願中の「我が光明を蒙りて其の 身に触れん者」という文言に首をかしげている。なぜに心に触れると言わずに「身」 に触れる、と言われたのかわからない、というわけである。私流に乱暴に言って しまえば、光を浴び光に触れるのは「身」に決まっているではないか、ということ になるが、金子氏の疑念は仏のことばに含まれるというか、むしろその根底をなす 身心一如のイメージを、実は全く体得していないということを示すことになるだ ろう。近代主義というよりほかない姿勢であって、身心二元、精神優位の姿勢には 「身」など目に入ってこないのである。

 実のところは、「身」と呼ぼうが「心」と名づけようが一向にかまうことはない のである。意識に上らぬ領域を含めての、全存在のことなのだから。だが金子氏は しきりに説く柔軟「心」などという実体が、「身」を離れてどこに浮遊していると いうのだろう。私は近頃いささか疑い深くなって来ているのだ。たとえば能 「道成寺」のあの凄まじい乱拍子の、身じろぎもせぬかに見える「体」の、わずか に爪先だけがほとばしるように閃くあのさまは、まさに「からだ」の身もだえが そこに屹立しているので、情念の現れなどというヤワな解釈を許しはせぬ。そして、 たとえば、「通小町」の、「葵の上」の最後には、仏の光を浴びた晴れやかな 「からだ」が現れる。「シテ」の、世界とのふれ方、存在の仕方すべてが変わって しまったのだ。どこに「こころ」の変化だの「教え」の受容だののまぎれこむ余地 があろう。仏に一番近しいはずの自他共に認める近代の碩学が、能の舞台になにを 見ていたのだろうか。

 そもそも感覚という現象からして、「生命をもつ我々のために有益かどうかを示す 記号乃至信号の役を果たす」実践的機能がある、とすれば、これはまさに「からだ 」の動き方乃至はたらきと呼ぶべきものだろう。藤岡喜愛氏は、ローレンツが、 アメーバーのような極原初的な生きものでさえ、「自分の食物になりうるもの だったら大きいものでもその周囲を泳ぎ回ってむさぼる」、という現象を取り 上げて、まさに氏の主張するイメージ・タンクの原初の形とされている。(心の 成り立ち― イメージ・タンクの理論)そう名づけることによって我々に見えて くるものの大きさはすばらしいが、私から言うと、このアメーバーの動きこそ、 「存在」が、世界あるいは対象と関わりあう仕方の原型であり、「からだの動き」 そのものということになる。これにどう名をつけるのか、によって思惟の筋道が 大きく変わってゆく、ということでもあろう。となると、問題は「名づけ」すなわち 「ことば」の次元に移行することになるだろう。

 モノがそこにあるから、それに「石」と名づけるわけではない。様々な現象に ふれ入り混じる(私たちの)体験の中から、一つの共通性あるいは包括性を感じ 取ったとき、それに距離を取り、対象化して、「いし」とか「はる」とかと名づけを する。その時、石や春が存在し始めるのだ。

 すると、「悲しみ」とか「怒り」とかいう名づけも、身の内の激しい動きに距離を 取り、対象化しうる状態に至った時、はじめて行うことができるのだ、と言いうる だろう。根元的な「からだの動き」そのものには、まだ名をつけることができない、 のであろう。となると、「こころ」という包括的な名は対象化され意識された限りの 自己存在現象のさまざまの様相や変貌を丸がかえにして、一とくるめに名づけたもの、 といったことになるようだ。が、しかし、意識されるのは感覚や情念の動きや思惟 ばかりではない、みずからのからだの傾き、喘ぎ、相手に牽かれる力、はねのける 動作、みな同様である。

 となると、「こころ」に対応して「からだ」が名づけられることになる。この対象 化された「からだ」はモノとして現れる。即ち「肉体」である。だが、私にとって、 「からだ」とは、まず「私」のことである。「私」は「からだ」としてここに在り、 世界に棲む。「からだ」として他者に向かいあって立つ。即ち、第一義的に「主体」 であり、かつ、モノである。ということは「からだ」ということばに、単なる客体と しての限定を越えて、主体としての意味を賦与し、主体を奪回すること、つまりは、 主体であると同時に客体であるところの、両義的な存在として「からだ」を定立させ るのだ、と言えようか。その時初めて、「からだ」はみずから風の触れるのを感じ、 他者の目の動きに沿って近づいてゆき、「からだ」が思量し「からだ」が呼び掛け、 跳びかかる、のだ。

3 離陸することば

 私のレッスンに、「ことばのイメージ」という課題がある。  目をつむって坐っている数人に向かって、一人がある単語を投げかける。聞いた 瞬間に― むしろ聞いたと意識する以前に― パッと浮かんだイメージを、目を開 いて語る。というのがその最初の手がかりである。

 たとえば「祭り」ということばだと、軒に吊した提灯のつらなりだとか、人出、 夜店、山車、踊っている人などの視覚的記憶やイメージが浮かぶ人が多い。それを 見ているあなたはどこにいる?と尋ねると、その場にいる例と、画面だけがあって 自分はどこにもいない例とがある。この辺りを分岐点として、一方では、視覚より 以前に太鼓や笛の音が響いてきた人とか汗の匂い、イカ焼きの匂い、など、また 具体的な形以前の混沌としたからだの底からのどよめきのような動きの感じ、と いった原初的な体感を語る人などがあり、一方の極限には、まず「祭」という印刷 された活字がパッと浮かぶ、という、いわば概念化抽象化の進行度の重い形態が 現れる。この例では、以下グラフィック・アートとしての文字、筆で書いた文字、 うちわの文字、小若の祭り半纏の襟や背に染め抜かれた文字、それを翻して走って いる子供といった順序で次第に具体的な生活体験に近づいてゆく。

 これらのイメージを、混沌たる体感の、僅かに姿を現しかかった形から、まさに 制度化のシンボルと言いうる活字型まで一つらなりの階梯に置いてみることはでき るだろう。それらの階梯は一人の人においていくつも存在しうるし、レッスンの過程 で、例えば抽象度の高い現れが崩れていって体感に近づくといった変容を見せる人も 多い。一つの「ことば」にはかくも多くの階梯のイメージが重層して含まれている のであって、私たちの日常の会話においては、無吟味にそのうちの一つのみを取り 出して用いているに過ぎない、と言えそうである。

 これを逆に言えば、曖昧模糊たる身のふるえの感じも、遠い太鼓の響きも、踊り 上がる足どりの交錯も、みな、同じ「祭り」ということばへとおのれを現してゆく 可能性を持つということになるのだろう。が、実はそれぞれのからだの感じなり 視覚的イメージなりは、それ自体としては全く別の単語に自己を凝縮してゆく可能性 をもまた秘めているわけである。一つ「祭り」ということばが選ばれた時、表に 浮かび上がった可能性と、潜み隠れた可能性とが合成されてその語の内実を成して いるということを忘れるならば、ことばはいわば「いのち」を失い、制度化された 記号としての一面のみへと疎外されてゆくことになる、という言い方をしてみようか。

 先に述べたイリーナの「嬉しい」ということばは、「なんだってこんなときに」 ということばに先行されている。ということは、イリーナはなぜ「嬉しい」のか 自覚していない、ということである。まだ未分化なからだ全体の感じ― と言えば フォーカシングで言うフェルト・センスという用語が思い浮かぶが― に仮に名づ けると「嬉しい」という単語が浮かび上がってきた、ということに過ぎない。

 我々が日常に使う「嬉しい」ということばは、「新しい服を買ってもらったから」 「うまい酒が呑めたから」「好きな人に逢えたから」等々、なぜ「嬉しい」のか、 原因がはっきりしているのが常である。そのように確定された「嬉しい」の呼吸、 発声、発音、ひっくるめて「言い方」が、イリーナのこのことばと異次元のことが あるのは明らかだろう。老人との一とくだりのやりとりの後でイリーナは語る―  きよう目がさめて、起きて顔を洗ったら、急にあたし、この世の中のことがみんな はっきりしてきて、いかに生くべきかということが、分かったような気がしたの―
 以下は略すが、一人の少女が、ある朝不意に、人生と世界に対して、目を見開く、 あっと思い、まじまじと人生と世界に見入る。そのしんとした全身心の昂ぶりに、 なんと名をつけたらよいのだろう。長姉のオーリガは、これを語るイリーナの表情を 「あのまじめな顔!」と評する。彼女は既知の、パタン化した「よろこび」の中で 浮かれているのではない。むしろ生真面目に、全身をはりつめて、未知の世界に船 出してゆく風の誘いを聞いているのである。「嬉しい」ということばは、口ごもって 口ごもってやっと見出されたら、むしろ「哀しい」と呼ばれても不思議はなく、 ある存在の変容のせつなの自覚である。ここではまさに「ことば」は事の端である だろう。だが「嬉しい」と選ばれたことによって、かの女の「ことば」は次に発展 する。あるからだの志向、動き出す方向が顕在化してくるのである。こうして 「ことば」は「からだ」から離陸しからだを導いていく。

 「ことば」とは、「からだ」=全存在の志向と身動きが生み出し、分泌し、そして おのれに対峙させるもの、と言うことができようか。みずから生み出したそれと対立 し、それに導かれ、それを裏切りつつ「からだ」は生き進む。この意味で分泌された 「ことば」とは「からだ」の志向を仮定するものであり、それ故に、それによって 選ばれる行為は常に一つの賭けである。

 私は随分以前に「からだとしてのことばとからだの拒絶としてのことば」と題 する、一つの予感の素描を文にしたことがある。その時素材として取り上げたのは 前者において谷川俊太郎、後者において石原吉郎の詩であったが、「からだとしての ことば」とは、詩に限らず、より根源的には話しことば全般を想定して語ったので あった。それは、話すという行為は声という肉体の振動に根ざす、ということに よるのみではなかった。主体が他者に触れようとして働きかける時、その「からだ」 全体の動きかけの中、音声的な部分を「声」「ことば」と名づけているにすぎない、 と私は考えるからである。それについての実例は私としては今まで多く語ってきた のでここでは触れない。

 そこから「離陸」し、「自立」してゆくことばを今考えているのであり、「からだ を拒絶する」ということも、この離陸の一プロセスとして今は考えることができる。 この自立したことばたちが、連りあい、自己増殖し、文字と化し、数学や科学を構成 する人工言語をも含めて途方もなくふくれ上がり、樓に樓を重ね、閣に閣をつなげて 巨大な言語の城郭を構築する時、「からだ」は言語の壁に閉じこめられ、埋没され、 世界に直接に触れる能力を失い、窒息せしめられる。この現在状況については今更 述べることもあるまい。

4 予感

 離陸してゆくことばが人を殺す状況に対して、その「ことば」によって人間存在 を獲得しようとする試みもまたあり得る。その顕著な例の一つは「約束のことば」 あるいは「誓い」である。約束とは、単に意志によって一つの行為あるいは存在の 仕方を選ぶことに止まることはできない。もし止まるならば、切りすてられた、 他の、自然人としてのからだの部分は、抑圧され、無意識の領域において「影」と して生きのびるであろう。「選び」は、単なる意志的行為であることを超え、全 身心が新たな地平において、新たな生命として働き始めることを意味する。即ち、 一たび語られたことばの火によって、焼かれ鋳直されて、今まで存在しなかったな にかが生まれ出づることである。

 それ故に、この先に、「外なる光」としてのことばが要請されねばなるまい。 「初めにことばありき」とは、ロゴスであって自然言語でも人工言語でもない。 つまり「自然人」としての人のことばの働らきを超えるものである。

 仏教学における意識のいわば最深層を示すと言われる第八阿羅邪識について、 安田理深氏は講義の中で「アーラヤ識はからだじゃないかね」と言われたが、氏の 師筋に当たる曽我量深氏にも同様の言があると聞く。玉城康四郎氏によれば、アサ ンガ(無着)は、いかに禅定を深めても、ついにアーラヤ識に帰する、アーラヤ識 自体の転換即ち解脱は来たらぬ、と断じたという。これは後世の、煩悩の底に仏性を 見る姿勢と異なるかに見えるけれども、実は続く次の語は実践的に同じことに帰する かも知れぬのであるが、いずれにせよ今の私にはずしりとしたリアリティを持って 迫る。かれは述べる― 最清浄法界より流るる所の正聞薫習、種子となるが故に 出世心(菩提心)生ずることを得―
 最法浄法界から流れ来る「ことば」とは、衆生の「身に触るる」光という姿でも あろう。一言で言ってしまえば、「からだ」の大地より離陸してゆくことばは結局 大気圏を這うばかりで、「天上」より来ることばのみが「からだ」を根底から変え るのである。ゲーテは、ファウストをして「初めにタート(行為あるいは 『はたらき』と訳した方がふさわしいかもしれぬ)ありき」と修辞せしめた。
これが近代の人間宣言、即ち「からだ」宣言であるとすれば、さらにこの先の逆転 こそ、おそらく現代が近代を「拒絶」し「離陸」してゆくことばとなるであろう。

 ビンスワンガーは、「ことばが沈黙する時、からだが語り始める」という有名な テーゼを語ったが、私から見れば「からだは常に語っている」のであって、おそら く聞くものにとって、ことばが聞こえなくなる時初めて見えて来る「からだ」 (の動き)があるということであろうし、また、ことばを発する主体から言えば、 ことばが「詰まる」ことによって拡大してくる「身動き」がある、ということにも なるであろうか。いずれにせよ、「からだ」の対極に「ことば」を置くと見えて来る 地平に私は生き始めており、、「からだとこころ」と対にする地平は私に遠い、 というよりは、そこには生きていない、と言うことであろう。私は心理学も言語学 も門外漢であるから、以上の論述にはいずれ大きな盲点も、あまりに素朴な思い込み もあることであろう。だが体験をことば化しつつ整理してゆくよりほかに方法を 持たぬ実践者に見えて来始めている地平の一部を素描してみたのである。

(1990年1月)
(1990.3.12受理)

「竹内敏晴:人間性心理学研究,1990,第8号,27-33」からの転載しました。

出典は日本人間性心理学会 機関誌「人間性心理学研究」です。