2005年1月20日の昼頃。 パリ到着。 小雨がちらつく天気ではあったが、パリはニューヨークよりも暖かかった。 モンパルナス近辺のホテルで荷物をほどき、僕は出向先となる銀行へ電話をかけた。 そこには僕の前任者がいるはずだった。 この人はあと数日で帰国となるので、引継ぎを急いで行なわなければならなかったのだ。 僕のパリでの仕事は出向先の運用会社の運用情報をつぶさに東京へ送ること。 そしてもう一つは、現地でしかできない調査をベースにして投資企業を探し、ファンドのパフォーマンスに貢献することである。 簡単にいえば、良質な情報をできるだけ東京に運び、あとは好き勝手にリサーチに励め、ということなのだ。 僕: 「もしもし。えっと。『とらやのようかんは好きですか?』」 Q: 「ああ、えっと。『ようかんにはやっぱり緑茶だね』」 僕: 「Qさんですね?」 Q: 「●くんだね?」 僕にはこの合言葉の必要性がまったくわからない。 とりあえずホテルに無事到着したことを告げ、明日朝出社することを確認して電話を切った。 しばらく上司からのメールの内容を思い出してみたが、それでもやはり合言葉の理由が見つからなかった。 A上司、僕たちは忍者軍団ではないのだ ともあれ、僕は午後の何時間かを得た。 早速不動産屋に行って物件を探さなくてはならない。 部屋探しには時間がかかるのだ。 スーツケースをそのままにして、僕は地下鉄へと向かった。 ちょうど夕暮れどきだったので、雲の合間から射した夕陽がエッフェル塔を照らしているのが見えた。 ***** アメリカがビジネスの国ならフランスは愛の国だ。 歴史上何人もの芸術家が愛したそのパリの風景は、ロマンチックという言葉一つで表すにはとても足りない。 パリの空気の微粒子ひとつひとつに「愛」とか「ロマンス」とかそういう言葉が書かれているのかもしれない。 すべてのTPOを超越して、愛とかロマンスとかが優先される街なのだ。 すなわち、どこにいてもすべての人がロマンチスト。 地下鉄で僕が座ったシートの、向かい合わせになった席にはひと組の男女が座っていた。 見詰め合う恋人同士。 僕はフランス語がわからないのだが、多分こんな会話をしているのだろう。 男: 「愛してるよ」 女: 「ああ、あたしもよ。愛してるわ」 そして、キス。 男: 「キミはなんて美しいんだ。世界中の誰よりも美しいよ」 女: 「それはあなたがそばにいるからよ。あなたがわたしを輝かせるんだわ」 そして、キス。 男: 「ボクはキミとは離れたくないよ。一生そばにいるよ」 女: 「あたしもあなたのいない世界なんて考えられないわ」 そして、キス。 この2人がひどい死に方をしますように、 と呪いをかけているうちに、目的の駅に到着した。 ***** パリの住宅事情は悪い。 ニューヨークもそうだったが、あまりにも需要が多すぎて供給が不足している。 まあ、東京の千代田区に住もうと思ったら似たようなものなのかもしれない。 また上司に「熊とか牛でも飼うのかね」とか「それって徹子の部屋?」とか文句を言われてしまうのも嫌なので、若干低めの数字を不動産屋さんに告げてみた。 他の条件は、住むのは僕だけであること、家具付きであること。 不動産屋: 「ん〜。難しいですねえ。まあ、こんなのがありますが」 15平方メートル。屋根裏部屋。エレベーターなし。15階。 一辺が4メートルの正方形よりも狭い。 屋上の機械室を改造したようなものか。 僕: 「普通のはないんですか?」 不動産屋: 「じゃあこれは?」 30平方メートル。3階。エレベーターあり。家具付き。 僕: 「なかなかいいじゃないですか。え?場所はどこですか?」 不動産屋: 「うん。パリまでクルマで2時間くらいかな。最寄り駅までバスで30分。そこから電車だと2時間半」 出社するまでに餓死しちゃうよ・・・ 僕: 「じゃあ。金額を月1500ユーロまで上げます。これならどうです?」 ああ、上司に叱られる・・・。 不動産屋: 「それだったら、ああ、ちょうどいいのがありました、お客さん」 一戸建て。2階。5部屋。家具付き。パリまでクルマで2時間。 僕はいったい何人いるんだ? それにクルマないし。 僕: 「・・・。ども、ありがとうございました。また来ますんで、では〜」 大切な午後の時間を、僕はどうやら無駄にしてしまったようだった。 パリは夕暮れから夜に変わろうとしていた。 乾いた表情の僕は、セーヌ河のほとりをとぼとぼと歩くしかなかった。 |